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願いが落ちて、縁が尽きた

願いが落ちて、縁が尽きた

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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この世界に転生してきたとき、システムは朝月詩乃(あさづき しの)に一つの能力を授けた。 それは、自分以外の誰かの願いを叶える力だった。 そして、九年にわたる夫婦生活を共にした夫、一ノ瀬慎也(いちのせ しんや)の誕生日パーティーで、詩乃はこの能力で慎也の願いを叶えて、誕生日プレゼントとして贈ることにした。 詩乃は何度も心を込めて慎也に、三十歳の願いはきっと叶うから、よく考えてから願いを言うよう伝えた。 慎也は笑ってうなずき、両手を合わせて、敬虔に願いを込めた。 そのあと、システムが詩乃に慎也の願いを聞かせてきた。 「詩乃の命と、栞の命を交換できますように」 ……

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Chapter 1

第1話

この世界に転生してきたとき、システムは朝月詩乃(あさづき しの)に一つの能力を授けた。

それは、自分以外の誰かの願いを叶える力だった。

そして、九年にわたる夫婦生活を共にした夫、一ノ瀬慎也(いちのせ しんや)の誕生日パーティーで、詩乃はこの能力で慎也の願いを叶えて、誕生日プレゼントとして贈ることにした。

詩乃は何度も心を込めて慎也に、三十歳の願いはきっと叶うから、よく考えてから願いを言うよう伝えた。

慎也は笑ってうなずき、両手を合わせて、敬虔に願いを込めた。

そのあと、システムが詩乃に慎也の願いを聞かせてきた。

「詩乃の命と、栞の命を交換できますように」

……

その願いを聞いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いた。

彼が言った栞とは、彼の幼なじみで、いま癌で死の淵にいる女性のことだった。

慎也がロウソクの火を吹き消すと、会場には盛大な拍手が響いた。

慎也は詩乃の手を取って、集まった人々に感謝の言葉を述べる。

詩乃の口から無理やり絞り出されるように言葉が漏れた。

「慎也、どんな願いごとをしたの?」

彼はにこやかに微笑んで、詩乃の頬にそっとキスを落とした。

「もちろん、君に関係することだよ。

誕生日の願いってさ、口にしたら叶わなくなるって言うじゃないか?」

あまりにも自然なその表情に、詩乃はなんとか立っているのがやっとだった。

「じゃあ……その願い、本当に叶ってほしいと思ってるの?」

慎也は彼女の手を取り、軽く口づけした。

「もちろん。毎日、その日が来るのを楽しみにしてる」

九年連れ添った夫が、妻の命を差し出すことを願っていた。

そのとき、無機質なシステムの音声が静かに告げる。

【願いが叶いました】

詩乃は、よく知っているはずの夫の顔が、今ではまるで他人のように見えた。

突然、胃の奥から込み上げる強烈な吐き気がし、詩乃は軽く手を挙げて合図を送り、そのまま洗面所へ駆け込んだ。

洗面台に広がる赤い痕を見て、詩乃は悟った。これは、自分の身体が変調をきたし始めたサインだ。

水で血を洗い流しても、吐き気は止まらず、頭がぐらりと揺れた。

壁に手をつきながら会場へ戻った瞬間、慎也の視線がすぐに詩乃を捉えた。

彼はすぐさま駆け寄ってきて、眉を寄せながら声をかけた。

「大丈夫? 気分が悪いのか?」

そのとき、周囲からささやき声が聞こえてくる。

「一ノ瀬社長って、本当に奥さんを大事にしてるのね」

「これだけの立場で、あそこまで思いやれる人ってなかなかいないわよ!」

確かに、慎也の態度に嘘はなかったみたいだ。

少なくともあの願いを聞くまでは、詩乃自身もそう信じていた。

江川栞(えがわ しおり)、彼女は慎也の幼なじみであり、今、癌で闘病中の彼女が病気を告げるメッセージを送ったあの日、慎也はスマホを置き、何も言わずに詩乃を抱きしめた。

詩乃を抱いてる慎也の腕は微かに震えていた。

「もし、君がこんなふうになったら……俺、本当にどうしたらいいかわからない」

翌日には寺に出向き、詩乃のためにお守りをもらってきた。

詩乃はそのお守りを肌身離さず持っていた。どう考えても分からない。どうしてそんな彼が、あんなひどい願いを?

