LOGIN翌日の午後。 重々しい鉄製の門をくぐり、ライネルとルシエラを乗せた馬車は、ヴァルハイト公爵家の広大な敷地へと足を踏み入れた。 かつては完璧に手入れされていた庭園は雑草が生い茂り、巨大な館は昼間であるにもかかわらず、まるで打ち捨てられた墓標のように不気味な死気を漂わせている。 馬車から降りた二人を迎えたのは、痩せこけ、身なりも乱れたアレクシス公爵だった。 「ル、ルシエラ……! ライネル殿下……ッ!」 かつての威厳など欠片もなく、アレクシスは涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、藁にもすがる思いでルシエラの前に膝をつき、そのドレスの裾にしがみついた。 「帰ってきてくれたのだな……! 頼む、助けてくれ! 館の使用人たちが、騎士たちが……みんな消えていくんだ! 私が悪かった、お前を冷遇した報いなのは解っている! だが頼む……助けてくれぇっ!」 プライドを完全に投げ捨て、惨めに命乞いをする父の姿。 ルシエラは冷ややかな、けれどどこか寂しげな眼差しでアレクシスを見下ろした。 その時――館の三階の窓が激しく開かれ、金切り声が響き渡った。 「来ないで! 誰も私に近づかないでぇぇっ! 狂っているわ、この家はみんな狂っているのよーッ!!」 狂乱した妻――ルシエラの母が、乱れた髪を振り乱しながら室内で調度品を叩き割っている。アレクシスは妻の叫び声にビクッと肩を震わせ、頭を抱えて縮み上がった。 「……ライネル君。館の雰囲気が、おかしいわ」 ルシエラが小さく呟いた。 大天使としての彼女の感性が、館全体を包み込む目に見えない重苦しい違和感を正確に察知していた。表面上はただの廃れた屋敷に見えるが、空間の奥深くに粘着質な悪意がこびりついている。 「ああ。警戒を怠るな、ルシエラ」 ライネルは神聖剣『アルヴァ=クレイド』の柄に手をかけたまま、ルシエラと共に静かに館の内へと足を踏み入れた。 ◇ 静まり返った館の廊下。 足音だけが空虚に響き渡る中、二人は慎重に手分けをして散策を進めていた。 豪奢な絵画や調度品には埃が被り、人っ子一人いない広大な空間。 二階の奥、かつて執事室として使われていた部屋の前に差し掛かったその時――廊下の曲がり角の「暗い影」から、不自然な黒い揺らめきが立ち上った。 「……ッ!? ライネル君、あそこよ!
夏光の弾けるプールでの一時を終え、自室へと戻っていたルシエラ。 濡れた髪を拭いながらデスクへ向かうと、そこには一枚の封書が置かれていた。 「お嬢様。先ほど、ヴァルハイト公爵家より親書が届きました」 マルタの低く落ち着いた声に、ルシエラは手を止めた。 実家――ヴァルハイト公爵家からの手紙。 かつて自分を冷遇し、事実上の追放同然に学園の寮へと追いやった父アレクシスからの便りなど、一体いつ以来だろうか。 ルシエラは封を切り、中に納められていた羊皮紙を広げた。 そこに躍っていたのは、かつての威厳ある筆致とは程遠い、震え不揃いな文字だった。 『ルシエラへ。 突然の手紙を許してほしい。……今、館で不可解な事態が起きている。使用人や護衛たちが次々と失踪し、ついに私と母、そして二人のメイドを残すのみとなってしまった。 私が今までお前になしてきた暴言と冷遇、許されるとは思っていない。だが……頼む。一度だけでいい、館へ帰ってきてはくれないだろうか。情けない父親の、最後の願いだ』 手紙を読み終えたルシエラは、静かに吐息を漏らした。 (お父様が……私に助けを求めるなんて) かつてあれほど高慢で、自らのプライドと公爵家の威信だけを誇っていた父が、ここまで言葉を低くして乞うてくる。その文面からは、公爵家の没落と、彼自身が恐怖に追い詰められている凄惨な現状が痛いほど伝わってきた。 「お嬢様……如何なさいますか?」 マルタの問いかけに、ルシエラは窓の外の澄み渡った夏空を見つめた。 自分を裏切り、傷つけてきた家族。 見捨ててしまえばいい、自業自得なのだと切り捨てることもできた。だが――今のルシエラには、大天使としての記憶と誇りがある。 「行くわ、マルタ。……見過ごすわけにはいかないわ」 「かしこまりました。ただちにご同行の準備を整えます」 ◇ その日の夕刻、ルシエラは事の顛末を伝えるため、学園の中庭でライネルと落ち合った。 手紙の内容を読んだライネルは、険しい表情で眉間を寄せた。 「ヴァルハイト公爵家で、人が次々と失踪している……?」 「ええ。お父様からの悲痛な叫びのような手紙だったわ。……私に帰ってきてほしいと」 ライネルの頭の中で、これまで感じていた「違
