LOGINその物分かりの良さに深雲は満足したように軽く頷き、清音を抱いたまま踵を返した。清音はパパの肩越しに、ママにそっくりな女の人がこちらに向かって手を振っているのを見つめていた。その手の振り方まで、よく似ている……「パパ」たまらず清音は口を開いた。「あの人、ママにすごく似てるね」「ああ」深雲の返事はあっさりしたものだった。「清音、世の中にはね、顔が似ている人がたくさんいるんだ。いくら似ていてもママにはなれないし、これからはもう、あの人に会うこともないよ」そもそも玲凪に目をつけ、一時の火遊びを楽しんだのは、確かに景凪の面影があったからだ。貧しくて容姿端麗、少し計算高いところはあるものの、自分の立場をわきまえている女子大生。深雲にとっては新鮮で扱いやすかったが、所詮は暇つぶしであり、孤独を紛らわせる程度の相手に過ぎない。玲凪を自分の人生に本格的に踏み込ませるつもりなど毛頭なかった。今、黒瀬渡はこの世から消えた。景凪が再び自分を受け入れてくれる可能性はゼロではないはずだ。何年も連れ添った夫婦だったのだから。たとえ渡には敵わなかったにせよ、まさか児玉潤一ごときに遅れをとるはずがない。「パパ」「どうしたんだい?」清音は小さく鼻をすすると、深雲の首にぎゅっと腕を回した。「ママ、いつ退院して家に帰ってくるの?早くママに会いたいよ……」「もうすぐだよ」深雲は愛娘の背中を優しくトントンと叩いた。「ママはすぐに良くなる。そう遠くないうちに、お兄ちゃんも連れて帰ってきて、またみんなで一緒に暮らせるようになるさ」「ほんと!?」清音の大きな瞳が、パッと輝きを取り戻した。深雲は微笑み、小さな鼻先を軽くつつく。「それは、清音がパパに協力してくれるかどうかによるかな」「する!ぜったいお手伝いする!」はしゃぐ我が子を見つめながら、深雲の胸は温かなもので満たされていった。――そうだ。この愛らしくて元気な子供たち、そして完璧な妻。すべては本来、俺のものだったはずだ。かつては愚かな間違いを犯し、回り道をしてしまった。自分が一番愛している女が景凪であることに気づけなかった。だが今なら、彼女の本当の価値がふさわしい形でわかる。どう大切にすべきかも。なにより、最大の障害だった黒瀬渡はもうこの世にいないのだ。これはきっと、神が俺に与えてくれたや
伊雲の顔から、完全に血のの気が引いた。「なんで私が捕まらなきゃいけないのよ!私は何もしてない!景凪が自分でヘリから落ちただけじゃない!私には関係ないわ!」捜査官が顎で合図を送ると、後方に控えていた屈強な捜査官たちが一斉に室内に踏み込んだ。伊雲は後ずさりながら、手当たり次第に物を投げつけた。花瓶や時計が床に叩きつけられ、派手な音を立てて砕け散る。「触らないで!出てきなさいよ!」部屋の奥へと逃げ込もうとした伊雲だったが、訓練されたプロの捜査官に敵うはずもなく、あっけなく腕をねじり上げられて床に取り押さえられた。「離して!この犬ども、私の体を触らないで!」伊雲は狂ったように絶叫し、全身をバタつかせて無駄な抵抗を続けた。「お兄ちゃん、お兄ちゃん助けて!!」「大人しくしろ!」二人の捜査官に壁に押し付けられ、冷たい手錠をかけられた伊雲の姿に、深雲の瞳を耐え難い苦痛がよぎった。思わず一歩踏み出そうとしたその時、先頭の捜査官が冷酷な視線で深雲を射抜いた。「深雲さん。公務執行の妨げになるような真似は控えることをお勧めしますよ。鷹野の家に傷がつくことになりますからね」その重い警告に、深雲はギリッと奥歯を噛み締め、その場に釘付けにされたように立ち尽くした。