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第六章:見えない銀河に幸せを祈る③

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-21 20:39:32

 胡麻豆腐に蕪のすり流し。お造り風にした湯葉に白味噌仕立ての茄子田楽。冬瓜の含め煮にほうれん草の胡麻和え。梅粥に、水菓子には時雨が好む葛切りの糖蜜がけを用意してある。

 早朝に起き出した澄花は、秋水しゅうすいに相談して時雨のための朝餉を作らせてもらった。食欲の落ちている時雨でも食べやすく、なおかつ彼が好む献立にまとめた。

「澄花様、上出来です」

「いえ、秋水しゅうすいさんのおかげですよ。わたし一人じゃ間に合わなくって秋水しゅうすいさんにもたくさん手伝っていただきましたし」

「それでも、澄花様が作られたということが大切です。澄花様がお作りになったお食事ともなれば、時雨様も召し上がってくれるかもしれませんし」

 厨房を主に取り仕切る秋水しゅうすいは日に日に時雨の食が細くなっていくことに頭を悩ませていた。そんな彼女に昨日の夕餉の後、澄花は声をかけた。――わたしが作ってみてもいいですか、と。

 時雨の身体のことを考え、二人は翌朝の食事に何を作るか話し合った。そして、澄花は午前三時に起き出して、厨房に火を入れたのだった。

 ごろごろと重たい戸車が鳴り、雨戸が戸袋へと収まっていく音が響く。廊下をぱたぱたと足音が行き交う。一日が始まった音だった。

「それでは秋水しゅうすいさん、わたし、時雨様の部屋に行ってきますね。本当にありがとうございました。後片付けお任せしてしまってすみません」

 澄花が頭を下げると、早く行ってらしてくださいと秋水しゅうすいは微笑んだ。澄花はずっしりと重い盆を持つと、厨房を出る。藍色の暖簾が揺れる。

 座敷を通り過ぎようとすると、紅雨こううが朝餉を摂っていた。彼女は箸を止めると、おはよう、と空色の目を細めた。

「おはようございます、紅雨こうう様」

「澄花。先ほど秋水しゅうすいから聞いたけれど、お兄様のために朝餉を拵えてくださったそうですわね。特にその胡麻豆腐が美味しそうですわ。お兄様は幸せ者ね」

「お褒めいただいて嬉しいです。胡麻豆腐でしたら、まだ少し残っていたはずなので、よろしかったら召し上がってください」

「ありがとう、澄花。……っと、こんなところで呼び止めてしまって申し訳なかったわね。早くお兄様のところに行って差し上げて。今ごろ首を長くして待っていらっしゃるはずですわ。――早くしないと、お兄様がナガクビガメになってしまいますわ」

