Masuk月明かりすらも不吉な暗雲に遮られ、王城全体が深い闇に沈み込んでいく。「――失礼いたします、お嬢様」扉の外の近衛騎士たちを巧みな言動であしらい、音もなく客室の影から滑り込んできたのは、マルタだった。その完璧な仕草の裏には、いつになく色濃い警戒の色が漂っている。「マルタ。外の様子はどうなっているの?」ルシエラが問いかけると、マルタは静かに頭を下げ、低く凛とした声で報告を始めた。「王城内の不穏な空気は最高潮に達しております。レオンハルト陛下はエルミナ様の四枚羽の顕現を受け、神聖騎士団および秘密情報部に対し、王都全域の警戒レベルを『最上級』へと引き上げられました。表向きは防犯のためとされておりますが……実質的には、エルミナ様およびルシエラお嬢様に対する監視の目を強化するための措置でございます」「やっぱり……父上は僕たちを本格的に疑い、封じ込めるつもりか」ライネルが苦い顔で呟く。「それだけではございません」マルタは静かに視線を落とし、言葉を継いだ。「王城の地下深層……先ほどお嬢様方がお戻りになられた古結界ラインの周辺に、レオンハルト陛下の直属部隊が極秘裏に派遣された模様です。地下に潜む『何か』の存在を、陛下ご自身もまた、前々から把握されていた節がございます」「何ですって……!?」ルシエラの深紅の瞳が大きく見開かれた。国王レオンハルト。一国の指導者として国を守ろうとする厳格な王。……しかし、もし彼自身もまた、地下の悪魔や巨大な企みの全貌を知りながら、エルミナやルシエラを「盤上の駒」として利用しようとしているのだとしたら――。「ルシエラちゃん……」エルミナが不安そうにルシエラの袖を小さく引っ張った。「私……やっぱり、私がここにいるから、みんなを危険に巻き込んじゃってるのかな……? 私の過去も、この力も……本当は何なのか、すごく怖いの……」震えるエルミナの手を、ルシエラは優しく包み込んだ。「いいえ、エルミナ。貴女のせいではないわ。私たちが真実に近づけば近づくほど、周囲の闇が牙を剥いてくる……それだけのことよ」ルシエラはライネルと目を合わせた。「ライネル君。レオンハルト陛下が地下の調査を進めているのなら、残された時間は少ないわ。悪魔の『根』がこの王都を完全に蝕み、私の『堕天の力』やエルミナの『天使の威
夜深まる客室の中、重厚な絨毯の上に落ちる月光が、三人を取り巻く複雑な思考を白く照らし出していた。ルシエラは窓辺に立ち、深紅の瞳をじっと見つめながら、己の内に渦巻く過去の記憶と現状を突き合わせるように呟いた。「……ねえ、ライネル君。ずっと引っかかっていたの」「どうしたんだい、ルシエラ?」「もしも悪魔が……神聖なる天の力そのものを渇望していたのだとしたら。奴らにとっては、私からあらかじめ奪い取った大天使としての記憶の大部分と、突如現れたエルミナの破格の力……それだけでも、目的を果たすには十分すぎるはずでしょう?」ルシエラは胸元にそっと手を置いた。「それなのに、なぜ奴らは執拗に私を狙い続けるのか……。あの学園で私に歩み寄り、無垢な顔をして油断させていたあの一角獣(ユニコーン)の悪魔すらも、結局のところ真の標的は私自身だった……。奴らは、私という存在の『何か』を、まだ諦めていないのだわ」息をのむエルミナを横目に、ルシエラは静かにその本質へと踏み込んでいく。「私は……ただの大天使の転生者ではない。かつて一度堕ち、地に塗れた『堕天の力』をその魂に宿している。……私が今持っているこの不完全で禍々しい力こそ、あの日、悪魔が私に残していった残照の影響……そして奴らが今なお欲してやまない『最悪の芽』なのではないかしら?」「……鋭い洞察だな、ルシエラ」ライネルの瞳に、極めて鋭利な光が宿った。神聖剣『アルヴァ=クレイド』の柄に置かれた彼の指に、力が入る。「僕もずっと同じ危険性を考えていた。悪魔の真の狙いは、単なる強大な魔力や記憶の奪取ではない。君の中に残された『堕天の刻印』を完全に開花させ、君という存在そのものを天に対抗し得る最悪の魔王として完成させること……それこそが、奴らの真の企みなのかもしれない」「やはり……ライネル君もそう思っていたのね」ルシエラは視線を落とし、自らのスカートの裾を固く握りしめた。その脳裏に浮かんだのは、亡きオーガスト枢機卿から託された、重々しい金属の箱――
