LOGIN私の命は、あと3日。だから私は、大好きな夫・丸山大輝(まるやま だいき)のために、わざと浮気している女を演じることにした。 私を嫌って、離婚してくれるように必死だったのに、大輝がヤケ酒を飲んでるのを見たら、ついカッとなって、彼に言い寄る女の人を突き飛ばしちゃった。 大輝は、目を真っ赤にして怒鳴った。 「俺と別れたいんだろ。だったら、なんで俺のことに口出しするんだよ!」 いつもの私みたいに、「愛してる」って言うのを期待してた。離婚なんて、ただのわがままだって、そう思いたかったはず。 でも私は、隣に彼氏役として立たせた、男の人の手をぎゅっと握って、こみ上げてくる血の味を飲み込みながら、笑ってみせた。 「勘違いしないで。あなたとの離婚の話を、邪魔されたくないだけよ。それに、私の彼氏が不倫相手だなんて言われたら困るもの」 目の前で、大輝の瞳から愛が崩れ落ちていった。 これで、うまくいったんだ。 だけど、私がいなくなった後…… 私の遺品を整理していた大輝は、ベッドの下に隠してあった血まみれの服を見つけて、それを抱きしめて、意識を失うまで泣き叫んだそうだ。
View More2年後。X市、聖山朝霧。標高6000メートル。大輝は分厚い防寒着を着ていた。息も苦しく、一歩踏み出すたびにナイフの先を歩くような激痛が走る。それでも、彼は足を止めなかった。首には、一本のペンダントをつけている。ペンダントは精巧な小瓶で、中には杏の遺灰がほんの少しだけ納められていた。大輝は、いっそう無口になった。その冷たい雰囲気は、まるでこの世の全てを超越してしまったかのようだった。彼は、杏が大事にしていた「潔癖症」を、徹底的に貫いていたのだ。身の回りから女性社員を一人残らず遠ざけ、家の使用人さえも口数の少ない年配の男性に代えてしまった。「杏がとても大事にしていた体」だからと、大輝は誰にも触れさせなかった。ついに、山頂にたどり着いた。薄い空気に、くらくらとめまいがする。大輝は手袋を外し、ペンダントを取り出すと、祈るようにそっと唇に押し当てた。「杏。ここなら、天国にも少し近いだろう。お前にも、見えるかい?ここの雪は真っ白で、まるであの日、お前がウェディングドレスを着ていた時のようだ」山を降りた後、大輝は私の名前で、がん治療の基金を立ち上げた。この2年で、彼は治療費に困る数千人もの患者を救った。患者たちが元気になって退院し、家族と抱き合う姿を見るたび、大輝はいつも遠くから、ただ静かにその光景を見つめていた。そして時々、指にはめられたままの結婚指輪に、そっと触れるのだった。友人たちは、彼を心配して声をかける。「大輝、もう2年だ。そろそろ前を向けよ。誰かいい人を見つけたらどうだ?杏さんだって、お前が一生ひとりでいることなんて望んでないさ」大輝は、薬指にはめたままの指輪に目を落とし、やさしく微笑んだ。「杏は、ただ少し遠くに出かけているだけなんだ。彼女は気が強くて、やきもち焼きで、それに潔癖症なんだ。俺が他の誰かを家に入れたら、杏は帰ってきたときに怒るだろうから。だから俺は、この家をちゃんと守ってないといけない。いつか彼女が道に迷って帰ってきたとき、ちゃんとたどり着けるようにね」……40年後。大輝は、老人になっていた。重い病を患った彼は、陽の光が満ちる病室で、静かに横たわっていた。ベッドサイドのテーブルには、あの古いスマホと、テープで貼り合わせた
大輝は、心を病んでしまった。それは深刻な心の病だった。幻覚を見るようになったのだ。彼は誰もいないのに話しかけたり、食事のときには向かいの空のお皿に、おかずを取り分けたりしていた。「杏、今日の魚は新鮮だよ。食べてごらん。もっと食べなよ。最近、痩せすぎだから」心配した友達が、無理やり大輝を心療内科に連れていった。しかし、彼は治療を拒んだ。医師は言った。「丸山さん、乗り越えなくてはいけません。忘れるというのは、自分を守るための働きでもあるんですよ」大輝は椅子に座ったまま、暗く狂気に満ちた目で医師を睨んだ。「どうして、乗り越えなくちゃいけないんですか?杏を忘れてしまったら、それこそが本当に彼女を殺すことになります。俺は一生、杏への罪悪感の中で生きていきます。それが、彼女への贖罪なんです」夜になって、いつものように、夢を見た。夢の中は、結婚式の日だった。純白のウェディングドレスを着た杏が、目を細めてにっこりと笑っている。彼女は言った。「大輝、健やかなるときも、病めるときも、ずっと一緒だよ」場面は一転し、霊安室の冷たい亡骸へと変わる。杏が目を開ける。そして血まみれの顔で、彼に問いかけるのだ。「大輝、すごく痛かったよ。どうして助けてくれなかったの?」大輝は夢から飛び起きる。枕はとっくに涙でぐっしょり濡れていた。彼は激しく息を乱し、心臓が止まってしまいそうなほど痛んだ。そんな苦しみが、毎日続いた。やがて大輝は、自殺を考えるようになった。その夜、彼は丸山ビルの屋上に立っていた。眼下には、きらめく街の灯りが見える。風が強く吹きつけ、服の裾がばたばたと音を立ててはためいた。ここから飛び降りれば、杏に会えるだろうか。この痛みからも、解放されるだろうか。大輝が足を上げ、その一歩を踏み出そうとした、まさにその時。秘書が息を切らしながら駆け上がってきた。「社長!待ってください!先ほど弁護士さんから届いた書類です!奥様の……いえ、杏さんが生前に残された、『やりたいことリスト』です!」大輝の動きが、ぴたりと止まった。彼は震える手でその茶封筒を受け取り、封を開けた。最初の一行は、太いゴシック体でこう書かれていた。【大輝には、長生きしてほしい。私の代わりに、世界の美
