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たった3日、別れの芝居をさせて

たった3日、別れの芝居をさせて

By:  夜風のナミダCompleted
Language: Japanese
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私の命は、あと3日。だから私は、大好きな夫・丸山大輝(まるやま だいき)のために、わざと浮気している女を演じることにした。 私を嫌って、離婚してくれるように必死だったのに、大輝がヤケ酒を飲んでるのを見たら、ついカッとなって、彼に言い寄る女の人を突き飛ばしちゃった。 大輝は、目を真っ赤にして怒鳴った。 「俺と別れたいんだろ。だったら、なんで俺のことに口出しするんだよ!」 いつもの私みたいに、「愛してる」って言うのを期待してた。離婚なんて、ただのわがままだって、そう思いたかったはず。 でも私は、隣に彼氏役として立たせた、男の人の手をぎゅっと握って、こみ上げてくる血の味を飲み込みながら、笑ってみせた。 「勘違いしないで。あなたとの離婚の話を、邪魔されたくないだけよ。それに、私の彼氏が不倫相手だなんて言われたら困るもの」 目の前で、大輝の瞳から愛が崩れ落ちていった。 これで、うまくいったんだ。 だけど、私がいなくなった後…… 私の遺品を整理していた大輝は、ベッドの下に隠してあった血まみれの服を見つけて、それを抱きしめて、意識を失うまで泣き叫んだそうだ。

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Chapter 1

第1話

丸山大輝(まるやま だいき)の指が、私のパジャマのボタンに触れた。

びくっと体が震え、胃がひきつって、激しい痛みが走った。

思わず足を上げると、その膝が彼のお腹に強く当たってしまった。

「あっちへ行って!」

大輝はうめき声をあげて二歩下がり、ベッドサイドの棚に体をぶつけた。

テーブルランプが激しく揺れて、彼の顔に光と影が歪んで映った。

これで、3か月め。

部屋の空気が、ぴんと張りつめる。

大輝は体を起こし、ネクタイを乱暴に緩めた。手の甲には青筋が浮き出ている。

「杏、いったい誰のために、今も貞操を守っているんだ?」

彼は数歩で戻ってくると、片手を私の耳の横に添えて、じっと私を見下ろした。

「俺はお前の夫だぞ。少し触っただけで、そんな死にそうな顔をするのか?

3か月だぞ。一体、何をもったいぶってるんだ?」

私はベッドのシーツを爪が肉に食い込むほど、強く握りしめた。

大輝にだけは、見せられない。

がんのせいでこの体は痩せこけて、もろくなっている。肋骨なんて、触られただけで痛いのに。

胃から何かがせり上がってきて、血の味が喉までこみあげてくる。

必死でそれを飲み込んだ。喉の血を、無理やり胃に押し戻した。

私はまぶたを上げ、うつろな、そして嫌悪のこもった目で彼を見た。

「あなたの顔を見てると、吐き気がするの」

大輝の瞳が、きゅっと縮まった。

彼は信じられないという顔で、私を見た。

「吐き気がする、だと?」

大輝は怒りのあまり笑い出すと、強い力で私のあごを掴んだ。

「昔、泣いて俺に嫁ぎたいって言ってた時は、そんなことなかっただろ?

こっちは、今のお前の死んだような顔を気にしないようにしてるってのに、お前が俺を嫌うのか?」

私は無理やり顔を上げさせられ、冷や汗が髪を伝っていく。

痛い。

とても、痛い。

あごだけじゃない。骨のすみずみまで、全部が痛い。

私は彼の腕を強く振り払い、ティッシュを取って、触られた肌をゴシゴシと拭いた。

「そうか、よくわかった」

大輝は二歩下がり、その胸を怒りで激しく上下させていた。

「杏、そんなに俺が気持ち悪いなら、一生この空っぽの部屋で一人で過ごせばいい!」

バタンッ。

ドアが力任せに閉められ、その衝撃で壁の結婚写真が少し傾いた。

写真の中の私たちは、笑いあっていた。

あれは、私たちがいちばん幸せだったころ。

ドアが閉まった瞬間、私はベッドに崩れ落ちた。

「ごほっ」

吐き出した鮮血が、真っ白なカーペットに広がった。

私は震える手でゴミ箱を掴むと、そこに顔を突っ込んで吐いた。

吐き出したのは、どす黒い血ばかり。

死にたくない。

まだ、27歳なのに。

大輝と添い遂げたかった。彼が植えてくれた木の下で、生まれてくる子供の成長を見守りたかった。年をとって歩けなくなったら、その木のブランコに揺られながら、夕日を、そして隣にいる大輝を、見ていたかった。

