──朝から、学院の空気が落ち着かない。廊下を歩けば、そこかしこで選抜戦の話題が耳に入ってくる。「誰と当たるかな」「あの人とはやりたくない」──そんな声が、普段よりも熱を帯びていた。一年生の教室も同じだった。黒板の前では、カイが腕を組んで仁王立ちしている。「よーし、誰が相手でもぶっ飛ばす。以上!」宣言のようなその言葉に、隣のミナが即座に眉をひそめた。「そういうの、だいたいフラグになるからやめなさい」「フラグとか気にしてたら勝てねぇだろ」「……勝ちやすい相手がいいって、ちょっとは思わないの?」「思わねぇな」軽口を叩き合う二人の声が、いつもより少し大きく響く。窓際の席では、サクラが静かに教科書を閉じた。「……みんな、少し緊張してるみたい」その柔らかな声に、クロは机に肘をつきながら小さくうなずく。「お前は緊張してないのか」「……してるよ。でも、怖いだけじゃない。早く試したいの」淡々とした口調の奥に、かすかな高揚が混じっていた。教室の隅、フィアとレインはほとんど言葉を交わさない。だが、机の上のノートには複雑な陣形図が描かれ、時折フィアが何かを書き加えると、レインが短くうなずく。その静かなやり取りに、クロは“いつも通り”という安心感を覚えた。(……全員、それぞれのやり方で準備してる)魔導選抜戦──学年代表を決める、夏休み最大の戦い。数日前まで別荘で汗を流していた仲間たちが、今はそれぞれの場所で緊張と期待を抱えている。チャイムが鳴る。今日、このあと行われるのは、組み合わせ抽選会だ。誰と初戦を戦うのか、その瞬間がすぐそこに迫っていた。学院講堂──普段は式典や発表会に使われる広い空間が、この日は一年生全員の熱気で満たされていた。壇上には、抽選用の魔導端末が鎮座している。透明な水晶の内部には小さな光球が無数に浮かび、時折ぱちぱちと弾けては新しい位置に流れていく。司会役の教官が簡潔に説明を終えると、会場のざわめきがひときわ高まった。「一年A組、クロ・アーカディア」呼ばれた名前に、クロは深く息を吸って壇上に歩み出る。視線を感じる。見上げれば、客席の中央にジン・アルバートが座っていた。氷のような無表情──だが、その瞳は明らかにクロを射抜いている。《心拍数上昇。深呼吸を推奨》(分かってる……)水晶の上に手をかざすと
──数日後。別荘の朝は、いつもより静かだった。蝉の声は遠く、森の匂いだけが濃く漂っている。荷物をまとめたクロたちは、玄関前に集まっていた。「おーし、解散だな」気の抜けた声とともに、トウヤ先生が建物の影から現れる。相変わらずシャツはしわくちゃで、スリッパのまま。「合宿、どうだった?」カイが肩を回しながら笑う。「地獄でした」「そりゃ良かったな」トウヤ先生はポケットに手を突っ込み、面倒くさそうに全員の顔をひと通り見る。そして、ふっと目元を細めた。「変化は力だ。同時に、脆さにもなる。それを忘れんな」口調は軽いが、目だけは鋭い。フィアが小さく頷き、レインは無言で背負い袋を持ち直す。ミナは視線を逸らしながらも、その言葉をきっちり心に刻んでいるようだった。「ま、俺が言えるのはそれだけだ。あとはお前らでやれ」そう言い残し、トウヤ先生はスリッパをぱたぱた鳴らして別館の中へ戻っていく。クロは小さく息を吐き、荷物を肩にかけた。(……変化は力、か。脆さにもなる──か)森の小道を抜け、馬車乗り場へ向かう。カイは「腹減ったー」と騒ぎ、ミナが「帰ったらまともな飯が食べたい」と同意する。サクラは微笑みながら皆の歩調に合わせ、フィアとレインは前方で警戒のように周囲を見回していた。こうして、修行漬けの日々はひとまず幕を閉じた。だが、それぞれの胸には確かに、ここで掴んだ何かが残っている。馬車の車輪がきしみ、別荘が遠ざかっていく。クロは窓の外に小さくなっていく建物を見ながら、ゼロの声を聞いた。《修行成果、概ね安定。戦闘継続時間は前回比で平均12%延長》(……それだけやったんだな)《だが、実戦での検証はまだだ。過信は禁物》クロは静かに頷き、馬車の揺れに身を任せた。学園に戻ったのは、夕暮れが校舎を黄金色に染める頃だった。正門をくぐると、思っていた以上のざわめきが耳に飛び込んでくる。「おい、選抜戦のリスト見たか?」「一年、やべぇメンバー揃ってるって噂だぞ」視線の先、掲示板には仮の出場予定者リストが張り出されていた。クロ、カイ、ミナ、サクラ、フィア、レイン──そして、ジン・アルバートの名もそこにある。「やっぱジンいるな……」カイが腕を組む。そのとき、廊下の向こうから生徒の群れが押し寄せてきた。中央にはジンがいる。無駄のない立ち姿、氷のような
