廃屋の近くにある河に訪れた二人は、さっそく魚を捕り始めた。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は長い髪を頭上でお団子にし、瑞々しいまでの首を晒けだす。ボロボロの漢服の上着を脱ぎ、肌着だけになった。
服が濡れぬよう、両端を持って、きゃっきゃっと喜ぶ。頭の上に乗っている|蝙蝠《コウモリ》とともに、無邪気な笑顔で遊び尽くした。
そんな|華 閻李《ホゥア イェンリー》の若い肌は水を弾いていった。透明なようで銀色の髪、それが太陽の光を受けて|梔子《くちなし》色に染まる。
普段は長い髪で隠れている白くて滑らかな首筋に、|水飛沫《みずしぶき》がついた。
「……っ!?」
それが汗のように見えたのだろうか。側で魚釣りをしていた|全 思風《チュアン スーファン》の喉が激しく鳴った。唾を飲みこみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の首をじっと見つめている。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の視線に気づき、|蝙蝠《こうもり》とともに首を傾げた。
|全 思風《チュアン スーファン》はかつてないほどに慌てふためく。弾みで足を滑らせ、尻もちをついてしまった。
残念なことに、彼の不幸はまだ続く。河底に両手をついた瞬間、|蟹《かに》に指を挟まれた。蟹を振り払おうとした時に河の中を泳いでいた魚に触れ、滑って顔から水の中へと飛びこんでしまう。以降も、河は彼にとって鬼門だと云わんばかりの不幸が重なっていった。
ようやく終わった頃には、彼の身なりは見れたものではなかった。三つ編みにしていたはずの髪は、ほどけてしまっている。凛々しく涼しげな眉や瞳は情けなく泣き崩れてしまった。
あまりにも普段とかけ離れている。そんな彼の一面を知り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口をポカンと開けた。
「……|思《スー》にとって、河は不幸しか
いくつもの|灯籠《とうろう》が吊らされている回廊があった。宵闇の中を照らす明かりは、微風が吹いただけでも揺れてしまう。星空と月が浮かぶ空は|鉄紺《てつこん》色で、灯籠がなければ何も見えぬほどに暗かった。 そんな暗闇の時刻、|朱《あか》色で埋め尽くされた豪華絢爛な建物がある。 ここは|禿《とく》王朝の首都[|燐万蛇《リンマンジャ》]にある、唯一無二の王宮だ。たくさんの|殿舎《でんしゃ》が並び、奥へ進むほどきらびやかさが増していく。 そして、ひっそりと佇むことすら叶わぬ宮の奥深く。|朱《あか》とは違う、|瑠璃瓦《るりがわら》の屋根の建物があった。屋根の両端には金色龍が置かれている。それら以外は他の建物と何ら変わらなかった──「──どういう事なの!?」 瑠璃瓦の優しい色とは裏腹に、部屋の中では怒号が飛び交っている。「話が違うじゃない!」 声の主は怒鳴りながら、周囲の物へと当たり散らしていた。机の上にある巻物は落ち、花瓶は割れてしまっている。大胆なまでに机の足を蹴り、その場にひっくり返した。 ひとしきり暴れた後に残るのは荒い呼吸のみ。ふーふーと、理性すら|喪《うしな》ったかのように荒かった。 そんな声の主は、黒髪を頭の上で結い上げている。|玉金《ぎょくきん》の|簪《かんざし》をし、|翡翠《ひすい》の宝石か嵌め込まれた髪留めをしていた。 すっと伸びた鼻に、整った目鼻立ち。細く長い指は白く、とても美しい女性である。 |桔梗《ききょう》色の|桾《くん》、その上に|黒紅《くろべに》の|衫《さん》を着ていた。|衫《さん》は胸元から足にかけて、美しい白蛇の|刺繍《ししゅう》が施されている。 女性は服を翻しながら扉に向かって巻物を投げた。 扉には一人の男が立っている。黒い官僚服を着、怯えた様子で体を震わせていた。「……わ、わかりません。偵察者によると、枌洋(へきよう)の村での実験は失敗。村人が姿を消したとの事です」 村を|殭屍《キョンシー》畑にし、こことは違う世界への扉とする。死した村人たちなどどうでもよく、結果が出
枌洋(へきよう)の村から数里ほど北東へ進むと、大きな街が見えた。そこは蘇錫市(そしゃくし)と呼ばれている都である。 蘇錫市(そしゃくし)は別名、水の都と呼ばれていた。 その別名の通り街へ入れば、そこかしこから潮の香りが漂ってくる。魚介の匂いも混じり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のお腹の虫が騒いだ。 見上げた空は蒼く、海はそれに負けないほどに水面が輝いて見える。|朱《あか》の建物は少なく、黄土色の建造物が多かった。 耳を澄まさずとも聞こえてくるのは人々の活気ある声、犬や鳥の鳴き声である。 街の中を流れる運河の両脇には建物がひしめき、その多くは飲食店だ。