All Chapters of 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私: Chapter 1101 - Chapter 1110

1111 Chapters

第1101話

「......わかった」成之は静かにうなずいた。「ほかに、何か伝えておきたいことはあるか?」光莉は少し考えてから、口を開いた。「......離婚届。曜に渡してほしいの。彼と、離婚するって伝えて」「離婚......?」成之の目に、一瞬だけわずかな喜びの色が浮かんだ。でもすぐに表情を引き締め、真剣な声で問いかける。「......本気か?」光莉はしっかりとうなずいた。「本気よ。前から離婚するつもりだったし、協議書を渡しておけば、私がしばらく消えてた理由にも説得力が出る。それと......私があなたと一緒にいたって、そう伝えて。私の意思で、あなたと一緒にいたって言えばいい。信じてもらえなくても、二日くらいしたら自分で話すから」今の成之にとって、光莉の言うことがすべてだった。彼は迷いなくうなずく。「......わかった。その通りに伝える。じゃあ、協議書の内容なんだけど......財産のこととか、何か希望はあるか?」光莉は首を横に振った。「いらない。沈家のものは何もいらない。私はもう十分手に入れてるし、お金にも困ってない。曜の財産なんて、欲しくないわ」「了解。じゃあ、普通の離婚協議書を用意して、それを一度確認してもらうってことでいいな?」「......うん」それだけ言うと、成之はスマホを取り出して、病室を出ていった。数分後、電話を終えた彼が戻ってくる。「今、秘書に連絡した。離婚協議書はもうすぐ届くはずだ」そう言って、彼は光莉の髪にそっと手を添え、やさしく撫でた。「本当によく頑張った......光莉。約束する、もう二度と、君には―」「もう、約束なんかしないで」光莉はその言葉を途中でさえぎった。「私は今まで、何人もの男から『約束する』って言葉を聞いた。でも、誰ひとりとして守った人はいなかった......泣くときは泣いたし、苦しいときは苦しかった......だから、お願い。これ以上、約束なんてしないで」光莉の声には、どこか諦めきったような響きが混じっていた。その一言が胸に突き刺さったのか、成之は一瞬だけ固まった。心の中に、どうしようもない冷たい悲しみがじわりと広がっていく。「......わかった。もう言わない。だけど―俺は必ず償う。君が欲しいものなら、なんだって渡す」「それって
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第1102話

広いリビングには、すでに数人が腰かけていた。修、若子、曜、そして村崎成之。 もともと成之が会う予定だったのは修と曜だけだったが、修が若子にも声をかけた。彼にとって若子も大切な家族だったからだ。 若子は息子を保育園に預けたあと、急いで駆けつけてきた。光莉のことと聞けば、いてもたってもいられなかったのだ。 四人がソファに並んで座ると、空気はどこか重苦しくなった。 「すみません。光莉は最近、一人になって落ち着きたいって言ってて。それで僕に、みなさんに伝えてほしいと」 「村崎さん」修が冷たく切り出す。「数日前、あなたが私たちに連絡してきたときは、母が無事で、あなたと一緒にいるって言いましたよね。今こうして顔を合わせてるわけですが、私としては聞きたいんです。母さんがあなたと一緒にいて、何をしていたんですか?一緒にいるのに、なぜすべての足取りを消すような真似を?もしかして、母は自分の意思であなたといたわけじゃないんじゃないですか?」 曜も言った。「そうだ。妻が普通に暮らしていたのに、なんであんたと一緒にいるんだ?今日はちゃんと説明してもらうぞ」 彼らは成之の素性を知ってはいたが、藤沢家はそんなものを恐れたりしない。 藤沢家もまた、それ相応の地位と力を持つ家だ。怯える理由などない。今回の話し合いは、いわば権力者同士の対決だ。結果がすべてだった。 そんな中、成之は焦ることなく落ち着いた様子で若子に目を向けた。その瞳に、どこかやわらかさが宿る。 「君は、僕に何か言いたいことがあるんじゃないか?」 若子は三人の男たちを見渡し、彼らの鋭い気配とは違って、静かに口を開いた。 「理由を、ちゃんと説明していただけると助かります」 若子には、成之が悪い人には見えなかった。 「そうですね、みなさんの言う通りです。僕は説明する責任があります」 そう言って、成之は語り出す。 「光莉は、数日前までたしかに僕と一緒にいました。僕たちは......付き合っているんです」 曜の目が見開かれた。「......なんだと?」 思わず声が荒れた。感情が、抑えきれなかったのだ。 「父さん、まずは話を最後まで聞いてください」 すかさず修が曜の腕を掴んで止める。 曜は怒りで顔を紅潮させた。そういえば―光莉は以前、彼にこう言っていた。 「
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第1103話