そのとき、何度か仕事で関わったことのある神原社長が酒を持って近づいてきた。詩乃が口元を押さえているのを見て、冗談めかして言った。

「一ノ瀬社長、もしかしてもうすぐ嬉しい発表があったりして?」

慎也は詩乃の腰に添えていた手を外し、即座に否定した。

「そんなことはありません。たぶん、詩乃は何か悪いものでも食べたんでしょう」

その言葉に、詩乃は驚かなかった。

体質の問題で、彼女は妊娠しにくかった。

この一年、夫婦の営みもほとんどなかったから、妊娠は口にしない話題として、二人の間に静かに横たわっていた。

神原社長は酒を一口含みながら言った。

「家族を守るのは立派なことですが、商売のほうも忘れちゃ困りますよ」

慎也はちらりと詩乃を見てから、わずかに表情を強張らせて神原社長に視線を向けた。

「それは、神原社長のご心配には及びませんよ」
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松坂 美枝
松坂 美枝
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2025-12-10 10:08:54
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第1話
この世界に転生してきたとき、システムは朝月詩乃(あさづき しの)に一つの能力を授けた。それは、自分以外の誰かの願いを叶える力だった。そして、九年にわたる夫婦生活を共にした夫、一ノ瀬慎也(いちのせ しんや)の誕生日パーティーで、詩乃はこの能力で慎也の願いを叶えて、誕生日プレゼントとして贈ることにした。詩乃は何度も心を込めて慎也に、三十歳の願いはきっと叶うから、よく考えてから願いを言うよう伝えた。慎也は笑ってうなずき、両手を合わせて、敬虔に願いを込めた。そのあと、システムが詩乃に慎也の願いを聞かせてきた。「詩乃の命と、栞の命を交換できますように」……その願いを聞いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いた。彼が言った栞とは、彼の幼なじみで、いま癌で死の淵にいる女性のことだった。慎也がロウソクの火を吹き消すと、会場には盛大な拍手が響いた。慎也は詩乃の手を取って、集まった人々に感謝の言葉を述べる。詩乃の口から無理やり絞り出されるように言葉が漏れた。「慎也、どんな願いごとをしたの?」彼はにこやかに微笑んで、詩乃の頬にそっとキスを落とした。「もちろん、君に関係することだよ。誕生日の願いってさ、口にしたら叶わなくなるって言うじゃないか?」あまりにも自然なその表情に、詩乃はなんとか立っているのがやっとだった。「じゃあ……その願い、本当に叶ってほしいと思ってるの?」慎也は彼女の手を取り、軽く口づけした。「もちろん。毎日、その日が来るのを楽しみにしてる」九年連れ添った夫が、妻の命を差し出すことを願っていた。そのとき、無機質なシステムの音声が静かに告げる。【願いが叶いました】詩乃は、よく知っているはずの夫の顔が、今ではまるで他人のように見えた。突然、胃の奥から込み上げる強烈な吐き気がし、詩乃は軽く手を挙げて合図を送り、そのまま洗面所へ駆け込んだ。洗面台に広がる赤い痕を見て、詩乃は悟った。これは、自分の身体が変調をきたし始めたサインだ。水で血を洗い流しても、吐き気は止まらず、頭がぐらりと揺れた。壁に手をつきながら会場へ戻った瞬間、慎也の視線がすぐに詩乃を捉えた。彼はすぐさま駆け寄ってきて、眉を寄せながら声をかけた。「大丈夫? 気分が悪いのか?」そのとき、周囲からささやき声が聞こ
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第2話