大輝は、死にきれなかった。タイミングよく駆けつけた秘書に集中治療室へ運ばれ、一命をとりとめた。目が覚めるなり、彼は狂ったように家に飛んで帰り、家中をひっくり返し始めた。「どこだ!どこにあるんだ!」クローゼットの服をすべて引きずり出し、引き出しの中身を床にぶちまけた。大輝は、杏が自分を愛していた証拠を探していたのだ。彼女がそこにいたという、確かな痕跡を。やがて、ベッドのいちばん奥にあった密閉された収納ボックスの中から、ついにそれを見つけた。箱を開けた瞬間、生臭い血の匂いがぷん、と漂ってきた。中に入っていたのは宝石やアクセサリーじゃない。血のついたティッシュの塊と、洗いざらしてもまだ血の染みが落ちきらないパジャマが数枚だけ。大輝を怖がらせないようにと、杏がこっそり着替えて隠したものだった。箱の底には、古いスマホが一つ入っていた。杏が以前使っていたサブのスマホだ。専門の業者に頼んで、パスワードを解除してもらった。メモアプリには、誰にも送られることのなかった想いが、日記としてびっしりと綴られていた。震える指で、最初の日記を開く。【10月3日。今日、大輝を突き放してしまった。傷ついた子犬みたいなあの目を見たら、胸が張り裂けそうになった。ごめんね。でも今の私の体は、あまりに醜すぎるから。注射の跡と青あざだらけで……あなたには、一番きれいだった私の姿だけを覚えていてほしい。あなたの悪夢に出てくる怪物にはなりたくないの】大輝の涙が、大粒になってスマホの画面にぽたぽたと落ちた。胸が張り裂けそう?いったい、本当に心が張り裂けていたのはどっちだったんだ?【11月15日。悪い女を演じるのは、本当に疲れる。今日は、大輝が作ってくれたお味噌汁を捨ててしまった。本当はすごく飲みたかった。彼が初めて作ってくれた料理だったのに。私のせいで彼がめちゃくちゃになっていくのを見て、少しだけ嬉しくなった自分がいた。大輝、私を憎んで。その憎しみを抱えたまま。たとえ私に復讐するためでもいい。ちゃんと生きていってね】【12月20日――あのバーの夜。もうすぐ死ぬってわかってる。なのに、私はやっぱりすごくわがままだ。あの女が彼のボタンに触るのを見て、殺してやりたいくらい腹が立った。私は潔
杏の葬儀は、ごく簡素なものだった。大輝が、誰の参列も許さなかったからだ。彼は狂ったように斎場にこもり、杏を火葬場に送ることさえ拒んだ。「彼女は暗いところが苦手なんだ。一人じゃ心配だ。まだ目を覚ましていないのに、火葬なんてしたら痛がるだろ」そんな時だった。杏の主治医・松浦英樹(まつうら ひでき)が、1週間の海外の医学学会から帰ってきたのは。訃報を聞きつけ、血相を変えて飛び込んできたのだ。金縁の眼鏡をかけた穏やかそうなその男性は、大輝の死んだような顔つきを見るやいなや、駆け寄って一発殴りつけた。ドンッ。大輝は殴られて床に倒れ込み、口の端から血を流した。しかし彼は、痛みを感じない人形のようだった。ただ呆然と、杏の遺影を見つめているだけだ。「どの面下げて、ここで悲劇の主人公ぶってるんだ?」英樹は大輝の胸ぐらを掴んで床から引きずり起こすと、真っ赤に充血した目で怒鳴りつけた。「彼女は痛みで毎晩眠れず、髪の毛だってごっそり抜け落ちていた!お前の前で普通でいるために、彼女は毎回、俺のところでブロック注射を二本も打ってたんだ!あれは、背骨に直接薬を打つんだぞ!それがどれだけ痛いか、わかるか?」大輝の瞳が、激しく揺れた。ブロック注射……背骨に……「この3ヶ月、彼女が冷たかったって責めてたな?」英樹はカルテの束を投げつけ、大輝の顔に叩きつけた。カルテが、あたりに散らばった。その一枚一枚には、目を覆いたくなるような数値が記録されていた。「自分で見ろ!これが人間の血管だと思うか?お前の前にほんの数分立つためだけに、彼女は俺にブロック注射を頼み込んできたんだ!少しでも強く抱きしめようものなら、ひどい皮下出血を起こしてたんだぞ!お前を怖がらせたくなかったんだ!あんまりにもひどい姿を晒して、お前に悪夢を見させたくなかったんだよ!だから、体に触らせなかったんだ!それなのに、お前は?お前は何をした?」英樹は大輝の鼻先に指を突きつけ、声を震わせた。「お前は彼女を『演技するな』と罵った!『誰のために操を立ててるんだ』って言ったんだ!お前の一言一言が、彼女の心をナイフでえぐっていたんだぞ!」大輝は床に膝をつき、両手で頭を抱え、苦しげなうめき声を漏らした。英樹の言葉一つ一つが、鋭い刃