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彼女を百回許した後

彼女を百回許した後

By:  二ノ河Completed
Language: Japanese
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人はどこまで金持ちになれるのか? 僕の妻はとてつもない金持ちだ。 世間では彼女を「西園寺半城」と呼ぶ。帝都の不動産の小半分が彼女のものだからだ。 結婚して五年。彼女が「昔の想い人」に会いに行くたびに、僕の名義に不動産が一つ譲渡されることになっている。 僕の名義の不動産が99軒になった頃、妻は突然、僕が変わったことに気づいた。 僕はもう泣きわめかないし、「行かないで」と懇願することもしない。 ただ、帝都で最高級の別荘を自ら選び、不動産譲渡契約書を持って、彼女がサインするのを待っていた。 彼女はサインを済ませると、初めて少し心が揺らいだような顔を見せた。 「ねえ、帰ってきたら、一緒に花火を見に行きましょう」 僕は素直に書類をしまい込み、「うん」とだけ答えた。 ただ、頑なに彼女へは教えなかったことがある。 今回彼女がサインしたのは…… 僕との『離婚届』だったということを。

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Chapter 1

第1話

オフィスでは、一条聖也(いちじょう せいや)が帰国したというニュースがテレビで流れていた。

西園寺麗華(さいおんじ れいか)の視線は、ずっと画面に釘付けだった。

僕・柊木悠真(ひいらぎ ゆうま)が差し出した『不動産譲渡契約書』を受け取り、サインをするその瞬間でさえも。

西野山一番館。帝都では金があっても買えないと言われる至極の物件だ。

だが、麗華にとってはそれほど重要ではない。

僕の存在が、彼女にとって重要ではないのと同じように。

ニュースが終わると、彼女は機嫌良さそうに、サインを終えたペンを指先でくるりと回した。

契約書を僕に返しながら、冗談めかして言った。

「これで六十軒くらいになったかしら?あなたもすっかり小金持ちね」

その声に滲む抑えきれない喜びは、僕を祝福するためではない。

ただ、彼女の「想い人」が帰国するからだ。

僕は彼女の前に立ち、ただ静かに頷いた。

「西野山の別荘からは海が見えるからね。気に入ってるよ」

僕は彼女に教えなかった。

実は、これが彼女から譲渡される「百軒目」の物件だということを。

かつて僕を追いかけていた麗華を、僕は九十九回断った。

彼女の愛があまりにひたむきだったから、百回目の告白で、僕たちは結婚した。

だが、彼女の愛は長くは続かなかった。

聖也が初めて一時帰国したあの日までしか。

それは僕と麗華の、結婚一周年記念日のことだった。

僕は麗華が手ずから用意してくれたキャンドルディナーの中で、幸せに浸りながら彼女の帰りを待っていた。

けれど、待っていたのは一枚の不動産譲渡契約書と、一言の謝罪だけ。

「ごめんね悠真、記念日をすっぽかしちゃって。許してくれるわよね?」

僕は彼女から漂う強烈な、知らない男の香水の匂いを無視して、掠れた声で最初の過ちを許した。

公平であるために、僕は決めたのだ。結婚したら、九十九回までは許そうと。

それから二回目、三回目、四回目……と続いた。

結婚して五年。彼女は何度も僕を置き去りにして、想い人のもとへ通った。

いつしか彼女は、彼に会いに行く前に、自ら僕に家を譲渡するようになった。

一軒目から、九十九軒目まで。

その度に、僕は彼女を許してきた。

そして今、ちょうど百回目を迎えた。

麗華。この一回が終われば、もう君を許す必要はないんだ。

そう思うと、憑き物が落ちたように笑みがこぼれ、僕は穏やかに彼女を見つめた。

麗華は少し呆気にとられ、気まずそうに目を逸らした。

彼女の瞳に、ふと罪悪感のようなものが過ったのが見えた。

