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第四章:初めての恋に祈りを込めて②

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-19 06:59:23

 時雨と毎食の食事を摂るようになって数日。澄花は時雨の部屋に招かれて茶を飲んでいた。

 床の間に活けられているのは今日はホタルブクロだ。飾り棚の香炉からは漂う煙からは睡蓮の匂いがした。

「――澄花。何か、欲しいものはないか?」

 白い雲と青い雨粒があしらわれた湯呑みを座卓の上に置くと、時雨はそう問うた。今日のお茶は花束のような香りが華やかな煎茶だった。

「欲しいもの……ですか?」

 着物や小物類は充分すぎるくらいに与えてもらっている。食事だって、住むところだって与えてもらっている。――こうして、時雨と過ごす時間だって。

 今は六月。例年ならば、母と梅酒を漬けている頃合いだった。母直伝の梅酒を時雨のために漬けるのはどうだろう。それは何だかとてもいい思いつきのように思えた。

「あの、梅と氷砂糖、ブランデーを用意してもらえませんか? 時雨様のために梅酒を漬けたいんです」

「澄花はつくづく欲がないな。そのくらいでよければ、すぐに手配させよう。――漣」

 障子の脇に控えていた漣が返事をする。しかし、その表情は険しい。何か漣の気に障ることを言ってしまっただろうかと澄花は直前の発言を省みる。

「時雨様……お酒は控えられた方が……」

「構わない。私は澄花の作った梅酒が飲みたいんだ」

 時雨がそう言うと、どうなっても知りませんからねと漣は溜息をつく。残念なものを見るような視線をちらりとこちらに寄越すと、漣は障子を開けて時雨の部屋を出ていった。

 すっと障子が閉まり、漣の足音が遠ざかっていくと、澄花は時雨を見た。先ほど漣が言いかけたことが気にかかる。

「漣さんがお酒を控えられた方がいいと仰っておられましたが……もしかして、時雨様は肝臓がお悪いのですか?」

「いらぬ心配をかけてしまったようで済まない。恥ずかしい話なのだが、私は下戸なのだよ」

「下戸って……どのくらいですか?」

「酒を一口でも飲めばたちどころに真っ赤になり、眠ってしまうらしいんだ。正直、酒を水のようにざばざば呑める紅雨こううが羨ましい。……どうせ、澄花が作った梅酒もほとんど紅雨こううが呑んでしまうのだろうから」

 拗ねたようにそう口にする時雨が何だか少しおかしくて、澄花は小さく笑った。むっとした表情を白皙の美貌に乗せる時雨に、澄花はこんなことを提案した。

「それじゃあ、梅酒の他に梅シロップも作りましょう。どのみち、わたしも再来年まではお酒が飲めませんから、これなら一緒に楽しめますよ」

 それはいいな、と一気に時雨の表情が華やいだ。青藍の瞳に清風が躍る水面のような光が宿る。澄花はこれまで時雨がこんなに色々な表情を見せることを知らなかった。

 澄花は黒文字を手に取ると、抹茶わらび餅を口へと運ぶ。新緑の季節に降り頻る雨の匂いが鼻へと抜けていった。

 わらび餅の後に茶を口に含むと、緑の中にふわっと花が咲く。澄花は口の中で移り変わる情景を楽しんだ。

 そんな澄花を時雨は微笑みながら見ていた。彼女のそんな表情を間近で見られるのは自分の特権だ。きっとこれが幸せというものだろうと時雨は思った。

 二人は茶と菓子を前に、和やかに言葉を交わし合う。厨房から戻ってきた漣は二人の邪魔をしたくなくて、廊下の柱に寄りかかったまま、障子に映る幸せそうな二人の影を見ていた。――時雨に抱く己の気持ちに澄花が気づいてくれることを願いながら。

 明くる日、朝餉が済んだ後、澄花は厨房で梅仕事に勤しんでいた。竹ザルの上に山のように積まれた青梅のヘタを澄花はぽりっぽりっと竹串で取っていく。

 ふいに藍色の暖簾が揺れた。水の香りが澄花の嗅覚を満たす。澄花が手を止めて視線を上げると、彼女の選んだ薄藍色の着物の上から割烹着を纏った時雨が立っていた。

「――時雨様。どうされたんですか?」

「澄花が厨房で梅仕事をしていると漣から聞いてな。私にも手伝わせてくれないか?」

「そんな……時雨様にそのようなことをさせるわけには……」

「私がやりたいんだ。一緒に梅シロップを飲む約束をしただろう?」

 そう言うと時雨は梅を手に取ると、その場にしゃがみ込もうとする。「時雨様、いくら何でもお待ちください」漣が慌てた様子でどこからともなく箱椅子を持ってきた。漣に促され、幾分か不満げな顔で時雨は箱椅子に座り直す。