家に戻ると、詩乃は、体がじわじわと重くなっていくのをはっきり感じた。ソファに腰を下ろした詩乃は、呼吸が少し荒くなっていたが、慎也はその様子に気づいても視線を向けようとしなかった。彼はコートすら脱がず、リビングの真ん中でスマホを凝視したまま立ちつくしていた。二本の電話を終えたあと、彼はようやく詩乃に一度だけ目を向け、何事もないような顔で部屋の奥へ入っていった。そして二分後、慎也は抑えきれない喜びを滲ませた表情で部屋から飛び出してきた。あまりに急いでいたのか、左右の靴を履き間違えそうになっていた。その姿を見て、詩乃は問いかけた。「こんな遅くに、どこへ行くの?」声を聞いた慎也の動きが一瞬だけ止まり、ごく自然を装った調子で答えた。「会社で急用があって、行かないといけないんだ」数秒たっても、玄関の扉が閉まる音が聞こえなかった。不思議に思った瞬間、頬にそっと触れる軽いキスを感じた。テーブルには、さきほど慎也が用意した生姜湯が置かれている。慎也は詩乃の耳元で静かにささやいた。「さっき、少し体調悪そうだったから、もしかして、生理?終わったらすぐ戻ってくるから、待っててね」湯気の消えた生姜湯。慎也はすでに家を出て、しばらく経っていた。スマホに届いたのは、一枚の写真だった。そこには、慎也が栞をそっと抱き寄せ、感情を抑えきれず涙ぐんでいる姿が写っていた。栞は、細い体を慎也の胸に寄せて身を預けている。まるで少し触れただけでもすぐ壊れてしまう物のように繊細で、守られるべき存在に見えた。彼女の頭にのっている毛糸帽は、詩乃が以前見たものだった。あの日、詩乃は気まぐれで動画サイトの料理ブロガーをまねて数品を作り、丁寧に盛り付けて慎也の会社へ持って行った。オフィス前のアシスタントは詩乃を見ると、にこやかにドアを開けてくれた。しかし詩乃が驚いたのは、慎也がきっちり仕事をしていると思いきや、眉を寄せながら棒針を持ち、何かを慎重に編んでいたことだった。詩乃に気づいた慎也は一瞬うろたえ、手にしていた物を急いで引き出しにしまったが、結局正直に取り出した。彼は目を伏せ、とてもしょんぼりとした様子だった。「詩乃、どうして来たの?君に毛糸帽を編んであげようと思ったんだけど、すごく難しくて……」彼の手にしっかり握られて
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第3話
詩乃は、慎也が家に戻らない日々のあいだ、彼の行動をすべて把握していた。それは、匿名の携帯番号から送られてくるメッセージのおかげだった。その番号は、慎也が栞へどれほど気を配っているのかを、細かい出来事まで日記のように、次々と送りつけてきた。もともと、その内容に腹を立てる気はなかったが、詩乃が画面を閉じようとしたその瞬間、届いた一通のメッセージが、彼女の手を止めさせた。【慎也はね、私をチョコちゃんに会わせてくれたのよ】添付されていたのは、栞が馬に乗っている、自撮りだった。そのメッセージは、匿名の送り主が誰なのかを初めて明かすものでもあった。栞自身が、これを送れば詩乃がどれほど傷つくかを分かっていたからだ。その馬は、慎也が十六歳のとき、彼の父から贈られたもの、名前は「チョコ」。慎也がチョコをどれだけ大切に扱っているかは、誰の目にも明らかだった。時間があれば世話を欠かさず、手のかかることも自分でやっていた。詩乃が触れようとしただけでも、慎也は彼女の手を止めた。まして、乗るなど一度も許されなかった。いま栞が跨っているのはチョコだけではなく、それと同時に、詩乃と慎也の壊れつつある関係そのものでもあった。衝動のまま、詩乃はふたたび慎也に電話をかけた。すると意外にも、二度の呼び出し音のあとで電話はつながった。慎也の声は少し慌てていた。「詩乃、俺の指輪、見なかった?家に置いてきたんじゃないよね?」思いがけない質問に、詩乃は一瞬返事を失ったが、二度目の問いかけで我に返り、自分の手にはめていた指輪に触れながら答えた。「家にあるよ。たぶん、前にお風呂のあとにつけ忘れたかな」「よかった」「さっきチョコにニンジンをあげててさ。指輪を食べられなくて本当に助かったよ。食べられたら大変だった」詩乃は数秒、言葉を失った。「つまり、指輪が心配というより、チョコのほうを心配してたの?」慎也は軽く笑った。「どっちも大事だよ。じゃあね、詩乃。まだ用事があるんだ」返事を待つ間もなく、電話は切れた。電話が切れた音に、詩乃には世界がぐらりと揺れたように思えた。二人で一緒に選び、飾りつけたリビングを見つめると、ふと、栞がこの壁紙を剥がしている姿が浮かんだ。もし自分がいなくなったら、ここに残る自分の痕跡はすべて消され
