ログイン天界最高位の天使ルシエラは、禁忌の悪魔を己の魂に封印し、堕天使となって命を落とした。それから数年。彼女は記憶を失い、不吉な「黒翼」を持つ公爵令嬢として異世界に転生する。家族から疎まれ孤独に育った彼女だが、魂に刻まれた「悪魔への殺意」だけは消えていなかった。やがて入学した学園で、聖女として崇められる宿敵と再会した時、記憶なき堕天使の、本能に導かれた復讐劇が幕を開ける。
もっと見る光に満ちた天界が、その日、地獄の業火よりも惨烈な悲鳴に包まれていた。
惨劇の引き金は、あまりにも愚かなひとりの天使の驕りだった。より強大な聖魔術を求めた末、異界の禁忌である『寄生悪魔』と密かに契約を結んだのだ。 だが、悪魔は制御などできる存在ではない。契約者を肉体ごと内部から貪り食った悪魔は、その可憐な姿と純白の翼を「皮」として被り、天界の深部へと侵入。信じ切っていた仲間たちの背後から、次々とその神聖な魂を喰らい尽くしていったのだ。 崩壊する大聖堂の隅で、ひとりの小さな下級天使が恐怖にガタガタと震えていた。 その頭上へ、巨大な異形と化した悪魔の禍々しい爪が容赦なく振り下ろされる。 「逃げなさい!」 疾風のごとく割り込んだのは、天界最高位の天使――ルシエラだった。 彼女は下級天使を背中に庇い、その身で悪魔の凶刃を受け止める。 「ルシエラ様……っ!?」 「行きなさい、早く!」 怯える下級天使を後方へ逃がすと、ルシエラは血を吐きながら聖剣を引き抜いた。 悪魔は無数の天使を喰らい、巨大化している。浄化の光すら餌とするこの化け物を滅ぼす術は、今の天界には存在しない。 (ならば――私の魂を『檻』とするまで!) ルシエラは一切の迷いなく、悪魔の心臓部――蠢く「核」に向かって飛び込み、聖剣を突き刺した。 「お前も一緒に……連れていくッ!!」 「グアアアッ!? な、何をする!! 我をその身に宿せば、お前の純潔な魂は永久に汚されるぞ!」 脳内に響く悪魔の狂叫。 ルシエラは激痛に歯を食いしばり、悪魔の巨大な存在を己の内に封印していく。 彼女の背に生える眩い『純白の翼』が、悪魔の毒と穢れを抑え込む「檻」となったことで、根元からじわじわと夜空のような漆黒へと染まり変わっていく。 穢れを宿し、堕天使となった彼女の身体は、すでに限界を迎えていた。 さらに悪魔の猛烈な悪意は、ルシエラの魂から「記憶」を引き剥がし、喰らい荒らしていく。 「くっ……あぁぁぁッ……!」 絶望の渦中、封印の隙間を突き、悪魔の破片が一筋、下界へと逃げ延びていくのが見えた。 (逃がす、ものか……!) 天界の清浄さに拒絶され、黒い羽を散らしながら命の灯火が消えていく。 肉体の死を迎え、魂が転生していくその最期の一瞬―― ルシエラは魂の底に、消えぬ『殺意』と『決意』だけを強く刻み込んだ。 (あの化け物を……この手で……完全に、滅ぼす……――) 最高位の天使は命を落とし、記憶を奪われた魂は、異世界の人間として産声をあげることとなる。 ◇ ――静寂に包まれた豪華な分娩室に、生まれたばかりの赤子の甲高い産声が響き渡る。 「生まれましたわ! おめでとうございます、公爵様、奥様!」 幾人もの熟練の助産師たちが手際よく赤子を布で包み、恭しく公爵のもとへ差し出した。公爵は感極まった面持ちで我が子を受け抱き、愛おしそうにその頭を撫でる。 「おお……生まれたか! 私たちの子供だ!」 助産師が「なんと美しいお髪でしょう」と溜息を漏らす。 「綺麗な銀髪だ……! おお、俺に似たのかな!」 「ふふ、見せて頂戴。……きっと私に似たのよ。ほら、目の色だって……え?」 ベッドに横たわる妻が愛おしそうに手を伸ばし、赤子の顔を覗き込んだ、その時だった。 赤子が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、重い瞼を開いた。 