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第3話

Author: 秋月静葉
翌朝、玲奈は何事もなかったように家へ入ってきた。そのすぐ後ろには凌也の姿があった。

紬希は顔を上げ、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

「あなたたち、息がぴったりだね」

凌也は足早に紬希のもとへ駆け寄り、手にした朝食を差し出し、微笑みかけた。

「昨日、君が何も言わずに出て行ったせいで、俺、一晩中眠れなかったんだ。

今朝は早起きして君のために朝ご飯を買いに行ったんだよ。

まさか玄関で玲奈さんとばったり会うとは思わなかったけど、すごい偶然だね」

玲奈もすかさず会話に加わる。

「そうだよ、お姉ちゃん。凌也お兄ちゃん、本当にお姉ちゃんに優しいよね。私、羨ましいなあ」

紬希は二人を静かに見つめた。

玲奈の首筋にはいくつもの薄紅色の痕が残り、凌也の目の下にはうっすらと寝不足のクマが見えていた。二人は昨夜、ずいぶんと親密な時間を過ごしたのだろう。

それでも、紬希は何も見なかったふりをした。

「紬希、熱いうちに食べて。この店の名物はいつも行列ができるんだよ。かなり待ったんだから……」

「捨てて」

紬希の声はいつになく冷たかった。

「え……?」

凌也は思わず言葉を失った。

「黒川(くろかわ)さん、私の朝食はできている?」

まもなく、リビングのテーブルには色とりどりの豪華な料理がずらりと並べられた。

凌也はその場で立ち尽くし、どうしていいかわからず戸惑っていた。

家政婦の黒川は凌也の手から食べ物を受け取ると、口をとがらせて呟いた。

「篠原さん、うちのお嬢様は小さい頃から大事に育てられてきたから、来歴の分からない食べ物なんて食べさせられませんよ」

凌也の心に冷たい風が吹き抜けた。

まるで、昨夜の出来事を境に紬希が全くの別人に変わったかのようだった。

以前は、凌也と一緒なら、どんな食事でも笑顔で分け合ってくれたのに――。

玲奈は黒川の手を取って止めた。

「お姉ちゃん、これは凌也お兄ちゃんがわざわざ買ってきてくれたんでしょ?そのまま捨てちゃうなんて、あんまりじゃない?

彼の気持ちだってあるのに……」

紬希は食器を置き、ゆっくりと顔を上げて玲奈を見た。

「そんなに彼が大事なら、いっそあんたが彼を彼氏にすれば?」

「な、何言ってるの!」

凌也と玲奈がほぼ同時に声を上げた。

「紬希、どういう意味だよ?昨日、君は俺のプロポーズを受けてくれたばかりだろ?俺のどこかが気に入らなかった?それとも、何か誤解してるのか?」

凌也の声は、微かに震えていた。

「お姉ちゃん、誤解だよ。私、どうしてお姉ちゃんの……欲しがるわけないじゃない……」

玲奈は今にも泣き出しそうな顔をして、うつむきながら小さな声で言い訳した。紬希は口元を拭い、冷ややかな声で言い放った。

「それなら結構。自分の立場くらい、ちゃんとわきまえておきなさい」

凌也はすぐに黒川の手から食べ物を奪い取り、そのままゴミ箱へ捨てた。

「玲奈さん、俺と紬希のことに口出ししなくていい。紬希がいらないと言うものは、もう必要ないんだ。今日の俺が悪かった。今後は気を付けるよ」

凌也は迷いのない目で紬希を見つめ、さっきまでの戸惑いも、今は柔らかな優しさへと変わっていた。

紬希は終始冷ややかなまま、この茶番がどこまで続くのか、黙って見守ることにした。

「紬希、今日は君の再診の日だ。一緒に病院へ行こう」

朝食が終わると、凌也は有無を言わせず紬希を車に乗せ、病院へと向かった。

道中、紬希は薬瓶を取り出し、楽しそうに訊ねた。

「ねえ、なんであなたがくれた薬をこんなに長く飲んでるのに、うつは全然よくならないの?薬が合ってないんじゃない?」

凌也の顔に一瞬、動揺の色が浮かんだが、すぐに平静を装った。

「うつ病なんて、もともとそんなすぐに治るものじゃないよ。薬はあくまで症状を抑えるためのものだし、これ以上良い薬はないんだ。

ちゃんと飲み続ければ、きっと効果が出てくるよ」

いつも通り、凌也は紬希を診察室へ連れて行き、一杯のぬるま湯を手渡した。

「紬希、水でも飲んで、ここでちょっと休んでて。俺は治療の準備をしてくるから」

凌也が部屋を出ると、紬希はその無色透明な水を見つめ、口元にかすかな苦笑を浮かべた。

毎回、凌也が病院へ連れてくるたびに、紬希は「催眠治療」と称される処置を受けていた。

夢の中で孤独に追い詰められ、泣き叫びながら目覚めることもしばしばだった。

そのたびに、凌也はそばで優しく寄り添い、紬希のすべてを受け止めてくれた。

そんな時間を重ねるほど、紬希の中で凌也への依存はどんどん強くなっていった。

だが今日、紬希はそっと席を立ち、水を流しに捨ててしまった。

――本当に、彼はどんな治療をしようとしているのか、確かめてみたくなったのだ。

ところが、椅子に座り直した瞬間、突然、全身の力が抜けていく。

目がどうしても開かず、やがて意識が薄れていった。

うっすらとした意識の中で、男女の会話が聞こえてくる。

「さすが凌也だね。あんなに威張ってた深見家のお嬢様だって、今じゃただの操り人形。好きにしていいんだよね?」

――玲奈の声だ。

女の声は刺すように鋭く、どこにもかつての遠慮がちな態度はなかった。

紬希は必死に目を開けようとしたが、体は全く動かなかった。

「玲奈、言いたいことは今のうちに全部ぶつけたらいい。もう彼女には何も分からない。

今日は水に睡眠薬を仕込んだだけじゃない。部屋にも催眠用のアロマを焚いておいた。

二重の保険だよ」

凌也の冷え切った声が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる。

――なるほど。あの水を飲まなくても、どうせこの部屋にいるだけで眠らされる運命だったのか。

いったい二人は、彼女に何をするつもりなのか。

紬希はこのまま眠り込まないよう、なんとかして気をしっかり持とうとした。

「じゃあ、遠慮なく――」

玲奈は机の上から長い銀の針を取り上げると、容赦なく紬希の腕に突き立てた。

彼女の笑い声は、もはや正気の沙汰とは思えなかった。

「お姉ちゃん、あなたが毎回この治療室で私に痛めつけられているって知ったら、どんな気分?悔しいでしょ?」

激痛が腕を走り、紬希の体は小さく震えた。

――結局、凌也が病院に連れてくるたびにやっていた「治療」なんて、全部嘘だったんだ。

どうりで、目覚めるたびに体中が傷だらけになっているはずだ。

でも、彼はいつも「それは催眠中に自分で傷つけたものだ」と言い聞かせていた。

紬希はその言葉を、何の疑いもなく信じていた。

――まさか、その信頼が、彼女自身を何度も切り刻む刃になり、全身が傷だらけになるなんて。
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