「澄花、これはどうやればいいんだ?」

 片手に梅を握り、時雨は澄花にそう問うた。澄花は竹串を一本時雨に渡すと、手本をやってみせる。

「ここに黒いヘタがありますよね。ここに竹串の先を引っ掛けて外してください。ヘタを外した梅はこちらのザルに――」

 時雨は澄花の真似をして梅のヘタを竹串で外そうとした。慣れた手つきで着々と梅のヘタを外していく澄花に反し、手の中で梅が滑るばかりで上手くいかない。

「どうして時雨様がこんなことを……時雨様に何かあったらどうするんですか」

 ぶつくさと呟きながら、漣は厨房の入り口から時雨と澄花の様子を伺っている。あら、とそのとき幼い可憐な声とともに漣のチャコールグレーのスーツの袖が引かれた。漣が視線を外すと、薄紫から白のグラデーションが美しい菖蒲柄の着物に身を包んだ幼い少女がそこにいた。桃色の帯がその愛らしさを引き立てている。

「……紅雨こうう様」

「あの二人なら、何かあったほうがいいですわよ。いつまでもあのままなんて、漣だってむず痒いでしょう?」

 平然と言ってのける紅雨こううに、それはそうですがと漣は言葉を濁す。幼く愛らしい見た目に反して、この兄妹は妹の方が精神年齢が遥かに大人だ。水鞠に水霜、秋水しゅうすいは互いに顔を見合わせると苦笑する。

「それより、漣。出歯亀だなんて品がありませんわよ」

「出歯亀だなんて、そんなつもりは……」

「けれど、覗いていたのは事実でしょう。さて、漣はわたくしとお茶にいたしましょう。おいしい枇杷があるのよ」

「しかし、時雨様のおそばを離れるわけには……」

「あら、漣。可愛い婚約者の言うことが聞けないと言うのかしら? それに水鞠たちがいるから、あなた一人が外したところでどうってことはないわ」

 それでは行きましょう、と紅雨こううは漣の手を掴んで強引に引きずっていく。遠ざかっていく二人分の足音に、澄花は顔を上げると暖簾の外を窺う。

「……なんだったんでしょう?」

「さあな。それより澄花、ヘタが取れたぞ。これでいいか?」

 お上手です、と微笑むと澄花は時雨から梅を受け取り、ザルへと入れる。時雨が一つの梅に悪戦苦闘している間に、澄花は全ての梅のヘタを取り終えていた。

 澄花は箱椅子から立ち上がると、ザルを流しへと持っていく。水瓶から水を汲むと、澄花はヘタを取り終わった梅を洗っていった。その柔らかく綻んだ横顔に、時雨は見惚れていた。ふわりと舞い上がった水泡が時雨の頬を優しく撫でる。

 さて、と梅を洗い終わった澄花はザルを木箱の上に置いた。そして、青みがかったガラスの瓶を二つ持ってきて土間に置くと、澄花は時雨に青海波柄の布巾を時雨に渡した。

「これで梅を拭いて、瓶に入れていってください。傷んでしまうので水気が残らないようにきっちり拭いてくださいね」

 わかった、と時雨は頷くと手に持った布巾でまだ硬い梅を拭いていく。向かい合って座る澄花の手つきは丁寧なのに、時雨の何倍も早い。

「菓子をもらったときも思ったが、澄花は料理が上手いのだな」

「いえ、わたしなんて、特別上手いわけじゃありませんよ。お菓子作りなら、妹の方が数段上でしたし。梅酒作りだって、幼いころから母に仕込んでもらっただけですから」

「そんなに謙遜するものではない。君がくれた菓子を美味いと思ったのは私の本心からのものだ」

「それは……秋水しゅうすいさんの教え方が良かったんだと思います。お菓子作りなんて右も左もわからないわたしのために、次はどうしてこうしてってしっかり教えてくださいましたから」

「――澄花」

 透き通った青藍の双眸が真っ直ぐに澄花を見据える。澄花は思わず口を噤んだ。

「私の思い違いでなければ、あの菓子からは技術以上に君の心が感じられた。――私への真心が」

「それ、は……」

 確かに時雨の指摘通り、あの菓子は彼のことを思いながら作ったものだ。少しでも美味しいものを。少しでも彼の心を潤してくれるものを。彼が少しでも幸せな気持ちになれるものをあのときの澄花は作りたかった。その理由を追求しようとすると、視線が宙を彷徨う。なぜだか目の前の時雨を直視することができなかった。

「私は嬉しかった。君があの菓子に込めてくれた気持ちが」

 真っ直ぐな言葉に澄花の顔が赤く染まる。つられるようにして、時雨もそわそわと視線を宙に泳がせる。ぱちっとあぶくが弾ける音がした。

 澄花は俯くと、再び梅を布巾で拭い始める。厨房には、季節の進んだ梅のような甘酸っぱい空気が漂っていた。

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