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第四章:初めての恋に祈りを込めて③

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-19 09:01:04

 深縹こきはなだに藤納戸。御召御納戸おめしおなんどに留紺。色とりどりの着物を前にどうしたものかと澄花は考え込んでいた。彼女を見守るように水が穏やかに波打っている。

 今、澄花がいるのは時雨の着物が仕舞われた桐箪笥が立ち並ぶ納戸だ。初めて朝餉を共にした日の夜から、漣に頼まれて時雨の着物を選ぶのは澄花の仕事になっていた。

 今日の時雨の着物に合わせた帯は濃藍に薄灰色の縞模様のものだ。明日は違う色の帯を使いたい。

(あ……)

 澄花はさらりとして柔らかい薄紫の帯を手に取った。雨上がりの朝、一日が始まる前の温かな空の色に似ていた。

(それなら深縹……? それとも留紺が……?)

 手に持った帯を澄花は着物に当てがってみる。どちらが時雨には似合うだろうか。澄花の脳裏に時雨の美しい顔と優しい微笑みが浮かぶ。穏やかな声で彼が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

「――様、澄花様」

 自分の名前を呼ぶ声に、はっとして澄花は意識を現実に引き戻される。水鞠がにこにことした笑みを浮かべて、納戸の入り口から顔を覗かせていた。

「水鞠さん」

「時雨様のお着物を選んでいらっしゃったんですね。精の出ることです」

 水鞠は澄花の手元を覗き込む。最初は着物の知識がなかった澄花が自分で時雨の着物を選べるようになってきていることに、彼女の成長を感じた。

「深縹と留紺で迷っているんです。どちらが時雨様にお似合いになるでしょうか……?」

「それは澄花様がお決めになることですよ。それに時雨様なら、澄花様がどちらを選んでもきっと喜んでくださいます」

「そうでしょうか……」

 迷う澄花の瞳には愛しい人を思う色が浮かんでいた。熱くて、切なげで、不安げで。それは誰から見てもわかる、恋する乙女の顔だった。

「澄花様は、時雨様のことをどうお思いですか?」

 水鞠が口にしたのは以前の紅雨こううの問いと同じものだった。しかし、それは今の澄花にとっては、以前と異なる意味をもつものだった。

「時雨様はお優しくてお美しい方だとは思います。神としてだけでなく、男性としても素敵な方だって思います。だけど、わからないんです。どうして、時雨様のことが頭から離れないのか。どうして、わたしはいつも時雨様のことを考えているのか」

 神らしく静かに凪いだ表情。ふとしたときに美しい顔を彩る柔らかな微笑。漣に咎められたときの拗ねたような顔。まるで少年のようにはにかむ、照れたような面差し。

 葛餅が好きで、餡バタートーストが好きで。ほうれん草の胡麻和えと筑前煮が好きで。好きなコーヒーはキリマンジャロで、紅茶ならアールグレイで。好きな花は紫陽花と睡蓮、梅で。書と陶芸、そして三味線が趣味で。

 最初はただ契約で結婚しただけだった。なのに、気がつけば澄花は時雨についてこんなにもいろいろなことを知ってしまっていた。彼がこんなにもいろいろな顔をすることを知ってしまっていた。

 少し嬉しそうに弾んだ声。切なく熱を帯びた声。凪いだ水面のような穏やかな声。自分を呼ぶ時雨の声にもいろいろな響きがあることを澄花は知ってしまった。

「時雨様のことを考えていらっしゃるときの澄花様は、いつも優しげで幸せそうな顔をしていらっしゃいますよ」

 考えただけで気持ちが優しくなれる。考えただけで幸せになれる。そして、ちょっとしたことだけで不安になって、そわそわしてしまう。――この気持ちにつける名前を澄花もまた、知らない。まだ、知らない。

