LOGIN斉藤若葉(さいとう わかば)は、地震で半身不随になった白石翼(しらいし つばさ)を、60年ものあいだ介護した。天真爛漫だった女の子は、すっかり白髪になっていた。 若葉は、翼が自分と結婚し、養子を二人迎えたのは、心から愛してくれているからだと思っていた。そして、あの地震の時、命がけで彼を助けた自分の恩に報いてくれたのだと信じていた。 しかし死の間際になって、翼は最後の力を振り絞って彼女の手を振りほどいた。代わりに彼は一本のペンを胸に抱き、それに愛おしそうな眼差しを向けたのだ。 「若葉、君が俺を助けたと嘘をつき続けたことは許してやる。君のせいで、俺の人生は台無しになった。来世では頼むからもう俺を解放して、薫のそばにいかせてくれないか? だって、俺の本当の命の恩人は、彼女なんだからな!」 そして若葉が手塩にかけて育てた養子たちまでが、翼の側に立ち、諭すように言ったのだ。 「おばさん。血は繋がってないけど、僕たちはおじさんを本当のお父さんだと思ってる。だから、お願い、おじさんを、僕たちの本当のお母さんと一緒のお墓に入れてあげて!」 「そうよ、おばさん。あの時、おじさんが母の足手まといになりたくないと思わなければ、あなたと一緒になるはずなかったの。私たちを養子にしたのもそのため。そのおかげで、あなたも私たちにそばにいてもらえたんだから、感謝すべきじゃない?まだ満足できないの?」 そうか。自分が彼の命の恩人だと言っても、翼は一度も信じてくれていなかったんだ。 60年以上も続けた自分の献身的な介護は、彼が落ちぶれていた時に初恋の人がくれた、たった一本のペンに比べても劣るということなのか。 自分が母として注いできたつもりの愛情でさえ、病弱な初恋の人では子供を育てられないと心配した彼の計算ずくによるものだったなんて。 その瞬間、若葉は一生をかけて注いできた深い愛情がすべて踏みにじられたような気分になった。 彼女は、ひと口の血を吐き出すと、無念のあまり、目を開いたまま息絶えた。
View More若葉が、翼と薫のその後の消息を知ったのは、地元の新聞でのことだった。新聞の一面は、翼が起こした殺人事件の報道で埋め尽くされていた。翼と薫は、事件の前に入籍していた。だから、彼が刑務所に入っている間も、離婚しないままだったらしい。妻が出所したとたんに、夫が刃物で彼女に切りかかって、そのあと自殺するなんて。二人の間に一体何があったのか、世間の好奇心を掻き立てた。その事件をきっかけに過去のいきさつも全て掘り返された。そして人々は、亡くなった薫と翼が、どれだけひどい人間だったかを知ることになった。薫は田舎で子供を産んでいたのに、のし上がろうと都会に出てきた。そして、婚約者がいる翼を誘惑したのだ。その二人は片や恥知らずで、もう片方もゲスだった。そして当時、このことを知る人たちは、皆が彼らを非難していた。「もともと白石って男が大変な時も支えてくれる素晴らしい婚約者がいたのに、結局、愛想を尽かされてしまったのよ!」「そうそう、あの割り込んできた女、婚約者のフリまでしてたらしいじゃない?結婚式当日に、騙して結婚しようとしたんでしょ!」「あの男もろくな男じゃないよ。本当に婚約者を愛してたら、あんな女と入籍なんてするわけないもの」世間では、好き勝手な噂が飛び交った。でも、一つだけ確かなことがあった。それは、二人の行いが、多くの人々から軽蔑されていたということだ。こうして、薫と翼は、遺体の引き取り手もいなかったから、二人まとめて、ぞんざいに埋葬されたそうだ。前世で翼が死ぬ間際に願ったことは、今世でも同じように叶えられたのだ。そして、薫が田舎に残した二人の子供も、その父親に疎まれて児童養護施設に送られた。