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第4話
再び目を開けたとき、詩乃は病院のベッドにいた。消毒液の匂いが鼻をつんと刺激する。慎也はすぐそばに座っており、詩乃を見つめるその目には深い心配がにじんでいた。「詩乃、どこか痛い?」詩乃は彼を見上げ、こらえきれない思いがこぼれた。「痛いよ、慎也。血を吐き出して、急に意識が遠くなって、倒れそうになったの」詩乃は慎也の目がかすかに潤んだように見えた。「大丈夫だよ、詩乃、大丈夫。もう怖がらなくていい」彼はそっと詩乃のお腹に手を当てた。「もう泣いちゃだめだよ。君はもう大人なんだから。問題ないって。看護師さんも言ってたよ。赤ちゃんはとても元気だって」頭の奥で何かが弾けたような感覚がした。「赤ちゃん?」詩乃は信じられない気持ちで、自分のお腹に触った。慎也はその手を包むように握り返した。「そうだよ、赤ちゃん」彼はもう一度繰り返した。「看護師さんが言うには、もう二ヶ月も経っているんだ。どうして気づかなかったんだ?」そうだ。どうして気づかなかったのだろう。詩乃の涙が彼女の視界を滲ませていく。まだ小さな命なのに。詩乃にはまるでその子が、小さな手でお腹の内側からそっと触れてくれているような気がした。この子は、自分と滅びる運命を共にする存在なのだ。慎也は詩乃の涙の理由を、まったく違う意味で受け取ったらしい。手でそっと涙を拭い、少し嬉しそうに微笑んだ。「嬉しいんだろ?今の君はあまり感情を揺らさないほうがいいんだ。暫くの間は、できるだけ仕事を置いて君のそばにいるよ、ね?」詩乃は慎也をまっすぐ見つめた。その瞳には複雑な色が宿っていた。「あなた以前、私に言ったこと。覚えてる?」かつて彼は約束した。どんなときも詩乃を最優先にすると。どんなに忙しくても、できる限り家に帰り、寄り添うと。これは夫婦としての最低限の信頼だった。しかし慎也はいま、その信頼をごまかし続けている。彼はどこか後ろめたそうに笑った。「詩乃も知ってるだろ? 栞は両親が早くに亡くなって、小さい頃からうちで育ったんだ。困ってるときに助けるのは当然だよ」助ける?あなたの言う助けとは、私の命を栞の命と気軽に引き換えにするということ?詩乃が問い詰めようとしたそのとき、甲高い車輪がタイルをこする音が廊下から響いてきた。数人の看護
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第5話
病院で過ごした最初の夜、慎也は看護師に頼んで折りたたみベッドを持ってきてもらい、詩乃の隣に置かせた。詩乃と栞はカーテン一枚隔てて、そのまま眠りについた。半分眠って半分覚めたような意識の中で、詩乃は慎也が静かに折りたたみベッドを抜け出す気配を感じた。粗悪な折りたたみベッドがきしむ長い音が、静まり返った病室にやけに響いた。「今日はもう来ないかと思ってたのに」栞の甘えた声が聞こえた。慎也は軽く笑い、「しーっ」と声を出した。「入院してから不安で眠れないって言ってただろ、抱いて寝たほうが落ち着くだろうからさ」その優しい声はかつて、詩乃の傍でも何度も響き、不眠の夜を共に乗り越えてくれたものだった。けれど今は、彼女がすぐ隣にいるというのに、慎也は迷いもなく栞の側にいる。それも、癌という名の「盾」があるから。「慎也、でも今は詩乃がすぐそばにいるよ」「大丈夫、彼女は一度寝たら簡単には起きない。静かにすれば、気づかれないよ」そう言いながら、唇が重なる音が隣のベッドから聞こえてきた。慎也と栞がまるで誰もいないかのように親密な時間を過ごす中、詩乃は唇をきつく噛み締めた。口の中に広がる血の味が、体内にじわじわと湧き上がる痛みと混ざり合い、深い夜の底へと沈んでいった。翌朝、詩乃が目を開けると、視界に映ったのは栞のベッドに座って果物を食べさせている慎也の姿だった。詩乃が目覚めたのを見て、栞は果物を口に運びながら、慎也の手首に手を添え、その指でさりげなく撫でるような仕草をした。それはあからさまに親密で、挑発的だった。「目が覚めた?」と慎也が尋ねた。「顔洗って、果物でも食べる?」