ふたりの髪は、輝くような銀髪。 ふたりの瞳もまた、澄み渡る銀色。 しかし――赤子の瞳は、銀ではなかった。 月光を浴びた宝石のように、深く、禍々しいまでに鮮烈な深紅に染まっていたのだ。 「……な、なんだ、その瞳は……っ!?」 「ひっ……!?」 公爵の言葉が引きつり、側に控えていた助産師たちが短い悲鳴を上げて後退る。部屋の空気が凍りついた、まさにその瞬間。 ――ドドッ……!! 赤子の小さな身体から、狂暴なまでに膨大なマナが一気に溢れ出した。 不吉な赤と漆黒が混ざり合った魔力の奔流が破裂するように吹き荒れ、壁飾りの絵画や高級な調度品を粉々に打ち砕く。バリバリと空気が悲鳴を上げ、紫電のような衝撃波が豪奢な室内を穿った。 「きゃあぁぁぁッ!?」 「公爵様、お危険です!」 悲鳴を上げて縮こまる助産師たちを背にかばい、公爵は顔を歪めた。 「くっ……!? なんだこの莫大なマナは……っ! 抑え込め、早く!」 己の魔力を全開にして赤子の威圧を押し戻そうとする。 「そんな……赤ちゃんが、こんな魔力を持つなんて……! ああぁっ!」 妻も青ざめた顔で必死に手を掲げ、ふたりがかりで赤子を包み込むように魔力の障壁を張り巡らせた。 激しい風と雷鳴のような魔力の衝突が、しばらくの間、広々とした部屋中を荒らし回る。 嵐のような猛威と引き換えに、ふたりの身体からはダラダラと冷や汗が吹き出していた。 ……やがて。 ピタリと、溢れ出ていたマナが収まった。 嵐が去った後の部屋は、まるで戦場だった。豪華な壁紙はズタズタに引き裂かれ、天井には亀裂が走り、窓ガラスは木っ端微塵に吹き飛んでいる。助産師たちは腰を抜かしたままガタガタと震えていた。 荒い息を吐きながら、公爵と妻は恐る恐る抱えられた赤子へと視線を落とした。 赤子はすでに何事もなかったかのように静かに眠っている。 だが――ふたりは息を呑み、絶句した。 さっきまで助産師たちも称賛していた美しい銀髪は跡形もなく消え失せ、夜の闇をそのまま切り取ったかのような、禍々しい漆黒の髪へと染まり変わっていたのだった。「――それから、最後にひとつ」漆黒のマナが渦巻く謁見の間で、ルシエラは青ざめた公爵夫妻を見下ろしながら、まるで鈴を転がすような冷ややかな声で付け加えた。「今日の出来事、そして私の存在について……外へ口外しないと約束してちょうだい。もし変な噂を立てたり、私を害しようと他国の刺客や教会を利用しようとしたら……その時は、この屋敷ごとヴァルハイトの血脈を跡形もなく消し去ってあげるわ」「ひ、ひぃぃっ……! や、約束する! 誓う、誓うから命だけは……っ!」アレクシスは床に頭を擦り付け、惨めに命乞いをした。エレノア夫人も泡を吹かんばかりに恐怖し、ただガタガタと震えることしかできない。自分たちを脅し、屈服させたルシエラは、何事もなかったかのようにすっと翼を収めると、マルタの手を優しく取った。倒れ伏す騎士たちと恐怖に震える公爵夫妻を置き去りにし、二人は悠然と謁見の間を後にしたのだった。◇これまで「離れ」に隔離されていたルシエラが、堂々と本邸の廊下を歩く姿は、屋敷の使用人たちにあまりにも大きな衝撃を与えた。本邸で働く若いメイドたちの多くは、これまで噂でしか「忌み子」の存在を知らなかった。不吉な悪魔、化け物、呪われた子供――大人たちからそう聞かされて育った彼女たちの前に現れたのは、その想像をあまりにも鮮やかに裏切る少女であった。廊下の光を吸い込んで艶やかに輝く、夜空のように深い美しい黒髪。透き通るような白い肌と、夕焼けの宝石を閉じ込めたかのように高貴で澄み渡る深紅の瞳。その姿は、忌むべき化け物などではなく、まるでどこかの国の高貴な王女そのものだった。