Masuk「すみません、もうすぐ閉庁時間なのですが……一日中お待ちのようですが、お相手の方はまだいらっしゃいませんか?」 午後五時、区役所内はすでに人影もまばらだった。窓口の職員が時計をちらりと見やり、最後に残った女性に丁寧な口調で声をかけた。 傍らの同僚がそれを横目で見て、慌てて彼女を脇へと引っ張った。 「もう放っておいて、窓口を閉めよう。ここ三ヶ月で、あの人が来るのをもう五十回は見てるよ。毎回相手の男はすっぽかしだ。今や、うちの区役所で一番惨めな花嫁ランキングの堂々一位だよ」 しばらくして、区役所の正面玄関が重い音を立てて閉ざされた。 結城雪乃(ゆうき ゆきの)は虚ろな目を伏せ、一日中握りしめていた窓口の順番待ちの番号札を粉々に引き裂いた。 その後、スマートフォンを取り出し、インスタのストーリーの公開範囲から瀬崎湊(せざき みなと)を外し、こう投稿した。 【新郎をチェンジする予定。誰か結婚したい人いる?とりあえず籍だけ入れよう】
Lihat lebih banyak湊は車の中で一晩過ごし、翌日も丸一日待ち続けて、夜になってようやくホテルから出てきた雪乃と蒼真の姿を捉えた。雪乃は甘い笑みを浮かべて蒼真と手を繋いでいた。二人の間に流れる親密で和やかな空気には、他人が入り込む隙など微塵もなかった。美男美女の二人が街を歩く姿は、それだけで絵画のように美しかった。一方の湊は、暗がりからこそこそと、本来自分が手にするはずだった幸せを盗み見ることしかできない。もし莉子が現れた時、自分の心が揺らぐのを許さず、一途に雪乃だけを見つめていれば、今彼女の隣に立っていたのは自分だったはずだ。一時的な新鮮さに目が眩み、自分を最も愛してくれた人を失ってしまったのだ。蒼真は視線に敏感だった。誰かに見られている気配を察知すると、スマートフォンを取り出してメッセージを送り、何事もなかったかのように雪乃の手を引いて歩き続けた。ただ、最初はリラックスしていた体が、かすかに緊張で強張っていた。しばらくして返信を受け取ると、彼は少しだけ緊張を解いた。【瀬崎湊で間違いない。警察が向かっている】「雪乃、忘れ物をしちゃった。一度ホテルに戻ろう」「うん」雪乃は、こうした些細なことでは常に蒼真の言う通りにしていた。車を出して後を追おうとしていた湊は、二人がホテルに引き返すのを見て動きを止めた。どうやら、最後に彼女ともう一度言葉を交わすことは叶わないらしい。雪乃の姿が完全に見えなくなると、彼は車を発進させた。しかし、ホテルの敷地を出た途端、数台のパトカーに包囲された。刑務所に入る気など毛頭ない。警察のバリケードを前にしても、彼は車を停めることなく、アクセルを踏み込んで突破を図った。車が海岸線の崖沿いの道に差し掛かった時、眼下に広がる海を見下ろし、彼は一切の躊躇なく、車ごと崖から真っ逆さまに飛び降りた。車は海へ沈み、冷たい海水に飲み込まれていく。薄れゆく意識の中で、ぼんやりと雪乃の姿を見た気がした。彼女は車の窓の外に立ち、太陽のような明るい顔で彼に微笑みかけていた。もし、人生をやり直せるのなら。俺は……いや、そんな機会はもう二度と来ない。さようなら、雪乃。人は死の淵で、生涯で最も鮮烈な記憶を見ると言う。湊の脳裏に浮かんだのは、十八歳の雪乃だった。その頃の湊はまだ意気揚々とした若者で、大学のディベ
湊は最後にもう一度だけ雪乃の姿を見たいと思い、彼女と蒼真が海外へハネムーンに行ったことを突き止め、航空券を買って彼女の元へ向かった。飛行機を降りた途端、あちこちから彼を探す知らせが飛び込んできた。警察が莉子の遺体を発見したのだ。現場からは湊の毛髪と指紋が検出され、逮捕状が出されており、自首を勧めるメッセージが届いていた。彼はスマートフォンのSIMカードを抜き取ってトイレに流し、洗面所で簡単な変装を施した。外に出てタクシーを拾い、分厚い札束を運転手に握らせて、足のつかない車を手配できる場所へ向かわせた。運転手は手元の札束を見て、すぐに彼を案内した。簡単な交渉の末、偽造ナンバーをつけた違法車両を手に入れた。雪乃の滞在先をカーナビに入力し、そこへ向かって車を走らせた。「分かりました。もし彼を見かけたら、すぐに警察に連絡します」一方、警察からの連絡を受けた雪乃は、捜査に協力する旨を伝え、電話を切った。湊が殺人を犯したことに、彼女は大きなショックを受けていた。彼は弁護士であり、そんなことをすればどうなるか最もよく知っているはずだ。なぜそんな凶行に及んだのか。「考えすぎるな。あいつが何をしたって、俺たちには関係ない。明日も海に行くか?」雪乃の心ここにあらずな様子を見て、蒼真は心配そうに言った。「行くわ。ここは安全だもの。ただ、どうして彼がそんな風になってしまったのか、少し理解できなくて」雪乃は振り返り、蒼真の胸に顔を埋めた。結婚して以来、こうした親密なスキンシップにもすっかり慣れていた。自分の気持ちを自覚してからは、蒼真の愛情に積極的に応えるようになり、そのおかげで彼もこの結婚にますます自信を深めていた。「分からないなら考えるなよ。もっと俺のことだけを考えてくれ、雪乃。目の前で他の男のことばかり考えられると、嫉妬で狂いそうになるよ」「もう考えないわ。やきもち焼かないで。彼はもう過去の人よ。今はあなたが一番大好き」「もっと言って。俺、そういうの聞くの大好きだから」蒼真はそう言いながら雪乃を抱き上げ、彼女の唇に深く口づけした。「愛してるって言って」彼は自らの唇で、雪乃の唇を何度も執拗に塞いだ。「愛してるわ」間もなく雪乃は蒼真のキスに理性を奪われ、二人はその夜、一歩も部屋から出ることはなかった
