Short
たった3日、別れの芝居をさせて

たった3日、別れの芝居をさせて

By:  夜風のナミダCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
9Chapters
8views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

私の命は、あと3日。だから私は、大好きな夫・丸山大輝(まるやま だいき)のために、わざと浮気している女を演じることにした。 私を嫌って、離婚してくれるように必死だったのに、大輝がヤケ酒を飲んでるのを見たら、ついカッとなって、彼に言い寄る女の人を突き飛ばしちゃった。 大輝は、目を真っ赤にして怒鳴った。 「俺と別れたいんだろ。だったら、なんで俺のことに口出しするんだよ!」 いつもの私みたいに、「愛してる」って言うのを期待してた。離婚なんて、ただのわがままだって、そう思いたかったはず。 でも私は、隣に彼氏役として立たせた、男の人の手をぎゅっと握って、こみ上げてくる血の味を飲み込みながら、笑ってみせた。 「勘違いしないで。あなたとの離婚の話を、邪魔されたくないだけよ。それに、私の彼氏が不倫相手だなんて言われたら困るもの」 目の前で、大輝の瞳から愛が崩れ落ちていった。 これで、うまくいったんだ。 だけど、私がいなくなった後…… 私の遺品を整理していた大輝は、ベッドの下に隠してあった血まみれの服を見つけて、それを抱きしめて、意識を失うまで泣き叫んだそうだ。

View More

Latest chapter

More Chapters
No Comments
9 Chapters
第1話
丸山大輝(まるやま だいき)の指が、私のパジャマのボタンに触れた。びくっと体が震え、胃がひきつって、激しい痛みが走った。思わず足を上げると、その膝が彼のお腹に強く当たってしまった。「あっちへ行って!」大輝はうめき声をあげて二歩下がり、ベッドサイドの棚に体をぶつけた。テーブルランプが激しく揺れて、彼の顔に光と影が歪んで映った。これで、3か月め。部屋の空気が、ぴんと張りつめる。大輝は体を起こし、ネクタイを乱暴に緩めた。手の甲には青筋が浮き出ている。「杏、いったい誰のために、今も貞操を守っているんだ?」彼は数歩で戻ってくると、片手を私の耳の横に添えて、じっと私を見下ろした。「俺はお前の夫だぞ。少し触っただけで、そんな死にそうな顔をするのか?3か月だぞ。一体、何をもったいぶってるんだ?」私はベッドのシーツを爪が肉に食い込むほど、強く握りしめた。大輝にだけは、見せられない。がんのせいでこの体は痩せこけて、もろくなっている。肋骨なんて、触られただけで痛いのに。胃から何かがせり上がってきて、血の味が喉までこみあげてくる。必死でそれを飲み込んだ。喉の血を、無理やり胃に押し戻した。私はまぶたを上げ、うつろな、そして嫌悪のこもった目で彼を見た。「あなたの顔を見てると、吐き気がするの」大輝の瞳が、きゅっと縮まった。彼は信じられないという顔で、私を見た。「吐き気がする、だと?」大輝は怒りのあまり笑い出すと、強い力で私のあごを掴んだ。「昔、泣いて俺に嫁ぎたいって言ってた時は、そんなことなかっただろ?こっちは、今のお前の死んだような顔を気にしないようにしてるってのに、お前が俺を嫌うのか?」私は無理やり顔を上げさせられ、冷や汗が髪を伝っていく。痛い。とても、痛い。あごだけじゃない。骨のすみずみまで、全部が痛い。私は彼の腕を強く振り払い、ティッシュを取って、触られた肌をゴシゴシと拭いた。「そうか、よくわかった」大輝は二歩下がり、その胸を怒りで激しく上下させていた。「杏、そんなに俺が気持ち悪いなら、一生この空っぽの部屋で一人で過ごせばいい!」バタンッ。ドアが力任せに閉められ、その衝撃で壁の結婚写真が少し傾いた。写真の中の私たちは、笑いあっていた。あれは、