そこではろくに食事も与えられず、いつもいじめられていたらしい。そして、大人になる前に病気で亡くなったそうだ。一方、若葉と隆は、国に貢献し続けた。機械技術を改良に改良を重ね、機械分野でたくさんの優秀な人材も育て上げた。二人は生涯で、二人の息子と一人の娘に恵まれた。子供たちもとても努力家で、全員有名大学を卒業し、親の力をほとんど借りずに、自分たちの力で成功を収めていったのだった。それだけじゃない。子供たちはみんな親孝行で、両親が病気になった時は、誰一人文句も言わず、代わりばんこに看病した。そして隆もまた、若葉を一生涯、
愛とは、誰かを特別に思うこと。若葉は隆と一緒にいて、それを実感していた。昔は自分に自信がなかったし、とても傷つきやすかった。でも、隆と一緒になってからは、そんな気持ちはすっかり消え去った。そういえば、前世でこんな言葉を聞いたことがあった。「人を愛するのは、お花を育てるのと同じだ」と。もし、人生をやり直したことで仕事において開花させることに成功したということであれば、隆との出会いは、恋路を開花させたことになっただろう。今、若葉の目には、わざわざJ市から駆けつけてくれた隆の姿しか映っていないのだから、他の人間なんて全く目に入らないのだ。一方、翼は、ただ呆然と立ち尽くすばかり。二人が手を取り合って去っていくのを、見送ることしかできなかった。結局、誰かが誰かを離れて生きていけないわけではないのだ。昔の自分は、どうして若葉が自分なしではいられないなんて、思い込んでいたのだろう。あの日から、翼が若葉の前に姿を見せることは二度となかった。もちろん、諦めきれない気持ちはあった。でも、彼も他人の家庭に割り込むなんて真似はできなかった。ましてや、若葉とあの隆の間には、もう子供までいるのだから。翼はベッドの上で、若葉との過去を何度も何度も思い返すしかなかった。ほんのわずかな幸せな思い出だけを頼りに、なんとか日々をやり過ごしていた。これも罰が当たったのだろう。それから間もなく、翼の体調は完全に崩れた。病院で検査を受けると、不治の病だと宣告された。ある日のこと。翼は死ぬほどの痛みに苦しみながら、不思議な夢を見た。夢の中では、若葉はずっと自分のそばから離れずにいた。彼女は自分の言いつけ通りに仕事を薫に譲り、そのまま自分と結婚した。結婚すると、若葉は一日中、自分の世話ばかり焼いていた。翼は、夢の中で思わず笑みがこぼれ、目を覚ましくないと思うほどだった。この夢の続きでは、きっと若葉と幸せに暮らせるはずだ。彼はそう信じていた。だが、まさか。あの薫が、二人の生活の隅々まで入り込んでくるなんて。翼は夢の中で、もう一人の自分を見た。その自分は、薫のために何度も若葉を裏切っていた。薫の子供を若葉に育てさせ、二人で財産を騙し取ろうとしていた。そしてとうとう、夢の中の自分は死ぬ間際に、あまりにも残酷な言葉を若葉に言い放った。
その呼び方を聞いて、翼は逆上し、男に殴りかかろうとした。しかし車椅子が突然動かなくなり、彼は無様に地面に転げ落ちてしまった。男はすぐに一歩下がり、両手を挙げて言った。「おいおい。若葉ちゃん、君も見ただろ?俺は彼に指一本触れてないからな!」それを聞いて、翼はさらにヒステリックに叫んだ。「彼女をそんな風に呼ぶんじゃない!お前は何様のつもりだ?」その言葉から、彼がまだ諦めていないことを悟った男は、軽く舌打ちをした。そして遠慮なく言った。「俺たちは結婚したんだから、彼女のことなんて呼ぼうと俺の勝手だろ」結婚した。それを聞いて翼は、首元を掴まれたかのように、もう反撃する気力も失っていた。彼はその男を、じっと睨みつけたまま、目を離そうとしなかった。若葉はこいつと結婚したっていうのか?