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第2章「痕跡」

مؤلف: 佐薙真琴
last update تاريخ النشر: 2025-11-25 10:07:28

 翌朝、レナとユウタはアステラ・ファーマの本社ビルの前にいた。都心の一等地に建つ二十階建ての近代的なビルだ。エントランスには大理石が敷き詰められ、企業のロゴが誇らしげに掲げられている。

「すげえな。こんなでかい会社なんだ」

「製薬業界の大手だからな。年間売上は数千億円規模だ」

 レナは警備員に声をかけた。

「人事部の方とアポイントがあります。霧島と申します」

 事前に電話で取り付けたアポイントだ。水無瀬誠の失踪について、会社側に話を聞く必要があった。

 人事部長の名前は田所という五十代の男性だった。応接室に通されると、彼は神妙な面持ちで言った。

「水無瀬君のことは大変心配しております。優秀な研究員でしたので、会社としても大きな損失です」

「『でした』というのは?」

「ああ、いえ、失礼しました。現在も籍は残っていますが、無断欠勤が続いておりまして……」

 レナは田所の表情を観察した。心配しているというよりは、むしろ厄介事を抱えたという印象だ。

「水無瀬さんの上司にお話を伺えますか?」

「それが……研究部門の責任者である神崎部長は、現在出張中でして」

「では、同僚の方は?」

「同僚といいますと……」

 田所は言葉を濁した。その時、ドアがノックされ、若い男性が入ってきた。三十代前半、神経質そうな顔立ちをしている。

「失礼します。研究員の倉田と申します。水無瀬さんのことで、何かお役に立てればと思いまして」

「ああ、倉田君。ちょうどよかった」

 田所はほっとした様子で席を立った。

「では、私はこれで。倉田君、よろしく頼む」

 田所が出て行くと、倉田は緊張した様子で座った。

「水無瀬さんとは同じ研究チームでした。彼の失踪には本当に驚いています」

「水無瀬さんは失踪する前、何か変わった様子はありましたか?」

「それが……」

 倉田は周囲を気にするように声を落とした。

「最後に会った時、彼は何かに怯えているようでした。『誰かに見られている』と言っていて……」

「誰に見られていると?」

「それは言いませんでした。でも、会社の中に信用できない人間がいると……」

 レナは身を乗り出した。

「もっと詳しく教えてください」

「実は、水無瀬さんは最近あるプロジェクトに疑問を持っていたんです。新薬の臨床試験に関することで……」

「臨床試験?」

「ええ。当社が開発中の抗がん剤『オンコリシン』の第三相試験です。この試験データに不自然な点があると、水無瀬さんは言っていました」

 ユウタが口を挟んだ。

「臨床試験って何だ?」

 倉田が説明した。

「新しい薬を患者さんに使う前に、安全性と有効性を確認する試験です。第一相は健康な人で安全性を確認し、第二相は少数の患者さんで効果を見る。第三相は大規模な患者群で既存薬と比較します。この第三相の結果が良好なら、規制当局に承認申請ができるんです」

「で、そのデータに問題があったと?」

「水無瀬さんはそう言っていました。統計解析の結果が不自然だと。でも、詳しいことは私にも教えてくれませんでした。『知らない方がいい』と」

 レナは煙草を取り出しかけて、やめた。社内では吸えない。

「その話を誰かにしましたか?」

「いえ……水無瀬さんは『まだ確証がない』と言って、誰にも話すなと言われました。私も……正直、怖かったんです」

「何が怖かった?」

「もし本当にデータに不正があったら、それを知った人間は……」

 倉田は言葉を切った。顔が青ざめている。

「倉田さん、あなた自身も危険を感じていますか?」

「わかりません。でも、水無瀬さんが消えた後、私の研究室にも誰かが入った形跡があったんです。鍵をかけていたのに……」

 その時、応接室のドアが開き、背広を着た男性が入ってきた。五十代後半、鋭い目つきをしている。

「倉田君、仕事は? こんなところで何をしている」

「あ、神崎部長……」

 倉田は慌てて立ち上がった。これが研究部門の責任者、神崎部長か。

「失礼ですが、どちら様ですか?」

 神崎はレナを睨みつけた。

「私立探偵の霧島です。水無瀬誠さんの失踪について調査しています」

「水無瀬君のことは警察に任せてあります。部外者が社内で勝手に調査するのは困ります」

「奥様から正式に依頼を受けています」

「それでも困る。企業秘密もありますので。倉田君、君も余計なことは話さないように」

「はい……」

 倉田は俯いた。神崎はレナに向き直った。

「これ以上の調査は、当社の顧問弁護士を通してください。お引き取りを」

 有無を言わさぬ口調だった。


 ビルの外に出ると、ユウタが言った。

「あのハゲ、感じ悪りぃな」

「組織を守るのが管理職の仕事だ。部下が余計なことを喋るのを嫌うのは当然だ」

「でも、倉田って人の話、本当だと思うか? 臨床試験のデータ不正って」

「可能性はある。製薬業界では時々そういうスキャンダルが起きる」

 レナは歩きながら考えた。もし水無瀬が本当にデータ不正を発見していたとしたら、それは企業にとって致命的なスキャンダルになる。承認申請が取り下げになるだけでなく、それまでの開発費数百億円が無駄になる。さらに株価の暴落、信用の失墜……

「なあババア、もし本当に不正があったら、水無瀬さんって内部告発しようとしてたんじゃないか?」

「だろうな。だから消された」

「消された……マジかよ」

「まだ仮説だ。証拠がない」

 その時、レナの携帯が鳴った。由香からだった。

「霧島さん、大変なんです! 警察から連絡があって……夫の、夫の遺体が見つかったって!」

 レナは立ち止まった。

「どこで見つかりましたか?」

「港区の廃ビルです。警察は自殺だと……でも、夫は絶対に自殺なんかしません!」

「わかりました。すぐに現場に向かいます」

 電話を切ると、ユウタが不安そうに尋ねた。

「どうしたんだ?」

「水無瀬誠が見つかった。遺体で」

「マジかよ……」

 二人は急いで駅に向かった。雨はまだ降り続いていた。

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