「慎也、忘れたの?」詩乃が何かを言うまえに、栞が口を挟んだ。「スイカって体を冷やすでしょ。詩乃は今妊娠初期なんだから、あんまりよくないよ」そう言って、彼女は詩乃に向かって笑った。「じゃあ詩乃、このスイカは私がありがたくいただくね」二人のあからさまな挑発と、栞の所有を示すような態度に、詩乃が気づかないわけがなかった。「あなたもあんまり食べない方がいいわよ」詩乃は微笑んだ。「癌の人も、体を冷やすものはよくないでしょうし」詩乃が洗面所へ行こうと立ち上がったとき、背後からかすかなすすり泣きが聞こえてきた。栞がまた泣いていた。「朝月詩乃
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第6話
病室を出ようと身を翻したとき、詩乃の手は誰かに強く掴まれた。どれだけ振りほどこうとしても、慎也の拘束からは逃れられなかった。「離して!」振り返って怒鳴った次の瞬間、澄んだ音が響いた。頬に火がついたような痛みが詩乃の顔に走る。慎也はまだ手を上げた姿勢のままだったが、その表情は決して良くはなかった。彼はまさか自分がいつか詩乃を殴る日が来るとは思ってもいなかった。しかし、一瞬の怒りがすべてを上回ったのだ。慎也の声はどこかどもり、震えが混じっていたのに、それでも高圧的な口調だった。「妊娠してるからって、調子に乗るなよ。栞、行こう。今日の検査だ」二人は詩乃を一瞥することもなく通り過ぎ、栞は自然な動きで慎也の腕に手を絡めた。彼女は詩乃に向かってひらひらと手を振る。「じゃあ行ってくるね、詩乃」病院には多くの人が集まり、検査に来た人々は誰かしら付き添いがいた。詩乃があてもなく院内を歩いていると、階段の前で泣いている子供を見つけた。生まれることができない自分の子どもを思い出したのか、普段は他人に構わない詩乃が珍しく声をかけた。話を聞くと、女の子は支払いに向かった母親とはぐれてしまったらしい。詩乃は職員に頼み、館内放送で呼びかけてもらった。しばらくして、女の子は母親と無事再会した。何度も頭を下げて感謝する二人を見て、詩乃は胸につけていたお守りを外した。「これはね、お姉さんの愛する人が寺でお願いしてくれたお守りなの。あなたにあげるよ。元気に、無事に大きくなってね」笑顔で受け取った女の子の母親だったが、お守りの文字を見た途端、眉間に皺を寄せた。「……これ、旦那さんがあなたにあげたものですか?」女の子の母親の急に変わった表情に戸惑いながらも、詩乃はこくりと頷いた。女の子の母親は真剣な顔で言った。「これはお守りじゃありません。よくない呪いのようなものですよ」彼女はそっとお守りを返した。「あなたは知らなかったのでしょう。時間があれば、寺の大きな木に掛けて供養してあげてください」二人が去った後、詩乃はしばらくその場に立ち尽くし、手の中のお守りを見つめ続けた。これをもらって以来、ずっと身につけてきたこのお守りは、角がすり切れていた。真心だと思っていたものが、実は呪いだった。胸が裂け
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第7話
電話を切ったあと、詩乃は全身に力がみなぎるのを感じた。クローゼットを開けると、中の服はほとんどが黒、白、灰色の落ち着いた色ばかり。鮮やかな色の服は隅に追いやられていた。嫌いだったわけではない。ただ慎也が君はそんな若い子が着るような色は似合わないと口癖のように言い、勝手に黒白灰の服を買ってクローゼットを埋めていったのだ。指先が、明るい色の服の上で止まった。詩乃はそれらをまとめてスーツケースに詰め込んだ。どうせ死ぬのなら、最後くらい自分のままでいたかった。荷造りに集中していたとき、玄関の鍵が開く音が聞こえた。慎也が入ってきた。手にはスイーツの袋。寝室に立つ詩乃を見ると、柔らかく笑った。「詩乃、今日は俺が感情的になりすぎた。悪かったね。君の好きなデザート買ってきたんだ。許してくれるかな?」そう言って詩乃を抱きしめたが、彼女の体が異様に硬いことに気づき、首をかしげた。慎也の視界の端には、途中まで詰めたスーツケースが映り、答えが出た。慎也は詩乃を突き放した。「逃げるつもり?」慎也は鼻で笑い、言葉を続ける。