怜司が、育ててきたあの小娘に流星群を見せるため、高熱の私を山道に置き去りにしたそのとき、私は離婚を決めた。 友人が怜司に「機嫌を取ってやれ」と耳打ちする。 「兄貴、妹は妹、妻は妻。重さを取り違えるなよ」 怜司は気定まって、どこか高みから笑う。「本当に離婚すると思うか。脅しかけてるだけだ。 何年も俺が落ち着ける場所を与えてやった。俺がいるから彼女には家がある。俺から離れる?できるわけない。 見てろ、離婚届が受理される前に、泣いて復縁を願いに来るさ」 だが三十日が過ぎても、私は一度も振り返らない。 彼が四方八方に私を捜していたころ、私は霧に包まれた山中の別荘で、静かにお茶を飲んでいた。 「旭兄、やっぱりここがいちばん落ち着くね」
View More怜司とかんなが去って、私の生活はまた静けさを取り戻す。まさか――春恵が私に「お見合い」を勧めてくるとは思わなかった。「やだよ、いきなり結婚しろって話じゃないんだし。ちょっと付き合ってみたらいいじゃない。それに、凪は相手のこと知ってるでしょ」私が知ってる?誰のこと。不思議に思って旭兄を見ると、いつも朴訥な兄は目配せするだけで何も言わない。そして当日、顔を合わせてようやく分かる。相手は父の元教え子で、私の大学の先輩――早瀬透(はやせ とおる)だ。私たちはかつて十年一緒に絵を学び、大学でもデザインコンペに一緒に出場した。彼が海外へ出たあとで、連絡が途絶えたのだ。久しぶりに会うと、胸の奥が少し弾む。「いつ戻ってきたの?全然聞いてなかった」「えへん、久しぶりだね、凪」彼は軽く咳ばらいして立ち上がり、笑いながら椅子を引いてくれる。「昨日、帰ってきたばかり。だからこうして、今日はもう君に会いに来た」含みのある言い方に、私はうまく返せず話題をそらす。彼も空気を読んでそれ以上は踏み込まず、流れに沿って私と話を弾ませる。気づけば、一食分の時間があっという間に過ぎ、名残惜しさが残るほどだった。それから私たちの接点は、少しずつ増えていく。その日、透が一枚の個展チケットを差し出す。「初めて雲見市でやるんだ、必ず来てほしい」私が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、男の手がそのチケットをはたき落とす――怜司だ。「凪、俺と離婚したのは、こいつのせいか」どこからともなく現れた怜司は全身に怒気をまとい、まるで浮気をしたのが私であるかのような剣幕だ。「私のことに口を出さないで、自重して」透の手に怪我がないのを確かめて、私は怜司を睨み、背を向ける。だが彼は腕をつかんで放さない。「かんなの件は片づけた。凪、一緒に戻って復縁しよう。君なしじゃ本当にだめなんだ」彼は何度も「誠意」を見せつけてくるが、私は一言だって聞く気はない。「怜司、人の言葉がわからないの?もう会いたくない。あなたがどうなろうと、私には少しも関係ない」「じゃあ、誰のことなら気にしてる?」彼は低く笑い、透を指さす。「そいつのことか?世界的に名のある若手画家が、バツイチ女を好きになるか。所詮は『手に入らないから一番』ってやつだろ。
