「桜井綿、俺がお前を愛するなんて妄想するな!」男は彼女の首を掴み、ソファに押しつけながら憎々しげに叫んだ。「もう限界だ。おとなしくしてろ。半年後、絶対離婚してやる!」「陸川嬌を突き落としたのは私じゃない……彼女が自分でプールに落ちたの!」桜井綿の声はか細く震え、全身びしょ濡れのまま、痩せた体が絶えず小刻みに揺れていた。先ほど水に落ちた恐怖から、まだ抜け出せずにいた。「言い訳はやめろ!お前は嬌ちゃんと長年の友人だろ?彼女が水を怖がるのは、一番知っているはずだ!」男はさらに力を込める。まるで「嬌に何かあれば、お前も同じ目に遭わせてやる」とでも言うような、凶悪な表情だった。「長年の友人」――その一言で、彼女の罪は決まった。綿の瞳は薄く霞み、一筋の涙がゆっくりと頬を伝い落ちた。心が砕ける音が、自分にだけ鮮明に響く。他の女のために、自分を責めるこの男が夫だなんて――信じたくなかった。彼女は高杉輝明を四年間愛し、三年間、彼の妻だった。三年前、彼と結婚できると知ったときの喜びは、言葉にできないほどだった。――だが、輝明と結婚してから知った。この結婚には最初から、彼の愛なんてなかったのだと。輝明の母は、たとえ何があっても、彼の想い人である陸川嬌を家に入れないと決めていた。それで綿は、陸川が彼のそばに居続けるための「道具」にされたのだ。陸川がプールに落ちたとき、みんなが彼女を助けに行き、必死で取り囲んだ。――けれど。綿がプールに落ちたときには、誰一人、気にも留めなかった。冷たい水の底で、ただ一人、死にかけていた。輝明は陸川が水を怖がることを覚えていた。けれど、彼女も同じく水を恐れていることは忘れていた。必死に築き上げた結婚が、ただの空っぽな殻だったと気付いた瞬間、綿は思わず笑ってしまった。ソファに座ったまま、乾いた笑みをこぼす彼女を見て、輝明は軽蔑の色を浮かべる。そして、冷たく言い捨てた。「……狂ってるな。」――そう。彼女は、狂っていたのかもしれない。輝明と結婚するために、彼女は何度も父に逆らい、桜井家を混乱に巻き込み、ついには父と決裂した。その結果、父は病で倒れ、入院することになった。父は彼女に言った。「愛してくれない男と結婚しても、苦痛なだけだ。君は、勝てない」――けれど、彼女は信じていた。
「パパ、あなたの言う通りだったわ。輝明の心を温めることなんて、私にはできなかった。間違っていた、帰りたい……おうちに帰りたいの……」綿のかすれた声が、静まり返ったリビングに沈んだ。桜井家は南城でも指折りの名家であり、医者の家系でもある。祖父は成功した実業家であり、祖母は心臓外科の名医。その二人は、周囲から理想の夫婦と称えられていた。幼い頃から綿は祖母のもとで医学を学んでいた。祖母は彼女を天才と呼び、「あなたはこの道を歩むべく生まれてきたのだ」とまで言った。祖父と祖母は、彼女が医師としての道を歩めるように環境を整え、父は彼女のために莫大な資産を築いた。母は、「綿はいつまでもあたしの可愛い娘よ」といつも優しく微笑みながら、彼女をそっと包み込むように愛し続けた。けれども綿は、そのすべての捨てた。ただ一人のために。高杉輝明。愛のために全てを投げ打ち、彼のもとへと飛び込んだ自分を、かつては「愛に生きる勇者」だと信じていた。だが今、思い返せば、ただの愚か者だった。綿は深く息を吸い込むと、静かに階段を上り、シャワーを浴びた。流れ落ちる湯とともに、張り詰めていた感情がほどけていくのを感じる。肌を拭き、丁寧に髪を梳かし、軽く化粧を施した。もう、泣かない。荷物をまとめ終えると、リビングの壁にかかった一枚の絵に目を向けた。輝明と共に描いた夕焼けの絵。彼女はそっと指先で絵の端をなぞる。結婚したばかりの頃の、あの幸福感が胸をよぎる。――結婚式なんてなくてもいい。輝明の妻になれるだけで、それで十分。そう信じていた。だが、父は激怒した。――「お前は自分の価値を貶めている。いつか、大きな過ちだったと気づく日が来るぞ」あの日の言葉が、いまさらになって胸に突き刺さる。綿は、そっと絵を額縁から外した。一度、深く息を吸う。そして──破り捨てた。絵の断片が、床に散る。その欠片を手でかき集め、ゴミ箱へ押し込んだ。終わりだ。この選択が、命を削るほどの痛みを伴うものだったことは確かだ。だが、まだ生きている。これからは、ただ平穏に、穏やかに生きていきたい。それだけを、願う。新婚初夜、輝明が投げつけた離婚届。綿はそれを引き出しの奥から取り出し、そっとテーブルの上に置いた。そして、その紙を見つめながら、ま
