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駆け抜けていった愛

駆け抜けていった愛

By:  栗栗Completed
Language: Japanese
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小野希穂(おの きほ)はついに悟った――速水日高(はやみ ひだか)が本当に愛していたのは自分ではなかったのだ。 何度も繰り返し、日高は隣に住む女のために、自分とお腹の子供を捨てたのだった。 深く傷つき、そして日高にすっかり失望した希穂は、妹の元で暮らすようになり、やがて本当の愛情というものを見つけ出した。 もはや日高の愛など、彼女には必要なかった。 彼の存在さえ、今や遠い過去の記憶にすぎなかった。

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Chapter 1

第1話

結婚して2年、水瀬一花(みなせ いちか)が引き出しの整理をしている時、婚姻届受理証明書がうっかり破けてしまった。

それで再度発行してもらおうと役所へ行き、申請すると、職員が困惑して言った。「申し訳ございません。既婚である事実は確認できませんが」

「そんなまさか、結婚してもう2年なんですよ?」一花はそう言うと、真っ二つに破けてしまった婚姻届受理証明書を職員に渡した。

職員はしっかりと三回確認して、パソコン画面を見つめながら一花に言った。「本当に結婚手続きされた記録は確認できません。それに、この判子も役所のものとは少し違うようです……おそらく、偽物でしょう」

あまりの出来事に気が動転して役所を出てきた一花のもとに、一本の電話がかかってきた。

「水瀬様でいらっしゃいますか?こんにちは、私はお父様からご依頼を受けた弁護士です。財産相続の件でサインをいただきたいので、河野総合法律事務所までお越しいただきたく存じます。お時間ございますでしょうか?」

詐欺電話かと思い、一花が電話を切ろうとしたその瞬間、相手が突然こう言った。「水瀬様、お母様の水瀬雪乃(みなせ ゆきの)様が、20年前に水瀬様を市内のひかりの丘学園の前に置いていかれました。調査した結果、あなたは南関市のトップに君臨する財閥家出身である西園寺匠(さいおんじ たくみ)の血を引いている唯一の娘様だったのです」

それを聞いた瞬間、一花はその場でピタリと体の動きを止め、すぐに弁護士事務所へと向かった。

彼女は弁護士から今までの人生において、最も衝撃的な話を聞かされたのだった。

彼女の実の父親は西園寺匠であり、西園寺家は莫大な資産を持つ財閥家である。彼は先月亡くなり、彼名義の株、不動産、会社を全て合わせると余裕で兆を超えていた。そして一花は彼の血を引く娘だったのだ。

あまりの衝撃で頭が追いつかない中、弁護士が突然質問してきた。「水瀬様はご結婚されていますか?お子様は?」

その瞬間、夫のあの顔が脳裏に浮かび上がった。

それからカバンの中の偽造された婚姻届受理証明書のことを思い出し、彼女はペンを持つ手に力を込めた。「2時間ほど待ってもらえませんか。少し確認したいことがあるんです」

弁護士事務所を出ると、一花はまっすぐに夫の会社へと向かった。

夫である黒崎慶(くろさき けい)のオフィスのドアは少しだけ開いていて、一花が押し開けようとした時、大人の女の甘ったるい声が聞こえてきた。

「慶、私たち結婚して5年よ。一体いつになったら、みんなに公表してくれるの?」

一花は瞬時で固まってしまった。

この声には聞き覚えがある。大学時代の指導教員である柏木綾芽(かしわぎ あやめ)だ。

綾芽は慶よりも6歳年上なのだが、年上であるだけでその美貌やスタイルはまさに女優並みだった。

大学の中で綾芽は男女問わず人気があった。さらに大学で一番の指導教員だとも謳われていた。

一花が息を殺し、音を立てないようにしていたその次の瞬間、夫のあの常に優しく魅力的な声が響いてきた。

「会社はもうすぐ上場するだろう。まだまだ彼女には力になってもらわないといけないんだ。それに、じいちゃんが昔残した遺書には、君を黒崎家に入れるなとある。もし、今俺たちの関係を公表してしまえば、きっとばあちゃんから君がひどい目に遭ってしまうよ。それじゃ俺はとても耐えられないよ……」

