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第六章:見えない銀河に幸せを祈る②

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-20 11:00:09

 秋水しゅうすいが朝餉の盆を下げに来たのと入れ替わりで誰かが訪ねてきたのに気付き、漣は背後を振り返った。障子に映る小柄な影は時雨のものではない。漣は誰何を問うた。

「わたし……澄花です。漣さんに聞きたいことがあって来ました」

 どうしたものかと漣は逡巡する。謹慎中だというのに、あまり勝手なことをしては更に時雨や紅雨こううの怒りを買ってしまいそうだった。

「また後日にしていただけませんか。澄花様もご存知の通り、私は謹慎中の身なので」

「わかっています。けれど、他ならない時雨様のことなんです。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと……」

 澄花の声は切羽詰まっている。先ほど、秋水しゅうすいからも時雨が伏せっているということは聞いていた。

 漣の顔に苦いものが浮かぶ。時雨を守るために力を貸せと先に澄花に迫ったのは自分だ。よもや、同じことを澄花にされ返すとは。自分は澄花を侮っていたのかもしれない。

「わかりました。それでは五分だけですが、時間をとりましょう」

 ありがとうございます、と礼を言うと澄花は漣の部屋に足を踏み入れる。床の間には大太刀が飾られており、風雅な雰囲気の時雨の部屋との違いが感じられた。

 澄花は畳に膝をつくと、抱えていた書物を置いた。彼女の目元には黒々とした隈ができている。

「眠れなかった……というわけではなさそうですね。ご用件はそれですか」

「はい。わたし、一昨日の夜に漣さんが仰っておられたことを思い出して……わたしなりに調べてみたんです」

――雨催あまもよいの巫女の力をすべて時雨様の御霊石ごりょうせきに注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。

 一昨日の一件で、自分が時雨の御霊石ごりょうせきに働きかけることができるのはわかっている。ならば、あとは自分の雨催あまもよいの巫女の力をどう扱うかだ。時雨の弱り方を考えると、慎重にならざるを得ない。失敗するわけにはいかなかった。

「ふむ、雨催あまもよいの巫女についての書物ですか……そして、こちらは歴代の水神について……」

 漣は澄花が持ってきた書物に目を通す。しかし、これでは足りない。

「正直、これでは情報不足感が否めませんね。今から言う内容の書物を蔵から探して持ってきてください」

 これとこれとこれを、と漣は澄花へと探してきてほしい書物の内容を伝えた。わかりました、と澄花は頷く。

「ただ、これらは今すぐ必要というわけではありません。私としては今夜、夕餉の後にでもお話しできればそれで。澄花様は少々眠られたほうがいいですよ」

 思いがけず優しい言葉をかけられて、澄花は目を瞬いた。漣には好かれていないだろうと思っていた。澄花にあんな残酷な命令を下せるくらいなのだから。

 それが顔に出てしまっていたのか、漣は苦笑する。いつも顔に張り付けている怜悧な表情が少し色を変えた。

「澄花様、私とて鬼ではありません。それに時雨様の身を案じているのは私もあなたも同じです。今、澄花様が倒れるようなことがあれば、時雨様が悲しまれる」

「そう……ですか」

 もしかしたら、自分は漣を誤解していたのかもしれない。漣はきっと、時雨のことが大切なだけなのだ。そのためならば手段を選ばないだけなのだ。

「それではまた夕餉の後に。先ほどの書物は探しておきますね」

 澄花は立ち上がると、一礼して漣の部屋を辞した。一瞬、彼女の足元がふらついたのが漣の中で時雨と重なった。

(無理をしないといいが……)

 ほんのりと澄花の着物に焚きしめられた香の匂いが残っている。このほんのりと甘く清らかな香りは蓮だろうか。

 漣は床の間に飾られた大太刀を見る。今、自分が時雨を守るために何もできないことが心苦しくて仕方がなかった。

 樹雨(きさめ)に託されたからだけではない。時雨を主として、漣は心から慕っていた。

(時雨様……)

 澄花は間に合うだろうか。時雨はこのことを受け入れるだろうか。二人の運命の行先がどちらを向いているのか、今の漣にはわからなかった。

 澄花が漣を秘密裏に訪ねるようになって数日。夕餉の後、蔵へと向かおうと思っていた澄花は水鞠に呼び止められた。

「澄花様、時雨様がお呼びです。今すぐお会いになりたいとか」

「時雨様が……?」

 まさか、時雨の体調が急変したのだろうか。澄花の表情が張り詰めたものへと変わる。そんな澄花の耳元で、水鞠は困ったように囁いた。

「ここ何日かこっそりと漣のところに通っていらしたでしょう。そのことで、時雨様が大層臍を曲げていらっしゃいます」

「ええ……来るなと仰ったのは時雨様のほうなのに……」

「弱っているところを澄花様に見られたくなかったのでしょう。だからといって、自分に会えない寂しさを他の男で埋めるのか、と。それはもう拗ねに拗ねていらっしゃいまして」