そこから脇道に逸れれば、織物工房や鍛治屋などが建ち並んでいる。 そこから奥へと進むと橋があった。橋を渡った先は一般家屋のある住宅街だ。よく見れば、住宅街と職人たちの住む地区を結ぶ道は一つではなかった。赤い橋が等間隔に作られており、どこからでも互いの地域を行き来できるようになっている。「あ、これ藤の花だ」 一部の橋には紫の花が絡みついていた。寒い冬の季節にしては珍しく咲いているなと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は楽しそうに花を観察する。「|小猫《シャオマオ》、こっちだよ」「あ、うん」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とともに街に訪れた青年、|全 思風《チュアン スーファン》が手招きをした。彼は一度住宅街まで進み、東側にある橋を渡って職人たちの住む地域へと足を伸ばす。「あれ? 服屋さんって、そっちなの?」 なぜ、わざわざ住宅街へ向かったのか。それを問いかけた。「私の知っている店は、少々入り組んだ場所にあってね。職人たちの住む地区……[|周桑《しゅうそう》]って言うんだけど、あそこは人が多い。加えて、これから行く店は住宅街からの方が近いんだ」 |周桑《しゅうそう》区は人通りがもっとも多いため、一歩進むだけでも一苦労する。目的地の服屋は住宅街側から橋を渡った目の前にあり、行きやすいのだと説明をした。「へえ……|思《スー》、この街に詳しいの?」「いいや、その服屋だけだよ。私のこの服も、その服屋で作ってもらったんだ」 少しだけはにかみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取って歩き始める。 ──何か、今の|思《スー》。ちょっと寂しそうに見えた。気のせいかな? 少しばかりの不
|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|全 思風《チュアン スーファン》の二人は、死体があがったとされる|幸鶏湖《こうちょうこ》地区へ来ていた。 |幸鶏湖《こうちょうこ》地区は街の玄関口でもある食品市場から、まっすぐ北へ進んだ先にある。途中の脇道には職人たちの住む|周桑《しゅうそう》区があるが、そこには行かずにひたすら直進。その先には|周桑《しゅうそう》区や住宅街とは違い、華やかな町並みが広がっていた。 |朱《あか》の屋根や柱が建ち並ぶ区域で、寺院や|櫓《やぐら》が多く建てられている。それ以外にも|妓楼《ぎろう》があり、他地区と比べて一貫性がなかった。 寺院の近くでは|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》なども売られており、花びらが舞っている。「──着いたよ。ここが、|幸鶏湖《こうちょうこ》区だ」 ほら。あそこを見てと、ある場所を指差す。|全 思風《チュアン スーファン》が示したのは、比較的大きな寺だった。 金の屋根に|朱《あか》色の外壁と柱の、美しい寺である。前後左右、東西南北を四つの|櫓《やぐら》で囲み、さらに高く伸びたたくさんの木々が出入り口以外を隠してしまっていた。「この寺は[|百日譚寺《ひゃくにちたんじ》]っていう名前でね、四方にある|櫓《やぐら》から寺を見張る仕組みになっているんだ」 顎をくいっとさせ、古めかしい作りの|櫓《やぐら》を見てと言う。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はいわれるがままに|櫓《やぐら》を凝視した。ただ、木でできている以外特にこれといった変わった様子は見受けられない。 けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、とあることに疑問を持った。小首をかしげ、大きな瞳で見つめる。「……何で、寺を見張る必要があるの?」「うん、いい質問だね」
「綺麗過ぎる? えっと|小猫《シャオマオ》、妓女なんだから化粧はするんじゃ?」 化粧は女性を変える。美しく、それでいて気品もある。それが化粧の魅力でもあった。 二人は女性ではないゆえに、化粧について詳しくはない。けれど女性が化粧を好むということは知っていた。 |全 思風《チュアン スーファン》は、それについて何らおかしいところはない。きれいなのはいけないことなのかと、困惑気味に眉をへの字にした。「これは|姐姐《ねえさん》に聞いたんだけど、女性は着飾る生き物らしいよ。全員がそうとは限らないけど……綺麗にすれば見栄えもよくなって、男性からの求婚も増えるんだってさ」 女の人の考えることはわからないよねと、彼の腕の中で考える。フグのように頬を膨らませ、あーでもないこーでもないとぶつくさ呟いた。 しばらくすると|全 思風《チュアン スーファン》に鼻先をつままれ、ジタバタとする。