王城の深部に位置する「第一客室」。豪奢な調度品が揃えられたその部屋の扉の前には、全身を重装甲で固めた近衛騎士たちが立ち並び、静まり返った廊下に張り詰めた圧力を生み出していた。「開けなさい。ルシエラ・ヴァルハイトとライネル殿下だ」「はっ……! お通りください!」騎士たちが解錠し、重厚な扉が開かれる。部屋の奥、カーテンが閉め切られた暗がりの中で、エルミナはベッドの端に膝を抱えて小さく丸まっていた。まだどこか青ざめた顔で、怯えたように肩を震わせている。「ルシエラちゃん……! ライネル様……!」二人の姿を認めた瞬間、エルミナの瞳に安堵の光が宿った。「エルミナ、気分はどう? 体調は辛くないかしら?」ルシエラは足早に寄り添い、ベッドの脇に腰を下ろしてエルミナの震える手を温かく包み込んだ。「うん……体の痛みはもうないの。でも……すごく怖いよ。私、自分の背中からあんな大きな羽が生えるなんて思わなくて……。それに、あの地下で感じた恐ろしい気配が、ずっと耳の奥で渦巻いているの」エルミナはそう言うと、ぽろぽろと涙を零した。「私、やっぱりおかしいのかな……? 生まれた時のことも覚えていないし……急に大きな力が目覚めて、みんなを怖がらせちゃって……。レオンハルト陛下が私を見る目も、すごく冷たかった……」「そんなことはないわ、エルミナ」ルシエラは優しく、けれど力強く告げた。「貴女の力がどれほど異質に見えようと、その光が多くの人を救ってきた事実は変わりないわ。陛下のご警戒は一国の主としてのもの……貴女が自分を責める必要など、どこにもないのよ」「……ルシエラちゃん……」隣に立つライネルも、静かに腕を組みながら語りかけた。「エルミナ。君の過去がどうであれ、君が学園で見せた真摯な思いを僕たちは信じている。だが……あの地下で君の羽が顕現した時、君は『奴の目が、もうそこまで来ている』と言ったね。あの時の言葉、覚
エルミナが客室へと運ばれ、厳しい警備が敷かれる中、王城の密室――国王執務室には、痛いほどの緊張感が張りつめていた。重厚な執務机の向こうに座るレオンハルト国王。その前には、ライネルとルシエラが不退転の面持ちで立っている。「――学園での聖女としての活躍、そして大規模公募で見せた比類なき試練の浄化。その報告自体は余の元にも届いていた」レオンハルトは重々しく口を開き、組み上げた指の上に顎を乗せた。その瞳には、一国の主としての鋭い不信と警戒の色が色濃く宿っている。「だが、彼女の素性は依然としてあまりにも不自然だ。学園へ突如現れた背景もさることながら、聖教会のどの組織にも正式な所属歴がなく、一指導者による後ろ盾すら存在しない。……それほどの『野の者』が、なぜ古の伝承にしか存在せぬ四枚の天使の羽を顕現させられる?」「父上、彼女の聖性は本物です。学園でも、この王都の地脈でも、その力は人々を救うために――」「本物であるからこそ、問題なのだ! ライネル!」レオンハルトは机を叩き、ライネルの言葉を遮った。室内に鋭い打撃音が響き渡る。「教会の全滅によって神聖防壁が壊滅し、我が国は今、史上最大の危機に瀕している。そこにタイミングを合わせるかのように『素性不明の四枚羽の聖女』が現れ、人々の信望を集め始めているのだぞ? これが何を意味するか、お前には分からんのか!」「……民の希望となる存在を、無条件に排除せよとおっしゃるのですか」「排除ではない。『対応』を考えねばならぬと言っているのだ」レオンハルトは低く冷ややかな声で告げた。「あの娘が神の奇跡か、あるいは我が国を内側から揺るがすために悪魔が送り込んだ『極上の偽物』か……。四枚の羽という異常事態を目の当たりにした以上、もはや一候補生として扱うわけにはいかん。教会の残党や貴族どもがどう動くかも分からぬからな」国王の言い分は、一国の支配者としてはあまりにも合理的で、かつ冷徹な正論だった。黙って話を聞いていたルシエラは、胸の前でそっと手を握り締めた。(レオンハルト陛下の疑念も無理はない……。エルミナの存在そのものが、あまりにも出来すぎている。……でも、だからこそ)ルシエラは一歩前へ踏み出し、凛とした声音で国王の視線を受け止めた。「陛下。エルミナの身元に対するご警戒は、極めて正当なも