彼の背後に身を隠していた玲凪は、その一部始終を眺めながら、気づかれない程度の冷たい笑みを唇に浮かべた。——穂坂景凪が変に情けをかけて、このバカ娘を見逃すんじゃないかと心配してたけど、杞憂だったわね。もしここで伊雲が助かっていれば、今後二度と吠えられないよう、自分が直接手を下す手間がかかるところだった。「連行しろ!」捜査官の号令とともに、伊雲は両腕を固められたまま外へと引き摺り出された。「お兄ちゃん!嫌だ、助けて!行きたくない!!」伊雲は半狂乱で泣きわめいていた。今度ばかりは、本当に自分の置かれた絶望的な状況を理解したのだろう。だが深雲は、玄関に立ったまま、連行されていく妹の姿を無表情で見送るしかなかった。泣き叫ぶ声が廊下の角に消えると、深雲は重く目を閉じ、まるで全身の骨を抜かれたかのようにふらりとよろめいた。「深雲さん、大丈夫ですか……?」玲凪はすかさず駆け寄り、その体を支えるように腕を添えた。思いやりに満ちた声だった。深雲は俯き、玲凪の痛々しく腫れ上がった顔に視線
それは暗に、伊雲が玲凪を陥れるために自作自演をしたのだと告発しているにも等しかった。伊雲は怒りのあまり、本当に肺が破裂しそうになった。「曽根先生、あんた適当なこと言ってんじゃないわよ! 私が自分で自分を痛めつけるわけないじゃない!」伊雲は、いかにも自分は被害者だと言わんばかりに身を縮めて泣きじゃくる玲凪を、殺意を込めて睨みつけた。「このクソ女!曽根先生を買収して口裏合わせたんでしょ! 結託して私をハメたのね!」玲凪は恐怖に震えながら首を横に振り、大粒の涙をこぼした。「ちが……違います……っ」言一は長年、伊雲のその傲慢で自己中心的な性格に辟易していた。これまで度重なる理不尽な要求にも耐えてきたというのに、今度は買収の濡れ衣まで着せられ、温厚な彼もついに堪忍袋の緒が切れた。「伊雲お嬢様!腐ったものを食べても胃を洗浄すれば済みますが、吐いた言葉は取り消せませんよ!」言一の声には明確な怒りがこもっていた。「曽根家は代々続く医者の家系です。患者に毒を盛るなどという天地神明に誓って有り得ない侮辱を受けるなら、深雲様、私はもう鷹野家の専属医を辞めさせていただきます!」深雲も射殺さんばかりの目で伊雲を睨みつけた。「曽根先生の誠実さは俺が一番よく知っている!すぐに曽根先生に謝れ!」「……っ!」伊雲は両拳を強く握り締め、全身をわななかせた。謝る気など、微塵もない。今までずっと、自分が他人を虐げてきたのだ。あの憎き景凪でさえ、昔は私の足元に這いつくばらせてやった。この前だって、私があいつの息の根を止めてやるところだったのだ。それなのに、なんでこの玲凪とかいう、景凪の足元にも及ばないような下賤の貧乏人に、ここまでコケにされなきゃならないのよ!!「絶対に謝らない!私は悪くない!!なんで私が謝らなきゃいけないのよ!」伊雲の身勝手な絶叫に、言一の堪忍袋の緒は完全に切れた。「深雲様。伊雲お嬢様の態度はよく分かりました。曽根家は鷹野家のような名家ではありませんが、私たちには私たちの尊厳があります。先ほどの通話は録音させていただきました。私の名誉を著しく傷つけたとして、弁護士を通じて伊雲お嬢様を訴えさせていただきます。鷹野家の専属医は、どうぞ他を当たってください」「待ってくれ、曽根先生……」深雲が慌てて引き留めようとしたが、言一は深雲の顔も立てず、冷
