All Chapters of 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

慎一の顔つきが徐々に硬くなっていくのを見て、私はようやく悟った。この人、本気で真思を庇うつもりなんだ。だったら、私のことで彼が悩むなんて、ありえない話だったんだろう。私は気持ちを引き締め、表情も真剣に戻した。そして手首を持ち上げて、手の甲を彼らに向けて突き出した。「いいわよ。まずは私に謝って!」慎一は眉をひそめ、私の手の甲に視線を落とす。次の瞬間、その顔は見る見る険しくなった。「これ、どうしたんだ?」私は黙って真思に目を向ける。彼女はため息をつきながら、なおも私をなだめるように言う。「安井さん、手、怪我してたのね。さっきはきっととても辛い思いをしたんでしょう。慎一、もう彼女を責めないで」彼は彼女の声など聞こえないかのように、私をじっと見つめ、再び問うた。「どうしてこうなったんだ?」本当に知らないの?そう問い返したくなる。もし今、この場に私と彼だけだったら、こんなふうに聞かれて、まだ少しは私のことを気にしてくれてるのかと思ったかもしれない。でも、今の彼は真思をしっかりと腕に抱いている。その口から出る問いかけは、まるで私を責め立てる詰問のようだった。彼の目には、私の怪我の原因が彼や真思であるはずがないのだ。気づけば周囲には野次馬が大勢集まっている。みな真思の味方ばかり。「別れたんなら、きっぱりしなさいよ。しつこい元妻だね」「ちょっとした怪我くらいで、霍田社長が同情すると思ってるの?七瀬さんはほんとに器が大きいわ」「霍田社長も優しいよな、離婚した元妻にもちゃんと気を遣って」私は鼻で笑い、拳をぎゅっと握りしめた。鋭い視線で一同を睨みつけると、口を挟んでいた者たちも、さすがに気まずそうに黙り込んだ。ロビーに流れていた音楽すら止まり、場は凍りついたような静けさに包まれる。真思は慎一の腕からそっと抜け出し、足を引きずるようにして私の前へ来る。目には涙を浮かべ、どこか儚げで守りたくなるような雰囲気を醸し出していた。「安井さん、怒らないで……みんなあなたの身分を知らないだけだから、気にしないで……」彼女の言葉が終わる前に、私は思いきり彼女を蹴り飛ばした。これで、彼女の無事だった足も、もうダメになったはずだ。世の中の理不尽は、自分の手でしか晴らせない。まさか自分がそんなことを理解する日が来るなんて、思いもしなかった。
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第242話

最近、私の日々は、ほんの少しだけ楽になってきた。グレーがある日、興味深そうに話しかけてきた。「最近、法律界で有名な弁護士が何人も姿を消してるんだ」と指を折って数えながら言う。その顔ぶれは、先日のあの宴席で、口が軽かった連中ばかりだった。グレーは私をじっと見つめ、少し不思議そうに訊ねてくる。「安井さんは彼らに何かしたか?」私は首を横に振った。彼ら一人一人の顔はしっかり覚えているけれど、今の私にそんな力はない。グレーは顎を空に向けて示しながら、「それと、例の彼と、本当に別れたか?」と、まるで噂話を聞くみたいに言った。私は黙って頷く。嘘をつく理由もない。「じゃあ、なんで彼は安井さんのために動いてくれるんだ?」その問いに私は身震いした。「グレーさん、あなたの推しカプはマニアックすぎ!」慎一は、私のために動いてくれるどころか、むしろ私で鬱憤を晴らしているだけだ。私は、もうこれ以上厄介ごとに巻き込まれたくなくて、ネットの片隅で大人しくしていようと決めた。事務所のことにも首を突っ込まずにいれば、慎一ももう何もしないだろうと思ったのだ。でも、穎子が言うには、信之は全く手を引く気配がないらしい。それどころか、ますます手口が巧妙になっている。事務所で進めていた案件の中には、相手方の弁護士が依頼人に直接連絡し、「訴訟を取り下げてくれ」と持ちかけてくるものもあった。信之は、専属のスタッフが格安で代理を引き受けると売り込んでくる。最初は油断していて、いくつも案件を奪われてしまった。