LOGIN「ええ、構わないわ。今すぐ行きましょう」景凪は静かに頷いた。「あの日のことは、一から十まで正確に覚えているから」その言葉を聞いた瞬間、深雲は血の気が引く思いだった。景凪は本気だ。今回ばかりは、何があっても絶対に伊雲を許さないつもりなのだ。「景凪――」たまらず前に出ようとした深雲より早く、痺れを切らした潤一が景凪の腕を引いて自分の背中に庇った。そして、立ちはだかるように深雲の前に鋭い眼差しで立ち塞がる。「……まだ何か用か?」その凍てつくような声色に反応し、ドアの外で待機していた手下たちが、無言のまま懐の銃へと手を伸ばす気配がした。そのただならぬ空気に、音楽を聴きながら宿題をしていた清音でさえ異変を感じ取ったようだ。音楽を止め、おずおずとした足取りで大人たちのもとへ駆け寄ってきた。「潤一おじさん……パパと喧嘩しないで……」怯えたように見上げる小さな姿。一触即発だった二人の男の間に、不意にこんな小さな子供が割って入ってきたことで、室内に充満していた殺気は一気に削がれた。潤一は清音を見下ろし、どうにか強面を和らげて不器用な笑みを浮かべた。「喧嘩なんかしてないさ。おじさんとパパは、ちょっと大事なお話をしてただけだ」深雲はかがみ込んで清音を抱き上げると、潤一の肩越しに、その後ろに立つ景凪へ視線を向けた。どうせまた子供をダシにして伊雲を見逃せと迫るのだろう。景凪がそう身構えた時、深雲が静かに口を開いた。「景凪、俺は……お前に何かを強要しようと思ってここに来たわけじゃない。伊雲が取り返しのつかないことをしたのも分かっている」深雲は自嘲するように短く笑った。「……以前、お前が言っていた通りだ。あいつはもう子供じゃない。自分がしでかしたことの責任は、自分で取らなければならない年齢だ。俺たち家族があいつを甘やかしすぎてしまった。だから……お前がどんな決断を下そうが受け入れる。もし許してくれるなら、あいつを連れてきて土下座させる。だが、許せないと言うなら……それもあいつの自業自得だ」景凪はわずかに息を呑んだ。あの深雲から、こんな言葉が出てくるとは思わなかった。景凪からの返事など最初から期待していないかのように、深雲は腕の中の清音に語りかけた。「清音。ママにバイバイして」清音は泣きそうな顔で景凪を見つめた。「パパ……私、ずっとママと一緒
渡が死んだ……なら、俺にもう一度チャンスが巡ってきたということじゃないか?自分と景凪の間には二人の子供がいて、十数年分の情がある。それこそが、最大の切り札だ。だが、その前に今日ここへ来た本来の目的を忘れるわけにはいかなかった。「景凪、伊雲がわがままでお前に酷い真似をしたことは分かっている。あいつは俺たちが甘やかしすぎた。明日、必ずあいつをここへひっ立ててきて、お前に土下座して謝らせる!殴ろうが罵ろうがお前の気の済むようにしてくれて構わないし、鷹野の人間は誰一人文句は言わないと約束する!」一息にまくしたてると、深雲は声を潜め、すがるように懇願した。「だが……頼む。警察や当局には、あいつのしたことを黙っていてくれないか」冷ややかに見据えられたまま沈黙され、深雲は焦りを見せ始めた。「景凪、もし伊雲が当局に起訴でもされたら、あいつの人生は完全に終わってしまうんだ!」景凪が生きていると知って以来、伊雲は家でパニック状態に陥っていた。深雲が問い詰めると、すぐに事の顛末を白状した。概ね深雲が予想していた通りの惨状だった。もちろん深雲とて妹のしでかしたことには激怒しているが、少なくとも景凪はこうして生きて戻ってきたのだ。だが、もしこれを機に当局から正式に告訴されてしまえば、鷹野家の力をもってしても裏から手を回す余地は完全に消滅する。伊雲は間違いなく重罪に問われ、最低でも十数年の実刑は免れない。まさに一生が台無しになる。「景凪、あいつは俺のたった一人の妹なんだ……それに、辰希と清音にとっても実の叔母じゃないか!頼む、今回だけはチャンスを与えてやってくれ」「伊雲が私の手を踏みにじってヘリから落とした時、私が辰希と清音の実の母親だってことを、あの子は一秒でも考えたかしら?」景凪は嘲るように鼻で笑った。深雲はぐっと言葉に詰まる。「そんな倫理に訴えかけるような真似、私には通用しないわよ、深雲。その白々しい芝居もいい加減にしてちょうだい。この件は、私から当局へありのままをすべて報告させてもらうわ!その後、伊雲がどう裁かれるかは、あの子の自業自得よ!」一気に言い放ち、景凪はわずかに息を切らした。もうこれ以上、深雲と無駄な言い争いをする気力すらない。その顔を二度と見たくもないとばかりに踵を返し、部屋の中へ戻ろうとする。深雲は唇を噛み締め、