 誤解でしかない滅茶苦茶な理論に澄花は絶句した。これは早く会いにいったほうがよさそうだ。

「せめて、時雨様がお好きなお茶の一つでも持っていったほうがよさそうですね……水鞠さん、白茶ってまだありますか?」

「ええ、冷たいのがまだ氷室に。――秋水しゅうすい、白茶を用意してくれますか? 時雨様と澄花様のお二人の分を」

 はい、と厨房から秋水しゅうすいの声が返ってくる。ぱたんと扉が閉まる音がする。秋水しゅうすいが氷室に茶の入った水差しを取りに行ってくれたのだろう。

 さて、と水鞠は澄花の髪を解くと袂から取り出した櫛で梳き始める。澄花が戸惑った顔をしていると、ふふ、と水鞠は笑った。

「時雨様の心をお慰めしたいのであれば、お茶よりも澄花様のお可愛らしい姿が一番です。うんと可愛らしくしますから……今夜は覚悟しておいてくださいね?」

「え……ええっ!?」

 悪戯めいた水鞠の言葉に澄花の声は思わずひっくり返った。それはまさか、そういう意味なのか。甘い予感と羞恥で澄花は顔を赤くする。未知への恐怖と好奇心が入り混じって、心の扉を叩いている。――素直になって、と。

 動揺する澄花をよそに、水鞠は澄花の前髪とサイドの髪を小さくくるりんと編み込んでいく。水鞠は手を止めることなく、楽しそうに話す。

「こうすると動きが生きるんです。夜風に揺れると、とっても涼しげで可憐に見えますよ」

 後ろの髪は軽くまとめてハーフアップにする。残した髪はそのまま背中へと流した。淡い紫とプラチナの簪を編み込みの間に挿すと、柔らかな光に桔梗の花がきらりと笑みをこぼした。

 水鞠が澄花の髪を直している間に、秋水しゅうすいが白茶の入ったグラスを二つ持ってやってきた。白く柳の枝が伸び、葉が揺れるグラスの中には淡く色づいた液体が軽やかで繊細な香りを放っている。

「ささ、いってらしてください」

 水鞠にガラスが乗った盆を持たされると、半ば追い出されるような形で澄花は座敷を後にする。ご武運をという秋水しゅうすいの言葉が背中を追いかけてきたが、これから自分はどうなってしまうというのか。澄花は顔から火が出てしまいそうだった。

 澄花は時雨の部屋に向かって廊下を歩いていく。一歩ごとに湧き上がってくる感情は、数日ぶりに会える喜びなのか、彼の体調に対する心配なのか、今宵起きるかもしれないことへの期待と恥じらいなのか、澄花にはわからなかった。

 時雨の部屋の前に着くと、行燈の薄青の光に照らされてほっそりとした男性の姿が障子に浮かび上がっていた。床に臥しているのだろうが、その割にはやけに部屋が散らかっている気がする。

「――時雨様。澄花です。入ってもよろしいでしょうか?」

「少々待ってくれ」

 部屋の中で衣擦れが響く。その後、ばたばたと時雨らしからぬ慌てた足音が響いた。

「時雨様、ご都合が悪いようでしたら、また後ほど――」

 澄花がそう言いかけたとき、ばたんと大きな音が響いた。もしかして時雨が倒れたのでは。澄花は思いっきり障子を開いた。

「――え?」

 畳の縁に足を引っ掛けて転んだ時雨のそばには、澄花でも知っているタイトルの少女漫画の単行本が散らばっていた。澄花は時雨の文机に盆を置くと、まずは彼に手を差し伸べ、起き上がるのを手伝ってやる。

「時雨様、大丈夫ですか?」

「ありがとう、大丈夫だ。――その、恥ずかしいところをみせてしまったな」

 部屋中に散らばる少女漫画に時雨はそわそわとしている。澄花が何か追及したわけではないにもかかわらず、あわあわと時雨は弁明をし始める。

「これはだな……その、私が暇だろうと紅雨こううが水霜に言って届けてくれたんだ。紅雨こううが言うにはどうにも私は乙女心というものに疎いらしくてな」

 わからないながらも、いつも年上の男性らしくリードしてくれる時雨。彼は日々、こんなことをして澄花のために努力をしてくれていたのか。

「……幻滅したか?」

「そんなことありませんよ。あの漫画、わたしも好きでよく読んでいましたし。こちらの漫画も」

 二人は顔を見合わせると微笑みあった。時雨は今この時を噛み締めるかのように言う。

「やはり、澄花と一緒にいると心が安らぐな。不安もささくれ立っていた気持ちも、凪のように落ち着いていく。――けれど、澄花はそうではないのだな」

 時雨の口調が拗ねたようなものに変わる。漣と会っていたことを指しているのだと悟ると、澄花は違いますよと口にする。

「漣さんとは相談事があって会っていただけです。わたしが好きなのは時雨様だけです。――信じてください」

「漣とは何を話していたんだ?」

 その、と澄花は口籠る。しかし、話さねば時雨は安心できないだろう。澄花は意を決して口を開く。

「時雨様のことです。時雨様がその身をすり減らすことなく、幸せに健やかに生きていくためにはどうしたらいいのかと話し合っていました」

「すまないな、私のために……」

 時雨は澄花の肩に額をつける。いつの間にか痩せ細ってしまったその身体を、澄花は硝子細工を扱うかのように優しく抱きしめた。

「大丈夫です。わたしがやりたいからやっているだけです。時雨様が責任を感じることではありません」

 子供が縋り付くかのように、時雨が抱きしめ返してきた。時雨は澄花が何をしようとしているか、きっと気づいている。それでも時雨は何も言わなかった。言えなかった――澄花の振り絞った決意が損なわれるようなことは。

 互いの温もりに、澄花はこの瞬間(とき)の永遠を願う。しかし、祈りとは裏腹にこの日々が終わりに近づいていることを彼女は痛いくらい感じていた。

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