 つい想像してしまって、澄花はくすりと笑った。時雨の首が障子を突き破る前に早く行ったほうがよさそうだ。

 それでは失礼します、と会釈をすると座敷を出た。水面に反射して、朝日がきらきらと光る中庭を横目に澄花は廊下を歩く。朝顔が水上の太陽を求めて大輪の花を咲かせていた。

 歩く度に蕪のすり流しが器の中で波紋を描く。梅粥がくたりとした米の粒を揺らす。胡麻和えの香ばしい匂いが澄花の鼻腔をついた。

 時雨の部屋の前で足を止めると、澄花は訪いを告げる。すると、謹慎が解けたばかりの漣が障子を開け、澄花を部屋の中へと通してくれた。

「澄花、おはよう。こんな朝早くからすまないな」

 時雨は儚げな微笑を白皙の美貌に乗せた。その顔が昨日よりもやつれて見えて、澄花はどきりとする。

「いえ、他ならない時雨様のためですから」

 二人の視線が絡まり合う。あと何度こんなやりとりができるのだろうと思うと澄花は切なくなる。自分たちにはもう時間がない。

 ごほん、と気まずそうに漣が咳払いをした。「私も朝餉を摂ってきます。澄花様、時雨様をお願いします」漣は部屋を出ていった。すっと障子が閉じる音がする。

「今日は澄花が朝餉を作ってくれたのだったな。――食べさせてくれるか?」

「もう、時雨様ったら仕方ないですね。今日だけですよ。早く元気になって、ご自分でお食事を摂れるようにならないと……」

 笑顔を作ろうとした澄花の顔がくしゃりと歪んだ。座敷で時雨と共に食事を摂ったあの日々はもう戻ってこないのだ。何気ない会話を交わし合い、笑い合ったあの短い日々が愛おしくて切ない。

 澄花はそっと胡麻豆腐の器と匙を手に取った。灰色がかった豆腐を匙で割ると、澄花はそれを一口分掬い、時雨の口元へと運ぶ。

 すっと時雨が薄く唇を開く。そして、優しく差し込まれた匙に乗せられた、香ばしく滑らかなものを時雨は口の中で転がして味わうとごくりと嚥下した。

「――美味いな。さすがは澄花だ」

 時雨の声が甘く柔らかなものを帯びる。澄花が作るから美味しいのだ。込められた彼女の心を感じられるから。――愛情を。

「他もお召し上がりになりますか?」

 ああ、と時雨は頷いた。その目には優しい光が浮かんでいる。――こんな時がいつまでも続けばいい。こうやって澄花に甘えて、澄花が仕方なさそうにそれを受け入れてくれて。けれど、時雨もまたこれが刹那のものに過ぎないことを知っている。

「それじゃあ次は、湯葉のお造りを」

 澄花は綺麗に折り畳んだ湯葉を箸で摘むと、時雨へと食べさせた。豆乳のようなまろやかで優しい甘さを時雨は楽しんだ。

「わたし……初めて好きになった男性が時雨様で良かったです」

 茄子田楽を箸で摘み上げると、澄花はぽつぽつと話し始めた。その声は振り始めた雨のように時雨の聴覚を満たす。

「あのとき、出会ったのが時雨様でよかった。わたしたちは契約で結ばれた関係で……はじめは時雨様が何を考えているのかもわかりませんでした。けれど、時雨様は不器用ながらもわたしに優しく接してくださいました。わたしを知ろうとしてくださいました」

 とろとろとした茄子の感触と味噌のコクが口の中に広がる。時雨は上手く澄花と接することができていなかったあのころのことを思い出す。澄花を質問攻めにして水鞠に咎められたり、最初の儀式の後に澄花とぎこちなくなってしまったりと、ここ一ヶ月ほどのことだったのに随分と懐かしいことのように思い起こされた。