でも、医師の診断書が、そのすべてを壊してしまった。

【末期の胃がん、多臓器不全】

医師は言った。

「入院しましょう。もって、あと1か月です」

私は、断った。

たくさんの管につながれて、大輝に私が弱っていく姿を見られ、病院のベッドで死ぬくらいなら、いっそ彼に憎まれたい。

憎しみは、愛よりも簡単に手放せるから。

私が最低な裏切り者だと思えば、私の死は、大輝にとって解放になるはずだ。

愛する人を失った痛みの中で、長い残りの人生を生きるよりも、ずっと。

私は血の跡を拭うと、鏡に映る、目のくぼんだ自分を見つめた。

パフを手に取り、ファンデーションを何度も重ねて、顔色の悪さを隠した。

スマホが一度、ぶるっと震えた。

長谷川裕也(はせがわ ゆうや)からのメッセージだった。

【丸山さん、明日は予定通りでよろしいですか?】

画面を見つめる指は震えていたけれど、私は一言だけ打ち込んだ。

【はい】

それでも涙が勝手にこぼれてきた。今年は、二人の赤ちゃんを授かる予定だったのに。

どうして、あと3日しかないんだろう。

大輝、お願いだから。あなたのために、最後の芝居をさせて。

あなたが、これから何も背負わずに生きていけるようにするための、芝居を。
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hiroko.kim
hiroko.kim
つらい つらすぎる これは残酷すぎるよ 奥さんは良かれと思ったんだろうけど これは余計傷つけただけだよ 旦那さん可哀想
2026-01-26 04:40:16
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mogo
mogo
本当に憎ませるためには、きれいに姿を消さなきゃダメだったね……。 結局、真実が明るみに出て、ヒーローは苦しんでしまった。 ただ、ふたりの愛は本物だった。だから、悲しいけど、不幸せな結末とは言えない気がしました。
2026-01-25 22:37:11
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Tae Fuji
Tae Fuji
こういう形で別れようとしても残された人はいずれ事実を知って結局辛い思いをすると思う。だからこそリストどおりに生き抜いた彼は素晴らしい。
2025-12-28 04:56:07
7
0
ノンスケ
ノンスケ
死の間際の妻の選択。何が正しくて正しくはないのか、それはわからないけれど、夫は生涯妻1人を愛し続けることになった。曖昧な女も全て遠ざけて。
2025-12-29 08:02:33
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松坂 美枝
松坂 美枝
自分の死に際の醜い姿を見せたくないからって憎ませるというのは正しいのだろうか 夫はしなくてもいい苦しみを味わい、愛する人の最期も看取れず… 一緒に乗り越えて行くという選択肢はなかったのか…
2025-12-27 09:30:11
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9 Chapters
第1話
丸山大輝(まるやま だいき)の指が、私のパジャマのボタンに触れた。びくっと体が震え、胃がひきつって、激しい痛みが走った。思わず足を上げると、その膝が彼のお腹に強く当たってしまった。「あっちへ行って!」大輝はうめき声をあげて二歩下がり、ベッドサイドの棚に体をぶつけた。テーブルランプが激しく揺れて、彼の顔に光と影が歪んで映った。これで、3か月め。部屋の空気が、ぴんと張りつめる。大輝は体を起こし、ネクタイを乱暴に緩めた。手の甲には青筋が浮き出ている。「杏、いったい誰のために、今も貞操を守っているんだ?」彼は数歩で戻ってくると、片手を私の耳の横に添えて、じっと私を見下ろした。「俺はお前の夫だぞ。少し触っただけで、そんな死にそうな顔をするのか?3か月だぞ。