輝明は、信じられなかった。綿がいそうな場所を、手当たり次第に探し回った。裏庭、書斎、映写室……どこにも綿の姿はなく、彼女の物さえも見当たらなかった。書斎の本棚にあった、綿がよく読んでいた医学書も、跡形もなく消えている。もともと、この家にはあまり帰らなかった。だが、綿がいなくなった今、この家はまるで何年も前から空き家だったかのように、冷え切っていた。重い足取りで階段を降りると、ふと目に入った。ソファの後ろの空いたスペース。――何かが、なくなっている。近づくと、ゴミ箱の中に破られた絵が捨てられていた。その瞬間、息が止まる。――あの絵だ。結婚してから、綿はよく「一緒に買い物に行こう」とせがんできた。だが、輝明は忙しさを理由に、彼女のことを疎ましく思い、何度も断り続けていた。その日――綿の誕生日。彼女が会社までやって来て、「一緒に誕生日を過ごせる?」と聞いた。「忙しいなら、半時間でもいいから……」彼女の声は、どこか怯えていた。まるで、彼に拒まれることをすでに覚悟しているかのように。それが、妙に目についた。だから、仕方なく了承した。どうせ、高価なプレゼントをねだったり、特別なディナーに連れていけとでも言うつもりだろう。そう思っていた。しかし、彼女はただ、「一緒にショッピングセンターに行きたい」と言っただけだった。「輝明……手をつないでもいい?」その声は、期待というよりも、不安げだった。彼が忙しいのをわかっていたから、負担にならないようにと、あちこち歩き回る買い物ではなく、手作りの店で一緒に絵を描くことを選んだ。くだらない。彼はそう思いながら、ただ隣で見ていただけだった。その間、嬌からの電話が何度かかかってきた。綿は何も言わなかった。ただ黙って、筆を走らせていた。家に戻ると、彼女はその絵をリビングに飾り、とても嬉しそうにしていた。……それ以来、彼女は二度と、買い物に誘うこともなかった。誕生日を祝ってほしいとも言わなかった。輝明は、壊れた絵に手を伸ばした、その時、視線の端に何かが移る。――離婚届。眉がピクリと動く。無造作に置かれたその紙に、彼と綿の名前が記されていた。喉を鳴る。心臓が、嫌な音を立てる。綿が……本当に、離婚に同意したのか?――ピロンスマ
綿は、目の前で自分の手を引いていく男を見つめた。酔いが回ったせいか、視界が少し霞む。――あの頃も、彼はこうやって私の手を引いた。追手から逃げるように、必死に走ったあの日。もし――もしあの時、輝明がもう少し冷たかったら。こんなにも深く、彼を愛してしまうことはなかっただろう。家族を捨ててまで、彼と結婚しようとは思わなかったかもしれない。それなのに――どうして、彼がここにいるの?何をしようとしているの?私が他の男と親しげにしているのを見て、嫉妬でもしてるの?――ありえない。綿は、その考えをすぐに振り払った。――輝明は心を持たない。彼は私を、一度たりとも愛したことがない。だから、嫉妬するはずがない。――バタン。重い扉の音とともに、綿はトイレの中へと押し込まれた。酒のせいで、身体から力が抜ける。洗面台の端に追いやられた瞬間、逆光の中に立つ輝明の姿がぼんやりと映る。影に包まれた顔――それでも、その美しさだけは際立っていた。そして、冷たい声が落ちる。「綿。俺たちは、まだ離婚していない」奥歯を噛みしめながら、低く絞り出すような声だった。綿は、鏡を見た。そこに映るのは、自分の背中に刻まれた蝶のタトゥー。まるで自由を求めるかのように羽を広げている。彼女はゆっくりと目を上げ、痛みを押し殺しながら、静かに言った。「――高杉さん、離婚届にはもうサインしたわ。ある意味では、もう離婚しているのよ」――ピキッ。わずかに、輝明の表情が動いた。その瞬間、彼の指が、強く綿の手首を握り締める。「……高杉、さん?」その名を、一語ずつ噛み締めるように、低く問いただす。綿は微笑んだ。「何?高杉さんって呼ぶの、間違ってる?」綿が彼にそう呼びかけたのは、これが初めてだった。今まで、彼のそばではずっと――「明くん」「明お兄ちゃん」どんな時も、優しい声で、彼の名前を呼んでいた。でも、彼が「その呼び方はやめろ」と言ったから、彼女は二度とそう呼ばなかった。結婚して三年、距離は縮まるどころか、ただ広がるばかりだった。綿は、少しだけ顔を近づける。「違うわね」「私はあなたを『元夫』と呼ぶべきね」彼の瞳が、一瞬で冷たく凍る。そして、綿の細い腕を、さらに強く引いた。彼女の背中が、勢いよく洗
