All Chapters of 婚約崩壊寸前!初恋は遠ざかれ: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

パトカーは静かに郊外へと進んでいく。道はどんどん寂れていき、私の心も同じように荒んでいった。頭の中で何度も雲香が私に放ったあの言葉がこだまする。「佳奈、あなたはどれだけお兄ちゃんを傷つけたのか、全然分かってないんだよ」雲香のくりくりした大きな瞳はもう怯えていなくて、むしろ面白がるように私を見ていた。まるで彼女は、慎一の苦しみを語れば語るほど、私が罪悪感を抱くことを期待しているかのようだった。彼女は自分のスマホを取り出し、私に動画を見せてきた。それは少し画質の悪い監視カメラの映像だったけれど、慎一が何をしているのかははっきり分かった。慎一はただ黙々と何かを書いていた。だが、ふとした瞬間、動きがピタリと止まる。まるでゲームのキャラクターが、一度に大量のコマンドを受けてフリーズしたみたいに。彼の頭の中で何かが整理されると、もうペンは書くためのものではなくなっていた。数人の男たちが彼の部屋に押し入り、腕に刺さったペンを取り上げた。そして正体不明の注射を一気に彼の体内に打ち込む。大柄な体はその場で力なく崩れ落ち、まるで物のようにベッドへ運ばれていく。その日から、彼の部屋にペンは置かれなくなった。次の動画では、明らかに慎一が雲香と何かを激しく言い争っていた。彼の怒りに、雲香の小さな体が震えていた。けれど、雲香がスマホを慎一に渡すと、彼は急に静かになり、スマホを両手で抱きしめて壁に寄りかかったまま、午後中ずっと口をきかなかった。夜になり、スマホが取り上げられても、彼は何一つ反応を見せなかった。雲香は私に尋ねた。「佳奈、どうしてお兄ちゃんがもうスマホにこだわらなくなったか、わかる?」私は首を横に振った。雲香は言った。「お兄ちゃん、こう言ったの。彼女は一度も俺に電話してこなかったって」私は深く息をつく。「どうして、彼は私に何も言わなかったの……」雲香は手錠を揺らしながら、いたずらっぽく笑って言った。「さぁね、男なんて意地っ張りなもんでしょ?」私は黙り込んだまま、雲香のスマホの写真フォルダをめくった。そこには、彼女自身の写真よりも慎一の写真や動画の方がずっと多かった。雲香が慎一にどれほど執着してきたか、よく分かった。「医者は何て?治る見込みはあるの?」私は尋ねる。「あるよ。でも、急がなくていいの。私には時間がたっぷりあ
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第432話

電話の向こうで、中村先生も雲香の言葉を聞いていたようだった。「もし患者に強い抵抗反応が見られるようなら、刺激しない方がいいでしょう。可能であれば、患者が心から信頼できる人に同行してもらい、病院へ来てもらうのが理想です。そうでなければ、たとえ連れてこられても、こういう患者は強く反発する傾向があり、治療に協力的とは限りません……」……私は静かにその話を聞いていた。もし、最初に慎一が薬を飲んでいるのを見たとき、私が彼を信じていれば、彼がごまかしているなんて思わなければ、もしかしたら「信頼できる人」は私になれていたのかもしれない。でも、私はどうしても信じきれなかった。だって、あの人は慎一なんだ。私が小さい頃からずっと追いかけて、憧れてきた人。そんな人が、まさか病気になるなんて……それに、慎一は昔から、痛みや苦しみを表に出さず、感情さえも隠して生きてきた。そんな慎一が、無理をしているなんて、私が気づけるはずもなかった。そのとき、雲香の携帯が突然鳴った。病院からだった。電話口の声は、ひどく慌てていた。「曲井さん!霍田社長が屋上に上がりました!」屋上に上がった!屋上に!屋上に!小さな車内は一瞬にして息をひそめたように静まり返り、誰もが自分の呼吸を抑えていた。夢で見た光景が、またもや脳裏をよぎる。私の心臓は張り裂けそうだった。