重く重厚な地下の扉を蹴り開け、ライネルたちは地上へと飛び出した。「ハぁ……ハぁ……ッ!」凍てつくような外気が突き刺さり、荒い息が白く乱れる。だが、安堵の息を漏らす暇など微塵もなかった。「な、なんだあの光は……!?」「地下から……何が……!?」巡回していた王城の衛兵や騎士たちが、あまりの異変に次々と足を止め、ざわめきながら集まってくる。無理もない。ライネルの腕の中で未だ苦しそうに身をよじるエルミナの背からは、圧倒的な存在感を放つ『四枚の白銀の羽』が神聖な光を撒き散らし、夜の王城の中庭を昼間のように照らし出していたからだ。「あ……あぁ……っ、ダメ……収まらない……っ!」エルミナは胸を固く押さえ、必死に羽を消そうと背を丸める。しかし、一度解き放たれた古の天使の威光は彼女の意思を無視して拡大し続け、眩い聖気が嵐となって吹き荒れた。周囲の騎士たちは、その神聖すぎる波動に圧され、刃を構えることすらできずに膝をつき始める。「な、なんて神聖な力だ……」「まさか、本物の『降臨』なのか……!?」驚愕と混乱が渦巻く中、遠くから重厚な足音が響いた。「何事だッ! この騒ぎは……!?」大勢の近衛騎士を従えて現れたのは、国王レオンハルトだった。国王はエルミナの背に広がる四枚の白銀の羽を目にした瞬間、その瞳を限界まで見開き、絶句した。その顔に浮かんだのは、感動でも救済への歓喜でもない――剥き出しの「驚愕」と、底知れぬ「恐れ」だった。(……やはり、お父様はこの羽の意味を知っている……?)ライネルは身を挺してエルミナを庇うように立ち塞がり、父である国王を鋭い目で見据えた。「父上! 地脈の調査中、不測の事態が発生しました! エルミナの体内に眠る聖性が地脈の異常と共鳴し、一時的に暴走しております!」「よ、四枚の羽だと……!? 伝承に謳われる『上位の使徒』の証……なぜ、この娘が……ッ!?」レオンハルトの声が、不自然に震えていた。ルシエラは息を整えながら、エルミナの前に進み出た。彼女の手を握り締め、己の大天使としての波動をそっと重ね合わせていく。「落ち着いて、エルミナ……。私に意識を集中させて。貴女の光を、私の中へ逃がすのよ……」「ル、ルシエラちゃん……っ」ルシエラの包み込むような温かな導きを受け、エルミナの荒い呼吸
王城の最深部、ひんやりとした重苦しい空気が漂う地下古結界ライン。松明の小さな炎が揺れる石造りの地下道を進むのは、ライネル、ルシエラ、そして大結界の再構築にあたるため同行していたエルミナの三人だった。壁面に彫られた古代文字と、地脈を巡る魔導の回路。本来ならば神聖な光を放っているはずのラインは、黒ずみ、まるで壊死した血管のように不吉に脈打っている。「これが……王都の地脈……。ひどい、こんなに魔力が濁って……」エルミナが壁にそっと手を触れようとした、その時だった。「――っくあ……あぁぁぁっ!?」突如、エルミナが胸を掻きむしり、その場に激しく膝をついた。「エルミナ!?」ライネルが慌てて駆け寄ろうとするが、彼女の全身から放たれた衝撃波のような神聖光に阻まれ、踏み込むことができない。「う、あぁぁぁ……ッ! 頭が……胸が、熱い……っ!!」苦痛に顔を歪め、喘ぐエルミナ。その瞬間、彼女の背中――法衣の破れ目から、眩いばかりの純白の光が弾けた。メリメリと音を立てて空間が歪み、彼女の背中から生え伸びたのは――白銀の光を纏った、美しくも神聖な『四枚の天使の羽』だった。「羽……!? 天使の羽が、四枚も……!?」ライネルが息をのむ。ルシエラは、その神聖な輝きと四枚の羽を目にした瞬間、胸の奥を激しい衝撃で貫かれたような感覚に襲われた。(この羽……この光の波動……知っている。私、前世の記憶の中で、この羽を見たことがある……!)前世の大天使として、果てしない時を生きてきたルシエラ。その広大な記憶のどこかに、確かにこの四枚の羽を持つ存在がいた。だが、どれほど記憶の糸を手繰り寄せようとしても、モザイクがかかったように名前と顔が思い出せない。あまりにも大きく、あまりにも重要な記憶だからこそ、何らかの強烈な封印が記憶の根底に施されているかのように。「……あ、危ない……っ!」羽を生やしたエルミナが、虚ろな、けれど異次元の深遠さを感じさせる声で呟いた。それはいつもの可愛らしい少女の声ではなく、エルミナの中に秘められた「古の天使」の意志そのものの警告だった。「ここは……危ないわ……っ! 早く……早く離れて……! 奴は……奴の『目』は、もうすぐそこに……っ!!」その言葉と同期するように、ルシエラの魂もまた凄まじい悪寒に震えた。