一花はもう頭の中がパンクしてしまい、口元をしっかり手で押さえて、喉元からあがってくる嗚咽を漏らさないように必死に堪えていた。

あの破れた婚姻届受理証明書を恐る恐る繋ぎ合わせて、まるで大事な宝物のようにそっとカバンの中になおした。

初めから彼女はこの二人の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。

そして一花は急いで会社を出ると、すぐに電話をかけた。彼女は深呼吸し、さっきとはまるで別人のように冷静な声でこう言った。

「河野弁護士、財産相続の書類に今すぐサインします。

それから、私は未婚で子供もいません。すべての遺産を私一人で相続します」

その手続きを済ませると、一花は家まで車を走らせた。その途中ずっとぼうっとしていて、うっかり後ろから衝突されてしまい、額に軽い傷ができてしまった。

病院で傷の手当てをしてもらい、何かを思い立ったかのようにそのまま産婦人科へと向かった。

検査結果を受け取り、一花はようやく憂いがなくなりスッキリした。

「つまり……子宮には何も問題がない、ということですよね?」

「そうですよ。検査結果を見ると、お体はとても健康そのものです」

「妊娠できますか?」

「もちろんですよ」

「じゃあ、夫婦の夜の営みにも影響はないってことですよね?」

一花のその言葉を聞いて、五十過ぎの女性医師は少し気まずそうにしていた。「そこまで説明する必要がありますかね?」

しかし、結婚前の検査では、慶が彼女の検査結果を見て子宮に大きな問題があり、妊娠できないだけでなく、性行為をすると体は取り返しがつかなくなるほどダメージを受けると説明したのだ。

「それでも、君と結婚したいんだ」と当時、慶は一花の手を握りしめて優しい決意の眼差しで見つめてきた。「一生、君しかいないよ」

その誓いのために、二人は猛反対する黒崎家に立ち向かったのだ。

一花は直に義父が湯飲みを激しく床に叩きつけ、怒鳴り散らすのを目の当たりにした。「世継ぎを生めないような女なんかと結婚する気か」

慶の母親は家族が集まっている中、親戚に泣きながら訴えた。「うちの慶はとんでもない女に騙されてしまったわ」

しかし、毎回彼は笑顔で言っていた。「家族の言うことは聞かなくていい、俺がいるからね」

2年という結婚生活の中、義母はことあるごとに一花を責めた。「子供を生めない役立たず」だの「子供が生めないくせに、結婚して何になるっていうのよ?」という言葉がまるで呪いのように一花を苦しめ、彼女は長きに渡り不眠の夜を過ごした。

一花が交通事故にあったという知らせを受けて、慶はすぐに病院まで駆けつけてきた。

真っ白なシャツを着た、一メート八十を超えるスラリとした長身の彼が勢いよく駆けてくるのを見て、一花は6年前の彼との出会いをふいに思い出した。

二人が初めて出会ったのは、指導教員である綾芽のオフィスで、同級生の代わりに書類を持って来た時のことだ。その時、慶はちょうど綾芽と何かを話し合っていて、視線を上げると一花と目が合い、礼儀正しく会釈だけした。

それからというもの、4年に渡り彼から猛アタックされたのだ。

慶は誰もが認める大学のアイドル的存在だった。そのルックスは言うまでもなく、成績優秀で、家柄も申し分ない男だった。

それに彼は女性を口説く時は非常に積極的で、誰に対しても優しく穏やかな性格をしているものだから、そんな彼を拒否できる女の子などほとんどいなかった。

そして一花も例外ではない。

彼女は孤児として育ち、性格はクールで誰かとグループを作って群れることなく一匹狼だった。そんな彼女でも、他の女の子たちと同様に、慶からの猛アタックには負けてしまった。

病院に駆けつけてきた慶は一花に何を話しかけても反応が返ってこなかったので、彼女が事故でショックを受けていると勘違いした。そしてすぐ一花を抱き寄せた瞬間、彼女は反射的に彼を力強く押し退け、立ち上がった。

