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第4話

Author: 若月 舟
個室の眩しいほどの照明が、律の顔を真正面から照らし出していた。その表情は、まるで彫像のように動かない。指に挟んだ煙草の赤い先端が、じりじりと皮膚を焼いている。熱も、痛みも、まるで感じていないようだった。

ふと、肉が焦げる匂いがした。

……自分自身の指から立ち上る匂いだ。

それでも、彼の神経は麻痺したままだった。律は勢いよく立ち上がると、床に落ちていたジャケットを無言で拾い上げる。

その横顔は相変わらず静かで無表情だったが、瞳の奥ではどす黒い感情が渦巻いていた。

「病院から急ぎの用だ。これで失礼する」

男は早口にそう告げると、嵐のように部屋を出て行った。

もう一秒たりとも、この場所にいたくない、とでも言うように。

拓也が慌てて後を追ったが、あっという間に彼の姿は見えなくなっていた。

仕方なく個室へと引き返す。

その時、今までずっと黙っていた一人の女子生徒が、ためらいがちに口を開いた。その声は囁くように小さかったが、個室の喧騒を一瞬で静寂に変える力を持っていた。

「ねぇ、みんな噂、聞いたことない?」「噂って、なんだよ」

「青木さんと柏木くん、同じS大だったでしょ。大学の時、三年間、内緒で付き合ってたんだって」

その一言に、その場にいた誰もが息を呑んだ。

中でも、雅が甲高い声で叫んだ。

「モナ、何バカなこと言ってるのよ!青木さんよ?あのブサイクなデブよ?柏木くんが見境ないわけないじゃない!あんた、寝ぼけてるんじゃないの?」

「そうだよモナ、記憶違いじゃないのか……もし青木さんが柏木くんを落とせるんだったら……今頃あたしが柏木夫人になってるっつーの」

すると、一人の男子生徒が、ぽつりと反論した。「いや、そこまで言うのはどうかな。青木さん、確かに太ってはいたけど、ブスってわけじゃなかっただろ。色も白かったし、話し方もおっとりしててさ」

原田モナ(はらだ もな)はこくりと頷く。彼女自身、最初にその話を聞いた時は耳を疑ったのだ。「本当だってば。私のお姉ちゃん、S大だったから……あの話、S大じゃ結構有名だったんだよ。冴えないデブな女の子と、高嶺の花だった柏木くんが、三年間も秘密で付き合ってたって。信じられないなら、直接柏木くんに聞いてみなよ」

しかし、律本人にそんなことを聞ける勇者がいるはずもない。

誰もが馬鹿げた話だと思いながらも、さも見てきたかのように断言するモナの様子に、次第にその話を信じ始めていた。

「でもさ、青木さんって、本当に死んじゃったのかな」

雅が、腹の虫がおさまらないといった様子で吐き捨てる。「そうでしょ、きっと。さっき緒方さんが言ってたじゃない。彼女のお腹に腫瘍ができてるところ、この目で見たって」

「やっぱり、もういないのかもね。じゃなかったら、七年も経って、誰一人連絡取れないなんておかしいもん」

皆、その意見に同意した。SNSで誰もが繋がるこの時代に、生きている限り完全に姿をくらますことなど不可能なのだ。連絡がつかないということは、つまり、そういうことなのだろう、と。

-

足早に歩いていた律は、角を曲がったところで、誰かと勢いよくぶつかった。

彼があまりに急いでいたせいだ。

「きゃっ」

細い声がして、相手が数歩よろめくのが見えた。

雫はとっさに何かを掴もうとして、無我夢中で目の前に手を伸ばす。なんとか体勢を立て直し、自分が掴んだものに目をやって、はっとした。知らない男の、上質なシャツの胸元だった。

「ご、ごめんなさい……」

雫は反射的に謝りながら顔を上げた。そして、その見慣れた美しい顔立ちを認めた瞬間、唇からさっと血の気が引いていく。

……どうして、また会うの。

世界は、こんなにも狭いというのだろうか。

「すみません」律は短くそう詫びると、雫を気遣う余裕すらなく、大股でその場を立ち去っていく。今の彼の頭は混乱を極めており、一刻も早く一人になって冷静さを取り戻す必要があった。