25話──数日後。修行漬けの合宿は、ひとまずの区切りを迎えていた。火の嵐、氷の陣、風の罠、土の構造、そして雷──それぞれの演算がぶつかり、形を変え、少しずつ完成に近づいていく。個々の弱点を埋めるように、仲間の存在が、背中を押していた。だが──それは、あくまで“内側”の物語だ。「……確認できました。“ゼロ式”の残留演算、微弱ですが検出」仄暗い部屋の中。小さな演算端末が淡く光を放ち、その前に佇む複数の影が、無言でうなずく。「間違いないな。封印されたはずの“異常式”が、再び顕在化している」低く、機械のような声が空間に響く。男か女かも分からぬ無機質な音色に、もう一人が言葉を重ねる。「対象:クロ・アーカディア。落第生、か……皮肉なものだ」「“彼”に継承されたかは不明。しかし、ゼロ式の発現は確認済み」「どうする?」一瞬の沈黙。それを破ったのは、ひときわ小柄な影だった。「――監視を継続。干渉は不要。次の段階まで、動くな」「魔導選抜戦が始まるまで、ということか?」「否。その先だよ。ゼロが再び、世界に影響を与える時まで──」──別荘地の森を、静かな風が吹き抜けていた。クロたちは、その視線に気づくことなく、今はただ、次の戦いへと備えていた。──夜。学園長の所有する別荘、その中庭に、焚き火の灯が揺れていた。クロたちは丸く囲むように腰を下ろし、薪のはぜる音だけが静かに響く。カイが口を開く。「ま、なんだかんだで……それぞれ、仕上がってきたんじゃねぇか?」「油断はできないけどな」フィアが冷静に返す。視線は焚き火の奥、どこか遠くを見ていた。「次は、魔導選抜戦……学年代表が決まる戦いね」ミナが火にかざした手を下ろしながら呟く。「例年とは違う形で行うって話……どこまで本当なの?」「形式がどうなろうが、やることは同じだ」レインが短く言う。「勝つ。それだけだ」「うわ……かっけぇ。言ってみてぇ……」カイが冗談交じりに肩をすくめた。だが、その背中にはこれまでとは違う緊張感が宿っていた。それぞれの修行の成果──そして、それぞれが感じた“限界”。それを越えるために、もう一度立ち上がるしかなかった。──と。クロがふと、焚き火に視線を落とす。(……ゼロ。次は、何を見せるべきなんだ)《次の戦闘機会:魔導選抜戦。演算式の“構
──空気が、少しだけ焦げていた。「……これ、もう終わってるよね」ミナがため息混じりに呟いた。眉間に皺を寄せながら、鍋の蓋を開ける。白い湯気の代わりに、黒く焦げついた米の匂いが部屋に充満する。場所は、学園長オルヴェインが所有する訓練用の別荘。その一角──別館の広いキッチンスペースで、クロたちは慣れない炊飯作業の真っ最中だった。「おい、マジか。さっき混ぜてたとき、いい感じだったんだけどな……」鍋を覗き込みながら、カイが頭を掻く。表情は困っているというより、完全に“やっちまった”顔だった。「……混ぜてただけで火加減見てなかったの?」ミナが呆れた声を漏らす。彼女の右手には木のしゃもじが握られていたが、それもすでに焦げ臭さを吸い込んでいる。「まあまあ。ミナちゃん、怒っちゃだめだよ」サクラがフォローに入るように笑いながら言う。柔らかい声色で、ミナの肩に手を添えた。「怒ってるんじゃなくて……がっかりしてるの」ミナは静かに返す。声のトーンは落ち着いていたが、内心では“戦闘より難しい料理のミス”に苛立っているのが見て取れた。レインは黙ったまま、テーブルの端で皿を並べている。何も言わないが、どこかしら「最初から焦げると思っていた」雰囲気を漂わせていた。「……火の魔術に慣れすぎると、こういうとこで出るよな……」クロがしゃもじを置きながら小声で言うと、ゼロの声が脳内に響いた。《観察評価:現在の調理工程、成功確率は13%。主因は火力調整不足》(低いな……てか、そんな数値で出すなよ)クロが心の中で突っ込みつつ、苦笑を浮かべていたとき、ようやくレインが短く口を開いた。「……これ、食べるのか?」「いや、さすがにやめときましょう」フィアが即答する。氷のような落ち着いた声で、焦げ鍋の蓋をそっと閉じた。「あのさ……訓練の合間に頑張って作ったのに、なんか悲しくなってくるな」カイが笑いながら肩をすくめる。「火を使いたいなら、訓練場で使えばよかったのに」「うっ……それ言う?」クロが顔をしかめる。ミナはそんな様子を見ながら、少し声を落として呟いた。「でも……こうやってみんなで集まって食べるの、久しぶりかもね」その一言に、全員が静かにうなずいた。修行漬けの合宿が始まって数日──互いに別メニューを課され、顔を合わせることもままならなかった。ようやく集ま