夜、シャロンホテル33階。華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。天河『酒宴に行った?』綿『うん』短く返信し、ため息をつく。昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。「……綿さん?」耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。「本当に君なのか?」綿もまた、思わず驚いた。「……ジョン?」どうしてここに――?傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」ジョンは微笑みながら頷く。――五年前。海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」アシスタントが説明する。「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」綿は、ぼんやりと彼を見つめた。――ジョンが、そんなに成功しているなんて。五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらった
大広間が一気に混乱に陥った。人々はワイングラスを置き、次々と韓井総一郎が倒れた場所へと集まり、何が起こったのかを確かめようとしていた。「救急車は呼んだか?」「いつ到着するんだ?ここで韓井社長が死んだら、韓井家は黙らないぞ!」綿は目を上げ、倒れている男性を見た。50代くらいだろうか。青白い顔に、ぐったりとした体。手元の時計を確認する。――市立病院までは車で15分。だが、この時間帯は渋滞がひどい。救急車を待っていたら、間に合わないかもしれない。ホテルのスタッフはまだ何の対応もできておらず、その間にも男性の容態は悪化している。綿は静かに息を吸い、眉を寄せた。――もう、黙って見ている時間はない。前へと歩み出し、力強く声を上げる。「ちょっと見せてください」その瞬間、一斉に視線が集まった。――桜井綿?「お前に何ができる?」男の声が、ざわめきの中で響いた。「桜井家は医学の名門だが、お前はただの飾り物だろう。医術なんて何も学んでいないはずだ!」その言葉に、人々の間で次々と騒ぎが起こる。「そうだ!人の命がかかっているんだぞ!韓井社長を素人に任せるなんて、火に飛び込ませるようなもんだ!」「もしここで死んだら、責任を取れるのか?これは子供の遊びじゃないんだぞ!」「彼女に治療させるわけにはいかない!どけ!」怒号が飛び交う。まるで、あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、彼女を否定する言葉が次々と投げかけられた。綿は、まだ男性に触れてもいないのに、すでに人々に押しのけられていた。「でも、もう待てません!」強く訴えるが、その声は雑音にかき消される。「たとえ死んでも、お前みたいな無能な飾りに救われるくらいならマシだ!」――その声は、鋭く突き刺さるような女性のものだった。同時に、強く肩を押される。たとえ死んでも、私に助けられるのは嫌だというのか。その言葉は、冷たい刃のように胸に突き刺さる。綿は無意識に息を詰まらせ、感情が一瞬にして凍りついた。ふらりと後ろへ二歩下がる。目の前には、壁のように立ちはだかる黒い人の波。――敵意に満ちた視線。その圧倒的な拒絶の中で、胸の奥がじわりと痺れる感覚を覚えた。無能?お飾り?彼女の医術を疑われたことなど、一度もな
