深見紬希(ふかみ つむぎ)は、三年間も重いうつ病に苦しんできた。その間、篠原凌也(しのはら りょうや)は眠る暇も惜しんで、彼女の傍に寄り添い続けていた。 二十五歳の誕生日、凌也は盛大なバースデーパーティーを開き、皆の前で紬希にプロポーズした。 「紬希、一生をかけて、君を愛させてほしい。俺と結婚してくれ」 涙ぐむ紬希は頷き、二人は煌めく花火の下で、永遠の誓いを交わした。 特別に飾り付けられた高級ホテルのスイートルームには、バラの花びらが溢れていた。 凌也は紬希を何度も抱きしめ、夜が明けるまで、飽くことなく彼女を求め続けた。まるで彼女のすべてを、自分のものにしようとするかのように―― 紬希が疲れ果てて眠りに落ちるまで、凌也は名残惜しそうに、彼女を腕の中から離さなかった。 再び目を覚ましたとき、バルコニーから凌也の電話をする声が聞こえてきた。 「俺が紬希と結婚するなんて、あり得ないだろ?プロポーズなんか、演技に決まってるだろ。 紬希が結婚に同意しさえすれば、深見家は彼女の相続権を奪うはず。そうなれば、家業は全部玲奈(れいな)のものになる」 さっきまで熱く燃えていた紬希の身体は、今や震えるほど冷えきっていた。
view more「お前が篠原凌也か。忠告しておくが、これ以上社長に近づかない方がいい。次は無事じゃ済まないかもしれないぞ」凌也は怒りに満ちた目で睨み返す。「お前、誰だ?紬希とどういう関係だ?」郁弥は肩をすくめて笑う。「僕と社長の関係なんてどうでもいいだろ。とにかく、お前が無事でいたいなら、もう二度と彼女に近づくな」「紬希は俺の婚約者だったんだ。結婚寸前だった。お前に何の権利があって、二人の仲を邪魔するんだ?」「結婚?三年も刑務所にいたせいで、頭までやられたのか?お前が何をしでかしたか、もう忘れたのか。あのとき、お前は彼女を殺しかけたんだぞ。いくら昔愛されていたとしても、今はもう何の意味もないんだよ。現実をちゃんと見ろよ」郁弥は、目の前の男を見て――本当にもう正気じゃない、と呆れた。「違う、そんなはずない。紬希は今でも俺を愛している。俺が諦めなければ、きっと戻ってきてくれる……」凌也は地面に膝をつき、声をあげて泣き崩れた。あまりにみっともない姿に、郁弥は堪らず彼を殴り倒して、その場を後にした。けれど、彼の見立て通り、凌也はすでに心を病んでいた。かつては家族の期待を一身に背負い、前途洋々だった男が――いまや全てを失い、親族すら縁を切ろうとしていた。周囲の人間は誰もが彼を避ける。彼に残ったのは、紬希への異常な執着だけ。それからというもの、凌也は毎日のように紬希の勤めるオフィスビルの前に現れるようになった。手にはバラの花束、首からは大きなボードをぶら下げている。「深見紬希、愛してる。俺と結婚してくれ!」そんな奇行はたちまち話題となり、通行人が足を止め、野次馬が群がった。紬希は凌也がここまで狂ってしまったとは思わず、すぐに警察へ通報した。だが、警察がいくら排除しても、しばらく経つとまた現れる。ついには篠原家に連絡して引き取らせようとしたが、もはや家族は誰も彼に手を差し伸べようとしなかった。祖父は数年前に亡くなり、家そのものも既に没落していた。凌也は「捨て駒」となり、行き場もなく、街をさまようしかなかった。紬希はどうしようもなくなり、精神科の医師に相談して、病院に入院させるしかなかった。その後、病院のスタッフによれば、凌也は毎朝、ベッドの脇で膝をつき、かすかな声で何度も「紬希、ごめん」と繰り