車は白い病棟の前で止まった。あまりにも人気のない場所で、どこもかしこも冷たく感じられる。こんな寂しいところで、慎一は何ヶ月もひとりきりで過ごしていたんだ。そう思った瞬間、胸がきゅっと痛んだ。雲香の言う通り、私は今まで慎一に冷たい言葉ばかり投げてきた。昨日だってそうだ。慎一は、本当は闇の底にいたわけじゃないのに、私がその背中を突き落としてしまったんだ。「見て!」誰かが空を指さして叫んだ。私は思わず顔を上げ、その光景に心臓が大きく跳ねた。あまりのショックに、気を失いそうになった。慎一が、屋上の縁に立っていた。うつむいていて、前髪が顔を隠している。真昼の太陽が照りつけているはずなのに、彼だけはまるで光に包まれていないように見えた。「慎一!下りてきて!」私は全身の力を振り絞って叫んだ。でも、風が強く、ビルも高すぎて、私の声はきっと慎一には届かなかった。夢で見たあの場面と
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第433話

「彼の子は、まだ生きてるの。だから、彼にもちゃんと生きていてほしい!」私は鼻の奥がつんとした。「子どもには、父親が必要なんだ!」「彼の子?」雲香は小さな声で繰り返し、不思議そうに顔を上げた。「まさか、お腹に、お兄ちゃんの子がいるの?」私はこくりとうなずいた。雲香の唇に、場違いなほど甘やかな笑みが浮かぶ。「じゃあ一緒に来ようよ。お兄ちゃんが自分の子どもができたと知ったら、きっと喜ぶよ!」さっきまで私に慎一に会わせないとしていた雲香が、今度は自分から誘ってきた。私は屋上に立つ人影を見上げる。あの人が風にさらわれてしまいそうで、本当に怖くなった。もう迷っている暇はない。「うん。行こう」その時、軽舟が私の腕をぐっと掴んだ。真剣な顔で見つめてくる。「佳奈、彼女に任せるんだ。佳奈はここにいてくれ。伝えたいことがあるなら、彼女に電話で伝えてもらえばいい」彼の手は強く、痛いほどだった。けれど、そのまっすぐな瞳は「信じてくれ」と語っていた。他に道はない。私は頷き、雲香がひとりで駆け上がっていく姿を見送った。パトカーに戻ると、軽舟はすぐに無線で応援を要請し、運転手に言った。「このビル、どうも怪しい。いつでも脱出できるよう準備しておけ。この女は一筋縄じゃいかない」私はぞわっと鳥肌が立った。「どういう意味?」軽舟は警戒した目であたりを見回し、無言で私に答えた。それ以上は聞けず、不安で窓の外を見つめる。けれど、軽舟ほどの観察眼は私にはない。何も異変は感じられなかった。だけど、特に何事も起きなかった。一方その頃、雲香が病院のビルに駆け込むと、白衣を着た「医者」たちがすぐに集まってきた。雲香は苛立った声を上げる。「何してんのよ!さっき下にいたのに!なんで捕まえなかったの?女一人と警察二人でしょ、こんなに人がいて!」その中の一人の男が、彼女に低く囁いた。「曲井さん、あまり軽率な行動は……」雲香はその男の顔を平手で打ち、しかしその口元にはますます大きな笑み。「弱虫め。警官二人くらいでビビってんの?こんな腰抜けが私のそばにいる資格なんてないわ」打たれた男は表情ひとつ変えず、淡々と微笑んだ。「曲井さん、お忘れなく。南風様は、安井さんを小さい頃から特別に可愛がっていました。彼女がしっかり護られていなければ、今頃曲井さんが南風様のお気に入り
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第434話