一体、何をもったいぶってるんだ?」私はベッドのシーツを爪が肉に食い込むほど、強く握りしめた。大輝にだけは、見せられない。がんのせいでこの体は痩せこけて、もろくなっている。肋骨なんて、触られただけで痛いのに。胃から何かがせり上がってきて、血の味が喉までこみあげてくる。必死でそれを飲み込んだ。喉の血を、無理やり胃に押し戻した。私はまぶたを上げ、うつろな、そして嫌悪のこもった目で彼を見た。「あなたの顔を見てると、吐き気がするの」大輝の瞳が、きゅっと縮まった。彼は信じられないという顔で、私を見た。「吐き気がする、だと?」大輝は怒りのあまり笑い出すと、強い力で私のあごを掴んだ。「昔、泣いて俺に嫁ぎたいって言ってた時は、そんなことなかっただろ?こっちは、今のお前の死んだような顔を気にしないようにしてるってのに、お前が俺を嫌うのか?」私は無理やり顔を上げさせられ、冷や汗が髪を伝っていく。痛い。とても、痛い。あごだけじゃない。骨のすみずみまで、全部が痛い。私は彼の腕を強く振り払い、ティッシュを取って、触られた肌をゴシゴシと拭いた。「そうか、よくわかった」大輝は二歩下がり、その胸を怒りで激しく上下させていた。「杏、そんなに俺が気持ち悪いなら、一生この空っぽの部屋で一人で過ごせばいい!」バタンッ。ドアが力任せに閉められ、その衝撃で壁の結婚写真が少し傾いた。写真の中の私たちは、笑いあっていた。あれは、
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第2話
次の日の朝。私は、わざと赤いワンピースを着た。それは大輝がいちばん嫌いなファッションスタイル。「派手すぎる」って、いつも言っていたから。体中の薬の匂いを隠すため、メンズの香水を半分くらい吹き付けた。階下におりると、大輝がテーブルの椅子に座っていた。目の下には、ひどいクマができていた。私の姿を見た大輝は、お箸を持ったままぴたりと手を止め、眉をひそめた。彼は一瞬ためらったけど、すぐにお味噌汁をよそって、私の前に置いてくれた。「昨日は俺が悪かった。お味噌汁、食べなよ。お前の好きな具だ」胸が、きゅっと痛んだ。大輝、あなたは何も悪くない。私がこんなに嫌いな服を着ているのに……どうして、それでも優しくしてくれるの?また涙がこみ上げてきて、目頭が熱くなった。でも、残された命があと3日しかないことを思い出して、私はぐっと息をのんだ。ハイヒールを鳴らして彼に近づき、目の前のお味噌汁には目もくれなかった。そして、手を伸ばすと、そのお椀を床に払いのけた。ガシャン――陶器のお椀は砕け散り、お味噌汁が彼のスラックスの裾に飛び散った。大輝は勢いよく立ち上がると、床の惨状と私を交互に見つめた。「杏!」私は腕を組んで、わざとらしく口の端を吊り上げてみせた。「あら、もう我慢できないの?」大輝は苦々しく顔をゆがめ、拳を何度も握りしめては、また開いた。彼は、深く息を吸った。「一体、何を怒っているんだ?昨日の夜のことなら、俺が謝るから」「必要ないわ」私はスマホを取り出して、わざと大輝に画面を見せつけた。表示されていたのは、たった今届いたメッセージ。差出人の名前にはハートマークがついていた。「その気持ち悪い機嫌取り、やめて。大輝、7年も一緒だと、さすがに飽きちゃうのよ。新鮮さが欲しいの」大輝は私のスマホをひったくると、何度も画面を見つめた。そして、力なく乾いた笑いをもらした。「だからか。この3ヶ月、俺に指一本触れさせなかったのは」胃が張り裂けそうな激痛を必死でこらえながら、私は無表情にうなずいた。「ええ」昔は、あんなにまっすぐ私だけを見てくれていたのに。それなのに、大輝の瞳から輝きが消えていくのを、私はただ見ていた。その瞳には憎しみさえ浮かび、表情はみるみる歪ん
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第3話