平穏を取り戻した特別魔導Sクラスの女子寮。 早朝の爽やかな光が差し込む自室で、私は鏡の前に立ち、整えられた制服の襟元を手指で丁寧に直していた。 背後では、マルタがいつもの完璧な所作で温かい紅茶を準備している。 「お嬢様、本日のお茶はダージリンでございます。お召し上がりください」 「ありがとう、マルタ」 カップを受け取り、一口含む。甘く爽やかな香りが鼻腔を抜け、心が静かに落ち着いていく。 マルタの表情にも、私を気遣ういつもの温かな眼差しが戻っていた。あの悪魔の洗脳に毒され、虚ろな目をして私やエルミナに従っていた頃の痕跡は、どこにも残っていない。 (……本当に、終わったのね) 目を閉じ、体内のマナの巡りを確かめる。 魂の最奥に渦巻いていたあの不快で粘着質な悪魔の澱みは、跡形もなく消え去っていた。大天使としての気高く清廉な光が、私の胸の中で静かに、けれど力強く脈動している。 前世の記憶と、今世の私――ルシエラ・ヴァルハイトとしての意識。 二つの私が完璧に調和し、かつてのような混乱も拒絶反応ももう起きない。 旧聖堂でライネル君が掲げた『覚醒の聖鈴』の清らかな音色と、その手に握られた秘剣の閃光。あの瞬間、私を縛り付けていた漆黒の鎖は完全に断ち切られたのだ。 「マルタ、今日のエルミナの様子はどうかしら?」 「はい。エルミナ様はまだ少しショックが抜けきらないようで、本日も授業はお休みされるとのことです。……ですが、体調自体は順調に回復なさっているようでございます」 「そう……良かったわ」 私は静かにカップを置いた。 エルミナ自身もまた、悪魔にその身体と純粋な心をいいように利用されていた被害者に過ぎない。悪魔が体内から引き剥がされ、消滅した今、彼女はただの大人しく優しい少女に戻っている。 本来なら、私のことを「大好きな友人」として慕ってくれていた彼女。 悪魔の手によって歪められ、私を甘美な地獄へと引きずり込もうとしたあの悪夢のような日々を思い出すと、今でも胸がキュッと締め付けられるような痛みを覚える。 (でも、もう大丈夫。これからは、私がエルミナを守ってあげなければ……) 学園の気配は、どこまでも澄み渡っていた。 悪魔が伏魔殿のように変えようとしていたこの学校も
平穏を取り戻した特別魔導Sクラスの女子寮。 早朝の爽やかな光が差し込む自室で、私は鏡の前に立ち、整えられた制服の襟元を手指で丁寧に直していた。 背後では、マルタがいつもの完璧な所作で温かい紅茶を準備している。 「お嬢様、本日のお茶はダージリンでございます。お召し上がりください」 「ありがとう、マルタ」 カップを受け取り、一口含む。甘く爽やかな香りが鼻腔を抜け、心が静かに落ち着いていく。 マルタの表情にも、私を気遣ういつもの温かな眼差しが戻っていた。あの悪魔の洗脳に毒され、虚ろな目をして私やエルミナに従っていた頃の痕跡は、どこにも残っていない。 (……本当に、終わったのね) 目を閉じ、体内のマナの巡りを確かめる。 魂の最奥に渦巻いていたあの不快で粘着質な悪魔の澱みは、跡形もなく消え去っていた。大天使としての気高く清廉な光が、私の胸の中で静かに、けれど力強く脈動している。 前世の記憶と、今世の私――ルシエラ・ヴァルハイトとしての意識。 二つの私が完璧に調和し、かつてのような混乱も拒絶反応ももう起きない。 旧聖堂でライネル君が掲げた『覚醒の聖鈴』の清らかな音色と、その手に握られた秘剣の閃光。あの瞬間、私を縛り付けていた漆黒の鎖は完全に断ち切られたのだ。 「マルタ、今日のエルミナの様子はどうかしら?」 「はい。エルミナ様はまだ少しショックが抜けきらないようで、本日も授業はお休みされるとのことです。……ですが、体調自体は順調に回復なさっているようでございます」 「そう……良かったわ」 私は静かにカップを置いた。 エルミナ自身もまた、悪魔にその身体と純粋な心をいいように利用されていた被害者に過ぎない。悪魔が体内から引き剥がされ、消滅した今、彼女はただの大人しく優しい少女に戻っている。 本来なら、私のことを「大好きな友人」として慕ってくれていた彼女。 悪魔の手によって歪められ、私を甘美な地獄へと引きずり込もうとしたあの悪夢のような日々を思い出すと、今でも胸がキュッと締め付けられるような痛みを覚える。 (でも、もう大丈夫。これからは、私がエルミナを守ってあげなければ……) 学園の気配は、どこまでも澄み渡っていた。 悪魔が伏魔殿のように変えようとしていたこの学校も