「光莉はもう、署名しました。曜さん、あなたもサインしてください」曜は信じられなかった。しかし、書面に目を落とすと―そこには確かに、光莉の筆跡があった。「そんな......そんなはずが......」バサッ―!曜は激しく感情を爆発させ、手にしていた離婚届を破り捨てた。まるでそれすら、成之にとっては想定内だったかのような、微かな沈黙が走る。「そんな戯言、信じるものかっ!」曜が怒鳴り、勢いよく立ち上がる。「俺は彼女に会う!お前が居場所を言わないなら、ただじゃおかない。どこにいるんだ、今すぐ言え!」「お父さん、やめてください」若子が立ち上がる。「まずは落ち着いてください、話せばわかりますから」「話す?今さら何を話すっていうんだ!」曜は怒りに任せて、若子の腕を振り払った。バランスを崩した若子は、そのままよろめいて―後ろのソファに倒れ込んだ。「父さん、何してるんだ!」修が怒気を込めて声を張る。「若子は何も悪くないのに、なんでぶつけるんだ!」修はすぐさま若子のもとに駆け寄る。「若子、大丈夫か?」若子は首を振って、「大丈夫、平気」とだけ呟いた。それから、改めて成之に向き直る。「村崎さん、離婚のことは......やっぱりお二人が会って直接話すべきです。あなたが代理で届けるようなものじゃありません」成之は軽く頷いた。「おっしゃる通りです。ただ、彼女は今、会いたくないと言っています。でも電話で話すことならできるはずです。繋ぎますね」彼はポケットからスマホを取り出し、画面をタップして発信。間もなく、光莉が応答した。成之はすぐにスピーカーをオンにする。「光莉、スピーカーにしてある。君から話してくれ。みんな、僕の言葉を信じてくれなくてさ」すると、曜が勢いよくスマホを奪い取った。「光莉、どういうことだ?本当なのか?」電話越しに、彼女の静かな声が響いた。「署名して。私はもう、あんたと一緒にはいられない。新しい恋人ができたの。私たちはとっくに終わってたんだよ」「光莉......お願いだ。直接話そう。会ってくれ。お前は今、どこにいるんだ......?」「今は、あんたに会いたくないの。会えば、きっとまたあんたが感情的になるってわかってるから。そんな状態じゃ、ちゃんと話せない。もうこれ
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第1104話

修の言葉は、曜だけでなく、若子までもが驚かせられた。彼女は修を見つめながら、複雑な感情を目に浮かべていた。曜は震える指で修を指差し、言葉を詰まらせた。「お前......今、何を言った?」「父さん、もう手放してあげて」修の声は静かだったが、芯があった。「間違ったのは父さんなんだ。もう取り返しがつかないんだ。無理にしがみついても、ふたりをもっと苦しめるだけだ」そのとき、不意に修が若子の方を見た。その視線に、若子は胸を締めつけられるような感覚を覚えた。そして、反射的に目を逸らした。......もしかして、修の言葉は、ふたりのことを―?成之が何か言いかけた瞬間、若子は素早く視線でそれを制した。「今はやめて」と。成之はその意図を感じ取ったのか、素直に頷いた。父と息子、ふたりの間に緊張が走る。重苦しい沈黙のあと、曜が口を開いた。「これは、俺と光莉の問題だ。お前は俺の息子だぞ。そのお前が、他人の前で夫婦の別れを望むなんて......俺は、お前に失望した」そう言い残すと、曜は成之に向き直った。「光莉は、今ほんとに安全なんだな?」成之はうなずいた。「ええ、間違いなく安全です。準備が整ったら、彼女は自分で会いに来ますよ」「......わかった。じゃあ、俺はそれまで待つ。離婚の話も、それからにする」どれだけ成之と光莉の関係が深まっていようとも、曜にとってはもう打つ手がなかった。自分で壊した関係―心のどこかで、それを理解していたのだ。浮気をしたのは自分。家庭を壊したのも自分。今の苦しみは、全部その代償だ。だから彼は、ただ一つの願いを抱いた。光莉が―もう一度戻ってきてくれるのなら、いつまでも待ち続ける。曜の背中は、どこか疲れ切っていた。ふらふらとした足取りで、扉の方へと向かう。「父さん......」修が追いかけようとしたが、曜は振り向きもせずに言った。「......ついてくるな。少し、一人になりたいんだ」修は、それ以上追いかけることはしなかった。三人は、曜の背中が遠ざかっていくのを黙って見送った。「もう、ここまで来たら......お母さんが無事なら、それは何よりです」若子がぽつりと口を開く。「村崎さん、お邪魔してすみませんでした」成之は軽くうなずいた。「じゃ
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第1105話

