All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

清子は正規にデザインを学び、これまでに六年に及ぶ実務経験も積んできた。一次選考を通過するのは、特に難しいことではなかった。それでも、江川グループ人事部から電話がかかってきたとき、彼女は思わず胸を撫で下ろした。「かしこまりました。必ず、二次面接に伺います」電話を切ったあとも、しばらく余韻のように安堵が残っていた。本当は、江川に履歴書を送ること自体、迷っていた。けれど、待遇は業界トップクラス。しかも、今の自分にこれほど条件の合うポストは、そう簡単に見つからない。――何より、今の彼女にはお金が必要だった。宏がすでに山名に頼んで、母の転院や手術、入院費まで手配してくれている。それでも、心臓病は退院して終わりではない。長い療養期間が必要で、これから先も出費は続く。どこを切り詰めても、結局は金がかかる。だからこそ、彼女は賭けるしかなかった。江川のトップである宏が、この程度のポジションにまで口を出すことはない――と。「……清子」電話を終えて病室に戻ると、目を覚ましたばかりの母が、申し訳なさそうに彼女を見つめた。「……全部、お母さんのせいね。あなたに、こんな苦労させて……」「お母さん、何言ってるの?」清子は胸がきゅっと締めつけられ、視線を落として瞬きを繰り返した。「私を育てるの、大変だったでしょ。でも、お母さんは一度でも、私のこと重荷だって思った?なのに、どうして今さら、そんなこと言うの……」母は彼女の手を握り、何度も言い淀んでから、ようやく口を開いた。「……ねえ、正直に言って。この手術代……どこから出たの?どうして、急にそんな大金が……」「お母さん!」清子は、母の言外の不安を察して、慌てて顔を上げた。「心配しないで、私は決して後ろめたいことなんてしていない。ただ……ありがたいことに、力になってくれる恩人と出会っただけよ。」ある意味で言えば、宏は確かに彼女にとって恩人だった。そうでなければ、今ここで胸を張って否定することすらできなかった。「……本当?」「本当だよ」清子は強くうなずき、苦笑した。「もう、何考えてるのよ……」「……それなら、よかった」母はようやく安堵したように息をついた。「じゃあ……その人って、どんな人なの?」「その人は……」清
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第492話

「引っ越す、引っ越すってば!」来依は朝食そっちのけで立ち上がり、ちゃっかりした笑顔を浮かべた。「服部様、太っ腹すぎてありがたいわ~感謝感激っ!」「感謝は結構」鷹が意味深に口を開く。「海人との結婚祝いだと思えばいい。先に渡しといただけだ」「……は?」来依が固まった。「???」私もポカンとして、すぐに来依の方を向く。鷹が無駄口を叩く人じゃないって、私は知ってる。「……来依?え、菊池くんと何かあったの?どういうこと?」大事な親友の恋バナを、私が鷹より遅れて知るなんて……ありえないでしょ?来依は咳払いして、視線を逸らす。「ち、違うってば。そんなのじゃないから」――そもそも、全然落とせてないし!鷹はすぐ察したように笑う。「海人、手強いだろ?」「……それ、本人が言ったの?」「昨日、完夫がうちに来てさ。朝まで飲んでた」つまり、全部完夫経由。「……」来依は一度ぎゅっと目を閉じた。「……何もないよ。ちゃんと線は引いたし」私は即ツッコむ。「ってことは、何かあった時期はあったってこと?」「……」来依は頭をかき、観念したように座り直した。「まだまだ先だよ。今は私が一方的に、ちょっとその気なだけ」「二人で話せ、俺は会社に行く」鷹はそう言って立ち上がり、私の額に軽くキスを落とすと、鍵を取って出ていった。その背中を見送りながら、来依はぶつぶつと文句を言う。「親友奪ったうえに、毎日イチャイチャ見せつけて!ほんと最悪!」