そして、少し躊躇いながら僕に言った。

「帰ってきたら、あなたを連れて花火を見に行くわ」

以前なら、彼女が少しでも情を見せれば、僕はそれを愛の残り火だと勘違いして縋っていただろう。

泣いて頼み込み、そして絶望する。

麗華はいつも、僕の手を一本一本引き剥がし、冷たくこう言い捨ててきたからだ。

「狂ってるわね」

幸いなことに、僕はもう九十九回も狂った。

そして今、百回目が満ちた。

自分を騙すような真似は、もうしなくていい。

なぜなら、先ほど彼女に渡した契約書の束の中に。

こっそりと離婚届を紛れ込ませておいたからだ。

麗華。

あと三十日もすれば、僕たちはもう赤の他人だ。

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第1話
オフィスでは、一条聖也(いちじょう せいや)が帰国したというニュースがテレビで流れていた。西園寺麗華(さいおんじ れいか)の視線は、ずっと画面に釘付けだった。僕・柊木悠真(ひいらぎ ゆうま)が差し出した『不動産譲渡契約書』を受け取り、サインをするその瞬間でさえも。西野山一番館。帝都では金があっても買えないと言われる至極の物件だ。だが、麗華にとってはそれほど重要ではない。僕の存在が、彼女にとって重要ではないのと同じように。ニュースが終わると、彼女は機嫌良さそうに、サインを終えたペンを指先でくるりと回した。契約書を僕に返しながら、冗談めかして言った。「これで六十軒くらいになったかしら?あなたもすっかり小金持ちね」その声に滲む抑えきれない喜びは、僕を祝福するためではない。ただ、彼女の「想い人」が帰国するからだ。僕は彼女の前に立ち、ただ静かに頷いた。「西野山の別荘からは海が見えるからね。気に入ってるよ」僕は彼女に教えなかった。実は、これが彼女から譲渡される「百軒目」の物件だということを。かつて僕を追いかけていた麗華を、僕は九十九回断った。彼女の愛があまりにひたむきだったから、百回目の告白で、僕たちは結婚した。だが、彼女の愛は長くは続かなかった。聖也が初めて一時帰国したあの日までしか。それは僕と麗華の、結婚一周年記念日のことだった。僕は麗華が手ずから用意してくれたキャンドルディナーの中で、幸せに浸りながら彼女の帰りを待っていた。けれど、待っていたのは一枚の不動産譲渡契約書と、一言の謝罪だけ。「ごめんね悠真、記念日をすっぽかしちゃって。許してくれるわよね?」僕は彼女から漂う強烈な、知らない男の香水の匂いを無視して、掠れた声で最初の過ちを許した。公平であるために、僕は決めたのだ。結婚したら、九十九回までは許そうと。それから二回目、三回目、四回目……と続いた。結婚して五年。彼女は何度も僕を置き去りにして、想い人のもとへ通った。いつしか彼女は、彼に会いに行く前に、自ら僕に家を譲渡するようになった。一軒目から、九十九軒目まで。その度に、僕は彼女を許してきた。そして今、ちょうど百回目を迎えた。麗華。この一回が終われば、もう君を許す必要はないんだ。そう思うと、憑き
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第2話
カウントダウン、残り二十五日。この五日間、普段は真っ白な彼女のSNSのタイムラインが、嘘のように賑わっていた。昼は広場で鳩と戯れ、夜は遊園地のホテルの展望台からパレードを見下ろす。二人が歩んだ足跡の一つ一つを、僕は見逃さなかった。僕とした約束なんて、とうの昔に忘れているのだろう。荷物をまとめようと立ち上がり、床に物を広げたその時だ。突然、麗華のアシスタントから電話がかかってきた。「旦那様、八時に夢見橋で行われる花火大会へ、忘れずにいらしてください。もし何か手違いがあれば、西園寺社長に私が大目玉を食らってしまいますので」僕が麗華と結婚しているこの五年間、僕を「旦那様」と呼ぶのは彼女のアシスタントだけだった。彼女だけが、僕と麗華の婚姻関係を知る唯一の人物だ。アシスタントを困らせるつもりはないので、僕は承諾した。