「水鞠さん。わたし……おかしいんでしょうか。こんなに時雨様のことを気にしてばかりで」

 澄花の双眸が不安に揺れる。何もおかしくはないですよ、と水鞠は娘を見るような眼差しを澄花に向けるともしもの話をし始めた。

「澄花様が時雨様のお側にいられなくなるとしたら、澄花様はどう思われますか?」

「そんなの……そんなの嫌です。そんな辛くて悲しいこと、考えたくもありません」

「それはどうしてですか?」

「わたしにとって、時雨様が大切なお方だからです。ただの契約だけじゃ満足できなくなっているわたしがいるんです。時雨様を――お慕いしています」

 ふふ、と水鞠は笑みを深くした。そして、彼女は諭すように澄花へと言葉を向ける。

「澄花様は気づいておられないようですけれど、その気持ちを恋というんです。幸せで、切なくて、不安で、その人のことばかりを考えてしまう――それが、恋です」

「恋……」

 その言葉を澄花は反芻した。何かが腑に落ちる気持ちと、心の中が色づいていくような気持ち、恐れ多く思うような気持ちが綯い交ぜになって渦を巻く。

「そんな、わたし……時雨様に、そんな……」

 やがて実感が伴ってきて、思わず澄花は自分の体をかき抱いた。ぱさりと音を立てて時雨の帯が床へと落ちる。自分なんかが時雨と釣り合うはずなんてない。知ったばかりのやり場のないこの気持ちは閉じ込め続けていかなければならないものだと思うと、窒息してしまいそうだった。――水神である時雨にこの想いを告げるなど、許されるはずもない。

「わたし……どうしたらいいんでしょう……。時雨様に恋だなんて……こんなこと、時雨様には言えません。時雨様のご迷惑になります」

「時雨様はご迷惑だなんてお思いになりませんよ。他でもない澄花様のことですから」

「どうして……?」

「澄花様は時雨様がそのような狭量なお方だと思いますか?」

 いえ、と澄花は首を横に振った。そうでしょう、と頷くと水鞠は話を続ける。

「時雨様ならきっと澄花様の想いを受け止めてくださいます。それに私が思うに時雨様も――いえ、これ以上は野暮ですね」

「水鞠さん……?」

 水鞠が何を言いかけたのか疑問に思いながらも、澄花は床に落ちた帯を拾い上げる。

 恋。それは気恥ずかしくも、澄花の脳をふわふわと酔わせてしまいそうな響きだった。どくどくと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。きっと顔だって、人には見せられないくらい赤くなっているに違いない。

 時雨の明日の着物は深縹(こきはなだ)にしよう。明日の自分はきちんと時雨の顔を見て笑えるかわからないけれど、それでも時雨のことを好きだと思ったこの気持ちは大切にしたいと澄花は思った。

 時雨は文机に頬杖をつきながら、冷茶のグラスを傾けていた。黒豆麦茶の香ばしい味わいが口の中に広がる。ガラスの中でカランと氷が音を立てた。

 文机に置いた水盤の水位はぎりぎり現状維持を保っている。澄花の雨催あまもよいの巫女の力による賜物だった。

 もう夜も遅い。漣を呼んで寝支度をさせようと時雨が茶を飲み干したとき、障子の外に小さな人影が立った。この姿は漣ではない。同じ父を持つ妹の姿だった。

紅雨こううか?」

「ええ、お兄様。今、よろしいかしら?」

 ああ、と戸惑いがちに返事をすると、紅雨こううが部屋へと入ってきた。何かまた紅雨こううに怒られるようなことをしただろうか。時雨自身は特に何かをしたような覚えはない。

 時雨は立ち上がると、紅雨こううのために座布団を用意してやる。礼を告げると、紅雨こううは座布団の横に膝をついた。金魚が泳ぐ着物の裾を整えると、彼女は座布団の上に体を移し、背筋を伸ばす。幼い見た目には不似合いなほどの完璧な所作だった。

「――お兄様。わたくしがこうして伺ったのは、澄花のことについてですわ」

「澄花がどうかしたのか? 澄花に何かあったのか?」

「何かあったのか? ではありませんわ」

 ぴしゃりと言い返すと、紅雨こううは深々と溜息をついた。この兄ときたらどれだけ鈍感なのか。この見た目と年齢のくせにあまりに情緒がお子様過ぎる。これではあまりに澄花が哀れだった。

「お兄様は澄花のことをどう思っていらっしゃるんですの?」

「どうって……澄花は澄花だろう。彼女は契約上の私の妻だ」

「契約上のって……お兄様は馬鹿なんですの!?」

 紅雨こううに一喝され、時雨は青藍の目を瞬いた。振動で水盤の水が激しく波打った。少々毒舌気味な妹だが、こうまで言ってくるのは珍しい。理由がわからずに時雨が戸惑っていると、紅雨こううは小さく肩を竦め、話を続けた。

「澄花のことをどんな目で見ているか、わからないとでも思っていたんですの? この屋敷にいる者なら、お兄様が澄花にどんな感情を抱いているか皆知っておりますわ。気づいていないのはお兄様と澄花だけです」

