Share

霜深く、雁は帰らず
霜深く、雁は帰らず
Author: 飛べないライスヌードル

第1話

Author: 飛べないライスヌードル
藤村朝陽(ふじむら あさひ)と結婚して七年目、高橋柚葉(たかはし ゆずは)が結婚記念日に彼から受け取ったプレゼントは、心臓の臓器提供契約書だった。

そしてその心臓移植の相手は、朝陽が莫大な金を注ぎ込んでも手に入らなかったある女子大生だった。

その人の名前を見た瞬間、柚葉は迷いもなく契約書をビリビリに破り捨てた。

「朝陽、あんた頭おかしいの?私がそんなこと、同意するわけないでしょ!」

舞い散る紙片を眺めながらも、朝陽は少しも驚かなかった。彼は冷静に床を掃除しながら、静かに言い放った。

「柚葉、君は絶対に同意するよ」

朝陽が本気でやろうと決めたことは、これまで一度も失敗したことがなかった。

その夜、朝陽は柚葉の家族を拉致した。彼女に臓器提供の契約書をサインさせるため。

朝陽はリクライニングチェアに腰掛け、再び契約書を柚葉の目の前に差し出した。

「この臓器提供の契約書にサインすれば、彼らを解放してやる」

彼の声が穏やかだったが、指先の動きがふと止まり、その静寂が柚葉に告げていた。

彼の我慢が限界に近いことを。

柚葉の全身の血は凍りつき、ペンを持つ手は恐怖で震えていた。

まさか朝陽が、あの女のためにここまで狂えるなんて。

崖の先端に一本のロープがピンと張られた。

そのロープには、柚葉の両親、親友、そして八十歳を超えた祖父母まで縛り付けられていた。

結婚七周年の日、最も親しい夫が、彼女の愛するすべての人たちを拉致した。

どれだけ皮肉で、どれだけ滑稽か。

朝陽の我慢は、ついに尽きた。

彼は立ち上がって契約書を手にして、無言のまま柚葉を見つめた。その目には、あからさまな脅しの色だった。

最初、親友の河村楓(かわむら かえで)が「サインしないで!」と声を張り上げた。だが柚葉が反応する暇もなく、朝陽は指鳴らして、ロープが切られた。

二度目、責め苦で見る影もなくなった両親の姿を見て、柚葉は震える手でペンを添えた。

けれど次の瞬間、柚葉の両親が目を真っ赤にして叫んだ。「藤村朝陽、お前は人間じゃない!」朝陽はにこりと笑い、静かに首を振った。次の瞬間、二人は容赦なく波に呑まれた。