「行きましょ」

短くそう吐き捨てると、一花は慶の横をスッと通り過ぎていった。

以前とても落ち着ける場所だった彼の懐は、今ではただ不快でしかなかった。

車に戻ると、慶はやはり一花の状態を心配していた。

「何があった?今までは運転にはかなり気をつけていたのに、今日は一体どうしてしまったんだ?」

「……」

一花は慶に返事はせず、自分の手に視線を落とした。すると指にはめられた大きな輝くダイヤの指輪が目障りに映った。

一花に無視されても慶は全く意に介さず、自然に彼女の手を握った。

そしてまた、一花はその手を避けた。

「なんで怒ってるんだ?分かったよ、言いたくないなら無理に聞かないから。

今日うちに重要なお客様が来たんだよ。家政婦さんには君の好きな料理をたくさん作ってもらってるんだ。君のご機嫌がそれで直るといいんだけど」

一花にこのような態度をされても慶は非常に優しかった。しかし、彼にこう優しくされればされるほど、一花は笑いたくなってくる。

「気持ちを切り替えて、怒らないで、ね。今忙しいのが終わったら絶対君と一緒にいる時間を長くするから。最近会社は上場する準備で、とっても忙しいんだよ」

慶は一花の機嫌が少し直ったと思い、笑顔を見せた。

「そうね、怒ってないで気持ちを切り替えなくっちゃね、私って本当に彩り豊かな人生を送っているわ」

一花のその言葉に隠れた意味を、慶は理解していなかった。

黒崎家の豪邸は、南関市の一等地である峰葉ヒルズにあり、その敷地面積は150坪以上だ。

しかしそれは、一花が大学を卒業して自分の事業を諦め、彼の会社に尽力した結果得られたものだった。

家に到着してすぐ、楽しそうな笑い声が二階から聞こえてきた。

男の子に、それから優しい女の声だ。

男の子は、一花と慶が結婚してすぐに養子として迎えた子で、今年5歳、名前は黒崎颯太(くろさき そうた)と言う。

一花が視線を上げると、そこには5年間会っていなかった綾芽の姿があった。今やそれを見てもまったく驚くこともない。

綾芽はブルーのニットスカートに、ウェーブがかったロングヘア姿だ。30歳を過ぎているが、まだ20歳を少し超えたくらいの若々しい顔で、輝くオーラを放っていた。

「一花、一体誰が遊びに来たと思う?」

横から聞こえる慶の低いその声からは喜びがにじみ出ていた。

一花は初めてこの横にいる男がここまで気分を向上させているのを見た。

普段、彼がいくら一花を気遣い、優しくしてくれたとしても、今のようにここまで嬉しそうに気持ちを興奮させることはなかった。

それは無意識のうちに溢れ出す、男が愛する女性へ向ける時の情熱のエネルギーなのだろう。

「柏木先生?」一花はわざと眉を寄せて驚くふりをしておいた。

しかし、内心は嫌悪で満ち溢れている。

この時、目の前にいるこの綾芽は大らかで優雅、さきほど会社のオフィスで見せていた甘ったるい様子など微塵も見せなかった。

「水瀬さん、お久しぶりね」

綾芽はすぐに颯太の手を繋ぎ、二階から降りてきて、心を込めて一花に挨拶をした。

そして一花は颯太のほうを見た。

慶は結婚後すぐに一花に相談してきて、以前彼女が暮らしていたひかりの丘学園から男の子を養子として迎え、黒崎颯太と名付けたのだ。

この子を養子とすれば、黒崎家の年配陣の要求に応えることができ、二度と一花に子供のことで責めることはないという名目だった。

その時、一花は慶が自分のためにそう考えているのだと思い、すぐに同意したのだ。

それがまさか、颯太を養子として世話をしてきた2年、ここまで苦労するとは思ってもいなかった。

この子は気性が激しく、何か面白くないことがあると、まるで彼女に敵意があるかの如く、すぐに何か物を一花に投げつけてくるのだ。

しかもある時、彼は一花のいる目の前で、慶に本物の母親を返せと騒いだこともあった。

一花の我慢が限界に達し、慶に養子として育てるのはやめたいと訴えたことがあるが、彼はいつも彼女をどうにか説得してきた。

颯太には母親がいなくて可哀想だから、一花にはもっと寛大な心で受け止めてやってほしいと言うのだ。そして一花も小さい頃に両親に捨てられたじゃないかと、孤児であることを思い返させるのだ。

そして今、颯太がしっかりと綾芽の手を握っている光景を見て、慶が自分に対して行ってきた態度を合わせると、全てが繋がった。

慶と綾芽は結婚してもう5年、颯太は5歳だ。

黒崎家は綾芽を嫁として迎え入れる気はなかった。それで……慶は一花を騙し、うまく利用してきたということなのだろう。

食事の間、慶と颯太はひたすら綾芽におかずを取り分けてあげ、この三人で楽しい雰囲気を作り上げていた。そして傍でただ黙々と食べている一花は蚊帳の外だった。

「一花、柏木先生はね、最近育児に関する書籍を執筆中なんだ。先生は静かな環境で集中したいそうで、ちょうど会社のほうも忙しいし、君がやることも多いだろう。だからさ……」

そしてタイミングを見計らって、慶は茶碗と箸をテーブルに置くと、一花に向かってこう言った。

「それで、柏木先生には暫くの間ここで暮らしてもらおうかなって。彼女も忙しい君に代わって颯太の世話をしてくれるって、この子も先生のことがとても気に入ってるみたいだしね」

それはもう滑稽でしかない。

こそこそと裏で結婚し5年もの間好き勝手楽しむのに飽きたらず、今度は正当な理由をつけて、この女をここに住まわせようということか?

一花はまるでその言葉など聞こえなかったかのように、ゆったりと食事を続けた。

その場の空気は瞬時に凍り付いた。

慶は少し気まずそうに声を小さくして彼女に注意した。「一花、君に話しかけてるんだよ」

すると、一花が茶碗をテーブルに置く音がカチャンと響いた。

一花が口を開く前に、綾芽がすぐに声を出した。

「ごめんなさいね。私のせいだわ。あなた達を困らせちゃって。水瀬さん、慶君はただちょっと提案してくれただけなのよ。彼もあなたが仕事が忙しいうえに、家のこともしないといけないから、それを心配しているの。それに颯太君のお世話だって、とても大変だろうし、私がお手伝いを……」