「どこに行けるっていうんだよ」あまりにも露骨な嘲りに、詩乃は奥歯を噛みしめた。「実家に帰るのよ!」「実家?」慎也は声を荒げて繰り返した。「詩乃、忘れたのか?君の母親は昔、君を退学させてジジイと見合いさせようとしたんだ。そんな親が、君を歓迎するとでも?」言い争いの最中、詩乃のスマホに通知が次々と表示された。【ほら言ったでしょ詩乃、結局年長者の方が見抜く目があるんだから】【あなたは見る目がないのよ!】【どうせ嫌なことがあって実家に逃げようとしてるんでしょ?】【いいのよ、お母さんはちょうど聞いてきたの】【前に紹介した人、まだ結婚してないって。帰ってきたらお母さんが縁談まとめてあげるから】【結納金は最低でも二百万円は出すって!】【ちょうどよくてね、こっちも家をリフォームするのに二百万円足りなかったのよ!】ひとつ、またひとつと表示されるメッセージに、詩乃の体からすっと温度が抜けていった。慎也は鼻で笑った。「見ただろ?君の母親は、君を金ヅルにしか見てないんだ。俺から離れて、君を愛してくれるやつなんていると思う?詩乃、いい加減目を覚ませよ」慎也はスーツケースを
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第8話
詩乃が目を覚ましたとき、彼女はまた二人部屋の病室に戻っていた。医師がベッドのそばに立ち、言った。「朝月さんはショックを受け、感情が急激に乱れたことで失神したのでしょう。より詳しい原因を調べるには、追加の検査が必要です」慎也が眉を寄せた。「詩乃は妊娠したばかりなんです。そんな検査、子どもに影響はないんですか?」医師は頷いた。「医療設備には放射線を含むものもあります。胎児の健康を考えると、あまり勧められません。ですが、母体を心配されるなら、検査したほうが確実でしょう」数秒の沈黙のあと、慎也は即座に言い切った。「じゃあ検査はしません。詩乃は大丈夫だろ?」詩乃は静かに頷いた。あることは、彼にそんなに早く知らせる必要はない。また栞の声で叩き起こされる朝が来た。病院に戻って以来、詩乃は一度も自然に目覚めたことがない。栞の友人は週に数回病室に現れ、来ない日でも長時間の電話で騒ぎ続ける。まるで隣に詩乃が存在しないかのように。「詩乃!来たよ!」病室の入り口に現れたのは、大学時代の親友、川口澪(かわぐち みお)。両手いっぱいに栄養がある食べ物と果物を抱えていた。澪は詩乃の細い手首をそっと握り、目に涙を浮かべた。「どうしてこんなに痩せちゃったの?しかも妊娠してるんでしょ?自分の体もちゃんと大事にしなきゃ」友人の温かい言葉に胸がじんとし、詩乃は話したいことが溢れそうになった。だがそこに看護師が歩み寄ってきた。「申し訳ありません。当院の特別病室では、許可のない方の面会はできません」立ち上がろうとした澪を、詩乃は慌てて引き留めた。「澪は他人じゃありません。私と慎也の友達です」看護師は変わらない調子で返した。「申し訳ありません。一ノ瀬様の許可がないと、滞在はできません」そのとき、栞と友人たちの大きな笑い声が響き、病室に弾けた。詩乃の視線に気付き、看護師は説明することもなく、黙ったままだった。澪はゆっくり立ち上がった。「慎也って、本当に昔から何も変わらないね。帰るよ」澪が去ると、詩乃のせっかく浮いた気持ちは再び底に沈んでいった。彼女は騒音に耐えられず、枕で耳を覆い、眠りに落ちた。目覚めると午後、病室は嘘のように静かだった。栞は澪が持ってきた荷物を勝手に開け、詩乃が目を開けたのを見ると
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第9話