曜は車を飛ばして海沿いの道を走っていた。けれど、心はどこか上の空だった。やがて海にかかる大きな橋に差しかかると、彼はふいに車を止めた。ドアを開けて外に出ると、ゆっくりと橋の端まで歩き、大きく深呼吸する。目の前には果てしなく広がる青い海。彼は目をぎゅっと閉じた。―全部、自業自得だってわかってる。それでも、どうしようもなく胸が痛む。......もしやり直せるなら、どんなに良かったか。「おじさん、何してるんですか!」突然、背後から声が飛んできた。振り返ると、まだ若い男の子が不安げな顔で立っていた。曜が眉をひそめる間もなく、その少年が慌てて駆け寄ってくる。「おじさん、お願いですから変なこと考えないでください!もし何かあるなら話してください!ここ、危ないんですよ、お願いだからそこから離れてくれませんか?」その必死な様子に、曜もようやく察した。―この子、自分が飛び降りようとしていると勘違いしてるな。「違うよ。そんなつもりじゃない。ただ少し、落ち着きたかっただけなんだ」「ほんとに?」少年は歩道に上がり、曜の隣に立った。「びっくりしましたよ......まさか飛び降りるんじゃないかって。ここの橋って、そういう人多いらしいんです。いつも思うんですよ、なんでそこまで追い詰められるんだろうって。人生、まだまだこれからじゃないですか」曜は少年をじっと見つめた。「君、いくつだ?」「十九です」「十九か......」曜は小さく笑った。「いいね、若いって。未来はこれからだし、前向きにいられるならそれに越したことはない。でもね、ここから飛び降りてしまう人たちには、それぞれどうしようもない事情があるんだ。非難なんてできないさ。だって......誰だって苦しいんだ。限界を超えた人は、そこで終わらせるしかなかったんだ」「おじさん」少年が不思議そうに曜を見つめる。「何があったんですか?車もすごくいいやつだったし、服装も立派だし......どうしてそんなに落ち込んでるのか、気になっちゃって。よかったら話してくれませんか?」......見ず知らずの若い子が、こんなふうに心配してくれてるのに。なのに、自分の息子ときたら―母親との離婚を強く勧めてきた。曜の目元がじんわり熱くなる。涙が出そうだった
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第1106話

「わっ、ありがとうございます、藤沢おじさん。拾ってもらえて本当によかった、僕ってほんとドジなんですよね」ノラは財布を開いて中を確認しながら、ぽつりとつぶやいた。「お金は別にいいんですけど......中に母さんの写真が入ってるんです。これ、一枚しか残ってなくて、絶対なくしたくないんです」写真をじっと見つめるノラの目には、明らかな哀しみの色が浮かんでいた。曜はおそるおそる口を開く。「......お母さんは」「もう、いないんです」ノラは静かに答えた。「これが最後の写真で......僕が小さい頃に亡くなったんですよ。藤沢おじさん、見てください、うちの母さん、綺麗でしょ?」曜は財布を受け取ると、挟まれた小さな写真に目を落とす。そこには、若くて美しい女性が、太陽のような笑顔で写っていた。―その瞬間。曜の瞳に強い衝撃が走った。頭が真っ白になって、耳の奥で何かが炸裂するような音がした。―どうして......彼女が......?世界が音を失ったかのようだった。見間違いかもしれない。けれど、それでも、あまりにも似ている。「藤沢おじさん?どうかしました?」ノラが不思議そうに見つめてくる。「うちの母さん、綺麗でびっくりしました?」曜ははっとして我に返ると、小さくうなずいて口元を引きつらせた。「ああ......綺麗だね、本当に」そして、静かに尋ねる。「......お母さん、どうやって亡くなったの?」「......はあ」ノラは小さくため息をついた。「病気でした。すごく重い病気で、どんな治療も効かなくて......亡くなる頃には、痩せ細って、食べることも飲むこともできなかった」ノラはうつむき、その目には、薄く涙の光がにじんでいた。「僕、その時まだ十歳だったんです」曜は唇の端を微かに震わせながら、胸の奥に不安がじわじわと広がっていくのを感じていた。「桜井くん......じゃあ、お父さんは......?」問いかけながら、声がかすかに震えていた。それでも、平静を装って尋ねようとする自分を、かろうじて保っていた。その話題に触れたとたん、ノラの目に怒りが浮かんだ。「......僕、自分の父さんが誰なのか、今でも知らないんです。母さんのそばに、父さんは一度もいなかった」
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第1107話