慎一の姿が風の中で揺れるのが見えた。私は両手で車のドアノブを必死に握りしめ、心臓が喉から飛び出しそうだった。もう、どうなっても構わない。このままじゃ慎一は危ない!「軽舟、私、行ってみる。もしかしたら、彼は私に会いたいかもしれない……」言い終わるより早く、ドアのロックがガチャリと下りた。「救助隊も、交渉のプロも、もうすぐ到着する。雲香があと五分だけでも時間を稼げれば、慎一が飛び降りても命は助かる!」「でも、もし彼がそこまで持たなかったら?軽舟、仕事に私情を挟まないで。それは一人の命なんだよ!」私の声は氷のように冷たくなった。「ドアを開けて!」軽舟は私の隣で微かに身を震わせ、まるで氷の彫刻のような表情をしていた。「私の責任は市民の安全を守ることだ。お前も含めてな。前方の一時方向、三時方向、それにビルの右側で巡回している警備チームの動き……これが、ただの病院に見えるか?ここは、もしかすると罠かもしれないんだ。佳奈、もし今慎一が飛び降りて死んでも、たとえお前が一生俺を憎んでも、今ここで車を出ることは、絶対に許さない!」重苦しい空気の中、前で運転している若い警官が落ち着かずに身じろぎした。「安井さん、うちの隊長を信じてください。これまで何件もの事件を解決してきました。捜査にかけては一度も失敗したことがありません。あの建物は、素人が入るには危険すぎる場所です。隊長がここにいるからこそ、私たちは今こうして踏みとどまれているんです。もし隊長がいなかったら、さっき異変を感じた時点で私は逃げ出してました!」「余計なことを言うな!」軽舟が低く叱る。若い警官が何かブツブツ言っているのが耳に入るが、私にはもう蚊の鳴くような雑音にしか聞こえなかった。何も聞こえない。ただ、心がざわめいていた。そのほんの短いやり取りの間に、ビルの屋上で慎一が急に笑い出した。遠くて顔はよく見えないのに、彼が確かに笑っているのが分かった。その笑いは胸の奥まで震わせるような、そんな激しいものだった。私は少しだけ、胸をなでおろすと同時に気づいた。もしかしたら、私の心配は杞憂だったのかもしれないと。慎一には、雲香がいればそれで十分なのかもしれない。慎一が笑ったのは、雲香の言葉を聞いた後だった。「子どもが死んだんだから、俺が死のうがどうでもいい……」慎一は口
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第435話

普段はちょっとした傷でも大騒ぎするような子なのに、今の雲香は手錠の鎖を激しく鳴らしながら、風に消え入りそうな声で必死に叫んでいた。涙まじりの声が、轟く風の中に紛れて、それでも確かに届く。「お兄ちゃん、佳奈が警察呼んで私を捕まえたよ。お母さんも今、警察署にいるの。もしお兄ちゃんがもう生きていくのが辛くて、私たちを置いていこうと思ってるなら……お願い、少し待って。私とお母さんもすぐにそっちに行くから。だって、私たちきっと佳奈に殺されちゃうんだもん!」慎一はその言葉に、ぼんやりしていた視線を雲香の手首へと移した。そこで初めて、雲香が手錠をかけられてきたことに気づいた。唇をわずかに動かし、慎一はぽつりと呟く。「どうして?」「お母さんが佳奈に嵌められて、横領の疑いで捕まっちゃったの。どうしてかわからないけど、お母さんは佳奈が復讐のためだって……」慎一は無表情のまま、青空を見上げる。自分のせいで佳奈が子供を失い、その恨みが周りの人に向いたのだと思っていた。彼は静かに言う。「俺がいなくなれば、もうお前たちを責めることもないだろう……」両腕を広げ、慎一は恐れもなく後ろへ歩を進める。この世に彼の足を止めるものなど、もう何もなかった。彼は、どこか晴れやかに笑った。微風が吹き、陽射しはやわらかく、きっと、生きて感じる最後の温もりだった。彼の足元から小石が転がり落ち、地面につく前に粉々に砕け散った。「お兄ちゃん!」雲香が叫ぶ。「佳奈は絶対に私たちを許さない!私、今すぐ佳奈に電話する!」佳奈に電話する――その言葉に、慎一の沈んだ瞳が一瞬だけ明るさを取り戻した。彼は何も言わなかったが、その目は期待に満ちていた。雲香はもう迷わず、佳奈へと電話をかける。私の手の中で、スマホがまるで時限爆弾のように震え出す。緊張で両手が震え、指先はすっかり冷たくなって、何度もタップしてようやく通話を繋げた。数秒――慎一には、まるで何年にも感じられただろう。彼女は出たくないのか?俺が死ぬってわかっていても、もう一言も話したくないのか……胸に手を当てても、もう心臓は痛まなかった。「し……慎一……」私は声を絞り出すが、すぐに喉が詰まり、涙が零れ落ちる。「慎一、子供はまだ生きてる。私もいる。だから、降りてきて!聞こえてる?お願い、お願いよ!」全身の力を