「月影」というバーに来た。ヘヴィメタルの音楽が、耳にがんがん響く。照明がちかちかして、目がくらみそう。大輝は、いちばん奥のボックス席で強いお酒をあおっていた。立て続けに何杯も。ネクタイはゆるみ、シャツのボタンは三つも開いていて、なんだかボロボロな様子だった。足もとには、空になったボトルが数本転がっている。周りの女たちが、獲物を狙うみたいに彼を見ていた。ついに、そのうちの一人が動きだした。増田家の次女、増田莉子(ますだ りこ)だ。彼女は家業を継がせてもらえないから、玉の輿を狙って大輝に目をつけていた。莉子はグラスを手に、大輝に体をすり寄せる。お酒を飲ませながら、その手は彼の胸をそろりとなぞって、シャツのボタンにまで伸びていく。大輝は酔って目がとろんとしていたけど、さすがに体を寄せてきた女を突き放そうとした。でもそのとき、私と裕也が腕を組んで店に入ってくるのが見えたようだ。その親密な様子に、彼の動きが止まる。莉子がキスをしようと顔を近づけてくるのを、大輝は目を閉じて受け入れようとした。バシャッ。私は駆け寄ると、テーブルの上の冷たいお酒を手に取り、莉子の顔に思いっきりぶちまけた。グラスはテーブルに叩きつけられて、粉々に砕け散った。お酒で莉子のメイクはぐちゃぐちゃになり、隣にいた大輝にも飛び散った。店内の音楽が、一瞬だけ止まったように感じた。莉子は悲鳴をあげて飛び上がった。「この女、いきなりなにするのよ!」大輝は顔にかかったしずくをぬぐって、私だと気づいて目を見開いた。少し酔いがさめたのか、彼の虚ろな瞳に、一瞬だけ光が差した。それは、希望の光だった。「杏?」大輝は無意識に私の名前を呼んだ。その声はかすれて、すこし震えている。「俺を迎えに来てくれたのか?もしかして、やきもち焼いてくれてる?やっぱりな。俺と別れたくないんだ……」彼はよろよろと立ち上がると、私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。私は一歩あとずさって、その手をかわす。お腹がねじれるような激しい痛みをこらえながら、私はあごを上げて二人を見下した。「やきもち?」私は鼻で笑ってやった。「大輝、うぬぼれないでくれる?まさかあなたが、だまってこんな所で飲んだくれてるなんてね。役所でずっと待ってたこっちの
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第4話
大輝が目を覚ました時、頭が割れるように痛かった。無意識に、ベッドの隣を手で探る。そこには誰もいなかった。シーツは冷え切っていた。記憶がよみがえってくる。昨夜の喧嘩、バーでの屈辱、そして決定的な「気持ち悪い」という一言。彼は勢いよく起き上がった。自分がリビングのソファーで寝ていたことに、そこで気づいた。ローテーブルの上には、一枚の離婚協議書が置かれていた。そこには、すでにサインがしてある。丸山杏(まるやま あん)の字だ。以前はしなやかで力強かったのに、今はみみずが這ったように乱れていた。離婚協議書の下には、二人の結婚写真が挟まれている。写真は真ん中から切り裂かれていた。その亀裂は、もう元には戻れない二人の関係そのものみたいだった。「……はっ」大輝は、乾いた笑いを短く漏らした。彼は離婚協議書をひっつかむと、びりびりに破いて床に投げ捨てた。「離婚したいだと?あの男と一緒になりたいってか?ふざけるな!お前は俺のものだ!誰にも渡してたまるか!」大輝は二階に向かって、狂ったように叫んだ。「杏はどこだ!どこに行ったんだ!」使用人が、キッチンからおどおどと顔を出した。「旦那様……奥様は、昨日の夜中に家を出られました。小さなスーツケースを一つだけ持って、もう戻らない、と……」出て行った?戻らない?彼は慌ててスマホを取り出し、電話をかけた。――電源が入っていない。もう一度かける。――やはり、電源は入っていない。「そうか、上等だ」歯を食いしばりながら、秘書に電話をかけた。「杏の名義の口座をすべて凍結しろ!それから、あいつがどこへ行ったのか徹底的に調べ上げろ!」大輝は部屋の中を行ったり来たりしながら、荒い息をついた。「あいつは本当にあの男のために、俺を捨てたっていうのか?!杏、許さないぞ!俺から離れられると思うな!」……街の、もう一方の外れで。薄暗く湿っぽい、安アパートの一室。私はカビ臭いベッドにうずくまり、全身が痙攣するほどの痛みに耐えていた。家を出る時、最後の痛み止めを数錠だけ持ってきた。でも、その薬ももう尽きてしまった。胃が、まるでカミソリを飲み込んだみたいに、きりきりと痛む。意識がだんだん、遠のいていく。「大