Read more
第2話
次の日の朝。私は、わざと赤いワンピースを着た。それは大輝がいちばん嫌いなファッションスタイル。「派手すぎる」って、いつも言っていたから。体中の薬の匂いを隠すため、メンズの香水を半分くらい吹き付けた。階下におりると、大輝がテーブルの椅子に座っていた。目の下には、ひどいクマができていた。私の姿を見た大輝は、お箸を持ったままぴたりと手を止め、眉をひそめた。彼は一瞬ためらったけど、すぐにお味噌汁をよそって、私の前に置いてくれた。「昨日は俺が悪かった。お味噌汁、食べなよ。お前の好きな具だ」胸が、きゅっと痛んだ。大輝、あなたは何も悪くない。私がこんなに嫌いな服を着ているのに……どうして、それでも優しくしてくれるの?また涙がこみ上げてきて、目頭が熱くなった。でも、残された命があと3日しかないことを思い出して、私はぐっと息をのんだ。ハイヒールを鳴らして彼に近づき、目の前のお味噌汁には目もくれなかった。そして、手を伸ばすと、そのお椀を床に払いのけた。ガシャン――陶器のお椀は砕け散り、お味噌汁が彼のスラックスの裾に飛び散った。大輝は勢いよく立ち上がると、床の惨状と私を交互に見つめた。「杏!」私は腕を組んで、わざとらしく口の端を吊り上げてみせた。「あら、もう我慢できないの?」大輝は苦々しく顔をゆがめ、拳を何度も握りしめては、また開いた。彼は、深く息を吸った。「一体、何を怒っているんだ?昨日の夜のことなら、俺が謝るから」「必要ないわ」私はスマホを取り出して、わざと大輝に画面を見せつけた。表示されていたのは、たった今届いたメッセージ。差出人の名前にはハートマークがついていた。「その気持ち悪い機嫌取り、やめて。大輝、7年も一緒だと、さすがに飽きちゃうのよ。新鮮さが欲しいの」大輝は私のスマホをひったくると、何度も画面を見つめた。そして、力なく乾いた笑いをもらした。「だからか。この3ヶ月、俺に指一本触れさせなかったのは」胃が張り裂けそうな激痛を必死でこらえながら、私は無表情にうなずいた。「ええ」昔は、あんなにまっすぐ私だけを見てくれていたのに。それなのに、大輝の瞳から輝きが消えていくのを、私はただ見ていた。その瞳には憎しみさえ浮かび、表情はみるみる歪ん
Read more
第3話
「月影」というバーに来た。ヘヴィメタルの音楽が、耳にがんがん響く。照明がちかちかして、目がくらみそう。大輝は、いちばん奥のボックス席で強いお酒をあおっていた。立て続けに何杯も。ネクタイはゆるみ、シャツのボタンは三つも開いていて、なんだかボロボロな様子だった。足もとには、空になったボトルが数本転がっている。周りの女たちが、獲物を狙うみたいに彼を見ていた。ついに、そのうちの一人が動きだした。増田家の次女、増田莉子(ますだ りこ)だ。彼女は家業を継がせてもらえないから、玉の輿を狙って大輝に目をつけていた。莉子はグラスを手に、大輝に体をすり寄せる。お酒を飲ませながら、その手は彼の胸をそろりとなぞって、シャツのボタンにまで伸びていく。大輝は酔って目がとろんとしていたけど、さすがに体を寄せてきた女を突き放そうとした。でもそのとき、私と裕也が腕を組んで店に入ってくるのが見えたようだ。その親密な様子に、彼の動きが止まる。莉子がキスをしようと顔を近づけてくるのを、大輝は目を閉じて受け入れようとした。バシャッ。私は駆け寄ると、テーブルの上の冷たいお酒を手に取り、莉子の顔に思いっきりぶちまけた。