ドアが閉まった瞬間、ようやく本音モード。私はくすっと笑いながら、じっと彼女を見る。「……本気で菊池くんのこと、好きになった?」「……まあ、そこそこかな」鷹がいなくなると、来依の口調も少し素直になった。「ただの反発心理だと思う。あの人が距離取ろうとすればするほど、逆に試したくなるっていうか」「でも……」私は彼女のこれまでを思い出しながら、真剣に言った。「来依が楽しくいられるなら、何を選んでもいいと思う」来依は少し意外そうに首を傾げた。「……心配じゃないの?もし私と菊池が拗れたら、あんたと服部にも影響出るかもしれないよ?」だって、あの二人は子どもの頃から一緒に育った仲なのだから。「そんなの気にしないよ」私は
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第493話

高橋さんの孫が熱を出してしまい、この日は病院へ付き添うために休みを取っていた。家の中は、夕焼けの余韻に包まれて、驚くほど静かだった。――静かすぎて、彼の鼓動まで聞こえてきそうなほど。絡みつくような空気が、蔦のようにじわじわと迫ってくる。私は息が詰まりそうになり、彼の胸をそっと押した。「……お腹、空いてるでしょ。私、ごはん作ってくるね……」「空いてる」鷹の褐色の瞳に、熱を帯びた光が揺れた。次の瞬間、長くて力強い手が、私の後頭部にそっと添えられる。逃がさない、と言わんばかりに。身体が、静かに引き寄せられた。距離が詰まりすぎて、心臓が追いつかない。ミントの爽やかな香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。低く落とされた声が、耳元で囁いた。「……でも、飯じゃない」そう言った瞬間、唇が重なる。熱を帯びた吐息と一緒に、電流みたいな感触が走った。何度も、何度も。荒っぽくて、切羽詰まったみたいで。まるで、私を全部飲み込もうとするみたいに。やがて満足できなくなったのか、彼の手がワンピースのファスナーに伸びる。躊躇なんて、欠片もない。ひんやりした指先が触れた瞬間、私はびくっと震えた。感覚が、異様なほど研ぎ澄まされる。キスは止まらない。空気すら、薄くなっていく。私は無意識に、少しずつ後ずさった。倒れかけたその瞬間――「……ふ」低い笑い声。腰を抱き寄せられ、視界が反転する。次の瞬間には、ソファに押し倒されていた。……全部、わかってしまうほどだった。私は潤んだ目で彼を見上げ、わざと軽く言った。「鷹?昼間から、不法侵入でセクハラ?」「違う」彼は私の目尻にキスを落とし、指を髪に絡める。「正当な、彼氏の権利行使」私はくすっと笑った。「でもさ、彼氏でも……相手の同意は必要でしょ?」「じゃあ」彼は楽しそうに目を細める。「俺の奥さん、どう思う?」「誰があんたの奥さんよ!」プロポーズのひとつもなく、勝手に呼ばないでよね。「じゃあ……未来の奥さんなら?」「……私は――」そう答えかけた、その瞬間。――ぐぅ。お腹が鳴った。最悪のタイミング。昼はリンゴ一個で済ませていたことを、思い出す。鷹は視線を落とした。「……欲
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第494話

鷹が鼻で笑った。「南。お前、自分が俺の人生からどれだけ消えてたか、わかってる?」「どれくらい?」「見つける前の年月は除外な」鷹は間髪入れず、どこか清々しいほどの傲慢さで言い切った。「758日だ。その758日で、俺はもう昔の俺じゃねえ」少し胸が熱くなりかけた、その瞬間。私はゆっくり、眉を上げるだけの返事をした。「……うん?」「俺、今は料理できる」そう言って鷹は顎をすっと上げ、私をソファに押し戻す。「黙って待ってろ。すぐメシだ」言い捨てるようにして、キッチンへ入っていった。私は背もたれに身を預けたまま、最初は少しだけ不安だった。けれどガラス越しに見える手つきは、驚くほど迷いがない。包丁も火加減も、やけに様になっていた。