「嫌だ!僕は綾芽さんにいてほしいの!」

そう言うと、綾芽の隣に座っている颯太がすぐに不満を漏らした。

綾芽が話している途中で、彼はすぐに箸を投げ捨ててテーブルを叩き始めた。

「颯太君、そんなことしちゃダメよ……」

「颯太、はしたないわよ!」

彼の様子を見てすぐに止めに入った綾芽と、普段の癖で颯太を叱責する一花の声が同時に響いた。

すると颯太は一花をギロリと睨みつけ、腹を立ててコップに入った水を一花にぶちまけた。

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mogo
mogo
日高も愚かだけど、夢夢の覚悟の無さと厚かましさが1番ムカつくなぁ。 最後まで日高のせいにしたけど、本来他人の子身篭った女を面倒見る必要はないからな。
2025-10-25 12:09:51
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31 Chapters
第1話
ベルが鳴り、小野希穂(おの きほ)は妹からの電話に出た。「姉さん、前から海が見たいって言ってたよね?あんなに姉さんを大切にしない夫なら、いっそうちに来ない?これから一緒に子供育てようよ」希穂は鼻をすすり、うなずいた。「……一週間後に行く。その間に荷物まとめるから」電話を切ると、家路についた。しかし、さっき目にした光景が頭から離れなかった。速水日高(はやみ ひだか)は雪村夢夢(ゆきむら むむ)を気遣うように座らせると、上着を脱いで彼女の下に敷いた。あちこち走り回って果物を洗い、得意げな笑顔で夢夢に食べさせていた。「妊娠中は日光浴が大事だ。赤ちゃんにもいい。医者も言ってた、適度な果物は問題ないって。食事で分からないことがあったら俺に聞けよ。相変わらずのうっかりさんじゃ困るからな」男は溺れるように少女の鼻を軽くつまむと、彼女は照れくさそうに手を引っ張って甘えた。「日高さん、本当に優しい……私にも赤ちゃんにも。生まれてくる子、きっと恩返しするわ。私がこんな状態になって、親戚みんな避けてるのに、日高さんだけが助けてくれる……感謝のしようがなくて」涙ぐむ夢夢を、日高は胸に抱き締め、優しく囁いた。「夢夢、泣くなよ。こんなに泣いたら、せっかくの綺麗な顔が台無しになっちゃうよ、赤ちゃんまでしかめっ面になっちゃうぞ」その冗談に夢夢は笑い、拳を振り上げるふりをしたが、逆に手を握られて温められた。自分の夫は、他の妊婦を完璧に世話していたとは。「俺はせっかちで雑な性格でさ」と言いながら、妻には起きて水を一杯くれるのも面倒くさがっていたくせに、夢夢には「日光浴が大事だ」と優しく説いていた。「人を慰めるの苦手だし、女の子を喜ばせるのもわかんない」と言いながら、夢夢を泣かせないように、冗談を連発していた。いつも夢夢にサプライズを仕掛け、家に帰ると疲れた顔で、不機嫌さを妻にぶつけた。希穂は悟った――四年間共に寝た相手は、愛し方がわからないのではなく、ただ自分を愛さないだけなのだ。スマホを取り出し、日高に電話をかけた。何度も切られるが、五回目にしてようやくイライラした声が返ってきた。「会社で残業中だ。用事なら帰ってからにしろ」一言も返す間もなく切られた。庭から夢夢のぶりっこの声が聞こえた。「日高さん、帰ったら?
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第2話
希穂は日高とのチャット履歴を読み返した。自分からの長文に対し、彼の返信は一月分合わせても二十字に満たない。【日高、夕飯待ってるよ。酢豚作ったから】【残業】【お風呂で転んで血が出た。病院に連れて行ってくれない?】【夢夢と病院で】【台風が来るらしくて怖い。帰ってきて】【忙しい】熱い想いを込めたメッセージは、彼の冷たい返事によってことごとく打ち砕かれた。全ては夢夢が現れてからだ──彼の「世話が必要な近所の妹分」、同時に初恋の人だった。希穂はふと気づいた。この片思いのような結婚生活に、もう耐えられないのだ。彼女は手のひらでお腹をさすり、呟いた。「赤ちゃん、ママ一人でもきっと立派に育ててあげる。ママのこと……恨まないでね」パパはもう要らない、私たちが彼を捨てる。迷いはもうなかった。日高と夢夢を成就させるために、ここを去ると決意した。あの日、妹の小野茜(おの あかね)から連絡が入った。「今年は海辺にカモメの群れが来てるよ。一緒に住もう」以前なら家庭も、愛する日高も捨てきれずに躊躇していた。今は心が冷め切って、未練など何もない。一週間後、永遠に別れよう。日高が帰宅したのは夜七時過ぎ。食事の準備もないテーブルに眉をひそめ、ソファに横たわる希穂を見た。「今日は夕飯作らなかったのか?」彼女は体を起こし、目元まで届かない笑みを浮かべた。「つわりでキッチンに入れなくて。