深雲の顔色から、さっと余裕が消えた。景凪は思わず冷笑を漏らす。やはり図星だったか。何年も共に過ごしてきた深雲の考えなど、手に取るように分かる。皮肉な話だ。この男は決して冷血漢ではなく、むしろ「家族」を何より大切にする人間なのだ。ただ、彼が最優先に守ろうとする家族が、景凪と築いた家庭ではなく「鷹野家」という一族だったというだけで。「清音。パパとママは大事なお話があるから、あっちで音楽でも聴きながらお勉強しててくれるかな?」深雲は優しい声で清音を促した。景凪は冷ややかにそれを見つめていた。深雲の手には清音のリュックが握られている。用意周到なことだ。空気の違いを敏感に察した清音は、パパとママの顔を交互に見比べた後、不安げに景凪を見上げた。「ママ……私、お勉強してるね」「ええ、偉いわね」景凪は無理に微笑みを作り、清音の頭を優しく撫でた。「分からないところがあったら、いつでもママに聞いてね」「うん!」清音はリュックを抱えて部屋の隅のテーブルに向かい、ヘッドフォンをつけて大人しくノートを広げ始めた。景凪はすぐに歩み寄り、娘の頭からヘッドフォンを外した。「清音、音楽はスピーカーで流していいのよ。ずっと耳を塞いでいると、耳が痛くなっちゃうからね」こんな幼い子供にまでヘッドフォンを強要するとは。深雲の無神経さには本当に呆れる。景凪は忌々しげに男を睨みつけると、そのままツカツカとバルコニーへ向かった。深雲も黙ってその後を追う。バルコニーのドアは半分だけ開けてあるが、部屋の端で音楽を流している清音の耳までは届かない。深雲は目の前の景凪を見つめ、唇をきつく噛み締めた。やはりその目には、本物の痛ましさが浮かんでいる。「……随分、痩せたな」だが、景凪はそんな同情には一切乗らず、冷徹に言い放つ。「私が痩せようが太ろうが、あなたには何の関係もないわ」深雲は小さくため息をつき、一度部屋へ戻って薄手のブランケットを取ってくると、景凪に差し出した。「俺のジャケットは、どうせ着てくれないだろうからな」自嘲気味に苦笑する。「冷えるから羽織っておけ。清音も心配する」「……」差し出されたブランケットを見て、景凪は数秒躊躇ったが、無言でそれを受け取った。「ありがとう」景凪が肩に羽織るのを見て、深雲の表情がわずかに和らいだ。
「潤一さん。辰希には、まだ仕事が残っているから数日後には帰るって伝えておいてくれるかしら」「……」潤一は文字を打とうとしていた指を宙に浮かべたまま、複雑な表情で景凪を見た。この女は時々、ぞっとするほど勘が鋭い。言われた通りに返信を済ませると、潤一はスマホをしまい、景凪の向かいの椅子を引き出してどかっと腰を下ろした。腕を組み、もくもくと食べ続ける彼女の顔を無言でじっと観察する。景凪はそんな潤一の視線をまるで空気のように無視し、あらかた食べ終えてからようやく顔を上げた。「私が進めなきゃいけない仕事があるって言ってたわね?今聞くわ。あなただって早く任務を終わらせて、珠希ちゃんのところへ帰りたいでしょうに。源造様も珠希ちゃんも、ずっとあなたのことを心配してたのよ」ついさっきまで絶望の淵にいたとは思えないほど、平然と他人の心配までし始める。潤一は数秒間その青白い顔を凝視したが、最後にはため息をついて諦めた。これほど感情に蓋をするのが上手い女を相手に、深層心理を探ろうなど到底無理な話だ。「……鷹野伊雲の件だ」潤一はボイスレコーダーのスイッチを入れた。「お前が伊雲に突き落とされてヘリから落ちた時の状況を、改めて確認したい。できるだけ詳細にな」景凪は自分の手の甲に視線を落とした。そこにはまだ、伊雲にはめていた指輪の尖った部分で力任せに刺された生々しい傷跡が残っている。当時の状況を説明しようと口を開きかけたその時、ドアの向こうから突然激しい言い争う声が聞こえてきた。嫌でも聞き覚えのある男の声だ。深雲の怒声だった。「通せ!景凪に会わせろ!俺はあいつの子供たちの父親だぞ!」潤一は表情を変えずに景凪へ視線を向け、軽く眉を上げる。会うか会わないか、お前が決めろという合図だ。景凪が「帰して」と言いかけたその時、別の声がドアの向こうから響いた。「パパー、私もママに会いたい!」清音の泣きそうな声だった。その声を聞いた瞬間、凍りついていた景凪の表情が微かに揺らいだ。潤一は舌打ちしたい気分だった。子供を盾に使って会おうとするとは……本当に、どこまでも底の浅い男だ。彼の中で、深雲への嫌悪感がさらに数段階跳ね上がった。潤一は椅子から立ち上がり、病室のドアを開けた。外には、組織から派遣された潤一の手下たちが警護に立っている。