「あのときは悪かった。私が未熟なせいで澄花に嫌な思いをさせたな」

 いいえ、と澄花は微笑んだ。その顔は今にも泣き出しそうに見えた。つられて時雨も目の奥が熱くなる。澄花が手にした匙の輪郭がぼんやりと滲んだ。

 澄花はとろとろと柔らかな冬瓜を箸で切ると、時雨の口元へと持っていく。優しい出汁の味はまるで澄花の心根のようだ。

「気がつけば時雨様のことばかり考えている自分がいて。そして、一緒に食事を摂ったり、お茶を飲んだりするようになって。そして――」

「私は、君が私と同じ気持ちでいてくれていることを知った。あの夜、契約で結ばれた関係を私たちは踏み越えたんだ」

 それからの日々は短かった。幸せの陰で時雨は少しずつ体調を崩していった。

「わたし、時雨様のそばにいて、幸せでした。だから――」

 幸せになって。そう言いかけた澄花を時雨は制した。聞きたくない、と思った。彼女の唇が紡ぐ、別れの言葉は。

「言わないでくれ、それ以上は……」

「時雨様……」

 澄花はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった。

 澄花は再び時雨の口元へと食事を運び始める。ゆっくりとだけれど、時雨はそれを口にした。

 沈黙が下りた部屋の中、時雨の咀嚼音だけが静かに響く。時間こそかかりはしたものの、時雨が無事に食事を完食できたことに澄花はほんの少し安堵した。

「――澄花。君が初めて作ってくれたあの菓子がまた食べたい。最後にどうしても……食べたいんだ」

 懇願するような時雨の言葉に、澄花は頷いた。頷かない理由がなかった。心から愛するこの人の望みなら、なんだって叶えてあげたかった。――ただ一つを除いては。

 澄花と時雨はそっと手を握り合う。見えない水の糸は、今もまだ二人を確かに繋いでいた。

 ベンッ、チンッ、ベンッベンッ。時雨の部屋から三味線の音が漏れ聞こえていた。耳をすませば、ふふふふふんふんと軽やかなメロディーの鼻歌が聞こえた。それは澄花の時代で流行っていたバンドの夏の定番曲のサビだった。

 夏の始まりを告げるその歌詞を思わず口ずさみながら、澄花は廊下を歩く。その手には昼間拵えた水菓子が乗った漆塗りの盆があった。

 澄花は時雨の部屋の前で足を止める。ずっとその心地よいハミングを聴いていたい気持ちに駆られながらも、澄花は障子越しに声をかける。

「――時雨様。澄花です。入ってもいいですか?」

「構わない。ちょうど顔が見たいと思っていたところだった」

 そう言われて、澄花はそっと障子を開ける。布団の上で身を起こし、三味線を手にした姿の時雨が優しい顔でこちらを見ていた。

「時雨様、そのように起きていらっしゃって、お加減は大丈夫なんですか?」

「ああ。今日は三食すべて、澄花が食べさせてくれたからな。ここ数日に比べると、幾分か調子がいい」

 時雨は三味線とバチを布団の脇に置く。そして、澄花が手にした盆に視線をやると、嬉しそうに目を細めた。

 紫陽花を思わせる透明な青と紫の寒天。そして、豆乳を混ぜて固めた葛。青と緑の水玉模様で彩られた硝子の器。

 それは今朝、時雨が所望した澄花が初めて彼のために拵えた菓子そのものだった。角切りにされた透明な花が行燈の淡い光を受けてほのかなきらめきを放っている。

「ありがとう、澄花。私のわがままを聞いてくれて」

「わがままだなんて、とんでもありません。わたしが作りたいと思ったんです。そのくらいしか、わたしが時雨様のためにできることはありませんから」

 澄花は切なげに微笑んだ。そして、澄花は盆から水菓子の器と匙を取ると、時雨に渡してやる。

「どうぞ、召し上がってください。残りの一つは後で漣さんに渡してくださいね」

 すると、嫌だと時雨はかぶりを振った。ぬばたまの髪がさらりと揺れる。時雨は拗ねたように言った。

「漣にはやらない。食べたらなくなってしまうだろう? ――だから、こうする」

 時雨は手の中の器へと手を翳した。そして、低い声でこう呟く。

「――水よ、永き時を流るるものよ。泡沫(うたかた)を永遠(とこしえ)に続かんものと希わん」

 水菓子の器が淡く光る水の珠に閉じ込められる。そして、ふわりと菓子は時雨の部屋を揺蕩い始めた。

「時雨様、これは……?」

「食べてしまえばなくなってしまう。置いておけばいつかは朽ちてしまう。だから、水に閉じ込めることで時を止めた。――私がいつでも澄花のことを想えるように」

 そんな、と澄花は言いかけてやめた。時雨がしたのは残りわずかな神力の無駄遣いだ。けれど、澄花にはそれを咎めることはできなかった。自分が同じ立場なら、同じことをしただろうから。