「……」

 諭すような紅雨こううの言葉に時雨は黙り込んだ。毎日毎日、気がつけば澄花のことを考えてばかりだ。しかし、それがそんなにわかりやすく言動に現れていたとでもいうのだろうか。

「漣が言っておりましたわよ。澄花がこの家に来てからのお兄様はずっとそわそわとして心ここに在らずだと。お兄様の心は――澄花に奪われてしまったんですわ」

「澄花に?」

「そうですわ。最近のお兄様は澄花は何が好きかだとか、どうしたら澄花が喜んでくれるかだとか、そんなことばかりですもの。澄花の言動に一喜一憂しているこの状況は、お兄様の心は澄花に奪われてしまったとしか言いようがありませんわ」

「……そうなのかもしれないな。最近の私は澄花のことばかり考えている」

「ねえ、お兄様。お兄様は澄花のことを一人の女性として好いているのでしょう?」

 紅雨こううがそう訊ねると、わからないと時雨は首を横に振った。白皙の美貌には迷子になってしまった子供のような表情が浮かんでいた。

「澄花のことを考えると、なぜだか心が温かくなる。優しい気持ちになれるんだ。なのに、どうしようもなく胸が締め付けられて、苦しい気持ちにもなる。だけど、彼女を――澄花を泣かせたくないと、悲しい顔はさせたくないと思うんだ。澄花には笑っていて欲しい」

 こんなにも彼女のことを想っているというのに、自分の心に気がついていないとはどれだけ時雨は鈍感なのだろう。その言葉こそが何よりの答えだというのに。呆れながらも紅雨こううは口を開く。

「――お兄様。その気持ちこそが恋というものですわよ。どうしてその気持ちを澄花に伝えないんですの?」

 恋、と唖然としたような表情で時雨は呟く。まさか自分が恋をしているなどとは夢にも思わなかった。しかし、自分がこの想いを澄花に伝えることなんてできるはずもない。

「澄花は私の眷属で妻、私は水神だ。私が想いを告げたなら、澄花はそれを受け入れるしかないだろう。いずれ離れていくかもしれない彼女をそんな重石で縛り付けたくはない。――彼女には幸せでいて欲しいから」

「お兄様ときたらどれだけ愚かなんですの? お兄様は澄花の気持ちを想像したことがありませんの? ――澄花もまた、同じ気持ちかもしれない、と」

「……え?」

 時雨は青藍の双眸を見開いた。その瞳は期待と混乱で揺れている。

「傍目から見ればすぐにわかることですわ。お兄様と一緒にいるときの澄花は恋する乙女の顔をしていますもの。それにお兄様の心など、水の揺らぎが教えてくれますわ。――澄花にどうしようもないほど、恋焦がれていると」

 お兄様、と紅雨こううの空色の瞳が時雨を射抜いた。いいですこと、と諭すように紅雨こううは言葉を継ぐ。

「自身の存在が重荷だと感じるのであれば、澄花から想いを口にさせることがあってはなりませんわ。一柱の神に想いを告げるなど、澄花の立場からしたら、非常に勇気と覚悟のいることでしょうから。お兄様から、あるがままの想いを澄花に告げるのです」

「しかし、澄花に拒まれてしまったら私はどうすれば……」

「そんなことは振られてから考えればいいですわ。そうやってすぐにうじうじとするのはお兄様の悪い癖です。それに、そのような万が一は絶対に起こり得ないですわ。澄花がお兄様を振るなんてあり得ませんもの。あとはお兄様が行動に移すだけですわ」

 畳に黴が生える前に男を見せてくださいな、と紅雨こううは立ち上がる。話を切り上げると、おやすみなさいませ、と紅雨こううは障子を開けて時雨の部屋を出て行った。紅雨こううの着物に描かれた金魚の尾鰭が時雨の視界をちらついた。

 この気持ちを澄花にどう伝えたらいいだろう。初めての恋に戸惑いながらも、その答えは自分で考えるべきだろうと時雨は感じていた。誰かに聞いた言葉ではなく、これだけは自分で考えた自分自身の言葉で伝えたい。

 目を閉じると、澄花の控えめな笑顔が瞼の裏に映る。華奢な身体に、三つ編みにした髪、小動物のように潤んだ瞳。そのすべてに胸がざわつく。誰にも見せられない、この熱をどうすればいいのか、時雨は思わず身を震わせた。

