「さて。その前に一つ実験といこう」
アレックスは呟くと、部屋の隅まで行った。ガラクタのような魔道具類が並べられた、古びたガラス棚の前に立つ。
「アレックスさん、何を――」
ミリーが最後まで言い終わる前に、彼は戸棚に手を掛けた。そのまま思いっきり引き倒す。
キィィン! ガッシャーン!
ガラス戸が床にぶつかって、すごい音がした。割れたガラスが飛び散って、辺りはひどいことになる。
リンギがびっくりして飛び上がり、怯えたようにミリーの肩に止まった。「ふむ。こんなものか」
「こんなものか、じゃないですよ! なんてことするんですか!」
ミリーが怒鳴ると、アレックスは肩をすくめた。
「ここを片付けておいてくれ」
「はぁ!?」
ミリーの抗議をまったく取り合わず、彼はさっさと机に戻り、また資料を読み始めた。それきり目を上げようともしない。
「何なのよ、もう!」
ガラスの破片をそのままにはできない。ミリーは文句を言いながら、仕方なく片付けをした。
◇
さらに翌日、ダリウス・ホルダスの荒れ果てた私設研究室にて。
アレックスとミリーは、「最終確認のため」と称してフェリクスをその場所に呼び出した。研究室の中には、アレックスが時計塔から持ち込んだ黒板が、異様な存在感を放っている。そこには、ダリウスとフェリクスの才能の逆転劇を示す、冷たい論理がびっしりと書き込まれていた。
「君こそが本物の天才だ」
アレックスは黒板を指し示した。
「そして師であるダリウスは、君の才能に嫉妬し、研究を奪おうとした。だから君は自分の研究を守るため、ダリウスを殺した。違うか?」
論理的に追い詰められたフェリクスは、青ざめた顔で立ち尽くしている。しかし彼の口から飛び出たのは、罪を認める言葉ではなかった。
フェリクスはミリーに縋るように訴える。「違う! 先生は、先生は僕の才能を認めて、全てを託そうとしていたんだ! あの日も、共同研究者として僕の名前を発表すると約束し
研究室の床にへたり込んだまま、嗚咽を漏らしながら、フェリクスは全てを語り始めた。彼の言葉は途切れ途切れだったが、その光景はミリーとアレックスの脳裏に鮮明に映し出されていく。「あの日、先生は僕に言ったんだ。『君の研究は、今日から私のものだ』と。彼は、僕が長年心血を注いできた『生命創造』の理論を、全て自分の手柄として発表するつもりだった!」 彼は言う。今までダリウスに研究を提供していたのは、共同研究者の立場を疑っていなかったから。 それなのにダリウスは、最後の最後、最も大きな成果を発表する時になってフェリクスを切り捨てた。「僕はただ、論文を返してほしかっただけだ。でも先生は逆上して、もみ合いになって……僕が突き飛ばした弾みで、先生は薬品棚に……!」 彼は頭を抱えたまま、嫌々をする子どものように首を振った。「頭を強打した先生は、パニックになっていた。僕を睨みつけながら、何か別の調合を始めた。でも、魔力が制御できなくて……触媒が暴走してしまった。先生は、一瞬で炎に巻かれてしまった……」 フェリクスは顔を覆った。「殺すつもりなんてなかった。でも先生の無残な姿を前にして、僕は、悲しいはずなのに……心のどこかで、喜んでいる自分がいた。『これで、僕は自由になれる』って……!」 密室を偽装するために金属で密閉したのも、優れた錬金術師でありこの研究室を熟知していた彼であれば、造作もないことだった。 告白を終えて、フェリクスはただ泣きじゃくる。 ミリーは彼に駆け寄り、震える肩にそっと手を置いた。「あなたはただ、自分の才能を認めてほしかっただけなのね……」 これは事故だ。ミリーが彼を罪に問えるはずもない。 だがアレックスは、何かを考え込むように灰色の瞳に光を灯していた。◇ やがて衛兵隊が到着し、フェリクスはされるがままに連行されていく。「
「さて。その前に一つ実験といこう」 アレックスは呟くと、部屋の隅まで行った。ガラクタのような魔道具類が並べられた、古びたガラス棚の前に立つ。「アレックスさん、何を――」 ミリーが最後まで言い終わる前に、彼は戸棚に手を掛けた。そのまま思いっきり引き倒す。 キィィン! ガッシャーン! ガラス戸が床にぶつかって、すごい音がした。割れたガラスが飛び散って、辺りはひどいことになる。 リンギがびっくりして飛び上がり、怯えたようにミリーの肩に止まった。「ふむ。こんなものか」「こんなものか、じゃないですよ! なんてことするんですか!」 ミリーが怒鳴ると、アレックスは肩をすくめた。「ここを片付けておいてくれ」「はぁ!?」 ミリーの抗議をまったく取り合わず、彼はさっさと机に戻り、また資料を読み始めた。