「目を覚まさせようと思って殴ったんだ!」胸を激しく上下させながら、深雲は氷の刃のような冷酷な声で吐き捨てた。「いい加減にしろ。いつまでも自分の立場を弁えず、好き勝手ばかりしやがって!昔から甘やかしすぎた俺が悪かった。もう今日限り、お前を甘やかすことも、その尻拭いをしてやることも絶対にない!」「お兄ちゃん、なんで!?なんで私を信じてくれないの!?」伊雲はヒステリックに絶叫し、狂ったように涙を流した。崩れたメイクが、涙と入り混じって醜く顔を汚していく。その絶妙なタイミングで、玲凪はよろめくように身を起こし、か弱く深雲の袖口を軽く引いた。「深雲さん……私、大丈夫ですから。警察にも行きませんし、伊雲さんを訴えたりもしません。深雲さんは私の命の恩人ですから……だから少しでも、伊雲さんのお力になれればと思っただけなんです……」深雲は深い溜息をつき、自分の着ていたジャケットを脱いで、震える玲凪の肩にそっと掛けた。その眼差しには、痛ましいものを見るような深い労りが浮かんでいる。「玲凪、君は……どこまで人がいいんだ。さあ、一緒に病院へ行こう」「待って、行かないで!」 伊雲は半狂乱になりながら駆け寄り、ドアの前に立ちはだかった。今、何を言っても言い訳にしか聞こえないことは、自分が一番よく分かっている。洗面所には監視カメラがないし、鍵をかけたのも自分。おまけに、リビングで玲凪に物を投げつけたところを、使用人にばっちり目撃されているのだ。完璧な証人まで揃っている。——この女の狡猾さを、完全に甘く見ていた。「お兄ちゃん、この女、私に毒を盛ったのよ!」伊雲は衣服の襟を乱暴に引き下げた。そこには赤黒く腫れ上がったおびただしい数の発疹が広がり、掻きむしったせいで生々しい血の瘡蓋がこびりついている。その痛ましい肌を見て、深雲も一瞬言葉を失った。「それは……どうしたんだ?」「この女の仕業よ!」伊雲は玲凪を指差し、金切り声を上げた。「お兄ちゃんからの差し入れだって勘違いするように仕向けて、私に警戒させずに飲ませたの!」そこまで言って、伊雲はハッと気づいたように目を剥いた。「そうよ、あの薬、絶対に曽根先生が処方したものなんかじゃない!こいつがどこかの怪しげな薬局で買ってきた毒に決まってるわ!」深雲は眉をひそめ、探るような冷ややかな視線を玲凪に向けた。
息を切らして玄関を飛び込んだ深雲の目に真っ先に飛び込んできたのは、洗面所の前で必死にドアを叩き続けている使用人の姿だった。「お嬢様、どうか落ち着いてください!」深雲の姿を認めるやいなや、使用人はすがりつくように叫んだ。「深雲様、早く!伊雲お嬢様が玲凪さんを洗面所に閉じ込めて暴行を……このままでは殺してしまいます!」深雲はドアに駆け寄り、ノブを乱暴に回したが、内側からしっかりと鍵がかけられていて開かない。中からは、痛ましいほど悲痛な玲凪の泣き叫ぶ声が響いてくる。「伊雲さん、ごめんなさい!私が悪かったです、もう叩かないで!誰か助けて——!」「伊雲!」深雲はギリッと奥歯を噛み締め、怒声を上げた。「今すぐ開けろ!!」だが、伊雲は一切答えない。答えようにも、答えられる状態ではなかったのだ。声を上げようとするたびに、玲凪の手によって無慈悲にバスタブの水へ力任せに顔を押し込まれ、ゴボゴボと水を飲まされて息も絶え絶えだった。玲凪の顔は悪鬼のように冷酷だったが、ドアの外へ向ける声はあくまでか弱く、惨めな響きを帯びていた。「深雲さん、助けて!伊雲さん、許して……深雲さんをどうこうしようなんて、そんな気はこれっぽっちも——」深雲の顔色は怒りで青ざめた。