彼が纏っていた、冷たい香りがふっと消える。

雫は、ただその場に立ち尽くしていた。

少し離れた化粧室へ行こうとしただけだったのに。まさか、かつて誰よりも近しい存在だった人と、こんな形で鉢合わせるなんて。

ふと足元に視線を落とすと、きらりと光るものがあった。

精巧な細工が施された、紳士用のカフスボタンが一つ、落ちている。

雫はそれを拾い上げると、無意識のうちに踵を返し、律が消えた方向へと駆け出していた。だが、数歩も進まないうちに、まるで足が縫い付けられたかのように、ぴたりと動きを止める。

……私たち、もう何の関係もないじゃない。

会っても、気づかないふりをする。知らない他人でいること。それが、今の二人にとって、一番いい関係なのだから。

-

家に帰り着き、シャワーを浴びた雫は、ベッドに横たわりながら、ベッドサイドテーブルに置いたカフスボタンを眺めていた。

その冷たい金属をそっと指でなぞりながら、彼女は静かに物思いに耽る。

彼の癖も、好みも、少しも変わっていないのかもしれない。

昔から、彼はこのブランドを好んで身につけていた。

知る人ぞ知る、控えめでありながら、その上質な作りが際立つブランド。

不意に鳴り響いた着信音が、雫の物思いを遮った。

スマートフォンの画面に表示された名前に、彼女は慌てて電話に出る。

「もしもし、おばあちゃん」

「遥……またお金を送ってくれたのかい。おばあちゃんはそんなに使わないのに。家にいるだけなんだから、お金の使い道なんてほとんどないんだよ」

咎めるようでいて、その実、心から心配してくれているのが伝わってくる声に、雫はふっと笑みをこぼした。「じゃあ、私のために貯金しておいて」

他愛ない言葉をいくつか交わす。

最近は仕事が立て込んでいて、なかなか時間が作れないでいた。本当は、杏が幼稚園に入る前に一度、実家に顔を出したかったのだが、どうしても都合がつかない。仕事がもう少し落ち着いたら、今度はおばあちゃんをこっちに招いて、数日だけでも一緒に暮らせたらいいな、と雫は考えていた。

雫にとって、祖母の富美子(ふみこ)はたった一人の、大切な肉親なのだ。

電話を切ろうとした、その時だった。受話器の向こうから、祖母の躊躇いがちな声が聞こえてきた。「あのね、遥……あんたの叔父さん……あの子は、その、色々あったけれど……それでも、あんたの叔父さんには違いないんだから。この間、家に寄った時も、あんたのこと、尋ねてたよ」

富美子は、そこで言葉を濁した。

雫は、これ以上祖母に心配をかけたくなかった。

雫がまだ二つの頃に両親は離婚し、母はそのまま家を出て行った。祖父が亡くなった時でさえ、一度も帰ってくることはなかった。

幼すぎた雫には、母の記憶はほとんどない。

父の記憶といえば、博打に明け暮れる姿ばかりだ。勝てばご馳走を振る舞ってくれることもあったが、負けが込むとすぐに姿をくらます。その度に、雫は祖父母の家に預けられた。

雫を育ててくれたのは、祖父母だったのだ。

「おばあちゃん、わかってるよ」彼女は、どこまでも優しい声でそう言った。

だが、それは祖母を安心させるための、ただの相槌に過ぎない。雫には、叔父と叔母の話題に触れる気も、彼らと連絡を取る気も、毛頭なかった。

たとえ、今も同じ街で暮らしているというのに。

電話を切った後、雫はあのカフスボタンをジッパー付きの小さな袋に入れ、大切に引き出しの奥へとしまった。

その週、娘を連れて定期検診のために病院を訪れた際は、律の担当日を慎重に避けた。

彼の外来は火曜日。だから雫は、月曜日か水曜日に予約を入れるようにしていた。

それでも、彼と鉢合わせないわけではなかった。

病院とは、そういう人の往来が絶えない場所なのだ。

誰もが時間に追われ、病の疲れと哀しみをその顔に浮かべている。雫はマスクで顔を半分隠し、娘の手をしっかりと引いて、人でごった返すエレベーターに乗り込んだ。ひっきりなしに人が乗り降りする、窮屈な箱の中。

「柏木先生」

ふいに、看護師の声が響いた。

すぐ後ろから、低く落ち着いた声が応える。

雫は思わず、繋いだ娘の手に力を込めた。律が、すぐ背後に立っている。彼の息遣いまで聞こえてきそうなほどの距離に。

やがてエレベーターは三階に着き、人の波が吐き出される。二人もまた、同じ診察エリアへと向かう。雫は六番診察室の前で順番を待ちながら、律が八番診察室へと入っていく後ろ姿を、ただ黙って見送っていた。