ここで簡単に諦めるなら――それは怜司じゃない。彼は山荘に居座り、毎日のように「謝罪パフォーマンス」を繰り出す。ある日はドローンで花束を飛ばし、ある日は横断幕を掲げてみせる。けれど、彼の「誠意」を見るたびに私は失笑してしまう。自分の目的を果たすことしか頭になく、私がいちばん嫌う目立つやり方を平然と選ぶからだ。こういう衆目の中での見せ物は、私を気まずくさせるだけ。いや、彼は覚えているのだろう。ただ、気にかけないだけだ。その日、宅配を取りに降りると、また彼に行く手をふさがれる。燕尾服の彼は、プレゼントでいっぱいのクリスマスツリーの脇に立ち、私を見るなり目を輝かせる。「凪、メリークリスマス。一緒にプレゼントを開けよう」灯りの瞬くクリスマスツリーと、積み上がったギフトの箱を見て、私は去年の今ごろを思い出す。――その日、友人たちのクリスマス動画をいくつも見て心が熱くなり、家にツリーを作って飾りつけて、彼の帰りをわくわくしながら待っていた。――彼は何て言ったっけ。「凪、そういう子どもみたいなのやめろ。今日はクタクタだ。イベントごっこに付き合う気力ない、休ませてくれ」けれど少し後、私はSNSで見た――彼はかんなのために遊園地を貸し切り、巨大なツリーを用意して、プレゼントを山ほど飾っていた。そこまで思い出して、私は去年のその言葉をそのまま彼に返す。「もう私の前に現れないで。それが私へのいちばんの贈り物」怜司の顔が一瞬で蒼白になる。何か言いかけたところで、手を誰かにぐいとつかまれる。かんなが探して来て、会うなり彼の腕に絡みつく。「お兄ちゃん、やっと見つけた」怜司はあわてて彼女を振りほどく。「凪、呼んだのは俺じゃない。真実が分かったあと、家から追い出したし、それ以来連絡もしていない。望むなら、彼女を潮見市からも遠ざける」「怜司!」その扱いに堪えられないかんなは、目を赤くして信じられないというように叫ぶ。「私たちは子どもの頃から一緒に育ったのに、どうして私にそんなことができるの。忘れたの?子どものころ、私を妻にするって言ったじゃない。追いかけてくる男の子を追い払ってくれた。海外にいるとき『会いたい』って言えば、あなたはすぐ飛んで来た。怜司、あなたは私を愛してる。ただ自分で認めていないだけ
春恵と旭兄は山中でリゾート山荘を営んでいる。その日、私はスタッフ用の制服デザインを詰めていると、目の前に影が落ちる。顔を上げる――怜司だ。数か月ぶりに見る彼は、かつての精悍さが削げている。いつもはスーツにネクタイをきちんと合わせていた男が、ずいぶん変わった。大病明けのように、顔色は青みがかった灰にくすみ、血の気がない。体はひと回り痩せて見える。「凪」熱烈だった頃のようにやわらかく名を呼ぶその目に、作り物ではない未練が揺れている。けれど私はもう、ただうんざりするだけだ。ゆるんだ表情を引き締め、代わりに警戒心とよそよそしさが顔に立つ。「何の用」「凪、俺と一緒に戻ろう。君と連絡が取れない間、俺は酷かった」目尻を赤くした彼には、いつもの自負も落ち着きもない。憂いと逡巡、それに情けなさが混じる。けれど私は、もう彼に感情を振り回される凪じゃない。私は静かに言う。「私たちはもう離婚したの。神谷さん、ご用がないなら私を煩わせないで」「違う、離婚するつもりはなかった」そのひと言は彼にこたえたのか、怜司は慌てて歩み寄り、早口でまくしたてる。「この前は腹が立って、衝動でサインしただけだ。もう後悔している。本当にすまない。誤解だった。調べたら、あの写真もニュースもかんなの仕掛けだ。家からも追い出した。二度と君の前に現れさせない。やり直そう、復縁しよう」「しない」私ははっきり答える。これは揺るがない態度だ。「怜司、あなたはまだ分かってない。私が離婚を選んだのは、あなたに濡れ衣を着せれたからだけじゃない。あれは最後の引き金にすぎない。一番大きいのは、あなたの心が私から逸れていたこと」「違う」怜司は目を赤くして言い返す。「俺は君を愛してる、君だけを」「そう」私は薄く笑う。「五年前、彼女の歪んだ執着に気づいた神谷家は、彼女を海外へ出した。それでも、彼女が一声懇願すると、あなたは連れ戻した。かんなの気持ちを知らなかったわけじゃないのに、受け入れも拒絶もしない。『兄と妹』という看板を掲げたまま、恋人のように振る舞い続けた。挙げ句、二人の女があなたのために頭を悩ませる状況を、あなたはどこかで楽しんでいた」「違う、違う。俺はただ……」私に本音を突かれて、怜司は痛ましげで気まずい表