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第436話

頭の中がまるで壊れた蛇口のように、慎一を生かすために必要な言葉を次々と溢れさせていた。理性なんてどこかに消えた。ただ、脳裏に「慎一」という名前が焼き付いて、それ以外はすべて霞んでいた。長い目で見れば、これが私にできる最大限の譲歩だ。ただ彼が屋上から降りてきてくれるなら、この二ヶ月積み上げてきた計画だって、全部白紙に戻してもいい。なぜ私はこんな短時間で決断できたのか、理由なんて分からない。ただ一つ確かなのは、もう彼を愛しているからじゃない。私はきっと、ただ後悔したくないだけなんだ。夢の中で、男が高い場所から身を投げる光景を何度も見るような後悔は、もう嫌なんだ。かつて冷たい言葉を浴びせ、無関心でいたことを悔やみたくない。これ以上、苦しみに苛まれたくない!だから、もう考える必要なんてない。損得なんて天秤にかけない。ただ、ただ、彼に生きていてほしいだけだ!だけど私の知らないところで、私が「命を懸けてでもあの女たちを許さない」と言った瞬間、電話は雲香で静かに切られていたのだった……彼女はその場に崩れ落ち、膝をついて、泣き崩れていた。「お兄ちゃん、私、小さい頃から家族の温もりなんて知らなかった。でも、お兄ちゃんに出会って、ようやく全てがよくなった気がしたんだ。家族って呼べる場所ができたと思ったのに……今、それを全部失っちゃうの?」慎一は「家族」という言葉を聞いて、ついに心を揺らす。「家族」――それは彼にもなかったものだ。幼い頃から雲香を大事にしてきたのは、きっと自分たちが似たような孤独を抱えていたからだろう。雲香が初めて慎一の家に来た時は、小さな体で、笑顔の裏に怯えを隠していた。慎一も年齢的にはもう子供じゃなかったけど、新しい家で必死に馴染もうとする雲香の姿を、見逃すはずもなかった。まるで昔、祖母に気に入られようと必死だった自分を見るようだった。同じ思いを他の誰にもさせたくなかったから、慎一は雲香を受け入れ、妹として迎え入れた。その時初めて、彼自身も「家族」という温もりを知ったのだった。「お兄ちゃん、私はもともと何も持っていなかった。もし、お兄ちゃんがこの世を去ることで幸せになれるなら、私は理解しなきゃいけないのかもしれない。でも、お兄ちゃんがいなくなったら、お母さんも警察に連れていかれて、私はどうなっちゃうの?」雲香
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第437話

いったい、いつからだろう。佳奈が、自分の心の中でこんなにも大切な存在になってしまったのは?あのときだろうか。彼女が目を赤くして「私と雲香、どっちを選ぶの?」と問いかけてきたあのとき?それとも、彼女が素直でいじらしく、自分の腕の中で快楽に身を委ねていたとき?あるいは、彼女が何度も何度も決意を固めて、離婚しようと言い出したとき?それとも、彼女が自分の知らないところで輝きを放ち、他の男たちの憧れの的になっていると知ったとき?父親ですら、自分の人生にこんなにも鮮烈な印象を残せなかったのに、かつて何の関心もなかったはずの彼女は、やってのけた。「死んだって、生きてる人は守れない!」佳奈はそう言った。もしかしたら、自分にもまだ守りたい人がいるのかもしれない。守りたいその人のためなら、もう一度この痛みを耐えてみよう。守りたいその人のためなら、必死で生きてみよう。彼女にだけは、絶対に傷ついてほしくない。慎一は、固まってしまった両脚を引きずるようにして、屋上からゆっくり降りてきた。その姿を見つけた雲香が、彼の胸に飛び込んでくる。「お兄ちゃん!