「|思《スー》!」「ふふ、ごめんごめん」 湿っぽい潮の香が飛ぶなか、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を床へと下ろした。「……話を戻すけど、あの遺体は綺麗過ぎると思うんだよね。これは僕の勘でしかないけど」 |櫓《やぐら》は少しばかり高い位置にある。そのせいか、風の影響を受けやすかった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の長く伸びた銀髪が、さらさらと揺れる。髪を押さえながら運河を見つめた。「あの遺体がどこから来たのか。それだけでも、ハッキリしたかな」 確信めいたものを瞳に乗せ、|櫓《やぐら》の柱へ|凭《もた》れかかる。切れ長の目をした|全 思風《チュアン スーファン》を見、どういう意味かわかるかと問うた。けれど彼はお手上げだ
「とりあえず、私は情報収集してくるよ。|小猫《シャオマオ》は宿屋に戻っていてくれ」 体重を感じさせない様子で|櫓《やぐら》から飛び降りていく。瞬間、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の眼前を彼の長い黒髪が横切った。「宿屋!? え!? 僕、どこにあるか知らないんだけど!?」 |櫓《やぐら》の中から|全 思風《チュアン スーファン》を見下ろし、困惑した声で質問する。すると彼は「ああ」と、頭を掻いた。「仕立て屋さんがあっただろう? あの通りに[|旅宿庵《りょしゅくあん》]ってところがあるんだ。緑色の看板だからすぐにわかるよ。そこで待ってておくれ!」 腰にかけてある剣を手にし、地面に突き立てる。するとそこから灰色の煙が現れ、|蝙蝠《こうもり》の姿に変わっていった。 蝙蝠をむんずと掴み、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のいる|櫓《やぐら》へと投げる。「わわ、|躑躅《ツツジ》ちゃんを投げないでよ! って、ちょっと|思《スー》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の説教もむなしく、|全 思風《チュアン スーファン》は既にこの場から姿を消していた。 彼の行動力に感心し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|櫓《やぐら》から降りていく。頭の上に|蝙蝠《こうもり》の|躑躅《ツツジ》を乗せ、言われた通りの場所へと歩んだ。 ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ 仕立て屋がある|周桑《しゅうそう》区へ到着した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、緑色の看板の家を探す。しばらくすると頭上にいる躑躅(ツツジ)が、ペチペチと羽で叩いてきた。『キュイ』と、かわいらしい鳴き声と一緒に、とある家へと羽を向ける。「あ、あった! ここが|旅宿庵《りょしゅくあん》だね。確かに緑色の看板だ」 小麦色の外装と、|朱《しゅ》の屋
白い毛並みの仔猫は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の腕から逃れようと必死だ。けれど体力がほとんど残っていないようで、すぐにぐったりしてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は急いで宿屋へ戻ろうと踵を返した。 直後、後ろから青い漢服に身を包んだ数人が近づいてくる。彼らは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を囲うようにして、腰にさげている剣を抜いた。「……え? な、何!?」 大勢の大人に囲まれた|華 閻李《ホゥア イェンリー》だったが、驚くふりをしながら彼らを観察する。 ──肩と胸の部分に金色の|刺繍《ししゅう》。それに青い服……この人たちって、どこかの貴族の使用人ってところかな。 そんな人たちがなぜ寄ってたかって、見ず知らずの自分を囲うのか。|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそれだけが疑問だった。「──そこの子供! その猫を渡せ!」 剣の切っ先を|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向け、数人が砂を踏みつける。「猫って……この仔猫の事?」 腕の中にいる仔猫を注視した。仔猫はぐったりとしており、息も絶え絶えである。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からすれば、仔猫も目の前にいる男たちも、全く知らない者たちであった。