重傷を負い、まだ体も治りきっていない湊だったが、自ら事態の収拾に当たるしかなかった。すべてが終わった時、彼が長年築き上げた事業は完全に崩壊し、弁護士資格さえも剥奪されかけていた。一体何が起きたのかを調査し続けていた彼は、ある日、送信元不明の動画を受け取った。それを見て、すべては莉子の仕業だったのだと知った。あの日、彼が眠っている間に、彼女が何者かを招き入れ、彼のスマートフォンから情報を盗み出させていたのだ。「篠原莉子、絶対にぶっ殺してやる!」この瞬間、彼が莉子に抱いた憎悪は、かつてないほど激しいものだった。彼が退院できたのは、それから一ヶ月後のことだった。すべての元凶が莉子だと知って以来、彼は毎日、彼女への復讐計画を練り続けていた。この一ヶ月間、無数のシナリオを思い描いたが、最終的に最も直接的な方法を選ぶことにした。退院後、莉子を二日間尾行し、ある暗い夜を選んで彼女を背後から気絶させ、麻袋に詰め込んで、あらかじめ目星をつけていた場所へ連れ去った。莉子が目を覚ますと、そこは古びた廃倉庫で、彼女は椅子に縛り付けられていた。彼女は狂ったように助けを呼んだ。なぜ自分が拉致されたのか、全く見当がつかなかった。最近の彼女は、湊の情報を売り飛ばして得た大金のおかげで、かなり羽振りの良い生活を送っていたのだ。「目が覚めたか」誰かが入ってきたが、逆光になって顔がよく見えなかった。「欲しいものがあるなら何でもあげるから、お願い、傷つけないで!」その人物が近づいてきて、ようやく彼女はその顔をはっきりと認識した。「先輩、どうして私を拉致したんですか?私、もう先輩のそばから離れたのに!」莉子は恐怖に震えた。彼は病院にいるはずではないのか?まさか、自分のしたことが彼にバレたのだろうか。「莉子、言わなくても分かっているだろう?」冷たい刃が彼女の頬に当てられた。「俺は正直な奴が好きだ」すべてを失った湊は、完全に狂気に取り憑かれていた。雪乃には見捨てられ、法律事務所も失い、何もかもが手から滑り落ちた。今の彼は、ただ莉子を道連れにして地獄へ落ちることだけを望んでいた。狂気を孕んだ湊の表情を見て、莉子は絶望の淵に立たされた。彼女にはもう後戻りする道はなかった。現実世界へ戻るためにあらゆる方法を試したが、す
「もしもし?」受話器の向こうから雪乃の声が聞こえた瞬間、湊はまるで前世の記憶に触れたかのような錯覚に陥り、思わず涙がこぼれそうになった。「雪乃、俺だ。切らないでくれ、少しだけ話を聞いてくれないか。夢を見たんだ。俺たちが、一冊の小説の中にいる夢を」湊は卑屈なまでにすがりつき、雪乃に話を聞いてくれるよう懇願した。電話口の雪乃は、湊の声だと分かった瞬間電話を切ろうとした。しかし、彼がそう口にするのを聞いて、結局通話を切ることはできなかった。ふと、このことが蒼真に知れたら、あの極度のやきもち焼きの機嫌をまたどうやって直そうかと頭を悩ませた。前回の結婚式の夜も、家に帰ってからなだめるのに随分と時間がかかった。夜通し彼が満足するまで付き合わされて、ようやく機嫌を直してくれたのだ。その後も、事あるごとにその件を持ち出してはいじけ、彼女に機嫌を取らせてはベッドへ連れ込むものだから、予定していたハネムーンも彼が四六時中求めてくるせいで大幅に延期になっていた。「雪乃、お前も俺と同じように物語の結末を知ったから、行動を変えたんだろう?雪乃、お前も夢を見たんだろう?夢の中でお前は脇役で、俺は主人公、莉子がヒロインだった……」彼のその言葉を聞いて、雪乃は少し沈黙した。「俺と同じように物語の結末を知ったから、行動を変えたんだろう?でも、どうして俺の目を覚まさせようとせず、いきなり俺を見捨てたんだ?」湊は、雪乃が自分を見捨てさえしなければ、二人が今のようなどん底の状況に陥ることはなかったはずだと思い込んでいた。「湊、私は何度もあなたにチャンスをあげたわ。何度も区役所であなたを待っていた。でも、あなたは一度だって来なかった。今さらそんなことを言っても、もう何の意味もないの。私にはもう、私だけの幸せがある。あなたはあなたの人生を生きなさい。もう二度と連絡してこないで」そう言い残し、雪乃は電話を切った。自分がただの小説のキャラクターに過ぎないことを再び突きつけられ、雪乃は少し感傷的な気分になった。寝室に入ってきた蒼真は、妻が窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めているのを見つけた。「どうかした?」彼は近づいて雪乃を後ろから抱きしめ、彼女の髪の香りを嗅ぎながら、優しく尋ねた。「何でもないわ。目が覚めたらあなたがいなかったから、寂しかった