それきり目を上げようともしない。「何なのよ、もう!」 ガラスの破片をそのままにはできない。ミリーは文句を言いながら、仕方なく片付けをした。◇ さらに翌日、ダリウス・ホルダスの荒れ果てた私設研究室にて。 アレックスとミリーは、「最終確認のため」と称してフェリクスをその場所に呼び出した。 研究室の中には、アレックスが時計塔から持ち込んだ黒板が、異様な存在感を放っている。そこには、ダリウスとフェリクスの才能の逆転劇を示す、冷たい論理がびっしりと書き込まれていた。「君こそが本物の天才だ」 アレックスは黒板を指し示した。「そして師であるダリウスは、君の才能に嫉妬し、研究を奪おうとした。だから君は自分の研究を守るため、ダリウスを殺した。違うか?」 論理的に追い詰められたフェリクスは、青ざめた顔で立ち尽くしている。しかし彼の口から飛び出たのは、罪を認める言葉ではなかった。 フェリクスはミリーに縋るように訴える。「違う! 先生は、先生は僕の才能を認めて、全てを託そうとしていたんだ! あの日も、共同研究者として僕の名前を発表すると約束し
ミリーがフェリクスに取材をした翌日。 時計塔の書斎には、重い沈黙が流れていた。巨大な黒板に書かれた「ダリウス — フェリクス」という二つの名前が、事件の歪んだ核心を静かに示している。(あれから丸一日。アレックスさん、ほとんど眠らずにダリウスの論文を分析し続けている。でも、まだ何かが足りない。あの優しそうなフェリクスさんが、先生を殺すなんて。どうしても、信じきれない) ミリーは黒板を見上げ、ため息をついた。彼女の肩の上で、囁き鳥のリンギが心配そうに首を傾げている。『コーヒーブレイクにしよう』 リンギがアレックスそっくりの声で言ったので、ミリーは微笑んだ。「ふふっ。心配してくれているの? 大丈夫よ」 その時、時計塔の重い扉が遠慮がちに叩かれた。リンギが羽を逆立てて、小さく警戒の声を上げる。 ミリーが応対すると、そこに立っていたのはフェリクス・マイヤーその人だった。彼は昨日よりもさらに憔悴した様子で、手には古びた羊皮紙の巻物を固く抱えている。「フェリクスさん? どうしましたか?」 表面上はにこやかにしながらも、ミリーは疑念を抑えきれなかった。(彼が、どうしてここに? 何かの罠かもしれない。でもこの怯えたような目は、まるで何かに追われているみたいだ) 何気なさを装ってフェリクスの様子をよく見れば、彼はどこか焦っているように見える。「突然すみません……」 フェリクスの声は震えていた。「先生の遺品を整理していたら、未発表の研究資料が見つかりまして……。先生の汚名をそそぐ一助になるかと。どうか、調査の参考にしてください」 ミリーに案内されて、フェリクスは時計塔の中へおずおずと入ってくる。リンギはミリーの肩から飛び立つと、部屋の高い歯車の上からじっとフェリクスを見下ろしていた。 アレックスはフェリクスが差し出した資料を受け取ると、その場で猛烈な速度で目を通し始めた。 あまりの速さに、フェリクスがギョッとしている。 ミリーはお茶を淹れた。フェリクスを落ち着かせるためだ。 その間
(フェリクスさんのあの白銀色の火傷。焼けた研究室に残っていた触媒と、そっくりな色だった。それじゃあやはり、彼が犯人? でも、涙を流してまで先生の死を悼んでいたのに?) ミリーは混乱した思考のまま、時計塔へ向かって町を歩いていく。ぼんやりとしていたせいで通行人にぶつかって、「何やってんだ!」と怒鳴られてしまう。そのたびに慌てて謝りながら、彼女はふらふらと歩き続けた。 時計塔までの距離が、いつもの何倍もあるように感じられた。 やっとのことで時計塔に帰り着いて、扉を開ける。 アレックスはダリウスの研究資料を床一面に広げて、その中心で山のように積まれた論文を読んでいた。リンギが彼の肩にとまり、乾いた紙をめくる音を『パラ、パラ、パラ』と小さな声で模倣している。 ミリーのただならぬ様子に気づいたのか、アレックスは億劫そうに顔を上げた。「アレックスさん……私、見てしまいました。フェリクスさんの手首に、あの現場にあったのと同じ、白銀の火傷の痕がありました」 ミリーの声は、自分でも気づかないうちに震えていた。 アレックスは驚かなかった。ただ、論文をめくる手がわずかに止まる。「そうか。やはり、そちらにも歪みはあったか」「驚いていませんね。何か見つけたんですか?」 アレックスは立ち上がると、ミリーを作業台の方へ手招きした。 作業台の上には、二種類の研究ノートが並べられていた。一方はインクが滲み、焦りや苛立ちが感じられる震えた筆跡。もう一方は美しく力強い筆跡で書かれた、革新的な理論のメモだった。「これはどちらもダリウスの研究室にあった。だが、この研究資料は奇妙だ」 アレックスが言った。「大部分はこの震えるような筆跡で書かれている。ダリウス本人のものだろう。だが時折、全く別の筆跡で、遥かに優れた考察が書き加えられている」 アレックスは、一枚のレポートを横に置いた。「で、これはフェリクスの過去のレポートだ。衛兵隊に頼んで王立学院から取り寄せた」「これって!」 ミリーは目を見