けれど仔猫の様子を見ているうちに、放っておくことなどできないと決意する。 仔猫を抱く腕に力をこめ、男たちを睨んだ。そして聞き分けのない子供を演じていく。「い、嫌だ! 僕はこの仔猫の事気に入ったんだ。僕が飼う!」 駄々をこねるだけこねながらも、少しずつ後ろへと下がっていった。「猫、飼いたいもん! 僕、猫好きだもん! ぜーったいに、渡さないからね!」 あかんべーと、普段の|華 閻李《ホゥア イェンリー》からは想像もできないような我が儘ぶりを発揮。地団駄を踏みながら仔猫を抱きしめ、飼うの一点張りに尽きた。 けれど男たちは子供の我が儘ごときにつき合ってはいられないと、剣を容赦なく|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと振り下ろす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は寸でのところで剣による攻撃を回避し、我が儘な子供を演じながら砂浜を逃げ回った。 剣が背に迫れば、泣くふりをしながらしゃがむ。男たちが手を伸ばせば身を低くして彼らの背後に回避し、軽く蹴りを入れた。男たちが倒れていく瞬間を狙い、彼らの肩や背中などを使って側にある木に登っていく。
そよそよと、窓から冬の風が入る。寒気とまではいかないが、それでも冬という季節の風は身を縮ませるほどには体温を奪っていった。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は丸くなる。しばらくすると、もぞもぞと動いた。 ──何だろう、暖かい。 眠気を無理やり吹き飛ばし、静かに両目を開けた。「……ふみゅ?」 寝ぼけ眼なまま、体を起こす。眠たい目をこすり、ふあーとあくびをかいた。上半身だけで背伸びする。 外を見れば陽は高く昇っており、部屋の中に光が差しこんでいた。 ──あれ? ここ、どこだろう? 確か砂地で数人と対峙した。その後の記憶があやふやであり、なぜ布団で寝ているのか。それすら疑問となっていた。 小首を傾げ、|床《ベッド》から降りる。裸足で板敷の床を歩けば、ある者たちが目に止まった。部屋の隅で、二匹の動物がすやすやと寝ている。一匹は|蝙蝠《こうもり》の躑躅(ツツジ)、もう一匹は白い毛並みの仔猫だった。 仔猫は身体を丸め、躑躅(ツツジ)は野生を忘れたかのようにお腹を出して寝ていた。 その姿に|華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬は緩む。近づいて躑躅(ツツジ)のお腹を撫で、白猫へは恐る恐る腕を伸ばした。「うわ、もふもふだあ……」 仔猫は疲れが溜まっているのか、嫌がる素振りすら見せずに深い眠りに入っている。そんな仔猫の毛はお日様のように暖かく、とてもふわふわとしていた。 ふと、仔猫の前肢に赤い塊があったことを思い出す。仔猫の眠りを妨げぬよう、ごめんねと云いながら両前肢を探った。「&hel
太陽が真上に差しかかった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは昼食をとっていた。 辛さが決め手の|麻婆豆腐《マーボードウフ》、高級食材であるフカヒレを使用したスープ。肉汁たっぷりの|包子《パオズ》、卵とニラの色合いが美しい食べ物などもある。箸休めには、ほうれん草の唐辛子炒めもあった。食後のおやつとして月餅、杏仁豆腐なども置かれている。 それらはざっと十人前ほどはあった。「うわあ、美味しそう……ねえ、本当にこれ食べていいの!?」 数々の料理を前にして両目を輝かせる。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は大きな瞳いっぱいに食べ物を映し、頭上を確認した。「うん、いいよ。私も多少食べるけど、|小猫《シャオマオ》は遠慮なくいっちゃって!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が見上げた先にいるのは|全 思風《チュアン スーファン》である。彼は我がことのように喜びながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》へとご飯を勧めた。 そんな二人は何とも奇妙な姿勢をとっている。どちらも座ってはいた。しかし|華 閻李《ホゥア イェンリー》は床にではなく、|全 思風《チュアン スーファン》の膝上にである。 |全 思風《チュアン スーファン》はがに股になりながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を乗せていた。 そんな彼の頬は絶賛綻び中で、しまりのない笑顔をしている。その姿はまるで、普段は強面だが小動物を愛でる時だけは優しくなるような……何とも言えない緩み具合だった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の方は、それを当たり前として受け入れている様子。大きくて逞しい彼を椅子代わりに、満面の笑みで箸を走らせていた。 数分後、ものの見事に全てを平らげる。最後に残った杏仁豆腐すらもペロリとお腹の中へと入れた。「&h