グラスはテーブルに叩きつけられて、粉々に砕け散った。お酒で莉子のメイクはぐちゃぐちゃになり、隣にいた大輝にも飛び散った。店内の音楽が、一瞬だけ止まったように感じた。莉子は悲鳴をあげて飛び上がった。「この女、いきなりなにするのよ!」大輝は顔にかかったしずくをぬぐって、私だと気づいて目を見開いた。少し酔いがさめたのか、彼の虚ろな瞳に、一瞬だけ光が差した。それは、希望の光だった。「杏?」大輝は無意識に私の名前を呼んだ。その声はかすれて、すこし震えている。「俺を迎えに来てくれたのか?もしかして、やきもち焼いてくれてる?やっぱりな。俺と別れたくないんだ……」彼はよろよろと立ち上がると、私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。私は一歩あとずさって、その手をかわす。お腹がねじれるような激しい痛みをこらえながら、私はあごを上げて二人を見下した。「やきもち?」私は鼻で笑ってやった。「大輝、うぬぼれないでくれる?まさかあなたが、だまってこんな所で飲んだくれてるなんてね。役所でずっと待ってたこっちの
Read more
第4話
大輝が目を覚ました時、頭が割れるように痛かった。無意識に、ベッドの隣を手で探る。そこには誰もいなかった。シーツは冷え切っていた。記憶がよみがえってくる。昨夜の喧嘩、バーでの屈辱、そして決定的な「気持ち悪い」という一言。彼は勢いよく起き上がった。自分がリビングのソファーで寝ていたことに、そこで気づいた。ローテーブルの上には、一枚の離婚協議書が置かれていた。そこには、すでにサインがしてある。丸山杏(まるやま あん)の字だ。以前はしなやかで力強かったのに、今はみみずが這ったように乱れていた。離婚協議書の下には、二人の結婚写真が挟まれている。写真は真ん中から切り裂かれていた。その亀裂は、もう元には戻れない二人の関係そのものみたいだった。「……はっ」大輝は、乾いた笑いを短く漏らした。彼は離婚協議書をひっつかむと、びりびりに破いて床に投げ捨てた。「離婚したいだと?あの男と一緒になりたいってか?ふざけるな!お前は俺のものだ!誰にも渡してたまるか!」大輝は二階に向かって、狂ったように叫んだ。「杏はどこだ!どこに行ったんだ!」使用人が、キッチンからおどおどと顔を出した。「旦那様……奥様は、昨日の夜中に家を出られました。小さなスーツケースを一つだけ持って、もう戻らない、と……」出て行った?戻らない?彼は慌ててスマホを取り出し、電話をかけた。――電源が入っていない。もう一度かける。――やはり、電源は入っていない。「そうか、上等だ」歯を食いしばりながら、秘書に電話をかけた。「杏の名義の口座をすべて凍結しろ!それから、あいつがどこへ行ったのか徹底的に調べ上げろ!」大輝は部屋の中を行ったり来たりしながら、荒い息をついた。「あいつは本当にあの男のために、俺を捨てたっていうのか?!杏、許さないぞ!俺から離れられると思うな!」……街の、もう一方の外れで。薄暗く湿っぽい、安アパートの一室。私はカビ臭いベッドにうずくまり、全身が痙攣するほどの痛みに耐えていた。家を出る時、最後の痛み止めを数錠だけ持ってきた。でも、その薬ももう尽きてしまった。胃が、まるでカミソリを飲み込んだみたいに、きりきりと痛む。意識がだんだん、遠のいていく。「大
Read more
第5話