スマホをテーブルに置いて顔を上げると、春恵と旭兄が心配そうに私を見ている。「大丈夫。二人がいれば、私は何も怖くない」「そうだ、私たちがいる。心配するな」春恵は私の手を取り、二階へ導く。「家を案内するよ」ここは、澄んだ空気の山の中に建つ別荘で、少し行けば広い竹林がある。静かでのびやか、心身を休めるのにうってつけだ。私のための日当たりのいい大きな部屋が用意され、アトリエもちゃんと整えてある。「潮見市から送ってくれた荷物、全部ここへ入れてあるよ。乱れてないか見ておくれ。私も旭も不器用で、あなたの仕事に詳しくなくてね」春恵は私の手を握りながら、照れたように笑う。けれど部屋を見渡すと、物の配置は前のアトリエと寸分たがわない。カーテンの色まで同じだ。きっと私が前に送った写真を何度も見比べて、ひとつずつ再現してくれたのだとわかる。「春恵さん、旭兄、ありがとう」ぬくもりをくれて、ぬかるみから抜け出す勇気をくれて、私を一度も見捨てなかったことに、ありがとう。家族と過ごして数日、心は緩み、ひらめきがいくつも芽生える。私はオーダーメイドのウェディングドレスの仕事を新しく受ける。実のところ、しばらくは怜司との関係のこじれで、恋愛モチーフのデザインに手をつけられなかった。いまは気持ちが晴れて、むしろ、誰かの愛に一色を添えられることが、とても嬉しいことだと思える。この日、デザインを描いていると、以前私のために口をきいてくれた南条明斗から電話が入る。「凪さん、知ってる?『かんなが怜司さんをたぶらかしてる』って噂を流してた黒幕、もう見つかったって。犯人はかんな本人の自作自演だってさ。若いのに、腹の中は真っ黒。怜司さんがブチ切れて、神谷家に『かんなを家から追い出せ』って荒れてるらしいよ」明斗は興奮気味に内情を次々と打ち明けてくる。私は驚かない。怜司を骨抜きにして、「養女」として彼の交友関係へ入り込むような子が、どれほど「無垢」でいられるのか――わかりきっているからだ。彼女の狙いも読みやすい。ひとつは、怜司に私を徹底的に嫌わせ、離婚へ追い込むこと。もうひとつは、遠回しに怜司へ結婚を迫ること。あれだけ露骨な「親密さ」を見せれば、くっつかない方が不自然――そう仕向けるために。「それとね、凪さん。
雲見市に着いて、私はスーツケースを引いて出口へ向かう。ふいに手元の取っ手をさっと取られ、顔を上げると――久しぶりの真野春恵(まの はるえ)と、兄の真野旭(まの はるえ)が、笑って私を見ている。「何ぼんやりしてるの、何度呼んでも返事しないんだから」春恵が笑ってたしなめる。その遠慮のないひと言と懐かしいまなざしが、何年かのよそよそしさを一瞬で溶かす。実のところ春恵は継母で、旭兄は義兄。私たちに血のつながりはない。けれど十五で父が亡くなってから、私を育て、学校へも通わせてくれた。春恵は私を実の娘のように扱ってくれる。外でつらい目にあうと、最初に会いたくなるのもいつもこの二人だ。私は春恵の胸へ飛び込み、肩に頬をすり寄せて甘える。「春恵さん、会いたかった」春恵は背中をぽんぽんと叩き、少し涙声で言う。「帰ってきてくれればそれでいい、ここで誰にも凪を傷つけさせない」子どもはたいてい良いことしか言わないものだ。