――それは、綿だった。嬌は強く押され、そのまま床に倒れ込む。すぐさま、輝明が彼女を支えた。その間、綿は膝をつき、素早い手つきで韓井社長のネクタイを外し、脇へと放る。嬌は驚き、輝明に支えられたまま綿を見つめた。「綿ちゃん、何をしてるの?大丈夫なの?」周囲も呆然とし、ざわめきが広がる。「陸川お嬢様でもどうにもできなかったのに、彼女に何ができる?」「しかも、こんなに体面を重んじる韓井社長の服を勝手に脱がせるなんて……一体何を考えてるんだ?」疑念と非難の声が次々と上がる。嬌は唇を結び、優しく語りかけるように言った。「綿ちゃん、無理しなくていいのよ。みんなが何か言ったからって、気にすることないわ」「普段は桜井家の皆さんが甘やかしてくれるかもしれないけど、今は家でふざけてるときじゃないの。命に関わることなんだから――」焦った嬌は手を伸ばし、綿の腕を引こうとする。しかし――「黙ってて」冷たく、鋭い声が嬌の動きを止めた。綿は彼女の腕を振り払い、目を細める。嬌は言葉を失う。――その視線に、背筋が凍るような感覚を覚えた。綿はふと輝明を見やる。彼は、今も嬌を抱きしめたまま、戸惑ったような表情を浮かべていた。綿は冷たく言い放つ。「高杉さん、あなたの「大切な人」を、ちゃんと見張ってて」輝明は綿の冷淡な態度に、わずかに眉をひそめる。「綿、嬌はお前を心配してるんだ。彼女の善意を無視するな」綿は、ふっと笑った。――それは本当に「心配」なのか?それとも、韓井社長を助けた「手柄」を奪われることが怖いのか?彼女は、嬌の本性を知っている。長年の友人だからこそ、誰よりもその本質を見抜いている。嬌が涙を流せば、周りは皆彼女を庇い、誰もが彼女の味方になる。綿自身も、ずっとそうやって彼女に尽くしてきた。――だが、もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。そんな思いを抱えながら、綿はゆっくりと輝明を見上げる。「綿、俺たちが長年夫婦だったんだ。そのよしみで忠告しておく。余計なことには首を突っ込むな」輝明の低い声が、静かに響く。綿は、じっと彼を見つめ、苦笑した。「……あなたも、私を「無能な役立たず」だと思ってるの?」輝明は、無言だった。その沈黙が、答えだった。綿は鼻をすすり、どこ
男は、心に突き刺さる棘のような痛みを感じながら、慌てて言った。「いやいや、冗談だよ。本気にするなって!」綿は、薄く笑いながらグラスを手に取り、一口含む。「本気に決まってるじゃない。私は昔から、何事にも真剣なの」琥珀色の液体が、グラスの中で揺れる。その瞬間、綿の脳裏に浮かんだのは――嬌を庇い、その細い身体をしっかりと抱きしめる輝明の姿だった。喉の奥からこみ上げる、不快感。自分は、嬌に劣るのか?どこが劣っているのか?なぜ、輝明はいつも、自分を邪魔者のように扱うのか?そんな思いが渦巻く中――「桜井綿、お前って本当に心が狭いよな」男が突然、強い口調で言い放つ。「だから高杉輝明は、お前を好きにならないんだよ!」――ピクリ。綿の指が、わずかにグラスを締める。「……なんですって?」ゆっくりと顔を上げると、その瞳には、冷たい光が宿っていた。まるで、逆鱗に触れた龍のように。――どうして、彼らが私を「心が狭い」と言える?もし私が韓井社長を助けられなかったら、彼らは、どんな態度をとっただろう。きっと、今頃私を「無能」「恥さらし」と笑い、許しを乞うたところで、さらに嘲り、踏みにじったはずだ。ならば――なぜ、私だけが「心が狭い」と言わなければならない?綿は、手に持っていたグラスを男の足元めがけて放り投げた。パリーンッ——!割れた破片が床に散らばる。誰もが息を飲む中、綿は冷ややかに言い放つ。「跪くのが嫌なら、手伝ってあげようか?」――カチッ。指先で、ペンのキャップを外す音が響いた。場内が、一瞬にして凍りつく。彼女は、一体何をしようとしているのか?男は、綿の視線に射抜かれたように硬直した。脳裏に浮かぶのは、韓井社長の首元に、迷いなく突き立てられたペン。その正確さ、速さ、そして、一切の躊躇を見せない、鋭い手際。男は唾を飲み込み、足を引いた。しかし――綿は、そんな男の動きを逃さず、ペンを指先でくるくると回しながら、じっと見つめる。怠惰な仕草とは裏腹に、その瞳には、冷え冷えとした光が宿っていた。「知ってる?」静かに囁くように、彼女は言った。「このペン一本で、人を助けることも――殺すこともできるの」男は背筋に、冷たい汗が流れた。「――三秒あげ
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか
