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第9話

Author: 小石(こいし)
怜司とかんなが去って、私の生活はまた静けさを取り戻す。まさか――春恵が私に「お見合い」を勧めてくるとは思わなかった。

「やだよ、いきなり結婚しろって話じゃないんだし。ちょっと付き合ってみたらいいじゃない。それに、凪は相手のこと知ってるでしょ」

私が知ってる?

誰のこと。

不思議に思って旭兄を見ると、いつも朴訥な兄は目配せするだけで何も言わない。

そして当日、顔を合わせてようやく分かる。相手は父の元教え子で、私の大学の先輩――早瀬透(はやせ とおる)だ。

私たちはかつて十年一緒に絵を学び、大学でもデザインコンペに一緒に出場した。

彼が海外へ出たあとで、連絡が途絶えたのだ。

久しぶりに会うと、胸の奥が少し弾む。「いつ戻ってきたの?全然聞いてなかった」

「えへん、久しぶりだね、凪」

彼は軽く咳ばらいして立ち上がり、笑いながら椅子を引いてくれる。

「昨日、帰ってきたばかり。だからこうして、今日はもう君に会いに来た」

含みのある言い方に、私はうまく返せず話題をそらす。

彼も空気を読んでそれ以上は踏み込まず、流れに沿って私と話を弾ませる。

気づけば、一食分の時間があっという間に過ぎ、名残惜しさが残るほどだった。

それから私たちの接点は、少しずつ増えていく。

その日、透が一枚の個展チケットを差し出す。

「初めて雲見市でやるんだ、必ず来てほしい」

私が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、男の手がそのチケットをはたき落とす――怜司だ。

「凪、俺と離婚したのは、こいつのせいか」

どこからともなく現れた怜司は全身に怒気をまとい、まるで浮気をしたのが私であるかのような剣幕だ。

「私のことに口を出さないで、自重して」

透の手に怪我がないのを確かめて、私は怜司を睨み、背を向ける。

だが彼は腕をつかんで放さない。

「かんなの件は片づけた。凪、一緒に戻って復縁しよう。

君なしじゃ本当にだめなんだ」

彼は何度も「誠意」を見せつけてくるが、私は一言だって聞く気はない。

「怜司、人の言葉がわからないの?もう会いたくない。あなたがどうなろうと、私には少しも関係ない」

「じゃあ、誰のことなら気にしてる?」

彼は低く笑い、透を指さす。

「そいつのことか?

世界的に名のある若手画家が、バツイチ女を好きになるか。所詮は『手に入らないから一番』ってやつだろ。

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