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風に消える恋なら、それでよかった
風に消える恋なら、それでよかった
Author: ガブリン

第1話

Author: ガブリン
「莉子、決めたよ。ひとりで無人島に行って暮らすつもり」

電話の向こうは、南条夏希(なんじょう なつき)の一番の親友――北原莉子(きたはら りこ)だった。

莉子はその言葉を聞くと、ようやく安堵したように息をついた。

「やっと決心ついたんだね。あの人ときっぱり別れるって?」

「うん」

「あんなに長い間、隠れて付き合ってたのに、結局なにもしてくれなかったじゃない。あんたにはずっと言ってたんだよ?早く別れなって。

……でもさ、ひとりで無人島なんて、本気?危なくない?もしよかったら、私も一緒に」

「大丈夫」夏希が答えた。

「一緒に来てくれる人は、もういるから」

電話を切った後、夏希はスマホを持った手をだらりと垂らし、試着室のドアに力なく背中を預けた。

明かりは点けていない試着室に、静寂と闇が彼女の心をそっと包み込んでいた。

扉に手をかけて出ようとしたその瞬間――

不意に、誰かの厚い胸板にぶつかってしまった。

次の瞬間には、夏希がその男の腕の中に引き戻され、狭い試着室の中へ押し込まれていた。そして、迷うことなく唇を奪われた。

思わず声を上げそうになった夏希だったが、その前に低く魅惑的な声が囁いた。

「まさか、俺のことも忘れたのか?」

――その声で、夏希の全身が硬直した。

男は彼女の顎を優しく掴み、唇にもう一度、名残惜しそうにキスを落とした。

「俺の名前を呼んで」

夏希は視線を逸らしながら、しばらく黙ったあと、搾り出すように言った。

「……叔父さん」

その言葉を聞いてようやく、高峰啓介(たかみね けいすけ)は満足そうに微笑んだ。夏希の腰を引き寄せ、頬へと優しく口づけた。

「今夜、うちに来ないか?」

夏希はすぐに啓介を突き放し、慌てて距離を取った。

「無理……風邪ひいちゃって、すごく眠いの。今日は早く帰って寝たい」

「じゃあ、明日は?」

「明日もダメ」

啓介は眉をひそめた。「また拗ねてるのか?」

夏希は首を横に振った。「違うよ、本当に体調が悪いだけ」

啓介は夏希をしばらく見つめ、それからもう一度キスをして、ようやくこう言った。

「わかった。ちゃんと休めよ。今回は見逃してやる」

夏希は顔を上げた。

目の前にいるのは、彼女が五年間も想い続けてきた男だった。

彼女の本当の父親は幼い頃に他界した。五年前、母が再婚し、彼女と姉の南条千春(なんじょう ちはる)は高峰家に移り住むことになった。

姉は頭もよく、話も上手で、何より見た目も洗練されていて、誰からも愛される存在だった。

その一方で夏希は、姉の引き立て役として生きてきた。

いつだって姉が中心。夏希は端に追いやられ、誰にも気づかれなかった。

そんな彼女の世界に、啓介が現れた。

みんなが姉の誕生日しか祝わない中、啓介だけは夏希の誕生日を覚えていた。

あの日、彼は夏希を海へ連れ出し、夜通し花火を打ち上げてくれた。世界一可愛いケーキを用意して、ドラック一台分のプレゼント――花束、ドレス、ぬいぐるみ――すべて夏希の好みに合わせて用意してくれた。

彼は、夏希の二十二年間の人生で唯一の光だった。そしてその瞬間から、夏希が彼を好きになってしまった。血の繋がりはないけれど、「叔父さん」と呼ぶその男を。

二十歳の誕生日、夏希は勇気を出して、啓介にキスをした。

啓介はそれを拒まなかった。

それから二人は恋人同士のように愛を交わした。誰にも気づかれないように、しかし誰よりも深く。

啓介は夏希に約束した。

「卒業したら、二人で海外に行こう。誰も俺たちの関係を知らない国で、籍を入れて、一緒に暮らそう」

だけどその夢は、昨日、唐突に終わりを迎えた。

手作りのクッキーを届けに行ったあの日。

啓介のオフィスの前で、彼の友人たちの話し声が聞こえてしまった。

「いや〜啓介も待った甲斐があったな。五年越しでようやく、千春ちゃんが帰ってきたんだもん」

「夏希って子、これでもう身代わりとして過ごす日々ともおさらばだな」

「あの子もちょっと可哀想だよな。親からも愛されてなくて、叔父からも身代わり扱いだしさ……」

啓介の声が、他人事のように響いた。

「別に可哀想じゃない。千春と同じ顔で生まれてきたんだから、それだけで十分幸運だろ」

手に持っていたクッキーの箱が、ガシャンと音を立てて床に落ちた。夏希の焼いたクッキーが、バラバラと地面に散らばる。そのとき、彼女の心も一緒に砕け散った。もう、価値なんてなかった。

夏希は思っていた。――他の誰が姉を選んでも、啓介だけは自分を選んでくれると。

でも、結局彼も同じだった。

彼の中で、自分は「千春の身代わり」に過ぎなかった。

それなら――もう、彼なんていらない。

夏希はすでに、テクノロジー企業にアンドロイドを発注していた。父と母、そして恋人役。三体のアンドロイドが自分の家族になる。

アンドロイドは十日後に届ける予定だ。

それが揃ったら、誰もいない島へ行く。誰にも邪魔されずに、本当に自分を愛してくれる「家族」と、静かに暮らしていくのだ。
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