それなら、と。私はより楽な姿勢を探して、彼の動きを目で追う。胸の奥が、いっぱいになる。時間がこのまま止まってくれたらいいのに――そんなことを、真面目に思ってしまうくらい。白いシャツは仕立てのいい生地で、袖口は無造作に捲られている。骨の綺麗な手首、引き締まった前腕。シャツの裾はスラックスにきちんと収まっているのに、さっきの名残で所々に皺が走って、少しだけ乱れていた。それが妙に――鷹らしい。私の知っている鷹は、昔からずっと、こうだ。眩しいくらいに張りつめていて、自由で、勝手で。それでも結局、彼は彼のまま。見入っていたら、ふいに視界の前で指が揺れた。「……おい」意味深に目を細める。「……そんなふうに見られたら、先に味見したくなる」「……っ、ばか!」我に返った途端、頬が一気に熱くなる。鷹は楽しそうに口の端を上げた。「ほら。手ぇ洗って来い。飯だ」「うん!」漂ってくる香りに、胃がきゅっと鳴った。私は急いで手を洗って戻り、テーブルに着く。一汁三菜。どれも見た目からして、箸が止まりそうにない。「……この2年、料理学校でも通った?」「……黙って食え」鷹は横目で私を牽制しながら、香辛料の効いた海老をひとつ、私の皿に置いた。「ゆっくり食えよ。早食いは胃に悪い」「はーい」私は頷きながら、夢中で箸を動かした。食べ終わって、洗い物をしようと立ち上がる。「私やるよ。分担したほうがラクだし」けれど鷹は、
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第495話

鷹の背中が、ほんの一瞬だけ止まった。次いで喉の奥から、短い笑いが漏れる。蛇口の水音がざあっと響くなか、彼は手についた泡を洗い流し、水を切ってから振り向いた。そのまま私の腰を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。少し頭を垂れ、きらりと光る目で覗き込んでくる。頬をつままれ、指先の温度がじんわり移った。「南。俺が不安になるのは、自分がまだ足りないからだ。お前がどうこうしたせいじゃない」首に腕を回し、私はまっすぐ言った。「十分すぎるほど、ちゃんとやってる」「南……」親指が頬をなぞる。柔らかな触れ方なのに、目の奥を横切ったのは、はっきりした自責だった。「もし俺が本当にちゃんとしてたら……子どもの頃、お前が攫われることもなかった。二年前だって、親父に目の前まで来られて、江川のところへ戻れなんて、あんなふうに追い詰められることも、なかったはずだ」「私が攫われたとき、あなたはまだ子どもだったじゃない」見上げて、言い聞かせるみたいに続ける。「お父さんのことだって……結局、悪いのはあなたじゃない」指先が私の目尻に触れた。鷹の声が少し沈む。「でもさ。俺がもっと強ければ、起きなかった」人は弱いところを嗅ぎつける。強い相手には、最初から手を出そうとしない。あの頃の誘拐だって、二年前の脅しだって――もし私たちが「手を出したら終わりだ」と思わせるだけの力を持っていたなら、そもそも始まらなかったのかもしれない。私は腕に力を込めて抱きしめた。「じゃあ、一緒に強くなろう。鷹、あなたは一人じゃないよ」……藤原家の屋敷では、星華が苛立ちを抑えきれず、手近にあったカップを助手めがけて投げつけた。「役立たず!佐夜子がどれだけ売れてようが関係ないでしょ、大阪で祝賀会をやるのよ?うちが招待状一枚も手に入れられないなんて、どういうこと!」今回の祝賀会は、大阪の名士たちの視線を根こそぎ引き寄せていた。どの家に招待状が届き、どの家に届かないのか――それ自体が、格付けみたいになっている。藤原家がこの二年で多少勢いを落としたのは事実だ。それでも根が深い名家であることに変わりはない。星華は、佐夜子が大阪に来たばかりで藤原家を外すはずがない、と高を括っていた。だからこそ、早い段階で吹聴していたのだ。――佐夜子のほうから「藤原