綿は陽菜を意味ありげに一瞥した後、何も言わずに出口へ向かった。駅の外に出ると、手にプレートを持った若い男性が立っているのが目に入った。プレートには「LK研究所」と書かれている。綿は眉を上げ、その研究所がベテラン教授のものであることを確認すると、歩み寄った。若者も彼女に気づき、急いで手を振りながら笑顔を向けた。「こんにちは、私は桜井綿です」綿が自己紹介すると、彼はすぐに応じた。「お噂はかねがね伺っております!写真よりもさらにお美しいですね!」彼は照れくさそうに頭を掻いた。確かに綿は目を引く存在だった。――多くの人がいる駅の出口でも、ひときわ目立つのは彼女だった。服装は特に派手でもないのに、その独特の雰囲気が際立っていた。陽菜も美しいが、綿の隣に立つと、どこか見劣りしてしまう。まるで飾り物のようで、存在感が薄い。綿はその場の空気に何か違和感を覚えた。駅の外に出た瞬間、多くの人々が一斉に彼女をじろじろと見てきたのだ。ただ見るだけならまだしも、彼らの視線には好奇心や賞賛の色ではなく、どこか露骨で嫌らしいものが含まれていた。まるで何かを企んでいるかのような視線に、綿は不安を覚えた。若者が話しかけた。「桜井さん、お疲れ様でした。これからお昼を一緒にいかがですか?」綿は視線を戻し、微笑みながら答えた。「ご丁寧にどうも。迎えに来てくださってありがとうございます。実は、幻城に来るのは初めてで……正直、どっちが東でどっちが西かも分からなくて」若者はすぐに首を振った。「僕を山下と呼んでください」綿は軽く頷き、陽菜を指差して紹介した。「この子は私の助手の恩田陽菜です」陽菜は山下を上から下まで値踏みするように眺めた後、心の中で呟いた。――なんて地味な人なんだろう。黒い服をきっちりと着こなし、どこか老けて見えるその姿に、陽菜は興味を失ったようだった。山下はそんなことを気にする様子もなく、にこやかに手を差し出して挨拶した。「初めまして、恩田さん。幻城へようこそ」その場の空気が一瞬凍りついた。綿は陽菜をじっと見つめ、軽く咳払いして彼女に合図を送る。――握手しないの?何をボーッとしてるの?陽菜は綿の無言の圧力を感じ、不機嫌そうに手を差し出した。「どうも」形だけの握手
陽菜はスマホのメッセージを見ただけで、徹が怒っていることを察した。徹は温厚なことで有名だが、今回の文章には明らかに怒りが滲み出ていた。彼が本気で怒っているのだと分かり、陽菜はそれ以上何も言わず、ただ「ごめんなさい」とだけ返信しておとなしく座り直した。一方、綿はグランクラスの静けさを楽しんでいた。彼女はスマホを取り出してツイッターを開いた。今日は「クインナイト」の開催日だ。ツイッターには今夜のイベントに出席する予定のスターたちのリストがすでに掲載されている。玲奈は海外にいるため、今回のイベントには参加していない。その中で恵那の名前はひときわ目立っていた。――クインナイトに加え、今日はクリスマス。特別な一日になるだろう。綿はバッグから紙とペンを取り出し、ふとジュエリーデザインのアイデアが浮かんできた。――彼女にとってクリスマスは一番好きなイベントだ。けれどここ数年、ちゃんとお祝いした記憶がない。玲奈が早朝にわざわざ電話をかけてきて「メリークリスマス」と言ってくれたのは、彼女が綿のことを本当に気にかけてくれている証拠だった。綿は顔を手のひらに乗せ、窓の外を流れる景色を眺めた。――クリスマスとジュエリーが融合したら、どんな化学反応が生まれるのだろうか?彼女はノートにペンを走らせ、思いつくままに線を引いていった。その時、スマホに新しいメッセージが届いた。恵那:「どう?きれいでしょ?」続いて恵那から、カメラマンが撮影した大量の写真が送られてきた。綿は目を細めた。写真の中で、「雪の涙」は数多くのクローズアップショットが撮られており、その美しさが際立っている。恵那は純白のドレスを身にまとい、小さな羽飾りを背につけていた。まるで天から舞い降りた雪の妖精のようで、ジュエリーとの組み合わせが絶妙だった。綿:「きれいだね」恵那:「当然でしょ!」綿:「どうやら今日は、誰もあなたの輝きを超えられないみたいね」恵那:「森川玲奈がいないから、私にチャンスが回ってきたのよ!」綿は思わず笑みを浮かべた。――玲奈は本当に恐ろしい存在だ。どんなイベントに出席しても、彼女がそこにいるだけで視線を集めてしまう。綿はスマホをしまい、再び窓の外を眺めた。この静かな朝を、彼女はとても心地よく感じて