やがて、この深見家の醜聞は、あっという間に世間へと広まっていった。「まさか名門深見家で、こんなドロドロの事件が起きるなんてね。庶子は実の娘じゃなかったうえに、父まで殺すなんて、ドラマよりよっぽど凄いわ」「こういう大きな家なんて、どこも中は真っ黒よ。でも、まだ紬希さんみたいにしっかりした娘がいてよかったわ。じゃなきゃ、あの家も終わりだった」「ほんと、男って若い頃のツケはいつか自分に返ってくるんだな」……そのとき、ノックの音が響いた。紬希はスマホの画面を閉じる。「若社長、深見社長の葬儀の準備はすべて整いました。明日はいろんな関係者が参列されます」「分かったわ」父が亡くなった今、深見家も会社もすべて自分のものになった。今、紬希は亡き父のオフィスに一人きりで座っていた。その胸の奥には、何とも言えない安堵が広がっていた。――父さん、ようやくあなたを見送る番が来たわ。葬儀の日、紬希は悲しみの表情を浮かべながら、参列者の視線を一身に浴びて、父の遺骨を墓所へと納めた。「お父さん、どうか安らかに眠って。これからは私が家を守り、深見家を必ず発展させてみせる」その場にいた誰もが胸を打たれる思いだった。葬儀が終わったその夜――紬希は郁弥を呼び出し、彼に運転してもらって、海辺まで行った。紬希は車のトランクから、ずっしりと重たい壺を取り出した。「社長……それは何ですか?」「もちろん、父さんの遺骨よ。あんな人に立派な墓なんて似合わないし、母の隣に眠る資格もないわ」蓋を開けると、骨壺の中身が風に乗って海へと舞い散った。「海の水は冷たく、魂を永遠に彷徨わせるって聞いたことがある。ここが父さんにふさわしい『墓』なのよ」その姿を見て、郁弥は目の前の紬希に戦慄すら覚えた。――もはや、昔の気品あふれる美女ではない。完全に「強者」そのものだ。その力強さに、少し怖ささえ感じる。けれど、今の自分にはほかに道はない。この女のために働くことが、唯一残された選択肢。――本来なら知るはずのなかった秘密を背負った者は、生きるか死ぬかしかない。郁弥は「生」を選ぶ。そして、これからも紬希と共に生きていくのだ。深見グループは紬希の指揮のもと、順調に権力移行を果たしていた。たった三年足らずで、紬希は思い切った改革を次
次の日、紬希は郁弥を伴って、定刻通りに本社へと足を運んだ。本社はこれまでの支社とはまったく雰囲気が違う。幹部はすべて父の腹心で固められ、社員も厳選されたエリートばかりだった。けれども、遠隔地の現場で鍛え上げた経験が紬希にはある。彼女はまったく物怖じしなかった。着任早々、紬希は新たな社内規則を打ち出し、「残業は一切禁止」と全社員に厳命した。深見グループは高給だが、その分仕事量も多く、残業が当たり前という環境だった。そのため、新制度が発表された瞬間、社員たちからは大きな歓声が上がった。人心をつかむ――それが彼女の最初の一手だった。だがすぐに、営業部の部長が彼女のオフィスに乗り込んできて、不満をぶちまけた。「若社長、こんなことをされたら営業部は困りますよ。みんな残業しないと、ノルマが達成できません!」「残業しないと達成できないノルマなんて、そもそも業務効率が悪すぎます。そんな時代遅れな働き方はもう終わり。必要なのは効率化です」しかし、追い返された営業部長は、そのまま職務放棄を始めた。営業部全体がストップし、会社の業務も停滞し始めた。郁弥は紬希に小声で耳打ちする。「これは、社長に対する露骨なサボタージュですよ。屈服を迫ってるんです」紬希は静かに笑った。「だったら、大きな勘違いね」数日後、紬希は営業部長を呼び出した。「ここ数日、営業部はどうなってる?業績が全く上がってないようだけど?」「若社長、これはあなたのせいですよ。残業禁止じゃ、うちの部署は成果が出ません。もう仕方ないです」「分かりました。では、今すぐ人事部に行って、退職手続きを済ませてください」「……え?」