三度目、朝陽はハサミを持って柚葉の祖父母の隣に立ち、顔色一つ変えなかった。

柚葉の頬は涙で濡れた。彼女の声は震え、心からの悲鳴だった。

「藤村朝陽、彼らは私の家族なの、おじいさんとおばあさんはもう八十歳だよ!どうしてそんなことできるの?」

それでも朝陽は怒らなかった。彼はただ柚葉に歩み寄ってきた。

「柚葉、俺はこんなことしたくなかったよ。君が俺の言うことを聞かないからじゃないか」

柚葉は怒りで笑った。「じゃあ、私がサインしなかったら?!」

朝陽の顔が一瞬冷たくなり、そしてふっと笑みを浮かべた。彼は優しく警告した。

「そうしたら、彼らも君の両親と同じ運命になるだけだ」

その言葉に、柚葉は思わず数歩後退した。

彼女は目の前のかつて自分を命懸けで愛してくれた人を、信じられない目で見つめた。

七年前、金と女しか頭にないと噂されていた帝都の御曹司、藤村朝陽は、彼女に一目惚れした。

彼女を妻にするために、朝陽は他の女との関係をすべて断ち切り、彼女の名前を胸に刺青した。

周囲の人たちも朝陽の変化を列挙し、口を揃えて彼を褒め称え、柚葉に結婚を勧めた。

それでも彼女は頷かなかった。だがある日、柚葉が危険に陥った時、朝陽は迷いなく飛び出し、彼女の代わりに刃物を受けた。

だから柚葉は、両親の反対を押し切って、朝陽と結婚した。

付き合ってから、朝陽は柚葉をまるで宝物のように扱った。

柚葉が欲しいものなら、たとえ数十億円かかろうと、彼は即座に買い与えた。

誰も柚葉を感心した。彼女は遊び人の御曹司に改悟させたからだ。

だがある日、朝陽がひとりの少女を柚葉の前に連れてきた。

「彼女は小林奈々(こばやし なな)。今日から俺が彼女を囲う」

柚葉が反対する前に、奈々は泣きながら別荘を飛び出した。

「私は貧乏だけど、誇りはある。他人の愛情に割り込むなんて、絶対しないわ!」

その言葉に、朝陽は迷いもなく彼女を追った。

それが、朝陽が初めて柚葉ではない方を選んだ瞬間だった。

その日から、朝陽は早朝に出て深夜に帰る日々が続き、口数も極端に減った。

柚葉が彼の近況を知る手段は、奈々のSNSだけになっていた。

朝陽が奈々に豪邸を贈り、ヨットを贈り、世界で最高のすべてのものを贈ったが、彼女はすべてを拒否した。

「藤村さん、どうかご自粛しなさい」

その拒否が、朝陽の執着心にさらに火をつけた。

柚葉は傷つき、泣きながら問い詰め、ついには離婚届を彼の前に出した。

だが彼は、まるで他人事のように軽く答えた。

「柚葉、平凡な毎日なんて退屈だろ?ちょっとした刺激が欲しかっただけさ。

好きと愛は、ちゃんと区別してる。藤村奥様は一人だけ、それは君だ。

もう離婚の話はやめろ。君を、手放すつもりはない」

彼はさらに柚葉を軟禁し、美味しい食事でメイドたちに世話をさせた。

彼の唯一の要求は待つことだった。彼が奈々に飽きると家庭に戻って、その時柚葉を全身全霊に愛するつもりだった。

朝陽が家に帰ってくる回数はどんどん減り、柚葉は逃げ出す方法を考え続けていたが、

彼は突然戻ってきて、臓器提供契約書を手にして彼女にサインを強要してきたのだ。

奈々は先天性の心不全を患って、突如として発作を起こした。今心臓移植が必要だった。

そして、唯一の適合した人は柚葉だった。

柚葉は、朝陽が契約書を持ち出すことは予想していた。

だが、彼が奈々のため、柚葉の家族を拉致して、彼女の一番愛する人たちの命で脅してくるなんて、思いもしなかった。

「サインする」柚葉の声は震えを帯びた。

柚葉はペンを手にし、迷いなく契約書にサインした。

柚葉がサインすると、朝陽はサインの真実性を確認するように紙を丁寧に摩った。

確認した後、朝陽はすぐに車に乗り込んだ。残されたのは、車の排ガスだけだった。

柚葉は排ガスにむせながらその場に立ち尽くし、胸を刺されたような痛みで、息を吸うことさえ苦痛だった。

そして、底知れぬ海を見つめながら、柚葉は死亡を選ぼうとした。

崖の奥へ歩き出したそのとき、背後から母の声が聞こえた。

「柚葉」

……

母の話を聞いた後、柚葉はすべてを悟った。朝陽は最初から、海の下に救助隊を待機させていた。

この茶番劇のすべては、彼女にサインさせるための計画だったのだ。

その瞬間、柚葉の目尻がじわりと赤く染まった。

これが、かつて「愛してる」と何度も囁いてくれて、七年もの間、同じ枕で眠ってきた夫の正体だった!