だが、いざ夢見橋へ向かうとなると、少し感傷的な気分になった。五年前、僕と麗華が結婚したばかりの頃。彼女は僕のためにシークレット花火ショーをプレゼントしてくれた。あの時も、アシスタントがこっそり教えてくれたのだ。五年が経ち、同じ場所へ向かう。だが僕の心境は、当時とは似ても似つかないものになっていた。夢見橋の近くまで来ると、そこはすでに数え切れないほどの観光客で溢れかえっていた。多くのメディアの姿さえある。僕は不審に思い、場所を間違えたのではないかと麗華に電話をかけた。電話の向こうは、無機質な呼び出し音が鳴り続けるだけだ。もう一度かけた。何を期待しているのか、自分でも分からない。何度かけても繋がらず、麗華の姿も見当たらない。時間を見ると、もうすぐ八時だ。人混みの中から声が聞こえてくる。「もうすぐ花火が始まるぞ」「西園寺社長が彼氏のために用意した花火らしいぜ。俺たちも見れるなんてラッキーだな」僕は立ち尽くした。世間における麗華のイメージは、ずっと独身のままだ。彼らが言う「彼氏」が、僕であるはずがない。それは別の誰かを指しているに決まっている。花火が一番よく見える特等席は、夢見橋の最北端だと知っている。せっかく来たんだ。見ていくことにしよう。花火に罪はないのだから。ただ、人が多すぎる。僕は人の波に押され、最前列まで流された。そこで
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第3話
五年間呼び続けてきた「叔母さん」という呼称は、この時のために用意された最高の言い訳だ。花火ショーは続いていくが、もう誰も僕のことなど気にしていない。あいにくの空模様で、突然の土砂降りが始まった。麗華は急いで人混みをかき分けた。「聖也は体が弱いの、雨に濡れちゃダメなの。みんな道を開けて!」彼女は聖也を、それはもう大事そうに車の中へと避難させた。僕だけが、その場に取り残された。雨は骨に沁みるほど冷たいが、寒さは感じなかった。たぶん、この五年の結婚生活で、心が冷え切ることに慣れてしまったからだろう。僕は家に帰り、熱いシャワーを浴びた。風呂から出ると、ちょうど麗華がリビングにいた。彼女は少し躊躇ってから、意外にも僕に礼を言った。「さっきは助け舟を出してくれてありがとう。私たち……公表していない夫婦だし、あそこでバレたら聖也のイメージに関わるもの。そのうち……折を見てあなたとの関係も公表するわ」僕は彼女に言わなかった。これからはもう、関係を公表する必要なんてないことを。この結婚はもう終わるのだから、最初から存在しなかったことにしたほうがいい。僕にとっても、彼女にとっても。彼女は突然思い出したように僕を気遣った。「ところで、どうしてあそこにいたの?」僕は笑って、しばらく彼女を見つめた。彼女が気まずそうに目を逸らすまで待ってから、僕は言った。「橘川(きつかわ)アシスタントに行けって言われたんだ」そこで彼女はようやく思い出したようだ。今日の花火は、もともと僕に見せると約束していたものだったことを。でも聖也との時間が甘すぎて、完全に忘れていたのだ。「ごめんね。来週は……来週はダメだわ、出張があるの。来月、来月になったら絶対に連れて行くから」僕は首を横に振った。「その時にまた考えよう」麗華は僕の物分かりの良さに満足し、軽く僕を抱きしめた。女性の抱擁がこれほど冷たいと感じたことは、かつてなかった。その日以降、麗華は本当に出張に行った。ただ、聖也を連れての出張だったが。仕事の合間に、彼らはキャンドルディナーを楽しみ、隣県の博物館へ行ったようだ。彼女が僕とは決して行こうとしなかった、海鮮屋台にも行ったらしい。かつて彼女は言ったものだ。「私だって社
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第4話