やっぱり私を捨てていくなんてできないって思ってた!」慎一は、腕の中の雲香を見下ろし、そっと彼女を押し離す。そして淡々と、冷ややかに告げた。「法を犯すようなことはするな。どんな理由があっても」雲香は、再び頼れる人ができたという満足感に浸りながら、慎一がいる空気を貪るように吸い込んだ。そして、うっとりと目を閉じ、小さく囁く。「分かったよ、お兄ちゃん。ちゃんと生きててね。私、ずっとお兄ちゃんの可愛い妹でいるから。佳奈に見せつけてやろうよ、彼女がいなくても、お兄ちゃんはちゃんとやっていける。元気になったら、見返してやろうね!」……慎一が屋上から降りてきた瞬間、私は思わず声を上げて喜んだ。電話で何か言おうとしたとき、いつの間にか通話が切れていて、画面も暗くなっていることに気づく。でも、別にいい。慎一には、私の言葉がちゃんと届いているはず。だって、あんなに大声で叫んだんだから。軽舟が私の肩をぽんと叩く。「行こうか。お前の行きたい場所へ送るよ」彼もきっと、あの「もう一度やり直すって言った場所で待ってるから」という言葉を聞いていたのだろう。彼は私の選択を尊重してくれた。それに、きっと祝
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第438話

新居の別荘で、私は夜がすっかり更けるまでずっと待っていた。指先で高層ビルや、あの男の姿をなぞってみる。漆黒の闇が窓ガラスに映し出すのは、ひどく疲れ切った私の顔だけだった。まるで、すべての結末を知っていながら、それでも諦めきれずにいるかのようだった。時計の針が、静かに十二時を指したその瞬間、携帯が突然鳴った。【佳奈、警察が海苑の別荘をぐるりと囲んでる。もしお兄ちゃんを死なせたいなら、警察を入れて私を捕まえればいいじゃない!】雲香からのメッセージ。まるで隠す気もない、むき出しの挑発だ。私は窓ガラスを手のひらで何度もこすった。でも、心のざわつきは消えない。代わりに、手のひらは埃だらけになった。私は、雲香の脅しにしっかりと動揺していた。事実、雲香が言った通りだ。もし雲香がいなかったら、慎一もきっと、もうこの世にいない。今日のこの状況を招いた責任がどれくらい自分にあるのか、正直分からない。でも、私は決して無実の人間じゃない。私はふと立ち上がり、家の水槽のそばへ行った。中で腐りかけた小魚の亡骸をすくい取り、別荘の庭の土に埋めて、苦笑した。雲香を許す?手にしていた花用のスコップを、土に深く突き刺す。これまで慎一のために、何度雲香を見逃してきたのか、もう数えきれない。卓也はずっと別荘の外で待っていて、私が出てくるとすぐに車に乗せて病院へ連れて行ってくれた。丸一日ほとんど寝ていなかったせいで、私の体はとっくに限界だった。病院で二日間入院して、幸いにも妊娠のケアはずっと続けていたから、不安定ながらも大事には至らなかった。軽舟は行動が早い。三日も経たないうちに、事件の全貌を突き止めて私の元へやってきた。顔には疲れが滲んでいる。「この数日、大変だったね。全部片付いたら、ゆっくり休んで」私はベッドから起き上がり、自然と会話を交わす。「俺はまだ大丈夫だけど、慎一の方にちょっとプレッシャーがかかっているよ。佳奈が知らせるなって言っていたから、彼にはまだ何も伝えていない。でも、これ以上は隠しきれない。ルールにも反するし」「分かってる。もし慎一から面会の希望がなきゃ、私から直接伝えるよ。それで、軽舟、何か分かった?」事件の話になると、軽舟の目が輝いた。「曲井風凪は、自分がすべてやったと主張している。でも彼女の証言から
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第439話