ごめんね」日高の表情が明らかに険しくなった。「それで子供を飢えさせるつもりか?」彼女は嗤った。「この子の生死、気にしてたっけ?同じ妊婦なのに、私のつわりはわがままで、雪村のつわりには全力で駆けつける。二重基準もいい加減にしなさい」もうどうでもいいから、言いたいことを全部言ってやった。同時に、今までどれだけ我慢してきたかを改めて思い知らされた。日高は無言で、周囲の空気が凍りついた。普段の希穂なら、こんな口の利き方はしない。いつも笑顔で、柔らかな口調で、彼の機嫌を取っていた。妊娠の影響か、今の彼女は毛を逆立てたウサギのようだ。彼は上着を脱ぎ、鍵を手に外出しようとした。「新しいプロジェクトで遅れた。外で買ってくるから待ってろ」希穂は少し驚いた。夢夢との戯れを見ていなければ、この優しさにまた騙さ
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第3話
しばらくして、日高は顔を上げた。「希穂、相談があるんだ」まだ混乱している希穂は、軽く頷いて促した。日高は少し躊躇い、視線を泳がせた。「夢夢をしばらく家に住まわせたいと思ってる。最近天気も悪いし、一人暮らしは危険だ。空いてる部屋もあるし、掃除すれば住める状態になる。お前の面倒も一緒に見られるから……」希穂の手から箸が床に落ちた。日高は拒否されたと思い、慌てて言葉を続けた。「希穂だって妊婦なんだから、夢夢の大変さは分かるだろう?それに彼女は頼れる人もいなくて、鬱病も抱えてるんだ。もし自殺でもしようものなら、母子共に危ない。お前には家族も友達もいるが、彼女には俺たちしかいない。二人で妊婦同士の話もできるし、いいと思うんだ」これはおそらく、結婚生活四年間で彼が最も長く、最も忍耐強く話した瞬間だった。希穂の目は乾いていて、もう涙など出そうになかった。彼は彼女に夢夢の可哀想さを理解しろと言っている。だが、誰が妻の彼女の気持ちを理解してくれるのか?ただ彼を愛し、無条件に従うからこそ、何度でも彼女の限界を試せると思っているのだろうか?さっきまで日高に抱いた微かな期待は、一瞬で灰になった。長い沈黙の後、ようやく口を開いた。「つまり日高、今日急に優しくして靴下まで履かせてくれたのは、全部前振りだったのね?雪村を家に招き入れる時に、私がすんなり承諾させるために?」彼が良心に目覚めたと思った自分が愚かだった。全ては夢夢のためだ。彼は夢夢のために、ここまで周到に準備していたのだ。日高は希穂が拒否すると思い、さらに説得しようとしたが、彼女は突然穏やかに微笑んだ。「いいわよ。問題ないわ。連れてきて」希穂はあっさり承諾した。拒んでも結局夢夢は入ってくる。もうこんな些細なことにこだわる意味なんてない。どうせすぐに去るのだから、この家はこの二人のものだ。彼女にはもうどうでもよかった。日高は信じられない様子だった。こんなにあっさり承諾されるとは思っていなかった。説得のための台詞も用意していたのに、まだ使う間もなく決着がついてしまった。「一人でいるのも退屈だし、話し相手がいてもいいわ。あなたもずっと望んでいたんでしょ?」彼は安堵のため息をつき、薄く笑った。「分かってくれてありがとう。夢夢もきっと
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第4話
食事を途中で切り上げ、希穂は部屋へ戻ると、さっき日高が履かせてくれた靴下をすぐさま脱ぎ、嫌悪感たっぷりに洗濯かごへ放り込んだ。リビングでは日高が早速夢夢に電話をかけ、嬉しそうに報告していた。電話の向こうからも弾んだ声が聞こえてくるようだった。「本当?小野さん、本当に優しい方だね!すぐに荷物をまとめる。たくさんは持っていきかないから」「いや、無理するなよ。俺が後で片付けに行くから、君はゆっくり休んでいろ。転んだりしたら大変だ」べたべたとした会話がようやく終わり、希穂は分厚い布団を抱えてリビングに現れた。「この布団は暖かいから、夢夢さんの部屋に持っていってあげて。夜は冷え込むでしょう」日高は目を見開いた。これは彼らの新婚初夜に使った特別な布団だ。希穂でさえ滅多に使わなかったものを、どうして夢夢に譲ろうとするのか?これも妊娠の影響なのだろうか?母親になることで、こんなにも寛大になれるものなのか?彼は動かなかった。「いいよ、新しいのを買ってくるから。これは希穂のものだろ」希穂は涼しい笑みを浮かべた。「しまっておくだけだし、無駄遣いしなくていいわ。どうぞ持っていって」日高は彼女が部屋へ消える後ろ姿をただ茫然と見送るしかなかった。希穂がまるで別人のように感じられた。以前とは全く違っていた。以前なら夢夢との関係を知れば、烈火のごとく怒り狂い、「厚かましい女」と罵ったものだ。家で夢夢の話題が出れば、「なんであの子ばかり気にかけるの?私があなたの妻でしょ!」と泣き叫んだものだ。だが今は、夢夢を家に住まわせることをすんなり承諾しただけでなく、自分たちの思い出の布団まで進んで提供しようとしている。全てに対して無関心な態度だ。彼は喜ぶべきだった。これで夢夢の面倒を自由に見られ、希穂の嫉妬に煩わされることもない。しかし、なぜか心から嬉しいとは思えなかった。むしろ胸の奥にぽっかり穴が空いたような、言いようのない虚しさを感じていた。