柚葉は両親と楓を見て、静かに言った。「おとうさん、おかあさん、航空券は取ってある。おじいさんとおばあさんを連れて、先に行って。楓、空港までお願いね」

柚葉の母は心配そうな目で尋ねた。「柚葉、あんたは?」

「離婚の手続きが済んだら、すぐに追いかけるから」

翌日、朝陽は「補償として何が欲しいか」と柚葉に尋ねた。

柚葉は彼に一枚の不動産譲渡契約書を差し出した。契約書の下に、離婚届があった。

朝陽はタイトルを見た後、何も疑わないでサインした。

「柚葉、海が好きだったよな?未来で君が子供をはらんだら、家族で海辺に引っ越そう」

柚葉は、すでにサインされた離婚届を見つめながら、無表情のままうなずいた。

だが、彼女の心の奥では「藤村朝陽、私たちに未来なんて、もうない」と呟いていた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 霜深く、雁は帰らず   第18話

    朝陽は何も言わず、ただ背を丸めたまま霊屋の方へ歩いて行き、そのまま門口で真っ直ぐに跪いた。一時間経っても、彼は態度を変えなかった。二時間経っても、彼の態度も変えなかった。三時間、四時間……やがて空から雨が降り始めた。それでも朝陽はぐらぐらと跪いたまま、立ち上がらなかった。激しい雨が彼の白いシャツを濡らし、背中に滲んだ血の跡を赤く浮かび上がらせた。その姿はあまりにも痛々しく、そして目を引いた。ついに、彼の身体は限界を迎え、その場に倒れ込んだ。彼は病院で十五日間入院して、ようやく回復した。それ以来、朝陽の父はもう二度と再婚の話を朝陽に持ち出すことはなかった。なぜなら、朝陽が本当に生きる気力すら失っていると、朝陽の父も心配していた。その心配は間違っていなかった。柚葉が亡くなったあの日から、朝陽は生きるつもりがなかった。一ヶ月後、朝陽は重度のうつ病と診断された。そして、ある平凡な日に、彼は死亡を決めた。彼はネットで「一番苦しくて、一番痛い死に方」を検索し、出てきた方法をそのまま実行した。彼は二人の部屋で、自らの大動脈を何度も、何度も刃で切り裂いた。最後に、彼は結婚写真を抱きしめながら、静かに自分の死亡を待っていた。そして、意識が遠のくそのとき、彼は静かに呟いた。「柚葉……迎えに来たよ……」朝陽は死んだ。柚葉を最も愛していたその年に。死んだ後、彼は思い焦がれていた柚葉と再会した。彼女はもう霊魂になっていたが、朝陽は急いで追いかけた。やがて、二人は輪廻の分かれ道で向き合った。朝陽は彼女から目を離せず、何か言いたいが、言葉に詰まった。やっと、朝陽は口を開いた。「柚葉、まだ俺のこと……恨んでる?」柚葉の目には、何の感情もなかった。彼女は無表情のままで言った。「ううん、もう……もう恨んでない。藤村朝陽、もうあなたを恨んでない」柚葉は、もう朝陽との関わりを持ちたくないから、恨むことすら面倒くさく感じていた。朝陽は、ずっと待ち続けた答えをようやく得たが、予想していたほどの喜びは感じなかった。むしろ、彼の顔に浮かんだ笑みは、泣き顔と同じくらい苦しげだった。彼の柚葉は、もう彼を恨むことすらしてくれなかった。でも、それでいい。彼は、彼女に少しでも未練を留めても