あの夜、曜は一人、バーのカウンターで酒をあおっていた。心の奥に鬱屈したものを抱えて、ただ酔い潰れるように飲んでいた。ふと目をやると、店内で酒を売っていた一人の女性スタッフが、酔客に絡まれていた。最初は関わるつもりなどなかった。だが、彼女が必死で抵抗しているのに、誰一人助けようとしない光景に、曜の足が自然と動いていた。そして、彼女を抱き寄せるように腕を回し、冷ややかな声で言い放った。「俺の彼女は酒は売ってるが、身体は売ってない......もう一度でも触れてみろ。許さんぞ」女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに感謝のまなざしで彼を見つめ、偽の恋人設定を否定することはなかった。曜はそのまま彼女を連れて、男たちの前から立ち去った。彼女を解放した後、再びカウンターに戻って酒を飲み始めた曜は、あっという間に酔いつぶれて意識を失った。あのとき―その女スタッフは助けてくれた彼を放っておけず、支えるように彼を起こし、家まで送ろうとした。でも曜は歩くこともままならないほどの酔いっぷりで、仕方なく彼女は近くのホテルに彼を連れていった。......そして、その夜、二人は成り行きのままに体を重ねてしまった。朝になり、目を覚ました曜は隣に眠る女性を見て、深いため息をついた。―やってしまった。しかし、もう起きてしまったことを無かったことにはできない。曜は一枚の小切手と、連絡先を書いたメモを残して部屋を後にした。逃げるつもりはなかった。責任を投げ出す気もなかった。その後、本当に彼女は連絡をくれた。「気にしないでください」と、彼に重荷を背負わせないような言葉を残して。そしてふたりは、もう一度顔を合わせた。曜は彼女の名前が桜井里枝であることを知った。彼女は気立てもよく、明るく、付き合っていて心地よい相手だった。ちょうど不幸な結婚生活に疲れ、初恋の彼女とも喧嘩を繰り返していた曜は、心の逃げ場のようにして、彼女としばらく付き合うことにした。家まで買ってやった。けれど―その関係は一ヶ月ほどしか続かなかった。結局、初恋の彼女との関係を修復し、里枝との関係には終止符を打った。そうして―曜は里枝と別れた。そして再び、初恋の彼女のもとへ戻っていった。このことは、誰にも話したことがなかった。心の奥に
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第1108話

目の前のノラを見つめながら、曜の胸には一つの思いが膨らんでいく。―まさか......この子が、自分の息子......?―もしや、あのとき里枝が伝えようとしたのは......このことだったのか?曜の表情に複雑な影が差したのを見て、ノラが眉をひそめる。「藤沢おじさん、どうかしました?」「いや......何でもない」曜は小さく頭を振った。「君も、いろいろ大変だったんだね。お母さんが亡くなって、父親もいない状態で......どうやって育ったの?親戚とかに引き取られたのか?」「僕......そのあと孤児院に入れられたんです。ずっと、そこで育ちました」「......孤児院......」曜の胸が締めつけられる。「......他に親戚とか、誰も......?」ノラは苦笑いを浮かべた。「そんなの、いるわけないじゃないですか。いても、誰が好き好んで面倒見てくれるっていうんですか......余計な荷物扱いですよ、僕なんか」何か言いたい思いが喉元まで込み上げたが、言葉にできずにいた曜に、ノラが軽く笑って言った。「......藤沢おじさん、こんなところでずっと話し込んでていいんですか?もうすぐ警察来ちゃいますよ?」「あ、たしかに」曜は少し気まずそうに笑いながら、ふと提案する。「じゃあ、こうしよう。君、もしよければ車に乗ってよ。ちょうど昼時だし、一緒に昼ご飯でもどう?おごるよ」「え、いいんですか?初対面なのに......」「なに言ってるんだ」曜は微笑んだ。「君と話してると、なんだか心が落ち着くんだよ。しかも、俺が飛び降りるかと思って止めにきてくれたんだろ?そんな優しい子、今どきなかなかいない。今日はちょっと心が重くてさ。誰かと一緒にいたくて......よかったら、付き合ってくれないか?報酬だって払うよ」―断られたらどうしよう。曜の心には、そんな不安もよぎっていた。ノラは少し考え込んだあと、ふっと微笑んだ。「......じゃあ、行きましょうか。でも、お金なんていりませんよ。僕、なんか......藤沢おじさんと話してると、不思議と懐かしい感じがするんです。おじさん、子どもがいるんですよね?」曜の胸が、ぎゅっと痛んだ。「......ああ、いるよ。息子が一人」「やっぱり。藤沢おじさんって
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第1109話