綿は顔を洗い、簡単にメイクを整えた。盛晴が用意してくれた朝食の香りが漂う中、彼女はバッグを手に階段を下りてきた。今日の綿は黒と白をベイスとしたセットアップに、上からコートを羽織っている。髪は上品にまとめ、淡いメイクに赤いリップが映える。どこか優雅で、まるで清らかな白い薔薇のようだ。しかし、その美しさには棘があり、誰も近寄ることを許さないような雰囲気を纏っている。昨夜、天河は酒を飲みすぎたせいで、まだ目を覚ましていなかった。それでも庭に飾られたクリスマスツリーはすでに見事に装飾され、煌めいている。綿はその様子を見て微笑んだ。――残念ながら、今日は出張だ。夜に帰ってきてから、このツリーを楽しもう。「ママ、今日出張に行ってくる。帰りは夜の12時くらいかな」綿はキッチンに向かって声をかけた。「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい。何かあったらすぐに電話して」盛晴が答えた。綿は小さく返事をして、パンをひとつ袋に入れると、そのまま家を出た。盛晴が玄関に出てきた時には、綿の車はすでに遠ざかっていった。……新幹線駅。綿は時計を確認し、ふと顔を上げると、遅れて陽菜がやってくるのが見えた。陽菜は派手な服装をしており、短いスカートに白いフェイクファーのショールを羽織っている。綿は無言で見つめた。――出張だというのに、まるでファッションショーにでも行くかのようだ。こんな格好で仕事ができるのか?「初めての出張?」綿は控えめに尋ねた。陽菜は顔を上げて答えた。「違うよ」「じゃあ、前回もこんな服装だったの?」陽菜はにっこり笑った。「どういう意味?今どき、他人の服装に口出しするつもり?私たち、同じ女性でしょ?さすがに、それはないんじゃない?」綿は呆れたように目を伏せた。「そう。余計なこと言ったわ」綿は微笑みながら答えた。――こう言われてしまっては、それ以上何も言えない。陽菜は軽く鼻を鳴らした。――そもそも、余計な口出しをする方が悪い。ちょうどその時、乗車券のチェックが始まった。綿は今回、必要最低限の荷物しか持っていない。メイク道具と柏花草関連の資料を詰めた少し大きめのバッグだけだ。首枕を持って行こうか迷ったが、結局かさばるのでやめた。本来なら、こういっ
綿は沈黙した。母が言葉にしなかった「その道」が何を指しているのか、彼女にはわかっていた――それは「死」だ。「まあ、それでいいんじゃない?外でまた悪事を働くよりマシでしょ。あんなに心が歪んだ子、少し苦しんで当然よ」盛晴は嬌について語るとき、綿以上に感情をあらわにしていた。――もし嬌がいなければ、娘の結婚生活がこんなにめちゃくちゃになることもなかったはず。これこそ、恩を仇で返されたということだ。綿は窓の外に目を向けた。煌めく街の夜景が、彼女の胸中の空虚さとは対照的だった。後部座席では、天河が半分眠りながら、彼女の名前を呟いていた。「綿ちゃん……」「綿ちゃん、パパの言うことを聞いて……」「やめろ、やめろ……」その声を聞きながら、盛晴は深いため息をついた。「お父さんがこの人生で一番心配しているのは、あなただよ。綿ちゃん、これ以上お父さんを悲しませることはやめなさい」綿は目を上げ、かつて父親と喧嘩をしたあの日々を思い出した。――父はこう言った。「お前がどうしても高杉輝明と一緒になりたいなら、この家には二度と帰ってくるな!」あの時、彼女は振り返ることもなく家を出た。三年間、一度も帰らなかった。その後、遠くから父の姿をそっと見守ることしかできなかった。綿は天河の肩に頭を寄せたまま目を閉じ、一粒の涙が頬を伝った。――自分がどれほど親不孝だったか、彼女にはわかっている。……あっという間にクリスマスが訪れた。朝、綿がまだ眠っていると、スマホの着信音で目を覚ました。ベッドで寝返りを打ち、スマホを手に取ると、画面には玲奈の名前が表示されていた。電話に出ると、玲奈の弾むような声が響いてきた。「メリークリスマス、ベイビー!!」綿は大きなあくびをしながら答えた。「そっちは今何時?」「夜の10時よ!こっちは大盛り上がり中!」綿は目を開け、軽くため息をついた。「私はまだ寝起きだよ。こっちは朝の6時」「知らないわよ!私は楽しむからね!綿ちゃん、メリークリスマス!ずっとあなたを愛してるわ!」そう言い残して、電話は切れた。綿は呆然としながら、スマホを見つめていた。ゆっくりと起き上がり、両手で頭を抱えた。その時、また新しいメッセージが届いた。送信者は徹だった。徹