|全 思風《チュアン スーファン》の手の中にあったはずの|彼岸花《ひがんばな》が、光の|粒子《りゅうし》となって|消滅《しょうめつ》していった。 彼は|悔《くや》しさを|壁《かべ》にぶつけ、何度もたたく。そのとき、壁がガコンッという鈍い音をたてて前へと倒れてしまった。「うわっ! ……っ!? これは……隠し通路か!?」 奥へ続く道が現れたが、明かりひとつもない場所となっている。しかし彼は元々|夜目《よめ》が利く。明かりなど必要ないと|云《い》わんばかりに、暗黒しかない空間へと足を|踏《ふ》み入れていった── □ □ □ ■ ■ ■ 部屋の|隅《すみ》に、大きな台座がひとつある。台座のいたるところには札が貼ってあり、常に光っていた。 部屋の中を見渡せば、食器棚や勉強机も置かれいる。 そして何体もの|殭屍《キョンシー》が、部屋を囲うように|等間隔《とうかんかく》に立っていた。この者たちには一枚ずつ、札が|額《ひたい》に貼られている。それが、やつらの動きを封じているようであった。 |殭屍《キョンシー》らに囲まれるようにして部屋の中央では、男がふたり。互いに剣をぶつけ合っていた。 ひとりは扉側に、もうひとりは台座を背にしている。『……安心しろよ。|黄《こう》家の|跡取《あとと》りは、俺がしっかりとやってやるからさ』 上は|黄《き》、下にいくにつれて白くなる|漢服《かんふく》を着るのは|黄 沐阳《コウ ムーヤン》と、もうひとり。彼とまったく同じ顔をした男が語りを入れてきた。 難しい顔など一度もせす。人を|小馬鹿《こばか》にするような笑みを浮かべ続けていた。勝ち|誇《ほこ》ったようにケタケタと笑い、|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を力任せに剣ごと|薙《な》ぎ払う。 そんな男の後ろ
|全 思風《チュアン スーファン》の心は不安で押し|潰《つぶ》されていった。大切な存在である子供が危険に|曝《さら》されているからだ。 そう思うだけで、死んでしまいたい。精神がバラバラになりそうだと、|唇《くちびる》を強く|噛《か》みしめる。「──|小猫《シャオマオ》、無事でいて!」 屋根の上を飛び続け、目的地の屋敷へと到着した。危険を|省《かえり》みず、扉を|豪快《ごうかい》に壊す。 中に入ればそこは玄関口だった。 一階は入り口近くに左右の扉、奧にもふたつある。部屋の中央には|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》を|敷《し》いた階段があり、天井には異国からの輸入品だろうか。大きな|枝形吊灯《シャンデリア》がぶらさがっていた。「……最初に|侵入《しんにゅう》したときは地下からだったからわからなかったけど、もしかしてここは、元|妓楼《ぎろう》なのか?」 心を落ち着かせようと、両目を閉じる。 ──ああ、聞こえる。|視《み》える。ここで何が起きたのか…… |全 思風《チュアン スーファン》が目を開けた瞬間、彼の瞳は|朱《あか》く染まっていた。そして映し出されるのは、今ではなく過去の映像である。 建物の|構造《こうぞう》、中の物の配置などは同じだ。違いを見つけるとすれば、人の姿があるかないかである。 そして過去の映像には、きらびやかで美しい衣装を|纏《まと》う女たちが行き交いする姿が視えていた。 数えきれぬほどの美女、そんな彼女たちと金と引き|換《か》えに遊ぶ男たち。仲良く腕組みしている男女もいれば、女性に言いよっては出禁を食らう者。年配の|妓女《ぎじょ》の言いつけで|掃除《そうじ》をする若い女など。 当時、この|妓楼《ぎろう》で暮らしていた女性たちの姿が、ありありと映っていた。
|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は重たい口を開いていく。 |友中関《ゆうちゅうかん》は|黒《くろ》と|黄《き》、互いの領土の中間にある。そこで働く兵たちはふたつの勢力から選ばれた者たちだった。どちらか一方が多くならぬよう、均等に両族から|派遣《はけん》させる。それが、この國が始まりし頃からの決まりごとであった。 しかし、互いの勢力がそれで手を取り合うというわけではない。度々いざこざが起き、そのたびに|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》や|爛 春犂《ばく しゅんれい》などが出向いて|仲裁《ちゅうさい》していた。「……うん? 