  • 霜深く、雁は帰らず   第17話

    奈々がそう言い終えると、完全に息を引き取り、血だまりの中へ崩れ落ちた。その光景を目にした朝陽は瞳孔が大きく開き、恐怖に満ちた声でボディーガードに叫んだ。「早く、救急車を呼べ!早く!」柚葉が残したのはこの心臓だけだった。それを失うわけにはいかなかった。だが、午前0時30分、医師から無情な宣告があった。「小林さん、救命処置の甲斐なく、死亡を確認しました」その言葉を聞いた朝陽は、まるで崩れるように地面にしゃがみ込み、肩に顔を埋めた。彼の体は震え、まるで子供のように泣きじゃくっていた。幼い頃、父からこう言われて育った。「男は泣くな、特に藤村家の男は」だから朝陽は、成人してから一度も涙を流したことがなかった。父にとって「涙」は弱さの象徴だったからだ。成長した彼は、父の関心を引くためにわざとたくさんの女性と付き合った。しかし返ってきたのは、軽蔑に満ちた冷たい目つきだけだった。その目つきを、彼は一生忘れなかった。まるで欠陥品の商品を見るかのような目つきだった。だから彼はどんどん荒れていった。酒を飲むとか、タバコを吸うとか、異なる女と付き合うなど、すべてをやった。すべての人は彼を「帝都のプレイボーイの御曹司」と見なしたが、柚葉だけは、彼を「藤村朝陽」として見てくれていた。だから、彼は柚葉を選んだ。七年もの間、彼は彼女以外の女に一切触れなかった。だが今回だけで……今回だけで、彼は最愛の人を失った。……それ以来、朝陽は柚葉の両親に必死に頼み込んだ。「お願い。柚葉がどこに埋葬されたのか教えてください。葬儀も、俺に参加させてください……」だがどんなに懇願しても、柚葉の両親は一言も答えなかった。柚葉の父は冷たく言い放った。「娘は生前、お前に安らぎすら与えてもらえなかった。せめて死後は静かに眠らせてやりたい。お前は娘の葬儀に出る資格などない。どこに埋めたかも教えるつもりはない。俺の人生で一番後悔するのは、娘がお前と結婚するのを止めなかったことだ。もう二度と、娘に近づかせはしない」朝陽は説明したかった。自分がそんな人間ではない、柚葉のことを愛していて、愛し足りないくらいだったのに、どうして彼女を傷つけるなんてことができただろうかと。だが言葉にならなかった。彼には、説明する資格すらなかった。なぜなら、最

  • 霜深く、雁は帰らず   第16話

    朝陽がどうやって別荘に戻ってきたのか、自分もわからなかった。彼は魂が抜けたかのような感じがあった。今が昼なのか夜なのかもわからないまま、茫然とした状態が続いた。そんな中、アシスタントの電話が彼を現実に引き戻した。「藤村社長、調査が終わりました。高橋さんは無実です。すべての元凶は小林さんでした」アシスタントがそう言った後、詳細な調査資料を朝陽に送ってきた。震える手でパソコンを開いた朝陽の目の前に、全ての事実が突きつけられた。奈々は最初から目的を持って朝陽に近づいていた。彼の好みを調べ上げ、普通の女に興味を示さないことを知ると、奈々は彼の理想通りの姿を作り上げた。彼女はわざと気を引きながら、時には拒み、彼の興味を煽り続けた。そして、その裏では何度も柚葉を陥れた。別荘でガスが漏れていたのは彼女の仕業だった。わざと柚葉に怒らせて自分を罵らせ、朝陽の同情を誘った。葬儀でわざと火鉢を倒して遺体の顔を焼いて、最後には涙を見せて哀れを演じたのも、朝陽に「守ってあげたい」と思わせるためだった。赤い服を着ていたのも柚葉を刺激するためであり、死者への冒涜だった。そして、結婚式の映像すらも彼女の仕掛けだった。映像設備に触れるチャンスがあったのは彼女だけだった。それなのに朝陽は、柚葉の言い分を一切聞かず、奈々の言葉だけを信じていた。本当のあくどい人は、ずっと自分の隣にいた。だが、彼は何も気づかなかった。すべての真実を読み終えた朝陽は、怒りで胸が大きく起伏した。立ち上がって別荘に残る奈々の物を見ると、彼はすぐにメイドに命じた。「誰か来い。小林奈々の物は全部捨てろ、一つ残らずだ!」メイドが戸惑いながら言った。「でも、藤村社長、小林さんの服やバッグもここにあります」朝陽の声は氷のように冷たかった。「全部捨てろ」奈々が戻ってきた時、真っ先に目に飛び込んできたのは、自分の物がすべて門の外に投げ出されている光景だった。彼女は信じられないように叫んだ。「藤村朝陽!何様のつもりわよ!どうしてあたしにこんなことするの?」次の瞬間、朝陽は奈々の前へ駆け寄り、彼女の首を掴み、力いっぱい締め上げた。「小林奈々、お前のやったこと、全部知ってるぞ。どうして死んだのがお前じゃないんだ?」その目は凶暴そのもので、今にも殺しにかか