あいつら、恥も外聞もないのか。他人の飯の種まで奪い取って、まるで乞食じゃないか!私は歯ぎしりしながら穎子に「多少は目をつぶって」と言い、裏ではこっそり役者を手配した。この件のおかげで、グレーに頼んだ仕事もうまくいき始めた。信之は新興の法律事務所で、慎一の後ろ盾もあるため、業界内外から注目を集めている。だからこそ、評判が命だ。だけど、弁護士だって人間。絶対に負けないなんてありえない。そこで私はグレーに頼んだ。「時々でいいから、信之の弁護士にうっかり負けてもらえないか」と。まずは、うちから奪われた案件から始めた。もちろん、手を出すのは本物の裁判じゃない。雇った役者が演じる作り物の依頼だ。一人の弁護士が一度負けたくらいじゃ誰も気に留めない
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第243話

私は無表情のまま、フォロワーたちが送ってきたスクショを眺めていた。画像の中で、慎一は真思にいくつかの贈り物を差し出している。穏やかで優しげな微笑みを浮かべたその姿は、まるで春の陽だまりのようだ。ちょうど、慎一は真思のパソコンの向かい側に座っていた。正午の陽射しが窓から差し込み、彼の漆黒の瞳に溶け込んでいる。二人の間には、どこかほのかな、甘い空気が漂っていた。「またプレゼントなんて……どうやってお返ししたらいいのか、わからないよ」「お前は幼いころから不遇だった。両親もいないし、身寄りもない。この世界でお前が頼れるのは、俺だけなんだ。これくらい、なんでもないよ」「私、羨ましいな、雲香が。彼女は幼いころからこんな優しいお兄さんがいるんだもの。きっと、すごく幸せだったんだろうな」慎一は少し黙りこんでから、ゆっくりと言葉を紡いだ。「まだ足りないものがあれば、言ってごらん」真思は口元を手で覆い、うつむきながら微笑んだ。「冗談だよ、もう十分すぎるくらい幸せだよ。慎一に出会ってから、私は何も足りないって思わなくなった。だから気にしないで、大丈夫」「大丈夫か、それならよかった」慎一はその言葉を呟きながら立ち上がり、真思は彼を玄関まで見送った。これで、最後のスクショも見終えたことになる。ネットには、【いや普通にこのカプ、尊くない?】みたいなコメントが溢れていて、二人のカップル名を作って盛り上がっている者までいた。私の配信には、そんな話題を蒸し返すかのように【どう思うか?】という質問が山ほど届いていたけど、すべて無視。私は法律のことだけを語り、深刻な相談には誠和をおすすめして、営業に繋げる。けれど、あの日ばかりは「両親がいない」「身寄りがない」なんて言葉が妙に刺さって、配信を早めに切り上げた。最近は自分でも何件か案件を受けている。難易度は高くないが、進捗は逐一配信で報告し、秘密保持義務に反しない範囲ではすべてオープンにしているおかげで、たくさんの人から信頼を得てきた。依頼もどんどん増えている。そのせいで配信時間は減ってきたけれど、配信を始めると必ず現れるIDが一つあった。【彼女はなぜヤキモチしないのか】というユーザー名のその人は、毎回百個ものギフトを投げ、過去に私が投稿したツイートに関連する質問を繰り返してくる。【うんこを奪い合って
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第244話

「ドンッ!」突然、観客席でひとりの男が立ち上がった。全身黒のカジュアルウェアに身を包み、黒いサングラスとキャップで顔のほとんどを隠している。彼は手にしていた水のペットボトルを床に叩きつけ、怒鳴り声を上げた。「司会がダメならさっさと降りろ!話もできないなら、その口閉じてろ!」奥歯をギリギリと噛みしめ、サングラスの下から見える顎のラインはまるで刃物のように鋭い。怒気は放送スタジオ中に広がり、長い脚でステージへと突進しようとする。康平だ。私は心の中で思わず息をのむ。けれど彼が数歩踏み出したところで、すぐに止められた。慎一のそばにいたボディーガードたちが、まるで予定されていたかのように立ち上がり、あっという間に彼を取り押さえて連れ出したのだ。