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第5話
翌日、夢夢はさっそく引っ越してきた。大きな荷物で日高の両手をふさがせ、本人は手ぶらでのんびり歩いている。希穂はリビングからその様子を見つめ、思わず拍手したい衝動を抑えた。他の女性の前では、彼女の夫は見事な旦那に変身したのだ。夢夢が駆け寄り、彼女の手を握った。甘ったるい声に彼女の胃がひっくり返りそうになった。「小野さん、受け入れてくれて本当にありがとう。私も一人暮らしで大丈夫だと思ってたんですけど、日高さんがどうしても心配で……お言葉に甘えてお邪魔させていただきます。お宅は本当に素敵で居心地がいいですね。こんな素晴らしいお家をシェアしてくださって」無邪気そうな顔をしているが、その目には挑戦と野望が満ちあふれていた。希穂は笑いをこらえた。今は住まいをシェアし、次は夫をシェアするつもりだろう。夢夢の貪欲さは、誰の目にも明らかだった。希穂も負けじと手を握り返した。「どういたしまして。気に入ってくれて嬉しいわ」夢夢は予想外の反応に面食らった。希穂が以前のように暴力的に出れば、弱々しく装って日高の怒りを買わせるつもりだった。しかし希穂は完璧に防御し、一切の隙を見せなかった。「夢夢、部屋を見てみろ。飾りの多くは希穂が譲ってくれたものだ。以前は誤解があったと謝りたいらしい。仲良くしてくれれば、俺も仕事に集中できる」夢夢は作り笑いで感謝を述べながら、心の中では希穂を罵り続けていた。希穂の真意がますますわからなくなっていた。希穂が譲ったものは、かつて日高を想いながら揃えたものばかりだった。愛に満ちた家庭を作れば、彼が自分を見てくれると思っていた頃の品々。今ではただの邪魔で、夢夢の部屋に移した。日高は浴室のタイルに新しいマットを敷き詰めていた。夢夢が滑らないように。以前、希穂が何度「滑って危ない」と訴えても、「忙しい」と取り合わなかったのに。愛されているかどうかは、こんなにも明白なものだった。今となっては彼に未練などなく、そんな些細なことで傷つくこともない。夕食時、二人は希穂を無視して互いに料理を取り合っていた。夢夢は目をきらきらさせ、山盛りのご飯茶碗を手で覆いながら、「日高さん、もう食べきれないわ。小野さんにもおかずを取ってあげて。妊婦さんは大変なんだから」と、言った。日高は我に返り、希穂の
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第6話
駆けつけた夢夢はいち早く涙目になった。「私が悪いんです……小野さんが海老を食べられないなんて知らなくて。私が日高さんにおかずを取るようお願いしなければ……」希穂はさらに吐き気を催したが、日高はこうした芝居に毎回まんまと引っかかる。「夢夢、君のせいじゃない。俺が取った料理だ。君はただ親切にしただけだ。希穂もそんなことで責めたりしない。俺の記憶力が悪かっただけだ」夢夢がさらに言い訳しようとした瞬間、希穂は立ち上がって遮った。「責めてないわ。泣くのはやめて。まるでつわりしてるのがあなたみたい」夢夢は喉元で言葉を詰まらせ、しゅんと口を閉ざした。このような涙の演技は、希穂には通用しない。日高はまた仲裁に入った。「希穂が道理をわきまえてるのは知ってる。今回は俺が悪かった。別の料理を作り直そうか」希穂は感激して泣き出すどころか、涼しい表情で言い放った。「あなたも責めてないわ。私が妊娠で神経質になってるだけ。珍しくおかずを取ってくれたのに感謝もしなかったし。作り直す必要ないわ。昨夜テレビで嫌なもの見たせいか食欲ないから、お二人だけでゆっくりどうぞ」二人のいちゃつきを見ているより、部屋で貯金の確認をする方がよほどましだった。ドアを閉める希穂の後ろ姿に、日高は呆然と立ち尽くした。彼女は責めもせず、怒りもせず、もはや彼を気にかけてもいない。それなのに奇妙なことに、彼の心の奥では「私の好みも覚えてないなんて、あなたには愛がないのね」と昔のように罵ってほしいと願っていた。そうでもしなければ、胸のつかえが下りないような気がした。夢夢は袖を引っ張りながら訴えた。「小野さん……きっと怒ってる……私を追い出したら?」三度繰り返してようやく日高は聞き取った。「そんなことない。希穂はそんな心の狭い人間じゃない」夢夢は口では「そうだね」と応じながら、心では決意を固めていた。もっと強硬な手段を使わなければ、手に入れたはずの日高も逃げてしまうかもしれない。