  • 霜深く、雁は帰らず   第15話

    職員がそう言うと、離婚受理証明書を朝陽に差し出した。証明書のタイトルが目に入った瞬間、彼は慌てた。彼は証明書を受け取り、その場で固まった。きっと職員の手違いだと思ったが、証明書を開いてみると、そこには確かに自分の名前が記されていた。この印鑑の真実性を確認するように、彼は印鑑を何度も撫でた。しかし、それは本物だと気づいた後、彼は信じられないように首を振った。「ありえない。こんなの、ありえない!」朝陽は怒りに震えながら、職員に向かって怒鳴りつけた。「俺はわざわざ『審査を止めておけ』と指示しておいただろう?お前らは俺の言葉を無視したのか?どうしてこんなふうに勝手に進めた?責任者を呼べ!」朝陽が怒っていたのを見ると、職員はおそるおそる答えた。「藤村社長、この離婚届は高橋さんが直々にご来局され、『急ぎで審査してほしい』と仰ったんです。彼女は藤村社長の奥様なので、私たちはてっきり藤村社長のご指示だと思いました」それを聞くと、朝陽は目を見開いた。「何だって?柚葉が自ら離婚を望んだって言うのか?ありえない、柚葉は俺のことをあんなに愛してたのに、そんなことありえない!」その時、責任者が駆けつけ、頭を下げながら言った。「藤村社長、私も確認しました。間違いなく高橋さんご本人でした。何度もお見かけしていますので、見間違いではありません」そう言って、彼は当日の監視カメラ映像を呼び出した。映像の中で、柚葉が職員に近づき、冷ややかな声で言った。「離婚届の審査、もう止めなくていいです。急ぎで審査してください」彼女の声は小さかったが、モニター越しに朝陽の心を深くえぐった。七年という歳月を共にした。彼女の声を、彼が聞き間違えるはずがなかった。間違いなく、これは柚葉の声だった。事実を理解した瞬間、彼の口はぽかんと開いたまま、脳内には「バンッ」と音が鳴り響いて、頭が真っ白になった。彼は立ち上がろうとしたが足が力を失い、その場に倒れた。職員が慌てて支えようとしたが、彼はよろよろと立ち上がった。彼の目は虚ろで、空気は凍りつくように重かった。目の前の世界が一瞬で崩れ落ちそうだった。廃墟のような視界で、すべての色が消え、太陽も月も輝きを失ったかのように感じた。彼は初めて生きる意味を失うという感情を味