景凪は視線を上げ、桐谷の顔をまっすぐ見た。その手元にある書類を受け取る気配はない。ひどく空ろで、なおかつ底知れない深さを含んだその眼差しに、職業柄あらゆる修羅場を潜り抜けてきたはずの桐谷ですら、一瞬気圧されそうになった。「穂坂さん……」「……渡は、私の何だっていうの?」景凪の冷たい声が遮った。「えっ……?」景凪は一歩歩み寄る。「渡は、私の何なのかって聞いてるの!どうして勝手に私の人生を決めつけて、子供たちにまで財産を残すの?あいつに……あいつに、そんな権利なんてないでしょう!」最後には充血した目で、桐谷をきつく睨みつけた。その視線は、まるで桐谷の体を物理的にえぐり取ろうとするほどの凄みがあった。だが、長年の経験から、桐谷にはそれが自分に向けられた敵意ではないことなどすぐに分かった。彼女が自分を睨みつけているのは、ただこの身体を引き裂いてでも、その奥に渡が隠れていないか探し出そうとする執着にすぎない。「穂坂さん、お気持ちはお察しします。ですが、これらはすべて黒瀬様のご意志なのです……私も雇われの身として、言われた通りに手続きを進めるしかありません」桐谷は努めて淡々と言った。「どうか、私を困らせないでください」景凪は目尻に滲んだ涙を乱暴に拭い取った。「結構よ」深く息を吸い込む。「こんなもの……一切いらないわ」桐谷が驚くことはなかった。彼の知る景凪の性格を考えれば、突き返すのが当然だ。そして何より、渡自身も彼女がそう言い張ることなどとうに見越していた。今日の訪問は、単なる想定内のプロセスに過ぎない。「承知いたしました。ですが黒瀬様の遺言により、あなたが受け取りを拒否された場合、資産は一時的にプロの運用チームが管理することになっております。利益はすべてあなたの名義のままです。いつかあなたが受け取る気になった時、すぐに全権を引き渡せる手はずとなっております」景凪は爪が食い込むほど拳を握りしめた。鼻で笑ってやりたかったが、どうしても口の端が持ち上がらない。渡は、永遠に拒否することすら彼女に許さなかったのだ。娘が完全に限界を迎えているのを見て取り、俊介がすっと間に入った。「桐谷さん、娘には休息が必要です。今日はここでお引き取りを」丁寧だが、きっぱりと退室を促す。桐谷は俊介に向けて礼儀正しく会釈した。その際、ほんの
答えを探して口ごもっていると、タイミング良く携帯が鳴った。画面を見ると、須藤隊長からの着信だ。渡りに船とばかりに、潤一は即座に通話ボタンを押した。「隊長」電話の向こうからの指示を聞きながら、潤一はちらりと景凪を一瞥する。「いや、対象は現在あまり状態が良くありません。もう少し待ってください。ここは俺が責任を持ちます」通話を切ると、これで堂々と残る口実ができたとばかりに、潤一は景凪へ向かって告げた。「仕事だ。お前の精神状態が安定するのを待ってから任務を進めろとさ」景凪は黙って頷いた。その口実をひとまずは受け入れたらしい。そしてまた、重い沈黙が降りた。潤一は彼女の薄っぺらい背中を見つめ、ふうと息を吐く。「腹、減ってないか?何か食いたいものは?」景凪は静かに首を振った。「食欲、ないわ」「……消化のいいもんでも見繕ってくる。食欲がなくても、少しは胃に入れろ」潤一は眉をひそめ、踵を返して病室を出た。女を優しくなだめる方法など、まるで分からない。廊下に出てから、少し言い方がきつすぎたかと頭をガシガシと掻いて反省した。ドアの外には付き添いのヘルパーが待機しており、潤一と入れ替わりで病室へ入っていく。今の景凪を、いかなる理由があろうと一人きりにするわけにはいかなかった。景凪はずっと窓辺に立ち尽くしていた。見かねたヘルパーが声をかける。「穂坂さん、少し座ってお休みになりませんか?」返事はない。ヘルパーもそれ以上は口出ししなかった。しばらくして、控えめなノックの音が響いた。ヘルパーがドアを開けると、そこに立っていたひどく痩せ細った老齢の男を見て、思わず言葉を失う。「あの……どちら様でしょうか?」俊介は震える唇を動かし、まるで幼児が言葉を覚える時のように、一文字ずつ必死に絞り出した。「娘……に……会いに……」窓ガラスに反射する影で、背後に誰かが近づいてくるのが見えた。張り詰めていた景凪の体が、ゆっくりと強張りを解いていく。振り返ると、涙でいっぱいに満ちた、老いて濁った目と視線が絡んだ。「景凪……」俊介は、おずおずとすがるような震え声で娘の名を呼んだ。景凪の虚ろだった瞳に、少しずつ焦点が戻る。そして、実の父親のまだ見慣れない顔をじっと見つめ返した。俊介はすでに事の顛末を知っていた。ここ数日間にわたる集