何であんたや、あの|爛 春犂《ばく しゅんれい》なんだ? |黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》とか、親玉が出向く方が早くない?」 腰かけられそうなところへ適当に座り、|全 思風《チュアン スーファン》は三つ編みを後ろへとはたく。穴が開くほどに|眼前《がんぜん》にいる男を|注視《ちゅうし》した。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|瓦礫《がれき》の上に座りながら、空を見上げる。いつの間にか灰を被った色になった雲と、遠くから聞こえてくる雷の音。それらにため息をつき、首を左右にふった。「いや、あの場所は互いの族で二番目に|偉《えら》い者が|視察《しさつ》しに行くという決まりになっていた。兄上はおろか、|黄《き》族の|長《おさ》である|黄 茗泽《コウ ミャンゼァ》ですら|関与《かんよ》してはならないとされているんだ」 |皮肉《ひにく》にも、昔作られた決まりごとが今回の事件を引き起こす切っかけにもなってしまう。そして|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男を暴走させる原因にもなってしまった。 男は両手を|太股《ふともも》の上に置き、これでもかというほどに彼を睨む。「……私を睨んだって、しょうがないじゃないか」 今にも殺しにかかる。そんな
|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|鞘《さや》に収め、ふっと美しく|笑《え》む。 |眼前《がんぜん》にいるのは先ほどまで場を独占していた男、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを|顕《あらわ》にしている。「……な、んだ。何だこれはーー!?」 その場を支配していた直後、|焔《ほのお》が消化されていったからだ。 何の|前触《まえぶ》れもなく現れた|全 思風《チュアン スーファン》だけでも手に|負《お》えないというのに、上空から降る|蓮《はす》の花。その花から雨のように水滴が降り|注《そそ》いでいるからである。 花は|仄《ほの》かに甘い香りをさせながら|焔《ほのお》を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に|焦《こ》げた匂いだけが充満し、|蓮《はす》の花は泡となって天へと昇っていく。「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」 まるで、腹から声をだしているかのような|怒号《どごう》だ。 大剣を強く握り、勢いをつけて地を|蹴《け》る。風のように|疾走《しっそう》し、剣で空を斬った。「|朱雀《すざく》の|焔《ほのお》を消せる者など、この世にありはしないはず!」 |全 思風《チュアン スーファン》を斬りつけようと、|空《くう》に|豪快《ごうかい》な一|閃《せん》を放つ。重みのある大剣が|瓦礫《がれき》を|削《けず》り、|蹴散《けち》らしていった。 しかし、それでも、|全 思風《チュアン スーファン》は何の|痛手《いたで》も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。 互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」&nbs
町のあちこちは火の海になっていた。|避難《ひなん》民がいる河|沿《ぞ》いも、町の入り口や広場すら、|焔《ほのお》に|埋《う》もれてしまっている。 必死に火を消す兵たち、逃げ遅れて|瓦礫《がれき》の|下敷《したじ》きになっている市民など。町のいたるところでは|紅《くれない》色の|焔《ほのお》とともに、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交っていた。 そんな事態を引き起こしたのは、黒い|漢服《かんふく》を着た男である。 彼は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》、|獅夕趙《シシーチャオ》というふたつ名を持つ男だ。 右手に大剣を、左手には|鳥籠《とりかご》を持っている。「俺は|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》。|黒《こく》族の|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》の弟だ。このたび|黄《き》族の連中が条約を破り、我が|黒族《こくぞく》の|領民《りょうみん》を、|友中関《ゆうちゅうかん》にて|虐殺《ぎゃくさつ》した!」 大柄な体格どおり、とても声が大きい。 |焔《ほのお》が火の|粉《こ》を飛ばす音すら、かき消えるほどだ。 