 時雨はしれっと漣の分の菓子を手に取ると、匙ですくって食べ始めた。澄花は今ここにいない漣に胸中で詫びながら、自分も菓子を食べ始める。

「どうですか、時雨様。お口に合いますか?」

「ああ。澄花らしい優しい味だ。――好きだ」

 その言葉は菓子に向けられたものではない。そのことに気づいた澄花はわたしもです、とはにかんだ。

 かちゃ、かちゃ、と匙と硝子の器がぶつかる音が響く。飾り棚の香炉からは檜と柑橘が混ざり合ったような匂いが漂っている。静かだけれど、確かに隣にいるこの時間が澄花は好きだった。――否、好きだ。

 菓子を食べ終えると、時雨は器と匙を盆へと置いた。そして、代わりに三味線とバチを手に取るとベン、ベン、と鳴らし始める。

「菓子の礼に君に一曲贈ろう。何か好きな曲はあるか? 君の時代の曲も勉強したから、ある程度は弾けるぞ」

「それなら――」

 澄花がリクエストしたのは、先ほど時雨が奏でていたバンドのデュエット曲だった。いつまでも。いつまでも。二人の声が重なり合う。終わっていく恋を唄った歌詞に心が痛んだ。

 時間が止まればいいのに。その言葉に泣きそうになる。何度願っても、時間は残酷なまでに過ぎ去っていく。その手を離さなければならない時がすぐそこまで迫っていた。

 時雨は曲を奏で終えると、バチから手を離した。ぼろぼろと澄花が泣いているのを見て、すまないな、と時雨は詫びた。しゃくり上げる彼女のその頭をそっと時雨は抱き寄せる。

「悪い。そんな顔をさせたかったわけではなかったんだ」

「いえ、時雨様が悪いんじゃありません……ただ、歌詞が心に沁みて……」

「澄花。君はどうしたら笑ってくれる? 私は君の笑顔が見たい」

「でしたら……思い出が欲しいです。――今日この夜を一生忘れないような、そんな思い出が」

 思い出か、と時雨は呟く。彼は腕をそっとほどき、立ち上がると文机の引き出しから細い紐状のものの束を取り出した。

「時雨様、これは……?」

 澄花は指先で涙を拭うと、そう問うた。線香花火だ、と言う時雨の柔らかい低い声が聴覚へと沁み入る。

 おいで、と時雨は澄花の手を取ると立ち上がらせる。そして、二人は部屋を出ると縁側へと向かった。

 中庭ではふわふわと淡く光る水泡が漂っていた。少し前まで庭の夜を彩っていた蛍はもういない。紫陽花からは色は褪せ、竹垣に蔓を巻きつけた朝顔が遠い天(そら)を向いて次の日の始まりを待っている。確実にその時は近づいているのだと、澄花の心はずきりと痛んだ。

 二人は縁側へと腰掛けた。ふわりと揺らいだ水の気配が二人の肌を撫でていく。

「澄花、これは普通の線香花火ではない。これは火ではなく、水で燃えるんだ」

「水で?」

 澄花が首を傾げると、時雨は線香花火を一本、彼女の手に握らせた。そして、彼は線香花火に手を翳すと、穏やかな声でこう唱えた。

「――宿れ、生命の灯火よ。水は万物の源、すべてを生み出すものなれ」

 ぽつっと線香花火の先端に青い光が灯った。もらっていく、と時雨は澄花の線香花火に自分の線香花火を近づけると青い灯の欠片を奪う。

 ぱちっ、ぱちぱち。小さな音を立てて青い光が爆ぜる。その神秘的な様に澄花は目を奪われた。

 落とさないように、終わらないように。互いが息を詰める気配がありありと伝わってくる。炎が揺れるたびに、すうっと息を吸う音がやけに大きく伝わってくる。

 二人は身を寄せて線香花火を見つめ続ける。燃え尽きていく花火に自分たちを重ねながら。

 幻想的な青い火花に煤の匂い。肩に触れ合う温もりに時雨の着物から香る沈香の匂い。

 澄花はきっとこれを一生忘れないだろうと思った。この記憶を抱いて、この先を生きていく。――時雨の幸せを願いながら。

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