大輝の手が、宙で固まった。カシャン、と音を立ててスマホが滑り落ち、大理石の床に打ちつけられて画面にヒビが入った。周りの騒がしさが、すっと遠のいていく。まるで世界から音が消えたみたいに、しんと静まり返った。「丸山社長?どうしましたか?」莉子が寄り添って、彼の腕に絡みつこうとする。大輝は乱暴に莉子を振り払った。その力は強く、彼女はよろけて床に尻もちをついた。「失せろ!」彼は獣のようなうなり声を上げ、その目は瞬く間に充血した。詐欺だ。こんなの、絶対に詐欺に決まってる。「杏、あの女、俺と離婚したいために、こんな汚い手まで使うのか?」床に落ちたスマホを拾うけど、大輝は指が震えてロック解除もままならない。「信じるもんか、と杏にそう伝えろ!俺はここで待ってる!いつまで芝居を続けられるか、見ものだな!」口ではそう言いながら、足はがくがく震えて立っているのもやっとだった。骨の髄から染み出してくるような恐怖が、一瞬で心臓を凍りつかせた。もし、本当だったら?もしも……それ以上は、考えられなかった。大輝は狂ったように会場を飛び出した。ジャケットを掴むことさえ忘れた。黒のマイバッハが、豪雨の後の濡れた路面できしむような音を立てる。アクセルは全開だ。赤信号。それでも、突っ切る。逆走。それも、構わず進む。大輝はハンドルをきつく握りしめる。指の関節は力を入れすぎて白くなっていた。口の中で、何度も何度も繰り返す。「嘘つきだ。杏、お前は嘘つきだ。もし死んだりしたら、一生お前を許さない。勝手に死んだら、お前の遺灰なんてそこら辺にぶちまけてやるからな!」それなのに、涙が勝手にあふれてきて視界がにじむ。心臓が息もできないほど速く鼓動し、そのたびに胸が張り裂けそうに痛んだ。城南警察署。大輝は、ずぶ濡れのまま中に駆け込んだ。髪は乱れ、ひどいありさまだ。「杏はどこだ?あいつを出せ!俺の前に出てこいって言え!」彼はロビーで叫び続けた。その声はかすれて張り裂けていた。当直の警察官が大輝を一瞥する。その目には、憐れみと、かすかな非難の色が浮かんでいた。「丸山さん、落ち着いてください。こちらへどうぞ」その眼差しに、大輝は全身の血が凍るような思いがした。あれ
Read more
第6話
杏の葬儀は、ごく簡素なものだった。大輝が、誰の参列も許さなかったからだ。彼は狂ったように斎場にこもり、杏を火葬場に送ることさえ拒んだ。「彼女は暗いところが苦手なんだ。一人じゃ心配だ。まだ目を覚ましていないのに、火葬なんてしたら痛がるだろ」そんな時だった。杏の主治医・松浦英樹(まつうら ひでき)が、1週間の海外の医学学会から帰ってきたのは。訃報を聞きつけ、血相を変えて飛び込んできたのだ。金縁の眼鏡をかけた穏やかそうなその男性は、大輝の死んだような顔つきを見るやいなや、駆け寄って一発殴りつけた。ドンッ。大輝は殴られて床に倒れ込み、口の端から血を流した。しかし彼は、痛みを感じない人形のようだった。ただ呆然と、杏の遺影を見つめているだけだ。「どの面下げて、ここで悲劇の主人公ぶってるんだ?」英樹は大輝の胸ぐらを掴んで床から引きずり起こすと、真っ赤に充血した目で怒鳴りつけた。「彼女は痛みで毎晩眠れず、髪の毛だってごっそり抜け落ちていた!お前の前で普通でいるために、彼女は毎回、俺のところでブロック注射を二本も打ってたんだ!あれは、背骨に直接薬を打つんだぞ!それがどれだけ痛いか、わかるか?」大輝の瞳が、激しく揺れた。ブロック注射……背骨に……「この3ヶ月、彼女が冷たかったって責めてたな?」英樹はカルテの束を投げつけ、大輝の顔に叩きつけた。カルテが、あたりに散らばった。その一枚一枚には、目を覆いたくなるような数値が記録されていた。「自分で見ろ!これが人間の血管だと思うか?お前の前にほんの数分立つためだけに、彼女は俺にブロック注射を頼み込んできたんだ!少しでも強く抱きしめようものなら、ひどい皮下出血を起こしてたんだぞ!お前を怖がらせたくなかったんだ!あんまりにもひどい姿を晒して、お前に悪夢を見させたくなかったんだよ!だから、体に触らせなかったんだ!それなのに、お前は?お前は何をした?」英樹は大輝の鼻先に指を突きつけ、声を震わせた。「お前は彼女を『演技するな』と罵った!『誰のために操を立ててるんだ』って言ったんだ!お前の一言一言が、彼女の心をナイフでえぐっていたんだぞ!」大輝は床に膝をつき、両手で頭を抱え、苦しげなうめき声を漏らした。英樹の言葉一つ一つが、鋭い刃