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第5話
大輝の手が、宙で固まった。カシャン、と音を立ててスマホが滑り落ち、大理石の床に打ちつけられて画面にヒビが入った。周りの騒がしさが、すっと遠のいていく。まるで世界から音が消えたみたいに、しんと静まり返った。「丸山社長?どうしましたか?」莉子が寄り添って、彼の腕に絡みつこうとする。大輝は乱暴に莉子を振り払った。その力は強く、彼女はよろけて床に尻もちをついた。「失せろ!」彼は獣のようなうなり声を上げ、その目は瞬く間に充血した。詐欺だ。こんなの、絶対に詐欺に決まってる。「杏、あの女、俺と離婚したいために、こんな汚い手まで使うのか?」床に落ちたスマホを拾うけど、大輝は指が震えてロック解除もままならない。「信じるもんか、と杏にそう伝えろ!俺はここで待ってる!いつまで芝居を続けられるか、見ものだな!」口ではそう言いながら、足はがくがく震えて立っているのもやっとだった。骨の髄から染み出してくるような恐怖が、一瞬で心臓を凍りつかせた。もし、本当だったら?もしも……それ以上は、考えられなかった。大輝は狂ったように会場を飛び出した。ジャケットを掴むことさえ忘れた。黒のマイバッハが、豪雨の後の濡れた路面できしむような音を立てる。アクセルは全開だ。赤信号。それでも、突っ切る。逆走。それも、構わず進む。大輝はハンドルをきつく握りしめる。指の関節は力を入れすぎて白くなっていた。口の中で、何度も何度も繰り返す。「嘘つきだ。杏、お前は嘘つきだ。もし死んだりしたら、一生お前を許さない。勝手に死んだら、お前の遺灰なんてそこら辺にぶちまけてやるからな!」それなのに、涙が勝手にあふれてきて視界がにじむ。心臓が息もできないほど速く鼓動し、そのたびに胸が張り裂けそうに痛んだ。城南警察署。大輝は、ずぶ濡れのまま中に駆け込んだ。髪は乱れ、ひどいありさまだ。「杏はどこだ?あいつを出せ!俺の前に出てこいって言え!」彼はロビーで叫び続けた。その声はかすれて張り裂けていた。当直の警察官が大輝を一瞥する。その目には、憐れみと、かすかな非難の色が浮かんでいた。「丸山さん、落ち着いてください。こちらへどうぞ」その眼差しに、大輝は全身の血が凍るような思いがした。あれ
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第6話
杏の葬儀は、ごく簡素なものだった。大輝が、誰の参列も許さなかったからだ。彼は狂ったように斎場にこもり、杏を火葬場に送ることさえ拒んだ。「彼女は暗いところが苦手なんだ。一人じゃ心配だ。まだ目を覚ましていないのに、火葬なんてしたら痛がるだろ」そんな時だった。杏の主治医・松浦英樹(まつうら ひでき)が、1週間の海外の医学学会から帰ってきたのは。訃報を聞きつけ、血相を変えて飛び込んできたのだ。金縁の眼鏡をかけた穏やかそうなその男性は、大輝の死んだような顔つきを見るやいなや、駆け寄って一発殴りつけた。ドンッ。大輝は殴られて床に倒れ込み、口の端から血を流した。しかし彼は、痛みを感じない人形のようだった。ただ呆然と、杏の遺影を見つめているだけだ。「どの面下げて、ここで悲劇の主人公ぶってるんだ?」英樹は大輝の胸ぐらを掴んで床から引きずり起こすと、真っ赤に充血した目で怒鳴りつけた。「彼女は痛みで毎晩眠れず、髪の毛だってごっそり抜け落ちていた!お前の前で普通でいるために、彼女は毎回、俺のところでブロック注射を二本も打ってたんだ!あれは、背骨に直接薬を打つんだぞ!それがどれだけ痛いか、わかるか?」大輝の瞳が、激しく揺れた。ブロック注射……背骨に……「この3ヶ月、彼女が冷たかったって責めてたな?」