 澄花、と時雨は彼女の名前を呟くと、思考の海へと沈んでいった。――誰より愛しい少女の姿を思い浮かべながら。

 紫陽花が色褪せ始めた夜、時雨は縁側に座って中庭を眺めていた。花季の終わりを迎え始めた紫陽花と入れ替わるようにして、朝顔が竹垣に沿って蔓を伸ばし始めている。淡く発光する水泡に紛れるようにして、庭を蛍が舞っていた。

 ギィ、と床が軋む音がした。一人分の足音がこちらへと近づいてくる。それは時雨の待ち人にして、誰より愛しい少女のものだった。

「――時雨様」

 少女の声が自分の名を呼ぶ。時雨が背後を降り仰ぐと、紺藤の着物に身を包んだ澄花が盆を持って立っていた。盆の上には二人分の切子細工のグラスが乗っており、カランカランと氷が涼しげな音を立てていた。

「お待たせして申し訳ありません」

「いや、いい。私も先ほど来たところだ」

 座るといい、と促すと、おずおずと澄花は時雨の横に腰を下ろした。澄花は脇に置いた漆塗りの盆からグラスを手に取ると、時雨へと渡した。

「以前にお約束していた梅シロップです。先ほど、夕餉の後に確認したらいい具合に浸かっていたので、炭酸水で割ってみました。時雨様のお口に合うといいんですけれど」

 ありがとう、と時雨は微笑むとグラスに口をつける。二人で一緒に作った梅シロップからは、優しい甘みと仄かな酸味が感じられた。口の中でぱちぱちと炭酸が小さな泡を弾けさせる。

「――美味いな」

 思わず口元が綻ぶのを時雨は感じた。ええ、と隣で澄花が頷く気配がした。

「きっと、時雨様と一緒に作ったからですよ。それに――」

「――君と一緒に飲むから美味しいのかもしれないな」

 澄花の言葉を時雨が継いだ。二人の視線が絡まり合う。その視線は梅シロップよりも甘く、アルコールなど入っていないのに酔ってしまいそうだった。――恋という名の微熱に。

「――澄花。君に聞いて欲しい話がある」

 時雨はグラスを置くと、改まったように切り出した。その顔からは緊張と覚悟が見て取れて、澄花は居住まいを正す。

「――澄花。私は君のことが好きだ。一人の女性として愛している。私と君は契約から始まった関係だとはわかっているが……それでも、それ以上を望んではいけないだろうか。私は君が欲しい。君のことを考えると幸せで暖かな優しい気持ちになれるのに、どうしようもなく苦しいんだ」

 それは不器用な時雨らしい、真っ直ぐな愛の告白だった。その胸中を吐露され、澄花の目が見開かれていく。どくん、どくん、と心臓が鳴る。

「わたしも――わたしも、時雨様と同じ気持ちです。わたしも時雨様のことが好きです。心からお慕いしています。わたしは、望んでもいいんでしょうか? ――あなたと共に歩む未来を」

「それは私の台詞だ。君は背負ってくれるのか? 水神の伴侶となる重みを。私と共に在るということは、普通に生きて、普通に老いていくという人生を捨てることだ。――君はそれでも構わないというのか?」

「――はい。私は貴方と生きることができるのならば、それ以上何も望みません」

 そうか、と頷くと時雨は袂から翡翠のペンダントを取り出した。時雨はそっと澄花の華奢な身体を抱き寄せると、彼女の首にそれをかけた。

「翡翠の石言葉は幸福――紅雨こううの受け売りだがな。この先、私と共にある君が幸福(しあわせ)であるように――私はそう祈っている」

 時雨は澄花の首元に額をつける。彼女の身体からは水辺に咲く花の淡く甘い香りがした。

「そんな……頂けません。わたしには、何も時雨様に返せないというのに」

「澄花からはいろいろなものをもらっているよ。それでももし君が私に何か返したいというのなら――欲しいものがある」

 いいか、と時雨の美しい顔が近づいてくる。甘い予感に胸が高鳴るのを感じながら、澄花はそっと目を閉じる。

 唇に柔らかいものが触れる。想いが通じ合って初めて重ねる唇からは熟した甘酸っぱい梅の味がした。

 この人が好きだ。誰より大切だ。恋の熱さを秘めた時雨の口付けに蕩かされながら、澄花はそう思った。この人になら、心だって身体だってすべてを捧げてもいい。――まだ誰も踏み入れたことのないまっさらなすべてを。

 さらさらと水が流れる音に包まれながら、二人は唇を重ね続けた。結ばれたばかりの二人を寿ぐように、蛍がふわふわと宙を舞っていた。

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