Read more
第7話
大輝は、死にきれなかった。タイミングよく駆けつけた秘書に集中治療室へ運ばれ、一命をとりとめた。目が覚めるなり、彼は狂ったように家に飛んで帰り、家中をひっくり返し始めた。「どこだ!どこにあるんだ!」クローゼットの服をすべて引きずり出し、引き出しの中身を床にぶちまけた。大輝は、杏が自分を愛していた証拠を探していたのだ。彼女がそこにいたという、確かな痕跡を。やがて、ベッドのいちばん奥にあった密閉された収納ボックスの中から、ついにそれを見つけた。箱を開けた瞬間、生臭い血の匂いがぷん、と漂ってきた。中に入っていたのは宝石やアクセサリーじゃない。血のついたティッシュの塊と、洗いざらしてもまだ血の染みが落ちきらないパジャマが数枚だけ。大輝を怖がらせないようにと、杏がこっそり着替えて隠したものだった。箱の底には、古いスマホが一つ入っていた。杏が以前使っていたサブのスマホだ。専門の業者に頼んで、パスワードを解除してもらった。メモアプリには、誰にも送られることのなかった想いが、日記としてびっしりと綴られていた。震える指で、最初の日記を開く。【10月3日。今日、大輝を突き放してしまった。傷ついた子犬みたいなあの目を見たら、胸が張り裂けそうになった。ごめんね。でも今の私の体は、あまりに醜すぎるから。注射の跡と青あざだらけで……あなたには、一番きれいだった私の姿だけを覚えていてほしい。あなたの悪夢に出てくる怪物にはなりたくないの】大輝の涙が、大粒になってスマホの画面にぽたぽたと落ちた。胸が張り裂けそう?いったい、本当に心が張り裂けていたのはどっちだったんだ?【11月15日。悪い女を演じるのは、本当に疲れる。今日は、大輝が作ってくれたお味噌汁を捨ててしまった。本当はすごく飲みたかった。彼が初めて作ってくれた料理だったのに。私のせいで彼がめちゃくちゃになっていくのを見て、少しだけ嬉しくなった自分がいた。大輝、私を憎んで。その憎しみを抱えたまま。たとえ私に復讐するためでもいい。ちゃんと生きていってね】【12月20日――あのバーの夜。もうすぐ死ぬってわかってる。なのに、私はやっぱりすごくわがままだ。あの女が彼のボタンに触るのを見て、殺してやりたいくらい腹が立った。私は潔
Read more
第8話
大輝は、心を病んでしまった。それは深刻な心の病だった。幻覚を見るようになったのだ。彼は誰もいないのに話しかけたり、食事のときには向かいの空のお皿に、おかずを取り分けたりしていた。「杏、今日の魚は新鮮だよ。食べてごらん。もっと食べなよ。最近、痩せすぎだから」心配した友達が、無理やり大輝を心療内科に連れていった。しかし、彼は治療を拒んだ。医師は言った。「丸山さん、乗り越えなくてはいけません。忘れるというのは、自分を守るための働きでもあるんですよ」大輝は椅子に座ったまま、暗く狂気に満ちた目で医師を睨んだ。「どうして、乗り越えなくちゃいけないんですか?杏を忘れてしまったら、それこそが本当に彼女を殺すことになります。俺は一生、杏への罪悪感の中で生きていきます。それが、彼女への贖罪なんです」夜になって、いつものように、夢を見た。夢の中は、結婚式の日だった。