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第7話
翌日、日高が出勤すると、家には夢夢と希穂だけが残された。愚かな男がいなくなると、夢夢は仮面を脱ぎ捨て、本性をむき出しにした。「小野さん、本当に我慢強いわね。私がこんなに傍にいるのに、まだ耐えられるなんて……呆れるほど感心しちゃう。私だったらとっくに綺麗さっぱり身を引いてるわ。私がここに入り込めたんだから、いつかあなたを追い出すことだってできるわ。誰がどう見たって、日高さんはもうあなたに興味なんてないんだから。ただあなたが一方的にしがみついてるだけよ」言葉が終わらぬうちに、希穂は素早く彼女の頬を平手打ちした。「それだけ言いたいの?相手にする価値もないくせに、調子に乗らないでよね。私がいる限り、あなたは永遠に愛人だ。告げ口したければどうぞ。日高があなたのために仕事と面子を捨てるか、楽しませてもらうわ」希穂は手を拭いながら、夢夢をゴミを見るような目で一瞥した。所詮は三流の女。一時の寵愛を得たから、希穂がもう日高に依存していないことに気づいていないなんて。夢夢は頬を押さえ、「覚えてろ」と捨て台詞を吐いて部屋に逃げ込んだ。彼女の目に宿った毒のような憎悪は見逃さなかったが、希穂は少しも恐れていなかった。失うものなど何もないのだから。夜、日高が帰宅すると、夢夢はマスクで顔の大半を隠していた。平手打ちの痕は巧みに隠れていた。希穂は告げ口されるかと思ったが、彼女は「風邪気味で感染が心配だから」と涼しい顔で嘘をつき、日高は慌てて風邪薬を用意した。希穂は悟った。夢夢が手を引いたわけではなく、もっと大きな仕返しを画策しているのだと。翌日は週末。希穂は産婦人科の森田(もりた)先生への贈り物を買いにデパートへ向かった。この間大変お世話になったので、別れの挨拶を兼ねて感謝を伝えようと思ったのだ。すると夢夢も買い物に同行したいと言い出し、日高を引き連れていくことになった。コート専門店で、希穂はシープスキンのコートを気に入り、店員に取り寄せを依頼した。すると夢夢も同じものを欲しがった。在庫は一点限りだった。希穂に譲る気など毛頭なかった。夢夢は薄気味悪い笑みを浮かべ、嘲るように言った。「小野さん、私が欲しいものは――このコートも、日高さんも、必ず手に入れるのよ。まだ奪い合うつもり?」希穂は唇をきっと結び、凛
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第8話
夢夢は舌打ちすると、店員の目を盗んで、突然「きゃっ!」と声を上げて後ろに倒れ込み、床に転がりながら痛そうにうずくまった。日高が慌てて駆け寄り、すぐに膝をついて抱き起こした。「夢夢!どうした!?どこか痛いのか?」マスクを外した夢夢の頬には涙が伝っていた。「日高さん……私、ただ小野さんと同じ服が好きだって言っただけなのに……昨日だってそう。あなたが私に優しくしただけで、小野さんにびしっと叩かれたの。もう……ここにいたくない。怖いよ……」希穂は冷ややかな視線で夢夢の芝居を見届けていた。監視カメラもないこの状況で、真相を知っているのは自分だけだ。昨日告げ口しなかったのは、まさに今日のこの瞬間のために仕組んだ罠だったのだ。夢夢の頬は見事に腫れ上がっている。昨日の平手打ちでここまで腫れるはずがない。この演技派がリアリティを追求し、自分でさらに叩き込んだに違いない。日高の表情が一気に凍りついた。「そんなひどい真似を!たかがコート一枚、譲ってやればいいだろう!妊娠中の彼女を押すなんて!もし立場が逆だったらお前はどうする!」希穂は無表情で彼を見つめ返し、弁明する気配もなかった。どうせ無駄だと悟っていたからだ。彼は盲目的に夢夢の言葉を信じ込み、希穂に事情を聞くことすらしない。夢夢はその盲信を最大限に利用して、ますます図に乗っているのだった。希穂はふっと嗤った。「ええ、全部私の仕業よ。満足?あなたが望んでいた答えでしょ?彼女を叩いて、押し倒した。憎くてたまらないから、ただそれだけ」日高は言葉を失った。腕の中で夢夢が「うっ……痛い……」と苦しげに泣き始めた。「夢夢、しっかりしろ!すぐ病院に連れて行くからな!きっと大丈夫だ!」彼は慎重に夢夢を抱き上げ、店を出ようと足早に向かった。それと同時に、希穂に厳しく言い放った。「病院で夢夢にきちんと謝れ。今回は本当に許せない。やりすぎだ」タクシーに乗り込む二人を見送りながら、希穂は静かに目を閉じた。しかし、怒りに任せて捨て台詞を吐いた日高には知らなかった――これが希穂との最後の別れになるとは。
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第9話