英樹はカルテの束を投げつけ、大輝の顔に叩きつけた。カルテが、あたりに散らばった。その一枚一枚には、目を覆いたくなるような数値が記録されていた。「自分で見ろ!これが人間の血管だと思うか?お前の前にほんの数分立つためだけに、彼女は俺にブロック注射を頼み込んできたんだ!少しでも強く抱きしめようものなら、ひどい皮下出血を起こしてたんだぞ!お前を怖がらせたくなかったんだ!あんまりにもひどい姿を晒して、お前に悪夢を見させたくなかったんだよ!だから、体に触らせなかったんだ!それなのに、お前は?お前は何をした?」英樹は大輝の鼻先に指を突きつけ、声を震わせた。「お前は彼女を『演技するな』と罵った!『誰のために操を立ててるんだ』って言ったんだ!お前の一言一言が、彼女の心をナイフでえぐっていたんだぞ!」大輝は床に膝をつき、両手で頭を抱え、苦しげなうめき声を漏らした。英樹の言葉一つ一つが、鋭い刃
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第7話
大輝は、死にきれなかった。タイミングよく駆けつけた秘書に集中治療室へ運ばれ、一命をとりとめた。目が覚めるなり、彼は狂ったように家に飛んで帰り、家中をひっくり返し始めた。「どこだ!どこにあるんだ!」クローゼットの服をすべて引きずり出し、引き出しの中身を床にぶちまけた。大輝は、杏が自分を愛していた証拠を探していたのだ。彼女がそこにいたという、確かな痕跡を。やがて、ベッドのいちばん奥にあった密閉された収納ボックスの中から、ついにそれを見つけた。箱を開けた瞬間、生臭い血の匂いがぷん、と漂ってきた。中に入っていたのは宝石やアクセサリーじゃない。血のついたティッシュの塊と、洗いざらしてもまだ血の染みが落ちきらないパジャマが数枚だけ。大輝を怖がらせないようにと、杏がこっそり着替えて隠したものだった。箱の底には、古いスマホが一つ入っていた。杏が以前使っていたサブのスマホだ。専門の業者に頼んで、パスワードを解除してもらった。メモアプリには、誰にも送られることのなかった想いが、日記としてびっしりと綴られていた。震える指で、最初の日記を開く。【10月3日。今日、大輝を突き放してしまった。傷ついた子犬みたいなあの目を見たら、胸が張り裂けそうになった。ごめんね。でも今の私の体は、あまりに醜すぎるから。注射の跡と青あざだらけで……あなたには、一番きれいだった私の姿だけを覚えていてほしい。あなたの悪夢に出てくる怪物にはなりたくないの】大輝の涙が、大粒になってスマホの画面にぽたぽたと落ちた。胸が張り裂けそう?いったい、本当に心が張り裂けていたのはどっちだったんだ?【11月15日。悪い女を演じるのは、本当に疲れる。今日は、大輝が作ってくれたお味噌汁を捨ててしまった。本当はすごく飲みたかった。彼が初めて作ってくれた料理だったのに。私のせいで彼がめちゃくちゃになっていくのを見て、少しだけ嬉しくなった自分がいた。大輝、私を憎んで。その憎しみを抱えたまま。たとえ私に復讐するためでもいい。ちゃんと生きていってね】【12月20日――あのバーの夜。もうすぐ死ぬってわかってる。なのに、私はやっぱりすごくわがままだ。あの女が彼のボタンに触るのを見て、殺してやりたいくらい腹が立った。私は潔
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第8話
大輝は、心を病んでしまった。それは深刻な心の病だった。幻覚を見るようになったのだ。彼は誰もいないのに話しかけたり、食事のときには向かいの空のお皿に、おかずを取り分けたりしていた。「杏、今日の魚は新鮮だよ。食べてごらん。もっと食べなよ。最近、痩せすぎだから」心配した友達が、無理やり大輝を心療内科に連れていった。しかし、彼は治療を拒んだ。医師は言った。「丸山さん、乗り越えなくてはいけません。忘れるというのは、自分を守るための働きでもあるんですよ」大輝は椅子に座ったまま、暗く狂気に満ちた目で医師を睨んだ。