「つまり、あなたはクビということです」営業部長はその場で固まり、言葉を失った。「そんな……!私がこれまでどれだけ会社に貢献してきたか、分かってるんですか!」「会社の規則に従わなかったからです。もし不服があれば、労働審判に訴えてください」紬希は一度も目を合わせず、淡々と告げた。こうして営業部長は会社を去った。これをきっかけに、社員たちは紬希の強い覚悟と手腕を知ることとなる。誰も彼女の命令を軽んじる者はいなくなった。恩と威、両方を使い分けるこのやり方――やはり効果は絶大だった。紬希はこうして、不服従な社
紬希は郁弥を深見家当主の前に案内した。「お父さん、以前話した安原郁弥さんです」深見家当主は郁弥を頭の先から足元までじっくりと見つめ、その目に満足げな色を浮かべた。「やはり若いのに有能だと聞いているぞ。エンカでの働きぶりも評判がいいらしいな?」郁弥はひるまず、落ち着いた口調で答えた。「すべては紬希社長のご指導あってのことです。僕はただ、社長のサポート役に徹しているだけです」紬希は口元にわずかな笑みを浮かべた――ちゃんと功績を彼女に譲ってくれるとは、なかなか気が利いている。「紬希、ちょっと外してくれ。郁弥君と二人で話したい」「分かりました、お父さん」出ていくとき、紬希は郁弥に目配せをした。「ここがチャンスだぞ」と言わんばかりに。……「火事の時、紬希を助けたのはお前だったそうだな?」深見家当主の表情は読めなかった。郁弥はうつむいて、「はい、あれは本当に偶発的な事故でした。ただ、紬希社長に怪我がなかったのが何よりです」と答える。当主の顔つきが急に厳しくなり、その声には圧倒的な威厳が宿った。「若いうちは、野心を持つのも自然だ。しかし、その野心をどこに向けるかで人生は決まる。道を間違えれば、すべてを失うぞ」郁弥は緊張しながらも、「……あの、深見さん、私にはおっしゃる意味がよく分かりません」と返す。「紬希はお前を信頼しているし、俺も期待している。だが、余計な気持ちは持つな。あの子は俺のたった一人の娘であり、いずれ深見家を継ぐ者だ。もし少しでも邪な気持ちを持ったら、その時は容赦しない」やっと深見家当主の意図を悟り、郁弥はあわてて頭を下げた。「ご心配には及びません。私がエンカで働くのも、紬希社長の補佐がすべてで、それ以上の思いは一切ありません」「それでいい。ちゃんと働いてくれれば、こちらも相応の待遇は約束しよう」当主の口調がやっと和らいだ。紬希の周囲に信頼できる人間がいれば、彼も安心できる――だが、決して再び凌也のようなことが起きてはならないと、強く思っていた。「それじゃあ、私はこれで失礼します」郁弥は深見家を後にした。背中には冷や汗がびっしょりとにじんでいた。深見家当主の放つ威圧感は、どんな現場よりも強烈だった。初めて紬希に会ったその日から、彼女に強く心惹かれてきた――だ
紬希は、再び会いに来た凌也を容赦なく門前払いした。「今さら会う必要なんてない。全部、法廷で話すだけ」「紬希、謝りたくて来たんだ。許してほしいなんて思わない。ただ一目でいいから会わせてくれないか?」「その必要はない。会いたくもないし、謝罪も聞きたくない。謝って済むなら、法律なんていらないでしょ」紬希の冷徹な態度に、凌也はもう自分に二度とチャンスがないことを悟った。――もし人生をやり直せるなら、絶対に紬希だけを愛し、傷つけることなんてなかったはずなのに。だが、もうすべてが遅すぎた。彼は、最愛の人も、情熱を注いだ仕事も、何もかもを失ってしまった。……開廷の日。紬希は、この日のために特別に目立つ装いで法廷に現れた。この晴れやかな姿で、凌也の犯した罪を堂々と糾弾したかった。一方、法廷に連行された凌也は、もはやかつての輝きなど微塵もなく、無精ひげとやつれた顔で、完全に覇気を失っていた。