怒りを|携《たずさ》えた瞳で、町の入り口を陣取っている。後ろに控えている兵たちを見ることなく、ただ、言いたいことだけを叫んだ。「──|友中関《ゆうちゅうかん》には俺の心の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》がいた。しかし彼は|黄《き》族の罠にかかり、命を落としたのだ!」 大剣の先端を地面に刺し、|豪快《ごうかい》な|仁王立《におうだ》ちをする。片手で持つ|鳥籠《とりかご》を顔の前まで上げ、瞳を細めた。「|卑怯《ひきょう》者の|黄《き》族が町を支配するなど、|笑止千万《しょうしせんばん》! 俺の友、|雪 潮健《シュ チャオジェアン》の|怨《うら》みを受け取るがいい!」 彼の|声音《こわね》が合図となり、後ろ
狭い廊下に|襲《おそ》い来る灰色の|渦《うず》を目の前に、三人はそれぞれのやり方で|蹴散《けち》らしていった。 |全 思風《チュアン スーファン》は指先から黒い砂のようなものを出し、それを器用に動かす。|迫《せま》る灰の|渦《うず》を弾き、床へと|叩《たた》きつけていた。 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》はそんな彼の腰にある剣を抜く。腰を大きく曲げ、|全 思風《チュアン スーファン》の腕下から剣を突き刺し、切り刻んでいった。 |前衛《ぜんえい》で戦うふたりの後ろでは、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が花を意のままに|操《あやつ》る。ふたりが|捌《さば》き|損《そこ》ねた灰の|渦《うず》。これが彼ら目がけて|突貫《とっかん》する。それをふたりに近づけさせまいと、花で|防御壁《ぼうぎょへき》を張った。 それぞれの持ち場を理解している彼らは、互いに|死角《しかく》を|補《おぎな》っている──「|小猫《シャオマオ》、あまり私から離れないでね?」 子供の細腰を抱き、楽しそうに話しかけた。戦闘中であることを忘れてしまいそうな笑顔を浮かべながら、余裕然と灰の|渦《うず》を|消滅《しょうめつ》させていく。 その強さたるや。すぐそばには、剣を使って灰の|渦《うず》を|薙《な》ぎ払っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいた。そんな彼の攻撃が赤子と思えてしまうほど、|全 思風《チュアン スーファン》の動きや強さは別格と|謂《い》える。「……うーん、単純でつまらないね」 切っても切っても|沸《わ》いてくる灰の|渦《うず》を見て、飽きたと呟いた。 瞬間、彼の周囲を|漆黒《しっこく》の|砂塵《さじん》が包む。かと思えば『|潰《つぶ》せ』と、低く口にした。 すると彼の命令に従うように、漆黒のそれは廊下全体を押し|潰《つぶ》していく。この場にいる彼らをのぞき、灰の|渦《うず》だけが|犠牲《ぎせい》となっていった。 しばらくすると灰の|渦《うず》は|塵《ちり》と化し、砂粒のようになって消えていく。「終わったよ|小猫《シャオマオ》、怪我はないかい?」 何ごともなかったかのように、腕の中にいる少年の頬を撫でる。子供は慣れた様子で|頷《うなず》き、お疲れ様と、彼を|労《ねぎら》った。 彼はふふっと優しい笑みとともに、子供の|額《ひたい》に|軽《かろ》やかな口づけを落とす。「
扉を開ければ、そこは真っ暗な部屋となっていた。 部屋に到着するなり、|全 思風《チュアン スーファン》は手に持つ|提灯《ちょうちん》を握り潰す。「──ここから先、|提灯《ちょうちん》の灯りは使えない。|提灯《ちょうちん》だけが見えてしまっている状態だからね。使うとしたら術で作った灯り……おや?」 ふと、視界に|橙《だいだい》色の花が飛んできた。それは何かと周囲を見渡せば、銀の髪を揺らす|華 閻李《ホゥア イェンリー》がいる。|橙《だいだい》色の、|提灯《ちょうちん》のような……少し丸みのある、三角形をした花が浮いていた。「|小猫《シャオマオ》、それは?」 どうやら子供が花の術を使い、灯りとなるものを出現させたようだ。ふわふわ浮くそれは、三人の前でくるくると回る。「|鬼灯《グーニャオ》だよ」「……え? でもそれ、|橙《だいだい》色だよね? 私の知ってる|鬼灯《グーニャオ》は、白い薄皮の中に黄色い身が入ってるやつだけど……」 |金灯《ジンドン》、|金姑娘《ジングゥニャン》、|姑娘儿《グゥニャングル》など。地域によって呼び名は様々だが、共通して言えることは、この|鬼灯《グーニャオ》は果物であるということだった。 それを伝えてみると子供は、ふふっと微笑む。「うん、それは食用の|鬼灯《グーニャオ》だね。どっちも元は、|橙《だいだい》色の|鬼灯《グーニャオ》だよ。それを花として見るか、食べ物にするかの違いかな?」 優しい光を放つ|鬼灯《グーニャオ》は、彼らの周囲を回転しながら浮いていた。「……それで|思《スー》、光はこれでいいとして、これから