「どうして、乗り越えなくちゃいけないんですか?杏を忘れてしまったら、それこそが本当に彼女を殺すことになります。俺は一生、杏への罪悪感の中で生きていきます。それが、彼女への贖罪なんです」夜になって、いつものように、夢を見た。夢の中は、結婚式の日だった。純白のウェディングドレスを着た杏が、目を細めてにっこりと笑っている。彼女は言った。「大輝、健やかなるときも、病めるときも、ずっと一緒だよ」場面は一転し、霊安室の冷たい亡骸へと変わる。杏が目を開ける。そして血まみれの顔で、彼に問いかけるのだ。「大輝、すごく痛かったよ。どうして助けてくれなかったの?」大輝は夢から飛び起きる。枕はとっくに涙でぐっしょり濡れていた。彼は激しく息を乱し、心臓が止まってしまいそうなほど痛んだ。そんな苦しみが、毎日続いた。やがて大輝は、自殺を考えるようになった。その夜、彼は丸山ビルの屋上に立っていた。眼下には、きらめく街の灯りが見える。風が強く吹きつけ、服の裾がばたばたと音を立ててはためいた。ここから飛び降りれば、杏に会えるだろうか。この痛みからも、解放されるだろうか。大輝が足を上げ、その一歩を踏み出そうとした、まさにその時。秘書が息を切らしながら駆け上がってきた。「社長!待ってください!先ほど弁護士さんから届いた書類です!奥様の……いえ、杏さんが生前に残された、『やりたいことリスト』です!」大輝の動きが、ぴたりと止まった。彼は震える手でその茶封筒を受け取り、封を開けた。最初の一行は、太いゴシック体でこう書かれていた。【大輝には、長生きしてほしい。私の代わりに、世界の美
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第9話
2年後。X市、聖山朝霧。標高6000メートル。大輝は分厚い防寒着を着ていた。息も苦しく、一歩踏み出すたびにナイフの先を歩くような激痛が走る。それでも、彼は足を止めなかった。首には、一本のペンダントをつけている。ペンダントは精巧な小瓶で、中には杏の遺灰がほんの少しだけ納められていた。大輝は、いっそう無口になった。その冷たい雰囲気は、まるでこの世の全てを超越してしまったかのようだった。彼は、杏が大事にしていた「潔癖症」を、徹底的に貫いていたのだ。身の回りから女性社員を一人残らず遠ざけ、家の使用人さえも口数の少ない年配の男性に代えてしまった。「杏がとても大事にしていた体」だからと、大輝は誰にも触れさせなかった。ついに、山頂にたどり着いた。薄い空気に、くらくらとめまいがする。大輝は手袋を外し、ペンダントを取り出すと、祈るようにそっと唇に押し当てた。「杏。ここなら、天国にも少し近いだろう。お前にも、見えるかい?ここの雪は真っ白で、まるであの日、お前がウェディングドレスを着ていた時のようだ」山を降りた後、大輝は私の名前で、がん治療の基金を立ち上げた。この2年で、彼は治療費に困る数千人もの患者を救った。患者たちが元気になって退院し、家族と抱き合う姿を見るたび、大輝はいつも遠くから、ただ静かにその光景を見つめていた。そして時々、指にはめられたままの結婚指輪に、そっと触れるのだった。友人たちは、彼を心配して声をかける。「大輝、もう2年だ。そろそろ前を向けよ。誰かいい人を見つけたらどうだ?杏さんだって、お前が一生ひとりでいることなんて望んでないさ」大輝は、薬指にはめたままの指輪に目を落とし、やさしく微笑んだ。「杏は、ただ少し遠くに出かけているだけなんだ。彼女は気が強くて、やきもち焼きで、それに潔癖症なんだ。俺が他の誰かを家に入れたら、杏は帰ってきたときに怒るだろうから。だから俺は、この家をちゃんと守ってないといけない。いつか彼女が道に迷って帰ってきたとき、ちゃんとたどり着けるようにね」……40年後。大輝は、老人になっていた。重い病を患った彼は、陽の光が満ちる病室で、静かに横たわっていた。ベッドサイドのテーブルには、あの古いスマホと、テープで貼り合わせた
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