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第496話

追い出されるかどうかなんて、そんなのはもっと先の話だ。でも、南が戻ってきた瞬間から、藤原家の財産は、少なくとも半分は持っていかれる。……本来、あれは全部、自分のものだったのに。どうしてあの女に奪われなきゃいけない?星華の胸の奥で、どす黒いものが煮え立った。母は、そんな星華を見て、やれやれというように息をつく。「今さら怖くなったの?」「お母さんは怖くないの?」「怖がったところで、何か変わるの?」母の目に、ひやりとした光が宿った。まるで最初から腹を決めていたみたいに。「いい?ちゃんと言うことを聞きなさい。そうすれば……最後に手に入るものは、減るどころか、もっと増える。お母さんが約束する」「増えるって……?」星華は眉を寄せる。どこから、どう増やすというのか。母は、口元だけで笑った。その笑みは自信に満ちていて、目尻の皺にさえ計算がにじむ。「すぐに分かるわ」星華の肩から、力がすっと抜けた。「……もう、手は打ってあるの?」「ええ」「じゃあ、療養院のほうは……まだ何か細工する?」「しなくていい」母はきっぱり切り捨て、湯気の立つ茶を淹れ直して星華に渡す。「ちょっと腹が立ったからって、物を投げるなんて。相手に当たってケガさせるくらいならまだしも、逆上されてあんたがやられたらどうするの」星華は茶を一口飲み、顎を上げて笑ってみせた。「だって、家の中だもん」「そのくらいの分別はあるのね」母はようやく落ち着いた様子で、念を押す。「もう二度と、祝賀会の招待状なんて追い回さないこと。いい?みっともない」「分かった。お母さんの言うとおりにする」星華は素直に頷いた――表向きは。招待状が取れないなら、行かなきゃいい。どうせ外で待ち伏せして、佐夜子と写真でも撮れたら十分だ。あのうわべだけの仲良し連中に自慢するネタくらいにはなる。それに、佐夜子が藤原家に恥をかかせるはずがない。きっと名簿の整理が遅れてるだけで、届くのが人より遅いだけ。そうに決まってる。その頃。菅は、厳重に封をした書類袋を抱えて車を降りた。顔認証を通し、足早に佐夜子の家へ入っていく。袋の中身は、佐夜子が何日も待ち続けたDNA鑑定書だ。佐夜子は朝のランニングを終え、シャワーを浴びてから階
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第497話

前回は、身の上のことが絡んで、気まずいまま別れてしまった。だから京極さんから電話が来て、しかも自分からその話題を切り出されたことに、私は正直びっくりした。少し迷ってから、私はそのまま答える。「……玉のペンダントです。うさぎの形で、干支と同じで」受話器の向こうで、京極さんが息をのむ気配がした。「うさぎの……玉?」「はい」念を押して、私は続けた。「それ、小さい頃からずっと身につけてたんですけど……二年前に事故に遭って、その時になくしてしまって」言いながら、ふと疑問が湧く。「京極さん、どうして急にそれを?」「……」京極さんは、言葉を探すみたいに一度黙って――それから、慎重に切り出した。「今、時間ある?直接会って、話したいことがあるの」「……あります」少し考えて、私は頷いた。胸の奥で、妙な予感がしていた。京極さんが話そうとしているのは、たぶん私と深く関係している。「じゃあ……あなた、どこに住んでる?私が行ってもいい?」探るような声。「えっ」思わず声が出た。「大丈夫ですけど……麗景マンションなんです。雲宮よりは人目につきやすいので、私がそちらに伺った方が――」来依から聞いたことがある。売れてる人ほど、過激なファンに行動を嗅ぎつけられる。だから私生活は、できる限り伏せておくべきだって。けれど京極さんは、軽く笑った。「気にしなくていい。今から出るね。すぐ会おう」「……じゃあ、部屋番号、LINEに送ります」「うん」電話が切れて、私はしばらくスマホを見つめたままだった。