合流した|全 思風《チュアン スーファン》が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を|水落鬼《すいらくき》といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。 そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、|全 思風《チュアン スーファン》たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。 やがて|水落鬼《すいらくき》は水|溜《た》まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い|膜《まく》が包んでいた。「|水落鬼《すいらくき》の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」 淡々と語り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を握る。鼻歌を|披露《ひろう》しながら余裕のある顔で広場を横切った。 その|際《さい》、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|黄 沐阳《コウ ムーヤン》のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど|水落鬼《すいらくき》の水の|膜《まく》が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。 そのことにふたりはホッとする。「|思《スー》、地下通路に行くのはわかったけど、どうして|廃屋《はいおく》の裏手なの?」 他にはないのと、純粋な眼差しで|尋《たず》ねた。「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、|廃屋《はいおく》の裏手にあるやつだけなんだってさ」 広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、|廃屋《はいおく》のある地区に到着していた。 |廃屋《はいおく》の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには|崖《がけ》があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。 |全 思風《チュアン ス
|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を説得した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、彼とともに広場の裏手へと向かった。 そこは野良猫や|鼠《ねずみ》などが|徘徊《はいかい》し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。「──|爸爸《パパ》たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」 |黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、広場の先にある大きな建物を指差す。 柱や壁は|朱《あか》い、二階建ての建造物だ。屋根の角は|尖《とが》っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。 「あの変わった形の屋根の建物、あそこに|爸爸《パパ》たちが住んでるって話だ」 ただなあと、困った様子で肩を落とす。「建物の|警備《けいび》が|厳重《げんじゅう》で、中には入れねーんだ」「……屋根の上からとか、窓から|侵入《しんにゅう》は?」 子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を|濁《にご》し、口を|尖《とが》らせている。「──|小猫《シャオマオ》、それは無理だよ」 ドスンっと、突然、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。 するとこそには三つ編みの美しい男、|全 思風《チュアン スーファン》がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に|退《ど》く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、|薫《かお》りを|堪能《たんのう》している。 そんな彼の|唐突《とうとつ》すぎる登場に、|黄 沐阳《