慎一本人はというと……伏し目がちに座ったまま、眉ひとつ動かさない。視線を上げることすらせず、まるですべてを聞き流しているかのようだった。けれど彼の耳だけは、こちらの言葉をじっと拾っていた。まるで、私の返答を待っているかのように。現場の音声は配信には入っていないが、番組はそのまま進行中。真思は、なおも私に食い下がる。「どうしたんですか、安井先生。まだトラウマから抜け出せてないんですか?」その時、監督も何か面白いことが起きると予感したのか、手を振ってカメラを私に向けさせる。それもアップで。慎一がどんな答えを望んでいるのか、私には分からない。そもそもこの件でちゃんと話し合ったこともなかったから、彼が気にしているのか、それとも全く気にしていないのかも分からない。でも、もう全部過ぎたことだ。私も今はもうどうでもよくなっている。私はカメラを見て、穏やかに語り始めた。「デマを流される女性って、どういう人か知ってますか?それは、美しい人、強い人、もしくは怖れられる人です。つまり、他人に劣等感を抱かせる何かを持っている人たちです。だからこそ、叩きたい、貶めたい、って思われます。つまり、そういうデマを流された時点で、すでに勝ってるんですよ。だったら、そんな負けた相手に、物語の中の女の子みたいに違法な手段で復讐する必要なんてありません。私たちが手に取るべきは、法律という武器です……」私は淡々と、けれど力強く語った。話を本題へ、法律解説のテーマへと自然に戻した。真思は、表情だけは「感銘を受けた顔」をしていたが
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第245話

演出ホールを出た瞬間、誰の姿も見えないうちに、まず耳に飛び込んできたのは、駆け寄ってくる足音だった。康平がいた。さっきまで階段にしゃがみこんでいたらしい彼は、私を見るなり駆け寄ってきて、いきなり私をぎゅっと抱きしめた。その腕は熱く、震えていて、声も詰まりそうなほどだった。「やっと、帰ってきた!」「うん」と私は彼の背中を軽く叩いて返事をした。「兄貴に会社の仕事を全部取り上げられて、無理やり海外に飛ばされたんだ。スマホもパスポートも取り上げられて……俺、密航して帰ってきた」黒いサングラス越しでもわかる。この御曹司様、どうやら今までまともに苦労したことがなかったんだろう。湿気た眼差しが、サングラスの奥から滲み出ていた。私と一緒にいることは、もともと叶うはずのない夢だった。彼が分かっていながら突き進むのなら、これから待ち受ける苦労なんて、まだ序章に過ぎない。「親父にお見合いさせられそうになって、断ったら殴られた」と、まるで子どものように彼は愚痴をこぼす。「でもさ、佳奈の顔を見たら、全部どうでもよくなった」実際、釣り合いの取れた相手を選ぶのは悪いことではないと思う。私は黙って、ただ彼を見つめていた。やがて、彼が自分で気持ちを落ち着けるまで、何も言わなかった。「まずは、ご飯でも食べに行こう。それから家まで送るよ」私が歩き出そうとすると、康平は私の手をぎゅっとつかんだ。「佳奈、俺に少しでも励ましをくれよ。敵にボコボコにされても、お前の一言があれば耐えられるんだ」「そんなことより、まずご飯行こう」と私は少し強めに言った。「飯なんかいらない!お前の一言が十回分の食事より効くんだ!」私は手を振りほどき、腕を組んで彼を見つめた。「康平、もう子どもじゃないんだから、ちゃんと現実を見なよ。私、一度も好きなんて言ったことない。それで仕事も家も投げ出して、私に何を言わせたいの?家に逆らえって?そんなの、バカみたいだよ。やめておきなよ、意味がない」康平は顔をしかめ、胸を押さえて苦しそうだった。「意味があるって俺が思えば、それでいいだろ!家族が反対するのは家族の問題で、俺の人生には関係ない。お前のためなら、全部失ってもいい。ゼロからやり直すくらい、どうってことない!お前は一度だって好きって言ってくれなかった……せめて今言ってくれてもいいだろ