――来るんだ。京極さんが、ここに。待っている間、もともと高橋さんがきれいにしてくれていた部屋を、私はさらに軽く整え直した。怜太は下の階に住んでいて、毎日のようにふらっと遊びに来る。行儀はいいけど、まだ小さな子だ。夢中になれば、どうしたって散らかる。絵本を一冊、本棚に戻したところで、チャイムが鳴った。私は足早にドアを開ける。そこに立っていた京極さんは、いつも通り綺麗で、でもどこか張りつめた雰囲気をまとっていた。「京極さん」私がそう呼ぶと、「南さん」京極さんの声が、ほんの少し震えた。手には、紙袋がふたつ。どちらもぎっしり膨らんでいる。「この前、好きって言って
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第498話

鷹の前では、私が清水南でも、藤原奈子でも、思いきり息ができる。肩肘を張らずに、笑って、泣いて、痛いほど正直になれる。そう口にした途端、京極さんがふっと黙り込んだ。サングラスを外した目元が、もう潤んでいる。笑おうとしているのに、唇の端だけが苦く歪んでいた。「結局ね……あなたの実の両親が、あまりに不甲斐なかった。だからあなたが、そんなに苦しまなきゃいけなかったの」「きょ、京極さん……どうされたんですか?」「南……」声が詰まる。京極さんはバッグから小さな箱を取り出した。蓋を開け、私に向ける。「……これ、あなたが失くしたものよね?」そこにあったのは、透きとおったうさぎのペンダント。見覚えがありすぎて、息が止まった。「……どうして、京極さんが……?もう二度と見つからないって……」言い終える前に、京極さんが私を強く抱きしめた。一瞬、頭が真っ白になる。でも、胸の奥で、ずっと避けてきた答えが、形になって迫ってきた。「京極さん……」「……もし、私が――」泣きそうな声が震える。「あなたの、その不甲斐ない母親だって言ったら……」テレビの向こうで誰より堂々としているはずの京極さんが、今は泣いて言葉にならない。しばらくして、ようやく腕がほどける。目は真っ赤だった。「今まであなたにしてあげられなかったこと、全部……埋め合わせさせてくれる?」頭の中に、爆弾を落とされたみたいだった。私はテーブルの上のペンダントを見て、それから京極さんを見た。指先が小さく震える。疑問が渦を巻いて、言葉が追いつかない。「……京極さん。冗談、ですよね?」「冗談なんかじゃないよ……」京極さんはティッシュを取り、やさしい目で、いつの間にかこぼれていた私の涙をそっと拭った。「南……確信してる。あなたは私の娘よ。だからなのね。初めて会った時から、妙に目が離せなかった」涙が、勝手に落ちてきた。止まらない。京極さんが夏美に向ける愛情を見て、私はずっと羨ましかった。いつか私にも、本当の母親が見つかったら――同じように、私のことを愛してくれるのかなって。それが、まさか。京極さんが、私の母親。運命って、ほんと意地が悪い。申し分ない生まれをくれたくせに、前半生をずたずたにしていった。だから私は
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第499話

「……誰のことですか?」「佐久間珠美、今は藤原珠美ね」――藤原星華の母だ。京極さんは頬の涙をぬぐい、自分を責めるように息を吐いた。「あのときは、珠美のほうが先に身ごもってた。でも早産になってね。結局、私たちは同じ日に産むことになったの」言葉を選ぶみたいに、京極さんは一度視線を落とす。「あのときは本当に、頼れる人もいなくて……あなたを連れて早く退院して、京極家とも藤原家とも関わらない場所へ行きたかった。でも……」喉の奥が震えた声で、続ける。「珠美の子は助からなかった。彼女は藤原家に入るために、看護師を買収して……私の子をあっちへすり替えたの」幼いころ、あの人が見せていた優しい母親の顔を思い出して、背中がひやりとした。「じゃ、じゃあ……そのとき、京極さんは……」「真夜中だった。