「……ねえ、あのお方が『離れ』のルシエラ様……?」「なんて綺麗なお方なの……! あんなに美しい黒髪、見たことがないわ」「瞳の赤さも、まるでおとぎ話に出てくる宝石みたい……」すれ違う若いメイドたちが、思わず足を止めて頬を染め、ルシエラの見とれるような美しさに見惚れて吐息を漏らす。恐怖や嫌悪ではなく、純粋な憧憬と賛美の視線が、ルシエラへと向けられていた。その様子を隣で歩くマルタは、誇らしげに胸を張って見つめていた。(ふふ……どうかしら! ルシエラ様はこんなにも美しくて、賢くて、気高いお方なのよ!)これまで自分の娘のように慈しみ、愛情を注いで育ててきた少女。冷たい陰口に晒さ
謁見の間には、重苦しく不快な緊張感が立ち込めていた。ヴァルハイト公爵アレクシスは、豪奢な玉座の上でイライラと貧乏揺すりを続けていた。彼の胸を焦がしていたのは、焦燥と、そして何よりも浅ましい「保身」であった。(なぜだ……なぜ、あのお方たちが揃いも揃って、あの『忌み子』のことを知っているのだ……!?)ここ数年、アレクシスの元には聖教会のオーガスト枢機卿から、そして第一王子であるライネルから、遠回しにルシエラの安否や近況を尋ねる不快な書簡がしつこく届いていたのだ。隠し通してきたはずの忌み子の存在が、なぜ外部の要人に察知されているのか。もし今さらルシエラの存在やその価値を正式に認めてしまえば、これまで自分が実の娘に対して行ってきた冷酷な仕打ち、地下保管庫への隔離や不当な放置が明るみに出てしまう。公爵としての地位も名誉も失墜しかねない。(あの女の瞳……あんな『無』の瞳で透視されるような感覚、思い出すだけでも虫唾が走る……! あの生まれた瞬間の暴走……あの化け物の悪夢を、忘れてなるものか!)赤ん坊の頃に見た、邸宅を揺るがした漆黒のマナの暴走。それがアレクシスの深いトラウマとなっていた。ルシエラが良い子であるはずがない。価値などあるはずがない。すべてを揉み消し、己の身を守るためには、今すぐ彼女を「マナが暴走して手に負えなくなった」とでも言い訳し、辺境へ永久追放するしかなかったのだ。「……ルシエラ。お前を『黒の修道院』へ移送する。今日限りでヴァルハイトの名を捨て、二度と我らの前に姿を現すな」冷酷な宣言に、マルタが思わずルシエラの前に躍り出た。「公爵様! あまりにも酷すぎます! ルシエラ様は何も悪いことをしていらっしゃいません! 12歳の少女をそんな恐ろしい場所へ追いやるなんて……!」「黙れ、下賤な使用人が!」必死に言葉で抵抗するマルタに対し、追い詰められたアレクシスは顔を真っ赤にして叫んだ。「これ以上の抵抗をするならば、容赦はせん! 騎士たちよ、その生意気なメイドごと制圧せよ!」騎士長たちが一斉に鞘から剣を抜き放ち、ギラリと光る刃がマルタへと向けられる。マルタは恐怖に身体を震わせながらも、両手を大きく広げ、ルシエラの盾となるように庇い立った。「ルシエラ様には……指一本触れさせません……!」その健気な背中を見つめ、
木漏れ日が窓からやわらかく差し込む離れの小さな部屋。テーブルの上には、マルタが手際よく淹れた温かいハーブティーの湯気が立ち上り、甘く爽やかな香りが広がっていた。「……う、美味い……っ」木製の安っぽいカップに口をつけたライネルは、素直な感嘆の声を漏らした。王宮で最高級の茶葉ばかりを嗜んできた王子であったが、マルタの淹れたハーブティーには、心を芯から解きほぐすような不思議な温もりと優しさが満ちていたのだ。「ふふ、お口に合って良かったです、ライネル殿下」マルタが温かく微笑むと、向かいに座るルシエラも嬉しそうに目を細めた。「でしょう? マルタの淹れるお茶は世界一なのよ」昨夜の幻想的で恐ろしいまでの神聖さはどこへやら、今のルシエラはごく普通の、可憐で賢い8歳の少女そのものだった。