「──昨日と同じ構え、だけど……」アルヴェンの目がわずかに細められる。朝霧がまだ草を濡らしている訓練場で、クロは構えていた。ブレイサーの雷紋が淡く光る。昨日完成したばかりの新術式──《雷迷陣》の試作型。今日は、それをぶっつけで試すつもりだった。(分岐ルートは三つ、起点は右脚、収束まで1.6秒──)「いきます!」クロが地を蹴った。雷の軌跡が、空中で枝分かれする。一条はアルヴェンの右肩を、もう一条は足元を。さらに一本は“回避先”と予測したポイントへ。(よし……逃げ場、塞いだ!)だが。「ふぅん、なるほど」次の瞬間、アルヴェンは重心を沈めると、最も狭い隙間を滑るように抜けてきた。すり抜けた。まるで、初めから“全部見えていた”ように。「読まれてた、か……!」「いや、読んではいない。選んだだけだよ。“どれが一番マシか”をね」クロの肩が揺れる。ゼロの声が静かに補足する。《雷の分岐は成立しています。だが、意図の“精度”が低く、各軌道の圧が分散しています》(つまり、全部が“そこそこ”で、どれも決め手にならねぇってことか……)クロは歯噛みする。「面白い術式だったよ、クロ・アーカディア。でも──“殺しきる覚悟”が、まだ乗ってない」アルヴェンの声は穏やかだが、冷たい。「“どのルートが当たるか”じゃない。“どの一手で仕留めるか”を考えなきゃ、君の魔法は届かない」「……届かない、か」クロは雷を収め、息を吐いた。《術式の構造進化は成功。だが、“主眼”が散っている以上、打撃力は下がる》「……本末転倒だな。工夫したつもりが、逆に弱くなってる」手元のブレイサーを見下ろす。迷路のように分岐する雷は、確かに“面白い”。けれど、それは今のクロにとって、まだ**“完成形のイメージが持てない武器”**だった。──まるで、“術式に振り回されてる”みたいだ。「もう一戦、お願いします」「いいよ。君が“術に頼らず、自分で戦おう”とするまでは、何度でもね」再び、雷が鳴る。だがその刃は──今日もまた、空を切った。「──正面から、ぶつかり合ってもらうわ」セラの言葉に、訓練棟の空気が張り詰める。広々とした演習室。その中央に、向かい合うふたりの生徒。カイ・バルグレイヴ。火力特化の前のめりバカ。サクラ・ヒヅキ。補助と索敵に特化した支援魔導士。
クロはまた草地に立っていた。空気は昨日よりも静かで、風もなかった。──いや、違う。風が“止まる前”の静けさだ。対面に立つアルヴェンは、いつものようにシャツの袖をまくりながら、目を細めて言った。「──少しずつ、形になってきたね」クロは無言で頷いた。《閃雷刃》を展開。だが今日は、“斬るため”じゃない。観るためだ。「いくぞ──!」地を蹴る。雷光が駆ける。その軌道はまっすぐに伸び──一瞬、空中で揺れた。「……ほう」アルヴェンの目がわずかに細まる。その目が、“違い”を捉えた証だった。雷刃は空を斬りながら、ほんの僅かに左右へ枝分かれするような動きを見せていた。斬撃は掠るだけで、実際には当たっていない。けれど、初めて──避けさせることに成功した。「君、昨日まで“まっすぐ”だったのに。今のは、違うね」「……ようやく、ちょっとだけ、“雷っぽく”なってきたかも」ゼロの声が、静かに続いた。《君の演算に、“遊び”の余地が生まれ始めている。既存の攻撃パターンから逸脱した流れ──構造分岐の兆候が確認された》(そうか、“流れ”ってのは……雷の中にもあるんだ)クロは、その感覚を手放さぬように、深く呼吸を整える。「もう一度だけ頼みます、アルヴェン先輩。今の、確かめたい」「いい目をしてる。じゃあ、次は──本気で避けるよ?」次の瞬間、風が消えた。クロの雷が、まるで迷路のように枝分かれしながら走る。まだ不安定で、当たる確率は高くない。でも、その雷は──確かに、“選ぼうとしていた”。午後、別荘の東にある訓練棟。三人の生徒が、演習室の中央で黙って立っていた。カイ・ミナ・サクラ──そして、彼らの前にいるのは、副会長・セラ・ヴァレリウス。「前回までの演算記録、確認済み。今日からは“修正訓練”に入るわ」セラの言葉に、三人の表情が引き締まる。「まず、カイ・バルグレイヴ。あなたの火拳は、瞬間出力に頼りすぎている。“暴れるだけ”では、扱える魔法にならない」「へっ、分かってるよ」カイはニッと笑いながら拳を握った。「俺が目指してんのは、“一撃粉砕”。だったら、その一撃だけは外さない精度にしてみせる」「ならば構築式を最低3パターンに分けなさい。威力変動型、圧縮推進型、集中燃焼型。演算の分岐処理を覚えるのが先よ」「上等……手ぇ焼かせてやるぜ」次にセラの視線がミ