「まあ、幸いなことに、今のところ復縁するつもりはないけどね」綿は肩をすくめながらさらりと言った。恵那はグラスに口をつけ、微笑みを浮かべた。その表情は、まるで未来を予測しているかのようだった。「ここまで来るのに本当に大変だったんだよ。一度あの泥沼から抜け出したのに、またすぐに戻るなんてあり得ないでしょ」綿は食事をしながら、どこか気だるげな声で続けた。「分かってるよ。お姉ちゃんはすごく冷静だ。ただ、ときどきボケるだけ」恵那は笑いながら返した。「いいえ、私はただ、輝明に関してはよくボケるだけなの」綿は正直に認めた。かつて自分がいかに恋愛ボケだったかを。――だから、傷つけられたのも自業自得。でも、今は違う。――今の彼女にとって、自分自身と家族以上に大事なものなんてない。20歳の綿は、狂ったように輝明との結婚を望んだ。21歳の綿は、彼のために命さえ捧げる覚悟だった。けれど、もうすぐ25歳になる綿は、もうそんなことはしたくない。「次はどんなイベントに参加するの?」話題を変えたくて、綿は軽く尋ねた。「『クインナイト』よ」恵那が答えた。「さっき電話で、ずっと誰かにライバル視されてるって言ってたけど、どういうこと?助けが必要なら言って」綿は眉を上げ、少し真剣な口調になった。その言葉に、恵那は思わず笑い出した。綿の言い方が、まるで「姉ちゃんがその相手をやっつけてやろうか」とでも言っているように聞こえたからだ。「同じタイプの女優で、最近ネットドラマで大ヒットした人がいてさ。その勢いで私を押さえつけようとしてるの。正直、面倒くさい」恵那はため息をつきながら続けた。「でも、大丈夫。今は『雪の涙』があるからね。『クインナイト』の話題は、絶対に私が持っていく!」「それは楽しみだね。トレンドで恵那の名前を見るのが待ち遠しい」綿は軽く微笑んだ。「ありがとう、お姉ちゃん」恵那は頷き、感謝を伝えた。「いいのよ。家族だから」綿は恵那の肩を軽く叩いた。彼女は恵那を完全に自分の妹として接してきた。ただ、もっとこういう温かい瞬間が増えればいいのにと願っている。夕食後、時間はすでに夜10時を過ぎていた。天河は上機嫌で天揚と何杯か飲み交わした後、車に乗り込んだ。車が走り
天揚もすぐに状況を理解したようだった。――やっぱり輝明が話を通したんだな。輝明の言葉は、まるで古代の皇帝のような絶対的な力を持っている。彼と友好関係を築きたい人間は山ほどいるだろう。「桜井グループはやっぱり権威があるよな。今日の入札に参加していた森川グループなんて、少し頼りない感じだった」天河は満足げに胸を張り、成功を自分たちの実力だと信じて疑っていなかった。天揚は微笑みながら黙っていた。誰もその場で真実を指摘する者はいなかった。「さあ、今日はいいこと尽くしだ!みんなで乾杯しよう!」天河が立ち上がり、楽しそうに提案した。綿も茶を手に立ち上がった。昨夜に飲みすぎたせいで、今日は酒を飲む気分ではなかった。「もうすぐ年末だし、無事に新年を迎えられるよう願おう!」天揚も軽く挨拶を述べた。全員が笑顔で杯を上げ、一口で飲み干した。その後も賑やかな雰囲気の中、食事が進んでいった。食事中、綿のスマホが何度も鳴った。メッセージの中に、輝明からのものが二通あった。輝明:「家にいると退屈だ」輝明:「綿」綿はその名前をじっと見つめ、少しの間動きを止めた。彼女の頭に、2年前のある記憶が蘇った。その日は輝明の誕生日だった。彼の誕生日を祝ってあげたかった。でも――彼は、嬌のもとへ行った。綿はそのとき、ただ二通のメッセージを彼に送っただけだった。「輝明」「誕生日おめでとう」しかし彼からの返信はなかった。彼女が電話をかけると、出たのは嬌だった。嬌が発した最初の言葉を、彼女は今でも鮮明に覚えている。「明くんの誕生日を祝ってるところだけど、綿、何か用?」その時の気持ちは、今思い出しても滑稽だと思う。――自分は彼の妻だった。なのに、妻が夫に電話するのに、他人の許可を得る必要があるなんて。綿は静かにスマホを閉じた。しかし、またもや画面が点灯し、輝明からのメッセージが表示された。輝明:「綿、俺は少しずつ君になっている」――綿、俺は少しずつ君になっている。彼女はそのメッセージを見つめ、返事をどうすればいいか分からなかった。「また彼から?」耳元で恵那の声が聞こえた。綿が顔を上げると、恵那が彼女のスマホ画面を覗き込んでいた。「うん」綿は軽く答えた。「ただ