「あの日、聖也のそばにいなくていいのか?」麗華の表情が一瞬強張った。「彼とは十分一緒にいたもの。たまにはあなたの相手もしないと」言い終えて、自分でもその言葉が白々しいと感じたのか、彼女は気まずそうにうつむいた。僕はあえてその嘘を暴くことはせず、彼女の意向に沿って、夫婦ごっこを演じてやることにした。ちょうどその日は、僕たちの離婚が成立する日だ。記念日としては悪くない。カウントダウン、残り一日。この二日間、麗華は一度も姿を見せなかった。ずっと聖也のそばにいて、彼のご機嫌取りでもしていたのだろう。ただ、彼女は毎晩、どうでもいいようなメッセージを送ってくるようになった。芸能界のゴシップ、道端で見かけた野良猫、SNSで流行っているジョーク。まるで遠距離恋愛中の普通の夫婦のように、他愛のない日常を共有しようとしてくる。だが結婚して五年、僕と麗華の間でそんな会話が交わされたことなど一度もなかった。彼女のこの急な変化が何を意味するのか分からないし、理解したいとも思わなかった。この三日間、僕は引っ越しの準備に追われていた。自分の荷物を順次梱包し、北斗市へと発送した。さらに仲介業者と話し合い、僕名義になった百軒の不動産をすべて賃貸に出す契約も済ませた。さすがにこの動きは彼女の耳に入ったようだ。その夜、電話がかかってきた。「橘川から聞いたんだけど、荷物を運び出しているの?」僕は気のない様子で答えた。「ああ。西野山に行くって言っただろ?あっちのほうが気に入ってるんだ」麗華は一呼吸置き、言った。「西野山の別荘なら、こっそり花火をしたって誰にもバレやしないわね」僕は首を振り、冗談めかして返した。「花火なんてしないよ。近所に通報されて、お巡りさんの世話になるのがオチだ」彼女はようやく安心したようだ。「じゃあ明日の夜、西野山で待ってて」僕が「うん」と答えると同時に、スマホに航空券の予約完了通知が表示された。麗華は何かを予感したのか、念を押すように繰り返した。「絶対に、待っててね」僕は約束した。「分かった」だが翌日の夜、彼女は来なかった。橘川アシスタントが申し訳なさそうに、「社長は会議が長引いておりまして……」と伝えてきた。しかしSNSを見れば、聖也が七夕祭りを楽し
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第5話
見間違いかと思ったが、目を凝らすと、麗華は本当に車を停めていた。高速道路の真ん中で。彼女はドアを開け、こちらへ歩いてきた。タクシーの窓を叩き、口を開けて何かを叫んでいる。だが、防音ガラスに遮られて声は聞こえない。運転手が困惑したように言った。「お客さん、窓開けて話します?高速道路でこんなこと、危ないですよ」僕は首を横に振った。「いいえ、構わないでください」麗華は窓をバンバンと叩き続けたが、僕は一度も視線を合わせなかった。その騒動は、彼女が駆けつけた警察官に連行されるまで続いた。彼女が連れて行かれてようやく、僕は渋滞する車列の陰から、その姿を目で追った。雨の幕越しでも、その表情は痛いほど鮮明だった。彼女も僕のために、あんなに必死な顔をすることがあるんだな。だけど、チャンスはあげたよ、麗華。それを放棄したのは、君自身だ。高速道路の渋滞はそれほど長く続かず、すぐに解消された。計算通りの時間に空港へ到着した。だが、搭乗手続きをしようとした時、係員に呼び止められた。「申し訳ございません、お客様。搭乗予定の便は悪天候のため欠航となりました。変更か払い戻しをお願いいたします」僕は窓の外を見た。月が高々と輝き、雲ひとつない夜空が広がっている。「最近の飛行機は、晴天だと飛ばないのか?」係員は営業スマイルを崩さず、マニュアル通りに答えるだけだった。「申し訳ございません。通知が来ておりますので、私どもではどうすることもできず……」彼女たちを困らせても仕方がない。僕は頷いた。「じゃあ、振替で」チケット情報を確認すると、北斗市行きの便はすべて満席で、明朝七時の便しか空いていなかった。すでに深夜だ。外に出て宿を探すのも面倒なので、空港内で夜を明かせる場所を聞き、適当に凌ぐことにした。すべてがスムーズすぎた。空港スタッフは、僕を高級VIPラウンジへ案内したのだ。あまりにも待遇が良すぎる。違和感を覚えずにはいられなかった。理由を尋ねても、彼女たちは「ご不便をおかけしたお詫びです」と繰り返すだけ。僕は仕方なく、そういうことにしておいた。だが、息を切らした麗華がラウンジの入り口に現れた瞬間。すべてを悟った。欠航も、満席も、VIP待遇も。全部、麗華の仕業だ。
