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雪舞い散る頃、愛は終わりを告げる
雪舞い散る頃、愛は終わりを告げる
Author: 雲居の月

第1話

Author: 雲居の月
人と結婚するのに、たった10分しかかからないなんて。

市役所で婚姻届を提出し、外に出た時、神崎千幸(かんざき ちゆき)はふと思った。

本当に結婚してしまった。しかも相手は婚約者だった望月和也(もちずき かずや)ではなく、知り合って1週間も経たない男の人とだった。

「すまない、神崎先生。今回の任務は急だったんだ。俺たちの結婚式は1ヶ月後でも大丈夫かな?」

隣から聞こえてきた低く謝罪の色を含んだ声に、千幸は彼へと視線を移した。

夕日に照らされ、男の端正な顔立ちはより一層鋭く見え、褐色の肌はより男らしさを際立たせていた。

背筋は真っすぐ、静かなときは落ち着き払っているが、ひとたび動けばまるで鋭い刃が鞘から抜けるように、その勢いは誰にも止められない。これぞ軍人の姿だ。

これが自分の新婚の夫、高橋彰(たかばし あきら)だ。

「大丈夫よ」千幸は理解を示すように頷いた。「任務を優先して」

彰は少し微笑み、千幸を軽く抱きしめた。「じゃあ、約束通り1ヶ月後にH市で結婚式を挙げよう。任務が終わったら迎えに行くからな」

それはほんの一瞬の抱擁だった。千幸が反応するまもなく、彼は早足で去っていった。

1分ほどかけて結婚した事実を受け止め、千幸は、迷うことなくタクシーで帰宅した。

家には相変わらず誰もいない。千幸は特に気にも留めず、寝室に入って荷造りを始めた。

もともと和也とは幼い頃から婚約関係にあったため、彼の家に住んでいるのも不自然ではなかった。しかし、今は他の人と結婚したのだから、早くここを出るべきだろう。

スーツケースを準備したその時、玄関から声が聞こえた。

「どこへ行くんだ?」

千幸が顔を上げると、半月ぶりに帰宅した和也が玄関に立っていた。スーツの上着を腕にかけ、眉間を揉むその整った顔には疲労の色が濃く出ている。

「千幸、俺は最近忙しいんだ。家出みたいな馬鹿げた真似はやめてくれ。相手にする暇はない」

まただ。いつも自分と話をする時は不愉快さを全面に出してくる。まるで時間を割いて自分を慰めてやっているとでも言うように。

本当に出て行くというのに、彼は自分がふざけていると思っている。

千幸は多くを説明する気になれず、目を伏せながら服を畳んだ。「病院からB市への出張を頼まれたから、その準備をしているの」

自分が誤解していたことに気づき、和也は眉間を揉んでいた手を少し止めた。表情が少し和らぎ、彼は言った。「B市はここより寒いから、厚着をするようにな」

「ええ」

クローゼットで服を探す千幸を見て、和也は言おうかどうしようか迷ったが、やはり口を開いた。「千幸、絵里と茜ちゃんをここに呼び寄せようと思っている。彼女たちはH国に頼る人もいないし、それに俺には恩があるんだ……」

最後まで言わせず、千幸は振り返って彼の言葉を遮った。「いいわよ。呼んでも構わない」

自分はもうすぐここを出て行くのだ。この家に誰が住もう関係ないし、もう関わりたくもない。

佐藤絵里(さとう えり)と佐藤茜(さとう あかね)親子は、和也の命の恩人だった。それどころか望月グループ全体にとっても恩人と言える存在なのだ。

半年前、和也はA国に出張した際に、不幸にもテロ攻撃に巻き込まれ、行方が分からなくなってしまった。

そして1ヶ月前、和也の祖母の望月美香(もちずき みか)の70歳の誕生日祝いに、彼は突然姿を現し、その時、一緒に現れたのが絵里親子だった。

X市の名家が一堂に会したその日、自分の婚約者は見知らぬ女性の腰を抱き、皆に彼女を改って正式に紹介したのだ。

その日、未来の望月家の嫁である自分は、X市中の笑いものになった。

その後、和也は千幸に説明した。絵里に対しては、彼女が勇気と機転を利かせ自分を救ってくれた上に、会社の機密文書を守ってくれたことへの感謝の気持ちしかない、と。

でも、彼が絵里を見る目は、決して純粋な感謝の気持ちだけではない。そこには紛れもない愛情が込められていたことを、千幸ははっきりと見ていた。

以前なら、雌ライオンのように自分の縄張りを守るために、絵里がここに来るのを阻止しただろう。

でも、今はもうそんなことはしない。

和也は千幸が同意するとは全く予想しておらず、目にわずかな驚きを浮かべた。

彼女の譲歩に少し喜ぶとともに、和也はより優しい態度で言った。「千幸、安心しろ。絵里がH国に慣れて仕事を見つけたら、すぐにここから出ていくから」

千幸は絵里のことは特に気にならず、話を変えた。「私たちの婚約は……」

しかし、和也はその話を聞きたがらず、言葉を遮った。「最近は会社が忙しいんだ。結婚のことはまた今度話そう」

千幸は説明しようとした。「私が言いたいのは――」

しかし、言い終わる前に和也のポケットの電話が鳴り響いた。電話に出た瞬間、彼の目は優しくなった。

「絵里、どうした?茜ちゃんが俺に会いたがっているのか。わかった、すぐに行くよ」

そう言って彼は急いで外へ向かった。玄関に着いた時、ようやく千幸のことを思い出したかのように、一言言い残した。

「千幸、明日までに客間を片付けておいてくれ。絵里たちが引っ越してくる」

そして、玄関のドアがカチッと音を立てて閉まり、部屋の静寂と千幸を閉じ込めた。

千幸は目を伏せ、引っ込め忘れた手を見つめると、口元を歪ませた。

「私が言いたかったのは、結婚のことじゃなくて、婚約破棄のことだったのに」

一体いつから、和也は自分の話を聞いてくれなくなったのだろう。

彼はいつもイラついた目で自分を見て、自分と話すことさえ嫌がっているようだった。

昔の彼は、こんな風じゃなかったのに……
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