紬希の姿を見た瞬間、凌也の目には一瞬だけ動揺が走る。「証人に伺います。被告があなたに違法薬物を投与し始めたのは、いつごろからですか?」「三年前です。重度のうつ病だと診断されてから、彼は私にこの薬を処方し始めました。最初は一錠でしたが、徐々に量を増やされていきました」「証人は、その薬が違法薬物だといつ気付きましたか?」「篠原さんが私にプロポーズした後、彼が電話で誰かと話しているのを偶然聞いてしまったことで初めて知りました」ここまで語ると、紬希は当時の苦しい記憶が蘇り、感情を抑えきれなくなった。「篠原凌也、あなたは本当に人間の皮をかぶった悪魔よ!」裁判官が木槌を鳴らして静粛を促す。「証人、冷静にお願いします」「被告に問います。なぜ証人に違法薬物を投与したのですか?」それまで虚ろな表情だった凌也の顔に、苦悩が走る。喉仏が激しく上下するものの、なかなか言葉が出てこない。裁判官が再度厳しく問いかける。「被告人、きちんとお答えください」だがこのとき、凌也の弁護士が立ち上がった。「裁判長、私の依頼人は本件について回答を控えたい意向ですので、弁護人の立場から申し上げます。先ほど証人が『電話で会話を聞いた』と述べましたが、本当にそのような会話があったかどうか、信憑性には疑問が残ります。医師として、私の依頼
紬希が家に戻って最初に向かったのは、玲奈が幽閉されている部屋だった。かつての令嬢の面影はどこにもなく、全身傷だらけで、道端の物乞いよりもみすぼらしい姿だった。「この間、どう過ごしてた?」玲奈は紬希の顔を見るなり、憎悪を込めて叫ぶ。「あなた、一体どんな手を使ったの?どうやってパパに私が実の娘じゃないと思わせたのよ!」紬希はふっと笑う。「本当におバカさんね。父さんがO型だって知らなかったの?O型の親からAB型の子どもは絶対に生まれないのよ。あなたの母さんから教えてくれなかった?要するに、あんたの母さんは父さん以外にも男がいたってこと。本当に運が悪いわね、あなたはその男の子だったなんて。天国から地獄への転落はどんな気分?父さんは人生で一番嫌うのが『裏切り』よ。あなたはこれでもう終わりよ」玲奈は涙を流しながら叫ぶ。「深見紬希……私、たとえ死んでも絶対に許さない!」だが紬希はもう、これ以上この女と関わるつもりはなかった。この顔を見るたび、過去の屈辱が蘇ってくる。もう二度と、誰にも踏みにじられないと誓ったのだ。そのとき、背後から懐かしい声が響いた。「娘よ、やっと帰ってきてくれたんだな。ずっと待ってたんだぞ」深見家当主は珍しく紬希を両腕で抱きしめた。最後に父に抱きしめられたのがいつだったか、紬希にはもう思い出せなかった。子どものころ、泣きながら「行かないで」と父を引き止めようとした日々が蘇る。あの頃、あれほど欲しかった父の愛情も、今はもう必要としていない自分に気づいた。紬希はぎこちなく父の腕から身を引き離した。「お父さん、これ――旅先で手に入れたお土産だ」いくつかの特産品を差し出すと、深見家当主は目を細めて喜んだ。「本当に成長したな。父さんにまでお土産を選んでくれるなんて」紬希は心の中で冷たく笑う。小さいころ、何ヶ月もかけて手作りのプレゼントを父の日に贈ったことがあった。でも父は一度も目を向けず、机の上に投げ捨てて、最後はゴミとして処分された。あの日から、彼女は二度と父にプレゼントを贈らなかった。――父親として、あの人は失格だと思ったから。だが今となっては、彼女はそんなこともうどうでもよくなった。本当に価値があるのは、権力と富だけ。それをこの手で掴み取ること
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