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第6話
「聖也のところへ戻ればいい。彼は長年君を待っていたんだ、これで君は完全に彼のものだよ。二人とも、喜ぶべきところじゃないか」だが麗華は呆然とし、聖也のことには触れず、素っ頓狂な声を上げた。「離婚って何?私たち、いつ離婚したの?」僕は手元にある離婚届受理証明書を麗華に手渡した。「君の分は、西野山の別荘に置いてある」彼女は震える手でそれを受け取ると、激しく首を振った。顔には信じられないという色が浮かんでいる。「どうして離婚なんて……私、離婚するなんて一言も言ってない!」僕は突然、笑い出した。無理に笑ったわけじゃない。この冗談があまりに傑作だったからだ。「言う必要はないさ。君は行動で示したんだから。こんな結婚生活、終わらせずに続けて何になるんだ?」だが麗華は首を振るばかりだ。あの女傑・西園寺社長が、首を振ることしかできない赤ん坊に退化したようだ。彼女は猛然と僕の肩を掴んだ。「違う……私、同意してない!こんなの偽造でしょ?私を騙してるんでしょ?無効よ!こんなの認めない!私たちは離婚してない!」ヒステリックに声を張り上げる麗華を見て、僕はふと思った。今の彼女はまるで狂人だ。「麗華」僕が名前を呼ぶと、彼女の瞳に一瞬、期待の色が差した。僕が彼女の望む言葉を言ってくれるとでも思ったのだろう。だが僕は、皮肉な笑みを浮かべて問いかけた。「今の自分の姿、見てごらんよ。まるで狂ってると思わないか?」麗華の表情が凍りついた。かつてとは逆だ。今や身軽になった僕の言葉の一つ一つが、ナイフのように彼女の心臓に突き刺さる。「今の君と、行かないでくれと泣いて懇願していた僕。一体どっちがより狂ってると思う?」麗華は口をパクパクさせたが、言葉が出てこない。「ごめんなさい、私が悪かったわ、悠真。私はただ……ただ……ただ……」彼女は「ただ」と三回繰り返したが、僕を捨て続けた正当な理由は見つからなかった。言い訳などできないと悟り、彼女は力なくうなだれた。彼女の無視、冷淡さ、身勝手さ。それらすべてが今日の結末を招いた元凶なのだから。「もういいよ、麗華」彼女のそんな姿を見ていると、哀れみさえ感じてきた。「どうせもう離婚したんだ。お互い解放されよう。そのほうがいい。一人しか
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第7話
搭乗手続きを済ませ、ゲートを通過したその瞬間、彼女が僕を呼び止めた。「悠真、私たち……本当に、もう無理なの?」僕は足を止めなかった。それが、彼女に対する最も明確な答えだと思ったからだ。帝都から北斗市まではあっという間だった。たった三時間のフライトだ。北斗市に来るのは初めてだった。想像していたよりも少し肌寒い。だが、今は八月だ。いくら北国とはいえ、過ごしやすい暖かさはある。僕は予約していた民宿に向かった。高級ホテルにしなかったのは、人の温かさに触れたかったからだ。北斗市は僕を裏切らなかった。女将さんは親切に迎えてくれた。「どうしたの?予定よりだいぶ遅かったじゃない。何かトラブルでもあった?」僕は首を横に振った。「いえ、もう全部解決したから」「それなら良かった。ここじゃ右も左も分からないでしょう。何かあったら、遠慮なくおばちゃんに言いなさいよ!」僕は頷き、彼女の親切心に感謝した。女将さんは食事は済んだかと聞き、近所の美味しい店をいくつか教えてくれた。北斗市で新しい生活を始めるつもりだったが、着いたばかりだし、まずは観光気分で楽しむのも悪くない。この五年間、麗華のために慎重に生きてきた。彼女の評判に傷をつけないよう、羽目を外すことなどできなかった。だが今は、ようやく自由になれたんだ。