捜査を終えて、アレックスとミリーはダリウスの研究室を後にした。潮の香りが、まだ鼻の奥に残る金属臭を少しだけ和らげてくれる。 衛兵隊はアレックスの指摘を受けて捜査方針の転換を余儀なくされて、現場は混乱していた。「僕は時計塔に戻り、この『残骸』の検分を続ける」 歩きながら、アレックスが言った。「ホルダスの論文(データ)を全て記憶した。天才がなぜ、そして、どのようにして凡庸へと墜落したのか、その構造を分解する」 彼はミリーに向き直る。「君は、関係者というノイズの多いデータ群にあたってくれ。特に、長年の助手だったという男……フェリクス・マイヤー。彼がこの事件の最重要の構成要素(パーツ)だ」「分かりました。取材ですね。彼が何か知っていると?」「さあな。だが、師の才能の盛衰を、最も近くで見ていた人間だ。何かしらの『歪み』を観測できるはずだ」(歪みを観測、ね……) ミリーは、人の心を機械部品のように語るアレックスの言葉に反発を覚えながらも、頷いた。◇ フェリクス・マイヤーの住まいは、王立学院の若手研究者用の宿舎にあった。 ダリウスの混沌とした私設研究室とは対照的に、フェリクスの部屋は簡素で、整然と片付いている。書棚には専門書が几帳面に並べられ、彼の誠実な人柄を物語っているようだった。 出迎えたフェリクス本人は、ミリーの訪問に少し驚きながらも、丁寧に応対してくれた。 師ダリウスの死がフェリクスに衝撃を与えたのだろう。彼はすっかりやつれ果てて、泣き腫らしたであろう目は赤くなっていた。(私には、誠実な人に見えるわ。恩師を尊敬して、死を悼んでいる。アレックスさんは『歪み』と言っていたけれど、私にはただ深い悲しみしか見えない。もちろん、詳しく話を聞かなければならないけど。彼が犯人とは思えない) ミリーは、憔悴しきった目の前の青年に、心からの同情を寄せた。 彼女が身分を明かして師の死について尋ねると、フェリクスは堰を切ったように想いを語り始める。
アレックスとミリーは現場に到着した。 潮の香りと薬品の匂いが混じり合う、無骨な倉庫街の一角。前回の事件で調査をした場所なので、道に迷うこともない。 ダリウス・ホルダスの私設研究室は、以前の調査時には非常に堅牢な造りをしていた。が、扉は衛兵隊によって物理的・魔術的に切断され、無残な姿を晒していた。 扉には焼け焦げた金属がこびりついている。歪んだ銀色の金属だ。扉と壁の間を塞いで、内側から完全に密封されていたことが見て取れた。「開けてください、アレックス殿がお見えだ」 衛兵の呼びかけに応じて、別の衛兵が内側からかんぬきを外す。 研究室の中は凄惨な状況だった。壁は高熱で黒く焼け焦げ、実験器具は熱で溶けてガラスのオブジェのように変形している。空気中には、鼻を突く金属の焼けた匂いと、微かなオゾン臭が満ちていた。床には、衛兵隊が描いた人型の白線だけが生々しく残っている。(ひどい。錬金術が暴走すると、ここまでの有り様になるのね。王立学院のような華やかな場所ではなく、こんな薄暗い倉庫街で、ダリウス・ホルダスは一人で死んでいったんだわ……) ミリーは、異様な様子に心を痛めた。 現場を仕切る衛兵隊長が、尊大な態度で説明を始める。 エレオノーラの事件の時は、衛兵たちはアレックスに丁寧な態度で接していた。天才分解学者の威光も、衛兵隊の全てに届いているわけではないらしい。「アレックス殿。見ての通り、凄まじい熱量です。我々は、被害者の研究を狙った外部の者による、高度な炎の魔術による犯行と見ています。前回の密輸団による襲撃は防ぎましたが、他にもダリウス氏の研究を狙う者がいたのでしょう。彼を殺して、研究成果を奪おうとした」 アレックスは衛兵隊長を完全に無視した。床に膝をつくと、手袋をはめた指で床に残る白銀の燃えかすを少量つまみ上げる。それを鼻先に近づけて、匂いを嗅いだ。 そして立ち上がると、わかりきった事実を語るかのように、平坦な声で告げた。「いや、これは炎の魔術ではない」 アレックスは続ける。「空気中に漂うこの金属臭、床に残った白