私は怜司との離婚のことを口にしない。けれど春恵は一目で私のくやしさを見抜き、胸を痛める。「ほら、母さん、凪は何時間も飛行機に乗ってただろ、きっと腹が減ってる。まず家でご飯にしよう」旭兄が私たちのしんみりを断ち切るように、片手で私のスーツケースを押し、もう片手で私のバッグを受け取り、朴訥な顔いっぱいに笑みを広げる。「これから先は長い、話はゆっくりすればいい」私も慌てて涙を拭い、うんうんと応じる。「旭兄の言うとおりだよ。日々はまだ続く。私、もう行かないって決めた。これからは雲見市に残って、毎日二人と一緒に過ごす」「本当か」「やった」私の決心を聞いて、春恵と旭兄は大喜びで、帰ったら一杯やって祝おうと声を弾ませる。二人のうれしそうな顔を見ていると、私も思わず目尻がゆるむ。見てる、怜司。私は孤児じゃない。あなたを離れても、私には家がある。あたたかさと愛で満ちた、心が安らぐ家が。食事を終えて、ようやくスマホの電源を入れる。たちまち不在着信とメッセージの嵐が画面を埋め、端末は鳴りやまない。相手は怜司だ。旭兄は私の顔色を一目見て、なだめるように温かいミルクの入ったマグを差し出す。「出たくないなら出るな、無理するな。空が落ちても兄貴が受け止めてやる」「大丈夫」私は口角
離婚届が受理される前日、いよいよその日が来える。偶然にも、今日は私の誕生日だ。朝一番で怜司が海外から戻り、バラの花束を抱えて私の部屋の扉をノックする。「誕生日おめでとう、凪」いつもは誰かにお膳立てされる御曹司が、今日はやつれて見える。シャツは皺だらけで、ネクタイも締めていない。目の下には隠しきれない疲れ、充血がにじむ。アシスタントの林(はやし)が荷物を入れながら笑って言う。「凪さん、社長は今日のために三日分の仕事を一日で片付けたんですよ」「余計なことを言うな」怜司は林を軽く睨んでから、目尻に笑みを残したまま花束を差し出す。「ちょっと整えてくる。それから誕生日を祝おう。断りはなしだ。ずっと準備してきたんだから」……いい別れ方を選ぼう。この関係には、綺麗な句点を打つのがふさわしい。そう思いながら、私は部屋で長いこと待つ。けれど太陽が沈みかけても、怜司は来ない。もういいとスマホを手に取り、今夜はやめようとメッセージを書こうとして――ニュース速報の通知が目に入る。【驚愕!神谷家の養女かんなが「兄」と親密、しかも本妻を離婚へ追い込む】開くと、かんなと怜司の親密な写真がずらり。そこには署名済みの離婚届の写真まである。次の瞬間、私の部屋の扉を怜司に蹴り開ける。彼は荒れた獅子のように私を指さし罵る。「凪、お前はなんて酷い女だ。同じ女だろ。こんなやり方で一人の娘を潰して、恥ずかしくないのか」「私じゃない」そんな稚拙な真似、するはずがない。私は彼の目を真っ直ぐ見る。「もう離婚するんだよ。あなたが誰を好きでも、私には関係ない」「あなた以外に誰が、私とお兄ちゃんの近さを気に入らないって言えるの」かんなは怜司の腕の中で泣き顔を作る。「離婚するって脅して、私を遠ざけたいだけでしょ。こんなニュースが出たら、神谷グループの名に泥を塗る。お兄ちゃんの顔にも」「警察を呼ぼう」私はかんなを見据え、スマホを取り出す。「犯人が知りたいなら、調べてもらえばいい」「黙れ」怜司はドレッサーの花瓶を払い落として床に叩きつけ、私を侮蔑の目で見下ろす。「お前に羞恥はないのか。神谷家にもかんなにもあるんだ。本当に吐き気がする」二年の睦み、三年の同衾――最後に返ってくる言葉が「吐き気」
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