悪魔が滅び、学園を覆っていたねっとりと甘い不快な気配は完全に消え去っていた。通り過ぎる生徒たちの表情にはかつての理性が戻り、何事もなかったかのように平穏な日常の会話を交わしている。 洗脳から解放されたマルタも、いつもの完璧で毅然とした佇まいに戻り、ルシエラの身の回りの世話をそつなくこなしていた。 すべてが元通りになった――そう見える光景の中、ライネルはルシエラと共に中庭へと続くテラスを歩いていた。 「……ライネル君」 ふと、隣を歩くルシエラが足を止め、静かに声をかけてきた。 ライネルも歩みを止め、振り返る。 夕日を浴びるルシエラの深紅の瞳には、かつての凛とした知性と気品が戻っていた。そこに洗脳されていた頃の虚ろな濁りは一切ない。 「どうしたんだい、ルシエラ?」 「あのね……少し、謝らなければいけないことがあって」 ルシエラは少しだけ視線を泳がせ、気まずそうに頬を染めた。洗脳されていた時のことを思い出しているのか、その手は制服のスカートの端をそっと握りしめている。 「謝る? 僕に何か謝るようなことなんて、君にはないと思うけれど」 「いいえ、あるわ」 ルシエラは少し背筋を伸ばし、本来の公爵令嬢らしい優雅で、けれど少し強がりな口調で言葉を続けた。 「旧聖堂で正気を取り戻した時……私、貴方のことを『ライネル』って、呼び捨てにしてしまったでしょう? あれは……その、大天使としての記憶と前世の我が一気に表面に出てしまっていたからなのよ。……いくら前世の記憶があるとはいえ、今の私はヴァルハイト公爵家の令嬢だし、貴方はこの国の第一王子だもの。無礼な口聞きをしてしまって、申し訳なかったわ」 真面目な顔で頭を下げようとするルシエラを見て、ライネルは思わずくすりと口元を緩めた。 「そんなことか。気にする必要はないよ。あの状況だ、むしろ君の意志がはっきりと戻った証拠でもあったんだから。それに、僕としては呼び捨てにされたからといって不快に思うようなことは何一つなかった」 「でも、ダメよ」 ルシエラはきっぱりと首を振った。 「線を引くべきところは、しっかり引きたいの。だから……これからも変わらず、貴方のことは『ライネル君』って呼ばせてちょうだい。その方が……私にとっても、しっくり来るの」
澄み切った高音の鈴の音が、旧聖堂の朽ちた天井へとどこまでも響き渡る。 チリーン――――――ッ!! その音波が放たれるたび、空間を覆っていたねっとりと甘い魔力がガラスのように爆ぜ、砕け散っていった。 「あ……あぁぁぁぁっ……!!」 頭を強く抱え込み、石畳の上に激しく伏せたルシエラが、絶叫を上げる。 脳裏の奥底、漆黒の泥によって深く深く沈められていた記憶の濁流が、堰を切ったように溢れ出していた。 雲の上にそびえ立つ白銀の宮殿、かつて引き裂かれた十二枚の翼、そして何よりも――愛おしい友人だと思い込まされていた少女の手によって、己の誇りも矜持も踏みにじられ、惨めに堕とされていった真実。 (私は……大天使ルシエラ……! 悪魔の膝元で、一体何を……っ!?) 深紅の瞳に宿っていた虚ろな濁りが完全に弾け飛び、かつての冷徹で不屈な光が、圧倒的な神聖魔力とともに一気に再燃する。 「ライネル……ッ!」 ルシエラが立ち上がり、その手が強く握りしめられる。自らの意志で覚醒を果たした大天使の顕現――完全なる呪縛からの解放だった。 「な……なにを……何をしているの……ルシエラちゃん……!?」 聖鈴の音波を受け、耳を押さえて顔を歪めていたエルミナが、取り乱した声を上げる。 だが、その声の重層には、すでに人間の少女のものではない、おぞましい重低音が混ざり込み始めていた。 「よくも……よくも余の創り出した美しき箱庭を破ってくれたな……王子ライネル……ッ!!」 エルミナの華奢な背中から、どす黒い怨念の塊が噴き出した。 無垢な少女を依代としていた「悪魔」本体が、聖鈴と神聖剣の波動に耐えかね、ついにその正体を露わにしてエルミナの身体から引き剥がされていく。 空中へ逃れ出たのは、無数の目と牙を持つ、どろどろとした巨大な漆黒の影だった。 「逃がすか――ッ!」 ライネルは迷いなく地面を蹴った。 手にした神聖剣『アルヴァ=クレイド』が、白銀の眩い光を解き放つ。父から託された王家の秘剣と、ライネル自身の不退転の意志が重なり合い、最上の破邪の刃と化す。 「我が剣よ、悪しき幻影を滅ぼせ!!」 一閃。 白銀の閃光が暗闇を真一文字に切り裂いた。 「ギィアアアアアアアアッ……!? 聖なる……光……が……っ!!」 『アルヴァ=クレイド