純白のウェディングドレスを着た杏が、目を細めてにっこりと笑っている。彼女は言った。「大輝、健やかなるときも、病めるときも、ずっと一緒だよ」場面は一転し、霊安室の冷たい亡骸へと変わる。杏が目を開ける。そして血まみれの顔で、彼に問いかけるのだ。「大輝、すごく痛かったよ。どうして助けてくれなかったの?」大輝は夢から飛び起きる。枕はとっくに涙でぐっしょり濡れていた。彼は激しく息を乱し、心臓が止まってしまいそうなほど痛んだ。そんな苦しみが、毎日続いた。やがて大輝は、自殺を考えるようになった。その夜、彼は丸山ビルの屋上に立っていた。眼下には、きらめく街の灯りが見える。風が強く吹きつけ、服の裾がばたばたと音を立ててはためいた。ここから飛び降りれば、杏に会えるだろうか。この痛みからも、解放されるだろうか。大輝が足を上げ、その一歩を踏み出そうとした、まさにその時。秘書が息を切らしながら駆け上がってきた。「社長!待ってください!先ほど弁護士さんから届いた書類です!奥様の……いえ、杏さんが生前に残された、『やりたいことリスト』です!」大輝の動きが、ぴたりと止まった。彼は震える手でその茶封筒を受け取り、封を開けた。最初の一行は、太いゴシック体でこう書かれていた。【大輝には、長生きしてほしい。私の代わりに、世界の美
Read more
第9話
2年後。X市、聖山朝霧。標高6000メートル。大輝は分厚い防寒着を着ていた。息も苦しく、一歩踏み出すたびにナイフの先を歩くような激痛が走る。それでも、彼は足を止めなかった。首には、一本のペンダントをつけている。ペンダントは精巧な小瓶で、中には杏の遺灰がほんの少しだけ納められていた。大輝は、いっそう無口になった。その冷たい雰囲気は、まるでこの世の全てを超越してしまったかのようだった。彼は、杏が大事にしていた「潔癖症」を、徹底的に貫いていたのだ。身の回りから女性社員を一人残らず遠ざけ、家の使用人さえも口数の少ない年配の男性に代えてしまった。「杏がとても大事にしていた体」だからと、大輝は誰にも触れさせなかった。ついに、山頂にたどり着いた。薄い空気に、くらくらとめまいがする。大輝は手袋を外し、ペンダントを取り出すと、祈るようにそっと唇に押し当てた。「杏。ここなら、天国にも少し近いだろう。お前にも、見えるかい?ここの雪は真っ白で、まるであの日、お前がウェディングドレスを着ていた時のようだ」山を降りた後、大輝は私の名前で、がん治療の基金を立ち上げた。この2年で、彼は治療費に困る数千人もの患者を救った。患者たちが元気になって退院し、家族と抱き合う姿を見るたび、大輝はいつも遠くから、ただ静かにその光景を見つめていた。そして時々、指にはめられたままの結婚指輪に、そっと触れるのだった。友人たちは、彼を心配して声をかける。「大輝、もう2年だ。そろそろ前を向けよ。誰かいい人を見つけたらどうだ?杏さんだって、お前が一生ひとりでいることなんて望んでないさ」大輝は、薬指にはめたままの指輪に目を落とし、やさしく微笑んだ。「杏は、ただ少し遠くに出かけているだけなんだ。彼女は気が強くて、やきもち焼きで、それに潔癖症なんだ。俺が他の誰かを家に入れたら、杏は帰ってきたときに怒るだろうから。だから俺は、この家をちゃんと守ってないといけない。いつか彼女が道に迷って帰ってきたとき、ちゃんとたどり着けるようにね」……40年後。大輝は、老人になっていた。重い病を患った彼は、陽の光が満ちる病室で、静かに横たわっていた。ベッドサイドのテーブルには、あの古いスマホと、テープで貼り合わせた
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status