登入一ノ瀬澄佳(いちのせ すみか)は昔から、人を試すのが好きだった。 大学を出たばかりの俺に、一億の住宅ローンを背負わせようとしたのも、その一つだ。 俺が断ると、澄佳はすぐに、大学時代から人気者だった藤森雅彦(ふじもり まさひこ)へ、一億を超える豪邸を一括で買い与えた。 そして豪邸の権利書を手に、俺へ告げた。 「謹也、実は私、お金に困ってなんていなかったの。貧しいふりをしていたのは、あなたを試すためよ。 でも残念ね。あなたは不合格だったよ。もう、終わりにしましょう」 俺――遠野謹也(とおの きんや)は、ただ笑って背を向けた。 奇遇だな。 俺も国内一の資産家の息子で、貧しいふりをしていただけだ。 四年後、俺たちは富豪ランキングサミットで再会した。 その時の澄佳は、富豪ランキングの五十位以内に食い込んだばかりで、雅彦と腕を組んで会場へ入ってきた。 彼女は、ブランド物に見えない地味な服を着た俺が、カイエンのキーを手にしたまま子供を抱いてあやしているのを見て、どこかの家の運転手だと決めつけたらしい。 そして、嘲るように笑った。 「謹也、私に会うためにここまで来たの?ずいぶん必死なのね。 でも、もう無理よ。私は富豪ランキングに名を連ねる側で、あなたは人に雇われる側。今さら私に手が届くと思わないで」 俺は相手にしなかった。 ただ、親父にどうしても顔を出せとうるさく言われて来たことだけが、ひたすら恨めしい。 せっかく空けた、息子と過ごすための一日が、こんな場所で潰れてしまったのだから。
查看更多さすがに、もう我慢の限界だった。「澄佳、いい加減にしろ。お前が俺の子を産む?どこからそんな考えが出てくるんだ。綾乃と比べること自体、おこがましい。少しは自分を客観的に見たらどうだ」澄佳は悔しそうに唇を噛んだが、それでもまだ引き下がらなかった。「謹也、そんなの信じないわ。私たちは大学で四年も一緒にいたのよ。あなたは私が出した試練を、全部乗り越えてくれたじゃない。あの頃の気持ちが嘘だったなんて、言えないでしょ。私を忘れて、ほかの女と結婚するなんてありえないわ。あの女に言いくるめられているだけでしょう?」俺は大きく息を吐いた。これで最後にするつもりで、はっきり告げる。「昔のお前を選んだ自分を思い出すだけで、吐き気がする。二度と俺の前に現れるな。次に付きまとったら、この街にいられなくしてやる」俺は窓を上げ、運転手に車を出すよう命じた。それでも澄佳は諦めず、車の外から声を張り上げた。「謹也、今度はあなたが私を試しているのね?大丈夫よ。私は必ず証明してみせる。あなたを愛しているって!」そう叫ぶと、澄佳は車の前に立ちはだかった。自分の覚悟を見せているつもりなのだろう。俺にはもう、正気とは思えなかった。「いい。そのまま出せ。どうせ直前で逃げる」運転手は一瞬ためらったが、ゆっくりと車を前へ出した。澄佳は、本当に車が動き出すとは思っていなかったのだろう。車がすぐ目の前まで迫ると、悲鳴を上げて慌てて脇へ逃げた。その拍子に足をもつれさせ、みっともなく地面に転ぶ。車が通り過ぎたあと、排気ガスをまともに浴びた澄佳の姿は、惨めで滑稽だった。綾乃は、澄佳がまた俺につきまとったと聞くと、もう一切手を緩めなかった。その日のうちに手を回し、一ノ瀬家を破産へと追い込んだのだ。さらに脱税や書類偽造の疑いまで明るみに出て、税務当局と警察の調査が入った。澄佳は一ノ瀬家を潰した元凶として親族から責め立てられ、足を折られるほど殴られた末に家から追い出された。行くあてを失った彼女は、街をさまようしかなかった。生きていくために、澄佳はかつてのプライドを捨てるしかなかった。飲食店で皿を運び、空き缶を拾い、どうにかその日の食事にありつく。そんな暮らしを続けるだけで精一杯だった。一方、雅彦には懲役三年の判決が下
その場に残ったのは澄佳だけだった。彼女は先ほど、俺に直接手を出してはいない。澄佳は何か言いたそうにこちらを見ていたが、俺はもう相手にしなかった。綾乃に支えられて車に乗り、そのまま病院へ向かった。傷の手当てを終えて家に戻ると、門の外には大勢の人が集まっていた。さっき俺に手を出した連中の家族や会社の代表者たちだ。謝罪に来たのだろう。親父は先に戻るなり、あの場にいた者たちは一人残らずただでは済ませないと言い放った。実際、遠野家と取引のある相手とはすぐに契約を打ち切った。中には仕入れ先と資金繰りを同時に断たれ、このままでは数日も持たない家もある。ほかの者たちも、親父が本気だと悟って、慌てて頭を下げに来たらしい。この時点で彼らはまだ、騒ぎを起こした本人たちが警察に連れていかれたことを知らなかった。俺と綾乃が戻るなり、彼らはこぞって愛想笑いを浮かべた。「遠野社長、奥様、どうかご容赦ください。うちの愚息には、私どもからきつく言い聞かせますので……」「若い者のしたことです。どうか大目に見ていただけませんか。今後も、ぜひお付き合いを続けさせていただきたいのです」「これだけの家が関わっているのですから、全員を切り捨てるのは現実的ではないでしょう。どうか一度だけ、機会をいただけませんか」綾乃は、俺の代わりに決めようとはしなかった。俺は彼らを一瞥し、落ち着いて口を開いた。「遠野家も水瀬家も、あなた方とは今後一切取引しません。身内が何をしたのか、帰ってよく聞いてください。その責任は、そちらで取ってもらいます。話は終わりです。家の前を塞がれると迷惑なので、お引き取りください」俺が取り合う気を見せないと、彼らの作り笑いが消えた。へりくだっていた態度も、すぐに薄れていく。「遠野社長はまだお若いですね。商売というものは、もう少し広い目で見るべきですな」「取引は感情だけで切るものではありませんよ。あまり事を荒立てれば、遠野家にも響くことになります」「そもそも、あなた一人で遠野家と水瀬家の方針を決められるのですか?遠野会長も同じお考えなのでしょうか」「奥様も、さすがに今のご判断には賛成なさらないでしょう。そうですよね?」だが綾乃は、彼らに告げた。「謹也の判断は、水瀬家の判断でもあります。彼が取