「ママ、お手て、汗びっしょりだよ」

不意に杏が見上げてきて、繋いだ手を小さく揺する。

雫は静かに視線を落とし、そっと手を開いた。自分の掌が、じっとりと汗で濡れているのが見えた。

彼と再会するたびに、心臓が凍りつくように緊張してしまう。

分かっているのに。

柏木律が、今の自分に気づくはずなんてないのだと。

彼との再会は、自分の意思とは無関係に起きてしまう、避けられないアクシデントだ。

それでも雫は、心の湖にさざ波が立つのを止められなかった。

彼女は「晩風」で拾ったあのカフスボタンを、病院の総合案内カウンターに、落とし物として預けた。

-

その夜、隣の部屋で眠る娘の様子を見に行くと、杏はうさぎのぬいぐるみを抱きしめ、すやすやと寝息を立てていた。

その寝顔は、驚くほど律に似ている。

目元も、鼻筋も、瓜二つだ。

雫は寝室を出て、洗面所へと向かった。鏡に映る自分を見つめる。

華奢な体つき、透けるように白い肌、肩まで伸びた髪。潤んだ瞳に、桜色の唇。今の彼女の姿を、七年前のあのひどく太っていた少女と結びつけられる人間など、いるはずもない。

人口一千万人を超えるこの松崎市では、偶然すれ違ったとしても、ほんの一瞬、視界をよぎるだけの見知らぬ他人に過ぎないのだから。

-

夜、律が柏木家の実家に戻ると、重苦しい空気が食卓を支配していた。

食事の最中、柏木家の当主・柏木洋治(かしわぎ ようじ)が冷たくフンと鼻を鳴らして箸を置くと、隣に座る柏木悠美(かしわぎ ゆみ)がそんな夫をそっと睨みつけ、自身の末っ子へと視線を移した。

彼女がこの柏木家に嫁いで一年目のことだった。かけがえのない親友が、飛行機事故で帰らぬ人となった。

後に残されたのは、当時十二歳だった息子の加山健人(かやま けんと)ただ一人。

柏木夫妻は健人を養子として引き取り、彼は柏木健人と名乗るようになった。

それから長い間子宝に恵まれなかったが、悠美が三十三歳の時に長女の柏木静華(かしわぎ しずか)を授かる。

現在、柏木グループの経営は、健人と静華の二人に任されていた。

そして、四十五歳の時。ようやく、本当にようやく授かったのが、双子の息子である然(ぜん)と律だった。だが、二十年前に松崎市を震撼させたあの誘拐事件で……

柏木家の二人の御曹司は誘拐され、そのうちの一人、柏木然(かしわぎ ぜん)は、犯人によって殺害された。

末っ子の律だけが、奇跡的に一命を取り留めたのだ。

先に逝ってしまった然のことを思うと、今でも胸が張り裂けそうになり、悠美の目頭がじんわりと熱くなる。

しかし、今夜は久しぶりに家族が揃ったのだ。和やかな雰囲気を壊すまいと、彼女はそっと目元を拭い、意識を律へと集中させた。

この末っ子は、本当に手のかからない、自慢の息子だった。幼い頃から、両親を心配させるようなことは一度だってなかった。ただ一つ、恋愛に関しては、恐ろしいほどに白紙の状態だったが。

悠美は、この息子には何か人に言えない事情があるのではないかと、幾度となく疑ったものだ。

今年で七十を過ぎた悠美は、普段は誰にでも朗らかに笑いかける、快活な老婦人だ。だが、此刻ばかりは、その顔を曇らせていた。「律。今週の水曜日、篠宮家のお嬢様との約束があったでしょう。どうしてすっぽかしたの」

「……ええ」

「『ええ』って、どういう意味なのよ」悠美は、こめかみを押さえる。「篠宮さんちの詩帆ちゃん、私も一度お会いしたけど、とても綺麗な子だったわ。小さい頃は、よくうちに遊びに来てたじゃないの。それに、篠宮さんのお祖父様は、あなたのお祖父様の戦友でもあるのよ。一度会って、どんな子か知るだけでもいいの。たとえ気に入らなくても、まずは会ってみないと始まらないでしょう……あなた、もうすぐ三十になるのよ」

律はわずかに眉をひそめた。「……そういうことでしたら、お好きにどうぞ」

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