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第246話

「佳奈!」慎一の声は、抑えられた静けさを纏っていた。まるでどうでもいい人を呼ぶかのようなのに、その声には、悪夢に囚われたような絶望が滲んでいた。私の肩に置かれた康平の手が、ぎゅっと力を込める。彼の体はかすかに震えていて、小さく私に問いかけてくる。「佳奈、振り返っちゃダメだよ。美味しいもん食べに行こう?」振り返る?私はもう、どこに振り返る場所があるというのだろう。慎一と何年もぐるぐる遠回りしたけど、結局手元に残ったのは、偽物みたいな幸せな思い出だけ。もう、振り返る余地なんてない。私は虚ろな前方を見上げて、力なく笑った。「ねえ、財布にまだお金残ってる?」背後で慎一がまた私を呼ぶ。今度は私が先に背を向ける番だ。彼に、突き放す背中を見せてやる番。テレビ局の前は人が多くて、彼の呼び声はすぐに人々の注目を集めた。誰かがスマホを取り出して、動画を撮り始める。この時になって、ようやく人々は気づいた。ネットであれだけラブラブを見せつけても、必ずしも先に手放した方とは限らないって。動画の中の慎一は、ずっと複雑な顔をしていた。目を赤くして、周りの視線なんか気にせず、何度も私の名前を呼ぶ。彼は私を追いかけてきたけど、真思に手首を掴まれて引き止められる。私と康平が完全にその場を離れたとき、空から細かな雨が降り出した。慎一は、私たちの背中を見つめて、いつまでもそこに立ち尽くしていた。あんなに大きく頼もしかった背中が、なぜか今は小さく、薄っぺらく見える。彼は真思の手をほとんど崩れるように振り払って、よろよろと雨の中へ歩き出した。風雨に打たれながら、慎一は体を震わせて笑った。でもその目には、雨に溶けるような涙が浮かんでいて、ネットの言葉で言えば、いわゆる破れたガラスみたいな痛々しさのものがある。その動画が拡散されたとき、誰かがコメントしていた。【元夫が号泣してるの最高すぎる。もっと泣かせてほしい】思わず笑ってしまったけど、康平が私のスマホを取り上げた。「飯食う時にそんなもん見んな!胃に石でもできたらどうすんだ!」彼は本当に山ほど料理を頼んで、まるで飢えた獣みたいに、がつがつと食べている。「ここまで戻ってこれたのは、持ち物全部質に入れたからだよ。船に乗るときだって、係員に袖の下渡したし、あの時計だって二千万円したんだぜ!」
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第247話

康平の期待に満ちた眼差しを前に、私は小さくうなずいた。「もし、そんな日が本当に来たら……私も、一緒にやってみたい」彼が満足そうな笑みを浮かべて立ち去る背中を見送りながら、私はぐったりと椅子にもたれた。目の前に並ぶご馳走も、まるで食欲をそそらなかった。康平は、物事をあまりにも単純に考えている。私は別に、自分が価値のない人間だなんて思わない。だけど、バツイチで、流産も経験していて、しかも慎一の元妻。この事実は、永遠に超えられない溝のように私の人生に横たわっている。彼がどれだけ努力すれば、家族の偏見を拭い去れるのか、私には想像もつかない。私は本当に自分勝手だと思う。もし私が彼を好きだと言うのなら、彼と一緒に困難に立ち向かうべきだし、噂や中傷だって跳ね返すべきなのだろう。でも、今の私はもう、誰かのために何かを差し出す気力なんて残っていなかった。ふっとため息をついて、スマホを取り出した。今ならまだ間に合う。いっそ全部やめにしよう、彼にこれ以上不公平な思いをさせたくない――そう伝えたかった。そう思って、康平に電話をかけようとした。「お客様の電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所に……」そうだ。彼のスマホ、取り上げられたんだった。目を閉じても、康平が笑っている顔が脳裏に浮かぶ。でも、なぜだろう。もう、二度と彼は戻ってこられない気がしてならなかった。家に着いた時、玄関先の薄暗がりに斜めに寄りかかる人影があって、思わず身をすくめた。