ノラの話を聞いているうちに、曜の胸は張り裂けそうになっていた。―そんな生活を、一人で......どれほど辛く、寂しかっただろうか。彼がどんな想いでここまで育ってきたのかを思うと、心臓が締めつけられて、息が苦しくなる。曜がうるんだ瞳でじっと見つめていると、ノラが首をかしげた。「藤沢おじさん、どうしたんですか?まさか、僕のこと可哀想だって思ってるんじゃ......?」「あ、いや、違うんだ」曜はあわてて首を振る。「ただ......君は本当に強い子だと思って......十九歳っていえば、まだ学生だよね?ちゃんと通ってるのかい?」曜の胸に浮かぶのは、孤児院育ちの子どもたちが、進学の機会を失う現実だった。―だが、次の言葉に彼の思考は完全に吹き飛ばされた。「僕、博士号を三つ持ってるんです」「......な、何だって......?」曜は絶句した。「もともと二つだったんですけど、つい最近もう一つ取れました」曜の口が開いたまま閉じない。「君......天才なのか?」「うーん......」ノラはちょっと考えてから、微笑んだ。「自分で天才って言うのはなんか恥ずかしいですけど、勉強は得意です。覚えたら忘れないんです。だから、試験とかはほんと楽で」曜はそんなノラの姿を見ながら、心の中で思った。―やっぱり、この子は特別だ。もしかして......もしも本当に、自分の息子だったとしたら―そこまで考えて、曜は自分でその思いを打ち消した。いや、ダメだ。今はまだ決めつけてはいけない。だけど、こんなに賢くて強くて優しい子を、自分は―十九年間、知らずにいたのか?彼の胸がまた、締めつけられる。「桜井くん、早く食べな。料理、冷めちゃうよ」曜はその言葉で話題を切った。まだ知りたいことはたくさんある。けれど、それ以上踏み込むのが怖かった。......知れば知るほど、怖くなる。もし本当に自分の子なら、彼が背負ってきた十九年の重みを思うと―自分は、それに向き合う覚悟があるのか。......食事が終わる頃。ノラはスマホを取り出し、ちらりと時間を確認した。「藤沢おじさん、午後は予定があるんです。もう行かないと」ノラがスマホを見ながら立ち上がる。「そうか......俺もちょうど用事
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第1110話

電話が繋がり、ノラのスマホが振動する。曜が安心したように微笑んだ。「よし、ちゃんと繋がったな......これからも連絡取り合おうね」たとえ、この子が本当に自分の息子じゃなかったとしても―曜はノラという存在そのものに、強く惹かれていた。何よりも、彼は里枝の息子なのだ。その事実だけで、曜の中に湧き上がる想いは否定できなかった。―彼女に、俺は何もしてあげられなかった。死んでいた......それも、何年も前に。どこに眠っているのかすら、わからない。でも今日、初めて会ったばかりのノラにそれを聞くのは、あまりにも不自然すぎる。今はまだ、慎重に動くべきだ。「それじゃ、藤沢おじさん。僕、行きますね......バイバイ!」ノラは明るく手を振った。その屈託のない笑顔に、曜は静かに応えた。「......バイバイ」手を振り返し、ノラの背中を見送る。ノラが見えなくなるまで見届けたあと―曜は、深く小さく、ひとつ息をついた。指先には、あの一本の白髪。彼はそれを慎重に紙ナプキンで包み、ポケットに大事にしまい込んだ。絶対に失くせないものとして。すぐに携帯を取り出し、信頼している医師に電話をかける。「......山田先生、ちょっとお願いがあるんだけど......親子鑑定を一件、お願いしたい」......若子は、保育園から暁を迎えに行き、自宅へと戻っていた。玄関を閉め、靴を脱がせると、彼女は暁を抱き上げ、そのまましばらく抱きしめていた。腕の中にいるのは、彼女のすべて。でも、心の中には曜と光莉の関係がちらついていた。......そして、修と自分のことも。「ねぇ、暁」若子は優しく声をかける。「暁が大きくなったらね......どうか、おじいちゃんやお父さんみたいにはならないで」愛した女性を、大切にしてほしい。ひとりの人を、ちゃんと愛してほしい。「......もし、誰かを好きになったら、その人を全力で大事にして。気持ちが揺らいでからじゃ遅いんだから。結婚してから後悔するようなこと、しちゃだめだよ」声に、少しだけ苦い笑みが混ざる。「......まあ、それは暁がもう少し大きくなったらでいいか。とにかく、大切な人を傷つけないで......愛してくれる人を、裏切らないで」
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