自分の知る貴族の令嬢たちのような高慢さや気取った仕草は一切なく、かといって世間知らずの幼さもない。その自然体な佇まいに、ライネルの緊張も少しずつ解けていった。「……昨夜は、その……いきなり押し掛けたりして、本当にすまなかった」ライネルが耳まで真っ赤にしながらカップを見つめて謝罪すると、ルシエラは少しだけ申し訳なさそうな顔をして、小さな首を横に振った。「ううん、私の方こそごめんなさい、ライネル君。実はね……私もすごくびっくりしていたのよ。まさかあんな時間に、あんな場所に人が来るなんて思っていなかったから」「えっ……びっくり、していたのか……? あんなに落ち着いていたのに……?」「顔に出なかっただけよ」ルシエラは悪戯っぽく笑うと、隣に立つマルタと視線を交わした。「それにね……昨日のあなたの様子がなんだかあまりにも一生懸命で、面白かったものだから……仕事から帰ってきたマルタに、面白おかしくお話ししてしまったの。二人で笑い話にしてしまって……ごめんなさいね。いけないことだわ」「なっ……! いや、いい! いいんだ!」ルシエラから素直に謝られ、さらに「面白かった」と微笑まれたライネルは、恥ずかしさで爆発しそうになりながらも、ぶんぶんと手を振った。「僕があまりにも不躾で情けなかったんだから、笑われて当然だ! それに……君に嫌われていないと分かっただけで、僕は……すごく嬉しい」安堵から胸を撫で下ろすライネルの姿に、マルタもルシエラも思わずクス
必死な形相で給仕服の袖にしがみつき、半ば涙目で懇願してくる第一王子ライネル。マルタは困惑の汗を浮かべながら、必死に思考を巡らせていた。 (どうしましょう……。ここで突っぱねてしまったら、ライネル様は意地になって、今夜もまた一人でお忍びで湖や離れの周りを捜し回るかもしれないわ) そうなれば、本邸の護衛に見つかって大騒ぎになる危険性がある。何より、万が一にも公爵夫妻や他の貴族たちにルシエラの存在や、彼女が持つ恐ろしいほどに強大な「力」の秘密が漏れてしまっては元も子もない。 (ライネル様は我儘で感情的だけれど、根は一途で嘘をつくような方ではない……。ルシエラ様を化け物としてではなく、一人の特別な女の子として見ているのは確かだし、ここでしっかりお話しをして秘密を守ってもらう約束を交わした方が、今後のためにも安全かもしれないわね) 一通りのリスクを天秤にかけたマルタは、はぁと小さく優しく息を吐くと、しがみついてくる王子の手をそっと包み込んだ。 「……分かりました、ライネル殿下。ルシエラ様のもとへご案内いたします」 「ほ、本当か……!? 騙したりしないな!?」 「ええ、嘘などつきません。ただし、条件が一つございます。ルシエラ様のこと、そして昨夜見られたことの全てを、公爵様や他の大人たちには決して口外しないと……王家の名に誓っていただけますか?」 ライネルはゴクリと唾を飲み込むと、力強く何度も首を縦に振った。 「誓う! 王家……いや、僕自身の命と誇りに賭けて絶対に誰にも言わない! だから……会わせてくれ!」 「賢明なご判断です。では、私に続いて静かにお越しください」 ◇ 公爵邸の華やかな本館から少し離れた、木々に覆われた薄暗い森の奥。 そこにひっそりと佇む小さな古びた離れへと、マルタはライネルを導いた。 本邸の絢爛豪華な建築とは程遠い、あまりにも質素で手狭な建物。ライネルは驚きに目を見開いた。 (本当に……こんな寂しい場所に住んでいるのか……? 公爵家の血を引く娘だというのに……) 噂されていた「忌み子」「隔離」という言葉の真実が、その建物の佇まいだけで痛いほど伝わってきて、ライネルの胸はキュッと締め付けられた。 マルタが離れの重い木扉を静かに開け、室内へと声をかける。 「ルシエラ様、戻りましたよ。……お