その場にいた者たちの顔から、一斉に血の気が引いていった。やがて一人が綾乃に向かって頭を下げると、周囲の者たちも慌ててそれに続いた。「奥様、違うんです。私たちは何も知らなくて……この二人に煽られただけなんです」「そうです。藤森さんが、遠野様を懲らしめれば、奥様に取り次いでくれると言ったんです」「遠野様には必ずお詫びします。どうか今回だけはご容赦ください。お願いします……」責任は一気に雅彦へ押しつけられた。綾乃は雅彦を見据え、静かな声で告げた。「あなたには、それ相応の報いを受けてもらうわ」その一言だけで、雅彦の顔から血の気が引いた。「澄佳……助けてくれ……」雅彦は縋るように澄佳を見た。だが澄佳も、今は自分の身を守ることで精一杯だった。そもそも雅彦が余計なことをしなければ、ここまで取り返しのつかない事態にはならなかった。ちょうどその時、澄佳のスマホが震え、秘書から雅彦についての調査結果が送られてきた。そこには、雅彦が大学時代に資産家の娘を五人も乗り換え、さらに裕福な外国人女性とも関係を持っていたことが記されていた。それだけではない。雅彦はかつて大学の学長のもとを訪ね、澄佳の素性を探っていた。その直後、当時付き合っていた女と別れ、澄佳に近づいた。どれを見ても、雅彦が最初から一ノ瀬家を狙って近づいたことは明らかだった。長年いいように弄ばれていたのだと知った澄佳は、怒りで顔を歪めた。次の瞬間、雅彦の頬を力いっぱい打った。「雅彦、もう終わりよ。二度と私に近づかないで」雅彦はその言葉に顔色を変えたが、すぐに綾乃へ媚びるような目を向けた。「奥様、どうかお許しください。できることなら何でもします。雑用でも身の回りの世話でも、必ずお役に立ちます。どうか、そばに置いてください」あまりにも露骨な媚び方に、周囲の空気がしらけた。澄佳は唇を噛みしめ、怒りを押し殺すように雅彦を睨んでいた。綾乃は表情を変えず、静かに聞き返した。「何でもするのね?」雅彦はすぐさま頷いた。「はい。奥様のお望みなら、何でもします」綾乃は一瞬だけ俺を見てから、雅彦へ視線を戻した。「なら、まず夫に土下座して謝りなさい」「できるわけないだろ!」雅彦の声が、みっともなく裏返った。だが次の瞬間、その顔は屈辱と
親父は、傷だらけになった俺と、泣き叫ぶ勇太を見るなり、怒りに顔を歪めた。次の瞬間、杖を振り上げ、俺に手を出した連中へ容赦なく振り下ろした。彼らは皆、財界ニュースで何度も見たことのある国内一の資産家を前に、抵抗などできるはずもなかった。杖で打たれるたび、情けない悲鳴を上げて逃げ惑うばかりだった。それでも雅彦だけは、まだ状況を理解していなかった。「遠野会長、相手を間違えています。この男は、あなたのご子息を名乗っていたんですよ。こちらで取り押さえて、少し痛い目を見せておきました。ご安心ください」親父は俺を床から抱き起こすように支え、怒りを押し殺した声で言った。「謹也は、わしの息子だ」その一言で、周囲の空気が凍りついた。親父はその場にいた者たちを睨みつけ、低い声で言い放った。「わしの息子に手を出した以上、覚悟はできているんだろうな」綾乃は付き添いの秘書に勇太を預けると、すぐに俺の傷を確かめた。腫れた頬や破れた服に目を走らせたあと、感情の消えた目で雅彦を見た。「私の夫が、私たちの息子を拉致したと?」雅彦は目を見開いたまま固まった。自分が何を聞いたのか、理解できていないようだった。澄佳も呆然としていた。俺が本当に遠野家の息子で、綾乃の夫だとは、思ってもいなかったのだろう。周囲の者たちもその場に立ち尽くし、顔から血の気が引いていた。今になってようやく、自分たちが誰に手を出したのか理解したらしい。俺は親父に、先に勇太を連れて休ませてくれと頼んだ。これ以上怒らせれば、親父の血圧が上がりかねない。綾乃は、やられたことを黙って流すような女ではない。彼女はその場にいた者たちの顔を、ひとりずつ静かに見渡していた。何も言わなくても、すでに全員を覚えたのだと分かった。雅彦は恐怖で足元をふらつかせ、そのまま床にへたり込んだ。けれど澄佳は、そんな雅彦には目もくれず、俺だけを見つめていた。「謹也……あなた、本当に遠野家の御曹司だったの?」澄佳の声は震えていた。「だったら、どうしてあの時、私に言わなかったの?あなたも私を試していたの?わざと私の前からいなくなったの?」俺はうんざりしながら、彼女を見た。「澄佳、俺はお前ほど暇じゃない。親父と約束して身分を隠していただけだ。普通の大学生活を送り