女将さんに教えてもらったカジュアルなバーに行ってみることにした。夜になると静かで落ち着ける店らしい。簡単な食事も出しているという。僕は軽食の揚げ物と、アルコール度数の低いカクテルを頼んだ。カウンター席に座り、ステージの女性シンガーが歌う、報われない愛のバラードに耳を傾ける。バーテンダーはポニーテールの女性だった。グラスを磨きながら、ほとんどジュースのような酒を僕に出し、からかうように言った。「一人飲みは危ないですよ?」僕は苦笑し、パイナップルビールよりも薄そうなその酒を見て言った。「度数0.5%もないじゃないか。大目に見てよ」彼女は眉を上げ、その酒……いや、ジュースを僕に手渡した。一口飲んでみる。口当たりは濃厚な甘さだ。アルコールの味など微塵もしない。これでも酒と呼べるのか?だが、甘さが引くと強烈な酸味が押し寄せ、最後には舌が痺れるほどの苦味が残った。僕は
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第8話
「客が少ないから店を開ける価値がないって言ったのは、そっちでしょ?だったら小遣い稼ぎくらいさせてよ」風間凪沙(かざま なぎさ)は肩をすくめ、あの『人生』という名のふざけた酒を下げると、代わりに梅ジュースを出してくれた。シンガーが歌っていた切ないバラードが終わり、聴いたことのないスペイン語の歌に変わった。優しい歌声だ。どこかで長く聴いていたような気がする。僕はシンガーを眺めていたが、凪沙は気づかない間、ずっと黙って僕のことを見ていたようだ。翌日、凪沙は時間通りに民宿の下まで迎えに来てくれた。どうして僕の宿が分かったのかと聞くと、彼女はこう言った。「ここに来る観光客は、みんなこの宿を選ぶからですよ」車はレンタカーではなく、彼女の自家用車のようだった。僕は彼女に十分なガイド料を渡し、思い切り楽しませてくれと頼んだ。すると彼女は少し困った顔をした。「バーテンダーって呼ぶのはやめてくれませんか。私の名前は風間凪沙です」改めて彼女の顔をよく見てみると、その目鼻立ちには、色白の美少年のような風情がある。凪沙は面白そうに笑った。「私、小さい頃は男の子として育てられたんです。叔母さんが女嫌いで、小学校に上がるまではずっと丸坊主だったんですよ」僕は少し興味が湧き、太っ腹な態度で言った。「追加料金払ったら、その写真見せてくれる?」凪沙は片眉を上げた。「もちろんですとも。あなたは私の大事なスポンサー様ですからね。私はあなたの愛人枠ってことで」口が減らないやつだと笑ったが、心底、彼女の軽口が心地よかった。ドライブの旅は快適だった。凪沙は北斗市のことを知り尽くしている。地元のB級グルメを食べ歩き、地元のイベントに参加し、縁日にも連れて行ってくれた。食事の際、彼女は店主に「ネギ抜きで」と注文してくれた。イベントのくじ引きでは、僕が一番欲しかったものを一等賞で当てた。縁日のおみくじでは、良縁と生涯の平穏を引いた。初日は本当に楽しかった。二日目は、コンサートを見に行った。今日は運が悪く、アリーナ席のチケットは取れなかったが、凪沙が二階の穴場へ連れて行ってくれた。彼女の行きつけの場所らしい。三日目は山登りだ。途中で靴擦れを起こしてしまったが、凪沙はまるで予知していたかのように、新しい靴を
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第9話
「彼女は私に『ラッキーだったね』と言いたかっただけかもしれない。でも本当の狙いはあなただと分かっていたから、嫌だった。でも、彼女がそこまでするなら、絶対にあなたの好きなことだろうと思ったから、連れてきた」凪沙は立て続けに、多くの言葉を紡いだ。それが僕のためだということは分かっている。一目惚れだったのか、それともあの夜の短い会話で、僕という人間に興味を持ったのか。だが、最後に言葉を詰まらせ、僕の目を見れずにいる彼女を見て、責める気など起きるはずもなかった。彼女は何も悪いことなどしていない。ただ、少し嫉妬しただけだ。凪沙は自分の中で長い葛藤を終えると、顔を上げた。