希穂はその場に立ち尽くし、日高の目に浮かんだ嫌悪と軽蔑が脳裏を焼き付いた。心の壁が轟音とともに崩れ落ち、粉々になった。その壁は日高を愛したからこそ築かれ、日高を恨んだからこそ消え去った。人への想いが完全に消え去るには、結局その人の冷酷さが必要なのだと、彼女は悟った。服代を支払い、店員に森田先生宛ての配送を頼むと、静かに店を後にした。必要最小限の荷物と貯金だけを持ち、駅へと向かう足取りは軽かった。この雨ばかりの田舎町には、もう未練などなかった。春の光が降り注ぐ海辺の町で、新しい人生を始めるつもりだ。能力もあるし、苦労も厭わない。きっとこの子により良い未来を与えられる。わずかに膨らんだお腹に手を当て、ふっと微笑んだ。「大丈夫、ママは強いから。絶対に後悔しない。二度と振り向かないわ」一方、日高は夢夢を病院に連れて行き、念のため全身検査を受けさせた。異常は見つからなかったものの、医師は「安心のために二日ほど入院を」と勧めた。もう二人の顔を覚える看護師が、にこやかに夢夢に話しかけた。「旦那さん、本当にお優しいですね。毎回検査に付き添って、奥さん以上に心配されて。お幸せな奥さんです」夢夢は照れくさそうに日高の顔を覗き込んだ。以前は間違った男に付いていたが、今度こそこの善良な男を逃がすものか。日高は看護師の言葉に眉をひそめて、「すみません、夫婦ではありません」と訂正した。その「夫婦」という言葉で、希穂の穏やかな笑顔がふと脳裏をよぎった。あのこそが自分の妻だったのだ。夢夢の笑みが一瞬崩れたが、すぐに取り繕って看護師を見送った。「日高さん、今夜……付き添ってくれない?夜中に具合が悪くなったら怖くて……看護師さんに頼むのも気が引けるし」日高は看護師の言葉を反芻していた。希穂の検診に付き添ったことなど、ほとんどなかったことに気づいた。病院に来るたび、夢夢と一緒に、時折一人で並ぶ希穂とすれ違った。その時、彼は必ず夢夢の手を握っていた。希穂はいつも一人でしっかりしていたが、夢夢は違う。頼れる人もなく情緒不安定な彼女に、少し多く気を配るのは当然だ。賢い希穂なら理解してくれるはず。夢夢はシングルマザーで、色々と言われることがあるかも。自分が支えてあげれば、陰口も減るだろう。一方、希穂は近所から慕われ、
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第10話
周囲に何度も呼びかけられ、日高はようやくぼんやりとした意識から覚めた。夢夢を見つめ、無理やり笑みを作った。「わかった、家に戻って洗面用具を用意してくるよ」夢夢は首を振り、病院の売店で使い捨てのものを買ってくるよう頼んだ。彼女は日高を希穂と会わせたくなかった。一秒たりとも。日高の表情が微妙にこわばった。「いや、やっぱり家のものの方がいい。清潔だし」デパートで希穂を置き去りにしたことを思い出していた。今は彼の子を宿している身だ。様子を見に行きたかった。夢夢は彼の機嫌を損ねるのを恐れ、しぶしぶ頷いた。家に着くと、中は無人で、物がなくなった様子もなかった。希穂はまだ帰ってこないのか。時計の針はすでに夜の七時を指していた。苛立ちを覚え、タクシーで先ほどの店へ向かった。店主の話では、希穂は彼らが病院へ向かった直後に店を出たという。混乱が深まった。家にも街にもいない。いったいどこへ?午後、怒りに任せて希穂に病院で謝罪するよう命じたが、彼女は現れなかった。スマホを取り出し、希穂に電話をかけたが繋がらない。メッセージを打ち始めた。【どこにいる?もう帰る時間だ】【妊娠中だから、一人で出歩くのは危険すぎる】【夢夢の件は俺がなんとかする。彼女は根に持つタイプじゃないから】何通も送ったが、返事は一切なかった。彼はまだ知らない。希穂はすでにスマホとSIMカードを交換済みで、返信のしようがなかったことを。苛立ちが募った。希穂はいつもこうだ。大げさに騒ぎ立てる。きっと気分転換に友人の家でも泊まっているんだろう。三日もすれば必ず戻ってくる。希穂の事情は彼にはお見通しだった。結婚前、彼女の両親は他界し、親戚付き合いもほとんどない。小野家はほとんど彼女一人きり。この町で、唯一の家族は自分だけ。愚痴をこぼせる相手もいない。だから、一人で考えさせておけばいい。納得すれば戻ってくるさ。自分に言い聞かせ、日高は病院に戻り、夢夢のそばを離れなかった。フルーツを切ってやり、子供向けの本を読み聞かせ、胎教にも気を配った。病室では、まるで三人家族の穏やかで温かな光景が広がっていて、思わず羨ましくなるほどだった。深夜三時過ぎ、突如として激しい風が吹き荒れ、雷鳴が轟いた。木々が根こそぎ倒れそうになるほどの豪雨とな
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