ドンドンと拳で激しくドアを叩く。「伊雲!開けろと言ってるのが聞こえないのか!」その直後——不自然なまでに、中がふっつりと静まり返った。次の瞬間、ガシャーンッ!と凄まじい破砕音が響き渡る。重い物が鏡に激突し、粉々に砕け散る音だった。浴槽の側で這いつくばっていた伊雲は、目の前の信じられない光景に目を向いた。玲凪が、自らの頭を洗面台の鏡に思い切り叩きつけたのだ。割れた鏡の破片が散らばり、玲凪の額からツーッと鮮血が流れ落ちる。その姿は、あまりにも常軌を逸していて不気味だった。自分の気性も相当荒いと自負していた伊雲だが、玲凪の狂気と残忍さ、そして命すら厭わない執念は、完全に想像を凌駕していた。玲凪は血を流しながら伊雲をじっと見据え、薄気味悪い笑みを浮かべながら、片手でその血を自分の顔中に塗りたくっていく。「ねえ……深雲さんは、あんたと私、どっちの言うことを信じると思う?」「この……イカれ女!」伊雲は憎悪と恐怖に顔を歪め、強く歯軋りをした。「絶対このままで済むと思わないでよ!」
傍らにいた使用人は思わず目を背けたが、恐ろしくて止めに入ることもできない。玲凪はギュッと唇を噛み締め、か弱く震えてみせた。「伊雲さん、怒らないで。私はただ、様子を見に来ただけで……」そこで言葉を切ると、玲凪は伊雲の首周りに広がる赤い発疹に視線を落とし、ほんの一瞬、気づかれないほど微かに口角を吊り上げた。「ここ数日お薬を飲んで……少しは良くなったかなって」その言葉に、伊雲はハッと息を呑んだ。「あの薬、お兄ちゃんからじゃなくて……あんたが送ってきたわけ!?」この発疹は、あの薬のせいだったのだ。真相に気づいた伊雲の頭に血が上る。激昂し、玲凪の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。「この性悪女!私の薬に何を入れたのよ!?わざと私に毒を盛ったわね!」玲凪は怯えきった顔で首を横に振る。「ちが……私じゃ……」言い訳など聞く耳も持たず、伊雲は玲凪の頬を思い切り張り飛ばした。玲凪の体は無惨に床へ崩れ落ちる。「お、お嬢様、どうか落ち着いて……!」見かねた使用人が声を絞り出したが、それがかえって火に油を注いだ。「黙れ!たかが下働きの分際で私に指図する気!?」怒りで完全に理性を失った伊雲は、手近にあった花瓶を掴み上げ、玲凪めがけて力任せに投げつけた。ガシャーンと背後で陶器が砕ける音に悲鳴を上げ、玲凪は必死で逃げ惑う。そのまま洗面所に飛び込むと、内側からガチャリと鍵をかけた。それを見た伊雲は、蛇のように陰惨な笑みを浮かべた。「バカな女。こっちは虫の居所が最悪だってのに、わざわざ死にに来るなんてね!」伊雲は振り返り、使用人に鋭く命じる。「今すぐ合鍵を持ってきなさい!」使用人は不憫に思いつつも、逆らうことなどできるはずもない。震える足で鍵を取りに向かいながら、こっそりとスマホを取り出し、深雲へ助けを求めるメッセージを送信した。【深雲様、すぐにお戻りください!このままでは伊雲お嬢様が玲凪さんを殺してしまいます!】一方、深雲はすでにマンションへ向かっていた。元々自分の所有する部屋であることに加え、伊雲がまた何か面倒を起こさないか、あるいは黙って逃亡しないかと危惧し、深雲は念のためトイレと風呂場を除くすべての部屋に監視カメラを設置していたのだ。そのため、玲凪が玄関を入ってきた瞬間から、深雲はスマホのリアルタイム映像を通じて異変を察知していた