綿はスマホを握りしめながら、再び輝明にメッセージを送った。綿「幻城、予定はまだ未定」輝明「幻城?一人で?」綿「多分、助手と一緒」輝明「幻城は危険だ」綿「もう子供じゃないから大丈夫」輝明「俺も一緒に行けるよ」そのメッセージを見て、綿は目を細めた。彼女は一口水を飲み、ゆっくりと返信した。綿「高杉社長には自分の仕事がないの?」輝明「綿、こういうチャンスは大事にしたいんだ」綿「無理。私は一人で行くから」輝明「俺は研究院の投資者だよ。不便なんてあり得ない。スケジュールが決まったら教えてくれ。一緒に行く」綿は言葉を詰まらせた。――やっぱり、研究院に投資した肩書を、こういう時に容赦なく使ってくるんだ。彼女はもう返信しなかった。その頃、父親と伯父が食事の準備が整ったと呼びに来た。ダイニングには、桜井家の全員が揃っていた。祖父は祖母の袖を直してあげ、箸を渡した。最近の祖母は調子が良く、祖父の顔にも笑みが戻っていた。恵那は今日、特に上機嫌だった。何と言っても「雪の涙」を手に入れたからだ。彼女のツイッターのコメント欄やDMはすでに大騒ぎとなっており、「雪の涙」のおかげで彼女の名前は一気にトレンドのトップに躍り出ていた。しかもツイート数もかなり多く、注目を集めていた。食事中、天揚は会社からのメッセージを受け取った。内容は恵那がトレンドに入ったというものだった。最初、彼はまた恵那がわがままを言ったか何かで問題を起こしたのだと思い、怒る準備をしていた。場合によっては会社の面倒を見て後始末をしなければならないと覚悟していたのだ。しかしトレンドを開いてみると、そこには意外にもポジティブな話題が載っていた。「どこから手に入れたんだ、この『雪の涙』?」天揚は驚きを隠せなかった。「お姉ちゃんがくれたの」恵那は食事をしながらさらりと答えた。天揚は驚きの目で綿を見た。――綿?綿は軽く頷いた。天揚は何か言いたそうに口を開いたが、考え直してそのまま閉じた。そして最終的に親指を立てた。すごい。――「バタフライ」の復帰作が発表されて以来、会社では誰もが「雪の涙」を手に入れようと躍起になっていた。――まさか綿が手に入れるとは。しかも。「お前、それを玲奈に渡さなかったのか?」天揚は感心
綿はツイッターを見て、口を尖らせながらつぶやいた。「ディスるのはもう終わり?」「それとこれとは別!」恵那はそう言いながらも、礼儀正しく感謝の意を伝えた。「とにかく、ありがとう。ちゃんと大事に保管するよ。レッドカーペットが終わったら、ちゃんと返す」「返す必要はないよ。必要になったら展示用に貸してくれればいいだけ。普段は使って構わない」綿はソファに腰を下ろし、無造作に柿の種をつまみ始めた。恵那は目をぱちぱちさせた。「お姉ちゃん。これ、『バタフライ』の『雪の涙』だよ?なんでそんな軽い感じで言えるの?」「何か問題でも?」「こんな貴重なジュエリー、普段からつけるなんてあり得ないでしょ!壊したり、無くしたりしたらどうするのよ!?」恵那は持ち帰ったとしても、きっと大事にしまい込むつもりだった。綿はしばらく黙り込んだ後、軽く肩をすくめた。「好きにすれば」それだけ言うと、再び柿の種を手に取り、スマホに目を落とした。……キッチンでは、天揚と天河が何か話しながら笑い合っている。「そういえば、お祖母ちゃんはどこにいるの?」綿は立ち上がりながら尋ねた。「二階で休んでるよ。さっき体調が悪いって言ってたけど、食事の時には降りてくるって」恵那が答えた。綿は二階に上がり、祖母の様子を見に行くことにした。扉をノックしようとしたその時、中から祖父母の会話が聞こえてきた。山助「痛い時はちゃんと言わなきゃ。無理して我慢するな」千恵子「だから痛くないって言ってるでしょ!それに、子供たちの前では黙ってて。心配させたくないから」山助「はあ……お前は本当に、人生を全部捧げてきたな」千恵子「誰かが捧げなきゃいけないなら、それが私でいいじゃない」山助「お前、そんな状態でも他人のことばかり考えて……馬鹿だな」綿は黙って視線を落とした。中が静かになったのを確認し、ノックした。「どうぞ」祖父の山助が声をかけた。綿はドアを開け、明るい笑顔を浮かべて部屋に入った。「おばあちゃん、おじいちゃん」「綿ちゃんか」山助は微笑んで、手招きした。「さあ、座りなさい」「立たせときな!」千恵子が、綿が腰を下ろそうとしたところで声を上げた。綿は動きを止め、驚いたように尋ねた。「おばあちゃん、私何か悪いことした?」「よく言うわ