その瞳には涙が浮かんでいる。優しい顔立ちだけに、その涙は一層情緒的に見えた。「さっきのウサギの着ぐるみ、間違いなく彼女です。今すぐ追いかければ、まだ間に合います」僕は彼女をじっと見つめた。凪沙が震えだすほどに。彼女は口では正義感ぶって僕を送り出そうとしている。だが、心の中では僕に行かないでほしいと願っている。僕は彼女に、麗華とのことを少しだけ話していた。だから彼女は、僕が離婚して自由を求めている男だと知っている。だが同時に、僕が過去の愛にまだ未練を残しているのではないかと、恐れてもいるのだ。僕は一歩下がった。凪沙は傷ついた子犬のように、僕に縋りつきたい衝動を必死に堪えている。そして僕は大きく一歩踏み出し、凪沙を優しく抱きしめた。「僕は、行かないよ」麗華は初めて知った。人間は、同時に「暑さ」と「寒さ」を感じることができるのだと。八月の終わり。分厚いウサギの着ぐるみの中で、彼女は不快な汗にまみれていた。だが、僕が凪沙のもとへ駆け寄るのを見た瞬間、全身が芯から冷えるのを感じたのだ。離婚したことは分かっている。僕が新しい誰かと出会い、新しい生活を始めることも、頭では分かっていた。それでも彼女は、まだどこかで幻想を抱いていたのだ。またやり直せるのではないかと。僕と凪沙が海辺を去ろうとした時、道の突き当たりに彼女がいた。人影もまばらなその場所で、ウサギの着ぐるみを着た彼女は、ひどく孤独に見えた。まるで捨てられた小動物のようだ。だが、彼女が僕にしてきた仕打ちを思えば、滑稽でしかない。僕が通り過ぎようとすると
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第10話
麗華は事もなげに言った。だが僕には分かる。聖也の性格だ、間違いなく大喧嘩をしたに違いない。そして彼は海外へ去り、彼女は僕の元へ戻ってきたのだ。僕は鼻で笑った。「麗華。彼が二度と戻ってこないから、僕のところに来たんだろう?」麗華は慌てて首を横に振った。「違うわ、そんなんじゃない!あなたが好きだからよ!好きだからこそ彼にあんなことを言ったの。もうこれ以上、あなたを傷つけたくなかった……悠真……好きなの……愛してるわ……」愛の言葉は、いつだって甘美だ。もし少し前なら、たとえ九十九回目の時でさえ、僕は彼女を許していたかもしれない。だが今、百回分の「許し」は積み上がり、もう満杯だ。これ以上のチャンスはない。たとえ彼女の言葉が真実だとしても、それがどうしたというのだろう?僕は彼女に、百回のチャンスを与えたんだ。「でも、君の愛なんてもういらないよ、麗華。君が僕を愛しているからといって、僕がそれに応える義務があるとでも?」麗華の瞳から涙が溢れ出した。今日、僕は彼女の多くの「初めて」を目にした。初めて見る狼狽、初めて見る涙。だが、そのすべての姿を見ても、僕の心は麻痺したように何も感じなかった。「悠真……愛してないなら、どうして私が贈ったものを持ってるの?」僕は一瞬きょとんとして、すぐに理解した。「あの物件のことか?君が罪滅ぼしに寄越したものを、よくもまあ持ち出せたものだな」あまりに滑稽で、笑いが込み上げてきた。「いいよ。あんなもの全部返してやる。僕はいらない。僕が欲しがってるとでも思ったかい?裏切りの回数をカウントするような代物なんて、好きで持ってるわけないだろう」僕は最後にそう言い捨て、嫌悪感を隠さずに背を向けた。だが麗華は食い下がり、僕の腕を掴んだ。信じられないという顔で問い詰めてくる。「私がいらないなら、お金もいらないっていうの?あんなちっぽけなバーの女店主と、一生添い遂げる気?あの女に何ができるっていうのよ!」僕は麗華の手を振り払い、冷ややかに言い放った。「彼女に何かをしてもらおうなんて思ってない。ただ、裏切らないでいてくれれば、それでいい」僕は決然と立ち去った。麗華は追いかけようとしたが、ウサギの着ぐるみが足枷となって思うように動けない
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