  • 霜深く、雁は帰らず   第14話

    奈々は、朝陽の様子を見て思わず瞳を見開いた。目の前の取り乱し、崩れ落ちそうな朝陽は、今まで彼女が一度も見たことがなかった。こんな狂っている朝陽を見たのは初めてだった。彼女の胸の奥が慌てて、恐怖感がじわじわと押し寄せてきた。泣きながら笑う朝陽を見て、奈々はおそるおそる声をかけた。「朝陽、どうしたの?」だが朝陽は、まるで彼女の声が聞こえていないかのように、点滴の針を乱暴に引き抜いた。そして、彼は靴を履いて病室から飛び出そうとした。それを見ると、奈々が叫んで彼を止めた。「ちょっと、朝陽!まだ点滴終わってないよ!どこ行くの?!」朝陽は冷たい表情で言った。「どけ。俺は離婚届を取り下げに行く。柚葉とずっと一緒にいる!」その言葉に奈々は口をぽかんと開けた。「藤村朝陽、冗談はよせよ!離婚したって言ったじゃん!離婚しなかったら、あの結婚式は?高橋柚葉まで現れたじゃん!まさか全部嘘だったの?」朝陽は、彼女を見下ろすようにして冷たく事実を告げた。「そう、全部嘘だ。柚葉と離婚する気なんて最初からなかった。あの結婚式も偽物だ。お前に向けた愛も偽物だ。お前はただの暇つぶしだよ。それだけのことだ。今俺は飽きたから捨てる。空気を読め。自分で消えろ」奈々はその場で固まった。そして、泣きそうな声で叫び出した。「藤村朝陽……最低っ!ちょっと待ってよ、ちゃんと説明してわよ!あなたがあたしを追い求めたのに、都合よく手を引けると思ってるの?そんなの許せないわ!」だが朝陽は、背後で泣き叫ぶ奈々の叫びを無視して、タクシーに飛び乗った。「運転手さん、区役所まで頼む」これは、絶対に自らやらなければならないことだった。柚葉が亡くなった今、彼が夫という立場を正式に持っていなければ、遺体の引き取り手としての権利も与えられなかった。その時、彼女は火葬され、たった一握りの灰になってしまった。そんなこと、絶対に許せなかった!彼の柚葉は必ず完璧なままで、死んだとしても彼と一緒に埋葬されるべきなんだ。そう思うと、朝陽は財布から札束を取り出して運転手に渡した。「十分で着いてくれ。間に合わないと困る」運転手は喜んでお金を受け入れた。「任せてください!」そして、朝陽は何かを思い出したように、スマホを取り出してアシスタントに電話をかけ

  • 霜深く、雁は帰らず   第13話

    朝陽が目を覚ましたとき、自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。視界に入った見慣れた背中に、彼は反射的に柚葉の名前を呼びかけた。だが振り返ったのは、柚葉ではなく、奈々だった。奈々の顔色が一瞬で青ざめた。彼女は朝陽を見つめ、声を荒げて叫んだ。「朝陽、誰の名前を呼んだの?あなた、高橋柚葉とはもう離婚したのよ?なのになぜ彼女のことを想ってるの?まだ、彼女を愛してるの?じゃああんたにとってあたしは何だったのよ!」朝陽は険しい表情で、冷たく言った。「小林奈々、調子に乗るな。藤村奥様はひとりしかいない。それは柚葉だけだ。お前じゃない。俺にとってお前は何だ?はっきり言ってやる。お前なんか、せいぜい俺の気まぐれの暇つぶしだ!俺が好きだったときは、お前はいくら出しても手に入らない宝だった。でも俺が好きじゃなかったとき、お前は道ばたの犬にも劣る!」彼の声は激しくて、その言葉は冷酷でひどかった。奈々は言葉を失い、その場で立ち尽くした。朝陽がきっと、前みたいに何度でも優しく自分をなだめてくれるはずだと、奈々は思った。だが、今の彼が吐いたのは、あまりにも冷酷でひどい言葉だった。以前の朝陽は、決して自分にきつい口調なんて使わなかった。一体何が起こったの?どうして彼は、自分をこんなに傷つけられるようになったの?奈々は悔しくて、その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。「朝陽……あたし、何か悪いことしたの?どうしてそんなこと言うの?まさか高橋さんが、あたしの悪口を言ったの?ねえ、あたしたちは夫婦なのよ?他人の言葉、信じちゃだめ……」この方法は、今まで朝陽には何度でも通用してきた。でも今回、朝陽は怒りに満ちた声で彼女に怒鳴りつけた。「出ていけ。柚葉の名前を俺の前で口にするな、お前なんかにその資格はない!柚葉がこんな卑劣なことをするわけない。こんな汚いやり方をするのはお前だけだ。さっき言っただろ、柚葉だけが俺の妻で、俺は柚葉だけを愛してる。お前こそが他人なんだ!」その瞬間、奈々は目の前の怒ってる朝陽が、まるで別人に見えた。あの優しい朝陽は、もうどこにもいなかった。朝陽が本気だと気づいたとき、奈々は声が震え、必死に問いかけた。「朝陽、嘘でしょ?あたしへの優しさは全部真実だよ。あたしのために柚葉の家族

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status