急に看護師が、私の子を抱いて騒ぎ出して……そのまま救急で運ばれたの」京極さんは唇を噛み、声を落とす。「……私の手に戻ってきたときには、あのペンダントも消えてた」深く息を吸って、吐く。「私のせいよ。人を信じすぎた。看護師に問い詰めたら、返ってきたのは、『人の出入りが多くて、いつなくなったのか、わかりません』――そんな言葉だった。なのに私は、それを信じてしまったの」頭の中の謎が、半分だけほどけた。でも、もう半分が残っている。私は震える指先を握り込む。「……京極さんと藤原珠美って、どういう関係なの?」藤原珠美は、私のことを異様なほど憎んでいる。この世から消せるなら、きっと迷わずそうする――そんな確信さえあった。京極さんは苦く笑った。けれど、その目尻にはどこか安堵も滲む。「……彼女は私のいとこよ。もともと藤原家に嫁ぐはずだったのは、私だった」「……」「でも、藤原文雄が結婚前に浮気して……相手が珠美だった。妊娠検査の紙を私の目の前に突き出して、身を引けって言ってきたのよ」「……そしたら」私は思わず笑ってしまった。「京極さん、あっさり引いたでしょ」「その通り」京極さんは息を長く吐き出した。「でも、納得なんてできるわけないじゃない。全部を明るみに出してやろうとした。だけど、京極家は許さなかった。何があっても、珠美を守ろうとしたのよ」「……だからなんですね」私は腑に落ちた気がした。「
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第500話

精巧に整った怜太の顔を見つめていて、ふと思った。あのとき、怜太が私のことを「お姉ちゃん」って呼んだのを、わざわざ訂正しようとしたの、あれ、全然必要なかったなって。むしろ、余計だった。血縁でいえば、私はこの子の従姉にあたる。そう気づいて、なんだかおかしくて、でも笑いきれなくて。変な顔になったと思う。怜太は本当に人たらしだ。ぱちくりした目で京極さんを見上げると、にこにこと「おばさん!」と元気よく呼んだ。「ええ」京極さんは頷いて、彼の頭をそっと撫でた。怜太がおもちゃ部屋へ走っていってから、京極さんは香織に視線を戻した。「苗字は京極だけど……顔立ちはあなたに似てるし、愛想もずっといいわね」言外に、律夫――というか京極家の人間は、あまり「可愛げがない」と言っている。香織は気まずがるどころか、同じ気持ちの相手を見つけたみたいにぱっと表情を明るくした。「わかります!律夫って、石みたいにカチカチで……怜太までああなったら、私ほんと困ります」京極さんがくすっと笑う。事情を知っているからか、からかう声が混じった。「じゃあ、復縁は?」「しません」香織は即答して、思い出したように眉をひそめた。「一緒にいると、息が詰まるんです。自由がないし……それに、なんかずっと疑われてる感じがして」「どこを?」「……仕事のことです」香織は少し気まずそうに鼻先を指でこすった。「書斎で仕事してるとき、私が果物を持って入っただけで、書類をサッと隠すんですよ。私もわかってます、口出しする気なんてない。でも、警戒されてるって、地味にしんどいじゃないですか。まるで私が京極家の機密でも売るみたいに」わかる。すごくわかる。同じベッドで眠る相手に、そこまで線を引かれたら、どんな理由があっても胸は冷える。……その点、鷹は真逆だ。このところ、夜になると仕事をそのまま私の部屋に持ち込んで、私の机を当然みたいに占領する。書類は私の手稿と平気で混ざるし、私が「分けて置いて」と言えば、あの人は涼しい顔で――「俺は全部お前のもんだろ。見られて困るものなんてない」……ほんと、たちが悪い。ただ、律夫の置かれてる状況も性格も、鷹とはまるで違うってことは、私にもわかってた。京極さんは香織の前にお茶を置いた。「香織さん。それが原
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