慎一は全身ずぶ濡れで、足元から廊下にかけて水たまりが長く尾を引いている。私も帰りがけに少し雨に濡れたはずなのに、急いで玄関に駆け込んだ時はそれほど強い雨だとは思わなかった。けれど今、慎一の姿を見ると、外の雨はまるで嵐のように激しく感じられた。慎一は無言で私を見つめていた。あの鋭い黒い瞳も、今はただ静かに瞬きを繰り返すだけで、かつてのような圧がまるで感じられない。彼は全身の棘を引っ込め、背中を壁に預けたまま、ゆっくりとその場に座り込んだ。まるで帰る場所を失った野良猫のように。私は淡々とスマホを取り出して、マンションの管理室に電話をかける。「すみません、家の前に不審者がうろうろしてるんです。すぐに誰か来て、連れて行ってもらえますか?」慎一はびっくりしたように口を開き、瞳に落胆の
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第248話

夜、寝ようとした時、私は玄関の方からカリカリと何かが扉を引っかくような音を聞いた。てっきり、近所の猫か犬が迷い込んだのかと思いきや、ドアの隙間から覗くと、慎一が首をわずかに仰け反らせ、喉仏を上下させながら、真っ赤な目でこちらを見つめていた。酒と雨の湿気が混じり合い、一瞬で私の周りを包み込む。二歩ほど後ずさりしてドアを開けると、彼は寄りかかっていたものを失い、そのまま「ドサッ」と音を立てて床に倒れ込んだ。痛みも感じていないかのように、無表情で私を見上げてくる。何も言わない。昔の彼は、こんなふうに自分を崩す人じゃなかった。酒も煙草も、ほとんど口にしない人だった。私はいつも、見上げるように彼を見ていた。こんなふうに、上から彼を見下ろして、その瞳に絶望やら、戸惑いやら、弱さやらをまざまざと見るなんて、慣れていない。彼は、かすれるような声で言った。「邪魔するつもりじゃなかった」掠れきったその声は、まるで別人のようだった。よろよろと起き上がり、玄関の壁に寄りかかって座り込む。顔を伏せて、乾いたような笑みを浮かべる。「ドア、閉めていいよ」彼の表情は見えなかった。ただ、濡れた髪から雨水が滴り落ちているのだけが、やけに印象的だった。体が寒さで小刻みに震えている。私は淡々と「うん」と返事をして、仕方なく言った。「帰りなよ」彼は小さく呟く。「車……もう運転できない」「じゃあ、どうやってここまで来たの?」「車で……」あまりに意味がわからなくて、呆れながらドアを閉めようとしたら、彼が片手でドアを押さえた。「お茶、淹れてくれないか」私はドアノブを強く握る。「高橋を呼ぶから、迎えに来てもらう」慎一は悲しげに笑い、目に苦味を滲ませる。「酔いを醒ましたいだけだ。お茶一杯飲んだら、帰るから」「うちにはお茶なんかない」私はお茶を飲む習慣なんてない。お茶を淹れるのも、すべて彼のために覚えたこと。もう彼がいない今、茶器なんて残しておく意味もない。「なら、お湯でいい。お湯だけでいい」彼は鼻をすするようにして、低い声で、どこか子どもみたいに言う。「佳奈、外、寒いんだ」夜のせいか、私が彼に弱いせいか、疲れ果てているくせに、私はつい承諾してしまった。「ここで待ってて」本当は、彼なんて見たくなかった。自分から縋らなければ、もう彼と
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第249話

私は足で慎一の腕を軽く蹴った。彼の腕は骨が抜けたみたいに、だらんと床に滑り落ちる。熱を測らなくても分かるくらい、彼の額は驚くほど熱い。私は彼の頬を強めに叩いた。慎一はゆっくり目を開け、その黒い瞳は一瞬鋭さを見せたが、私だと認識すると、ふっと和らぎ、まるで夢の中のように私を見つめてくる。何か言おうとした瞬間、彼は私を突然ぎゅっと抱きしめてきた。耳元でかすかに呟く。「このまま、時間が止まってくれたら……いいのにな」昔、彼と短い間だけ親密だった頃、私もそんな非現実的な夢を見ていたことがあった。あの頃は、優しい義父母がいて、母も私を愛してくれていて、そして心の中心にはこの男がいた。でも今、私の手元には何も残っていない。