詩乃の目がベッドの上に置かれたアレルギー薬をちらりと見たが、手の消毒の動きは止まらなかった。コンコンという軽いノックの音が響いた。神原社長が入口に現れ、病室いっぱいの花を見て口笛を吹いた。「まさか一ノ瀬社長が今でもこんなご趣味があるとはね。誕生日パーティーの後、ほとんど会社に戻ってないって聞いたけど。病院で花を育てていたんですね」「何の用ですか?」慎也の口調は硬く、わずかに怒気が混じっていた。「用がないなら出て行ってもらえますか。病人の休みを邪魔しないでください」神原社長は肩をすくめた。「あなたに関心を持ってるから来たんですよ、一ノ瀬社長。あなたの会社の状況、かなり厳しいって聞いてますが、もう持たないなら、俺に頭を下げてもいいんですよ。買収、考えてやってもいいですから」そう言い残して、神原社長は病室を後にした。空気が一気に張りつめた。あの栞でさえ、今は息を潜め、呼吸も控えるようだった。慎也は手を振り払うようにして、机の上の贈り物をすべて床に叩き落とした。ガラス製の包装は床で粉々に砕けた。「失礼します」看護師がおずおずとドアをノックした。「朝月さんの退院申請を確認しに来ました」「退院申請?」慎也が疑問を含んだ声で繰り返した。「はい」看護師は手元の書類をめくりながら言った。「こちらに退院の申請が届いておりまして、来週には退院予定と、なので状況を確認に参りました」慎也は鋭い視線で詩乃を睨みつけると、ガラス片を踏み越え看護師の前に立った。「俺と詩乃は話をするから。退院申請は取り下げて」そう言って、看護師が反応する前に彼女を外へ押し出し、扉を閉めた。「君は退院するのか?」詩乃は静かにうなずいた。「どこへ行くつもりだ?」慎也は眉をひそめ、軽蔑したように問い返した。「君の親は君を金づるとしか見てない。またどこからともなく現れたジジイと結婚して、リフォーム代でも稼がせる気か?俺から離れたら、生きていく力も稼ぐ力もないだろ。詩乃、自分で認めろよ。俺の金がなけりゃ、君は生活すらできない!」「私一人で生きるから!」耳を刺すような言葉が詩乃の心臓を突き刺した。「あなたがいなければ、もっとマシに生きられるかもしれない」言い放った後、慎也は二秒ほど沈黙し、最後には顔を歪めて笑った。
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第10話
重症病棟では、毎日誰かが死と戦っている。しばしば詩乃がやっと眠りについたころ、隣のベッドのナースコールが鳴り出した。ドアが素早く開き、医師と看護師が駆け込んできて、ベッドをICUへと移動させた。そんなことがあると、他の患者たちも一気に緊張し、誰も眠れなくなる。ナースコールが鳴っていないのに、詩乃の夢の中ではあの鋭く耳障りな音が絶え間なく鳴り続けていた。何度も悪夢で飛び起き、背中は冷たい汗でびっしょりだった。周りのベッドから運び出され、二度と戻ってこなかった患者たちを見ているうちに、詩乃の食欲も日々落ちていった。ある夜、ついに詩乃のベッドのナースコールがけたたましく鳴った。目を覚ましたとき、慎也が看護師と口論していた。「詩乃に一体何があった!?さっきまで元気だったのに、どうしてここに来た途端、昏睡状態になったんだ!?」看護師は口ごもりながら答えた。「病棟の騒がしさや、最近、朝月さんの気分の落ち込みが原因かもしれません。もともと朝月さんの病気は、静養が必要でして……」慎也は歯を食いしばり、顔色の悪い詩乃を見つめた。「まったく、君はね。苦しんで同情を買う作戦か?俺が情にほだされるとでも思ったか?詩乃、もし君が頭を下げるなら、元の二人部屋に戻すことも考えてやってもいい」長い沈黙の後、慎也の我慢が限界に達しようとしたその時、詩乃が静かに口を開いた。「私は確かに後悔してるわ」慎也と結婚したことを。彼の本性をもっと早く見抜けなかったことを。だが、慎也はその言葉を勘違いしたようだった。「後悔してるならそれでいい。これからは俺の言うことをちゃんと聞けよ。最初からそうしてりゃ、こんな目に遭わずに済んだのにな」……病室の明かりが突然消えた。バースデーソングが流れ、慎也が三段重ねのクリームケーキを持ってドアのところに現れた。詩乃は眉をひそめた。これまで慎也が自分の誕生日を覚えていたことは一度もなかったのに、今年に限ってどういう風の吹き回し?しかし慎也は方向を変えて、ケーキを栞のテーブルに置いた。ケーキの箱には、精巧なネックレスが添えられていた。「誕生日おめでとう、栞」まさか、自分の誕生日が栞と同じ日だったなんて、詩乃は予想もしなかった。看護師が日常の検査のため
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