翼が呆然としていると、目の前の若葉が不意につま先立ちになり、隆の額にキスをした。「もう焼きもち焼きなんだから。もう父親になるっていうのに、まだそんなおかしなことを聞いてくるなんて。あなたを愛してなかったら、結婚なんてするわけないでしょ?」今思えば、おかしな話だ。当時、若葉が隆と親しくなると、J市の製鉄所ではあまりよくない噂が流れ始めた。若葉はすぐに隆と距離を置いた。すると、まだ恋愛に疎かった彼に、家の前でいきなり問い詰めきたのだった。あの時、隆は戸惑ったように尋ねた。「どうして急に俺を避けるんですか?俺、何か悪いことしましたか?」若葉は首を横に振った。でも彼が全く分かっていない様子だったので、正直に理由を話すしかなかった。すると、工場ではいつもお人好しで通っていた隆が、突然怒り出した。「斉藤さんにアプローチしているのは俺だ。あなたたちはどうして勝手な噂を流すんだ?女性の評判がどれだけ大事か分からないのか?俺は何と言われても構わない。でも、女性が評判を落とすような噂を流すのはあんまりじゃないか?」その日、彼は工場で一番噂好きな同僚たちを捕まえて、午後中ずっと説教を垂れた。同じ言葉を何度も繰り返し、相手が根負けして若葉に謝るまで続けたのだ。若葉は、こんな手を使う人を初めて見た。隆のことは嫌いじゃなかったけど、すぐに次の恋を始める気にはなれなかった。本当に隆に心を動かされたのは、彼が寝不足で、危うく機械のそばで倒れそう
それを聞いて、翼は、心臓をわしづかみにされ、どん底へと突き落されたような気分だった。彼は無理やり口角をあげて、顔を歪ませながら笑った。「わかってるよ、若葉。ただチャンスがほしいんだ。君と昔みたいにやり直したい……」しかし、若葉は、空に浮かぶ月を見上げて、「もう遅いから、帰るね」とだけ告げた。彼女にはもう、翼の話を最後まで聞く辛抱強さもなかった。翼の謝罪は、あまりにも遅すぎたのだ。もし、60年間も騙された経験がなく、人生をやり直す前の、まだ翼を深く愛していた愚かな自分だったら。彼の可哀想な話を聞けば、心が揺らいだかもしれない。でも、今は、自分のために生きている。もう、台所で家事に明け暮れるだけの主婦じゃない。子供たちに「何の役にも立たない」と見下されることもない。自分は、もう将来有望なキャリアなのだから、過去に囚われたままの翼は、もはや自分にふさわしくないのだ。若葉は、自分の言葉はもうはっきり伝わっていると思っていた。でも、翼は相変わらず頑固だった。かつては薫が嘘をつくはずがないと、一方的に信じ込んでいたように、今の彼はまた、若葉がただまだ怒っているだけだと思い込み、彼女の許しを乞うために様々なことを仕組んできたのだった。そして彼は時に、仮住まいのドアの前に花束を置いたり、若葉が大好きだった手料理を作って届けたりした。その誠実で、おずおずとした様子は、確かに若葉に二人の過去を思い出させた。幼い頃の彼女と翼は、本当に幼なじみと呼ぶにふさわしい関係だったのだ。だけど、過去は過去でしかない。若葉は少しも情けをかけず、何度も翼の目の前で、それらの贈り物を捨てた。すると、翼の目に宿っていた期待の光は、どんどん、どんどん翳っていった。そしてある日、彼がいつものように若葉が仕事を終えるのを待っていると、彼女の隣には背が高くハンサムな男性が立っていた。あんな若葉の姿を見るのは、もうずいぶん久しぶりだった。彼女は恥じらいながらも駄々をこねながら、情熱的に男の腕の中に飛び込んでいった。その瞬間、翼は心臓が張り裂けそうだった。「若葉!こいつは誰だ!」自分に問いただす資格がないことはわかっていた。でも、嫉妬の炎が止めどなく燃え上がる。なんでだ?なんで自分以外の男が、若葉と一緒に居られるんだ、許