「あなたってほんとに自分勝手よ」私は少し顔をそらし、囁くように耳元で言った。彼の火照った体温が、ふっと冷めたように感じられた。そして、彼は静かに私を放した。「佳奈……俺、邪魔するつもりじゃなかった」私は立ち上がり、深く息を吸い込んだ。「これで邪魔じゃないって言うの? じゃあ何が邪魔なの?元夫っていうのは、思い出の中で死んでいればいいの。こんなふうに何度も私の前に現れるべきじゃない!」慎一は喉を鳴らし、傷ついた目で私を見上げる。「元夫か?」その言葉がよほど堪えたのか、彼の声はどこまでも弱々しい。「佳奈、なんでお前はいつもそんなに冷静なんだ。お前と比べたら、俺なんてただの狂った酔っ払いじゃないか」きっと、今の自分を彼自身も心底嫌っているに違いない。私が嫌いな彼を、彼自身も嫌っている。あんなに支配欲が強くて、妹と私の間のバランスを取ろうとしていた男が、今はもう、何もコントロールできなくなって苦しんでいる。私たちの間にある問題は、結局一度も解決されなかった。慎一はそれを直視しようとせず、今でも私の前で全てがうまくいっているふりをしようとしている。「酒飲んでも酔えない、酔えば酔うほどお前に会いたくなる……それなのにお前は俺を避ける……お前が俺を嫌いかどうかなんて気にしなかったのに、今はお前に避けられると、どうしてこんなに辛いんだろう……」彼の目は涙で滲み、声も震えていた。「佳奈……俺、どうしちまったんだ……」私は無表情のまま、力なく笑う。「知らないわよ。なんで私があんたとそんな話しなきゃいけないの?」そんな
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第250話

真思の言葉は、私の心に何一つ波紋を起こさなかった。少しだけ考えてから、私は静かに答えた。「だったら、余計に私にちょっかいを出すべきじゃないわ。そもそも私がいなきゃ、あなたは今のすべてを手に入れることもなかったんだから」「安井さん、あなた、自惚れすぎ!」彼女は口では否定しながらも、まるで頭を打たれたみたいに拳を固く握りしめていた。誰よりも彼女自身が、今の自分の地位がどうやって手に入ったものかを分かっている。だけど、彼女は納得できていない。大きな犠牲を払ってきたからこそ、その屈辱感に耐えきれないのだ。「慎一が私に優しいのは、あなたと関係ないわ。彼はただあなたのことが気に食わないだけ。だから、変な夢見るの、やめてくれる?」「そこまで言うなら、もう怖いものなんてないでしょ?なら、もう行ってくれる?」私は顔では冷静を装いながら、心の奥底はどこか寂しかった。真思とはあまり深く関わったことはなかったけれど、彼女の性格は何となく分かってきた。彼女は雲香みたいに、嘘八百を並べるタイプじゃない。だからこそ、慎一が彼女にどんな甘い言葉を囁いていたのか、想像できてしまう。「佳奈が持ってるものは全部お前にもあげる、佳奈が手にできないものもお前が手にする、世界で一番幸せな女にしてやる」たぶん、そんなことを言ったんだろう。目を閉じると、昨日の夜ずっと家の前で待ち続けていた慎一の姿が浮かぶ。私と真思、夢を見てるのは、どっちなんだろうね?「何もかも失ったくせに、なんでそんな偉そうにしていられるの?」真思は歯ぎしりし、スマホを取り出して電話をかけ始めた。慎一の低くかすれた声が、スピーカーから聞こえてくる。「何かあった?」その声は、熱があるとも思えないほど落ち着いていて、低くて心地よい。女なら誰でも惹かれてしまいそうな響きだった。真思は慎一の声を聞いた瞬間、まるで猫みたいに、背中に見えない尻尾を振っているようだった。「慎一、私、司会の仕事、もう嫌なの。安井さんみたいに、法律解説のゲストになりたいの。ねえ、お願い、手配してくれない?」甘ったるい声でせがむと、慎一は低く笑った。その笑いは、恋人同士の親密さで世界中に愛を誇示するような響きだった。「監督に言えば、佳奈と交代するのも難しくない。でも、本当にできるのか?番組潰したら困るぞ」
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