会議室の中、慎一は片手をポケットに突っ込んだまま窓辺に立っていた。長身の彼は足を優雅に組み替え、その佇まいはまるでこの場所が自分のものであるかのように、微塵も気後れなど感じさせなかった。ただ静かにそこに立っているだけ。背中しか見えていなくても、そこにあるのは明らかに支配者の威圧感だった。もし彼の過去を知らなければ、誰が数日前、絶望の淵でビルの屋上に立っていた男と、この完璧な男とを結びつけることができただろうか。あの時の光景を思い出すだけで、私は心の中がぐちゃぐちゃになり、つい苦笑いを浮かべてしまう。私が崩れそうになるのは、彼を追い詰めた最後の一押しが自分だったせいなのか、それとも彼に同情してしまった自分自身が情けなくてなのか、自分でも分からない。会議室のドアがガチャリと開き、卓也が入ってきた。その瞬間、慎一が振り返り、ちょうど私の皮肉な微笑みと目が合った。彼はちらりと会議机の前に座る雲香を見やる。その瞳は一瞬陰りを帯びたが、私に声をかけてくることはなかった。むしろ雲香の方が、私を見つけた瞬間から得意げな表情を隠せずにいた。「佳奈、お兄ちゃんは仕事の話だって言ってたけど、私どうしても心配で付いてきちゃったの。迷惑じゃないよね?」私は淡々と「ええ」とだけ返し、椅子に腰掛けた。しかし見えないところで、手にした資料をぎゅっと握りしめていた。慎一は奥歯を噛み締め、痩せた横顔に力が入っている。その目は赤く、向かいの私の顔から何か感情の起伏を探そうとして……しかし、何も見つけられなかった。もう自信なんてないのだろう。彼ははっきり分かったのだ、この女はもう自分のことなんて考えていないと。たとえこの数日会わなかったとしても、もう二度と会えないかもしれなかったとしても。昔の彼なら、どんな手を使ってでも彼女の目に自分を映させようとしただろう。でも、今の彼にそんな資格があるのか。彼は伏し目がちに机を見つめ、冷たい声で言った。「さっさと済ませろ」私はふっと笑い、つい場違いなことを口にした。「大丈夫?ここに座ってるの、辛くない?」その言葉に、慎一の目が一瞬だけ潤む。途端に、どうしようもない無力感に襲われた。彼女が本当に彼のことを気にしているなら、あの日、彼を見捨てて帰ったりしなかったはずだ。今さら何が起きても、あの日ほどの出来事は
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第440話

昨夜は、一睡もできずに夜を明かした。金さえあれば、動かせないものなんてない。非常時に、卓也は非常手段を使った。買収できる人間は、いつだって金で転ぶものだ。軽舟から受け取ったリストを一人ずつ当たっていき、私はついに欲しかった情報を全て手に入れた。雲香は霍田当主が透析を受けているとき、彼の延命装置を引き抜いた。やり方は、残酷と呼んでも言い過ぎじゃない。慎一は苦々しく笑い、もう何も準備することなどないと悟った。「言ってくれ」と彼は促した。こんなにも心が揺れるのは初めてだった。慎一のそばに、雲香を残していいのだろうか?雲香は、どれだけ慎一が弱り、もう彼の盾になれなくなっても、決して彼を見捨てたりしないのだろうか?頭の中には次々と疑問が浮かぶ。でも、どれも私には答えが出せなかった。私は静かに慎一を見据えた。「慎一、答えて。今、幸せにしてる?雲香がそばにいて、少しは気が楽になった?」この問いの答えは、彼自身にしかわからない。私ができるのは、彼が生きていきたいと願うなら、全て彼の選択に委ねることだけだ。慎一は驚いたように目を上げ、心臓を撃ち抜かれたような顔をした。なぜ佳奈がこんな質問をするのか分からず、妙な不安を覚える。でも、きっと何か意図があるのだろう。佳奈が雲香を嫌っているのは知っている。佳奈が霍田夫人を陥れたことも知っている。でも、ここまで憎しみを募らせて、彼の周囲から人を消そうとしているのか?佳奈は、どうしてこんなにも冷酷になれるのだろう?怒りが彼の瞳に燃え上がる。父親はすでにいない。母親も今や牢屋の中。妻とは離婚し、妹の手には手錠――雲香にまで手を伸ばすつもりなのか。慎一の青白い顔に、深い闇の色が宿る。ふと、脈絡もなく呟いた。「お前は俺が育てた野良狼だな」自分が育てた野良狼に、今まさに喰われようとしている!彼は会議室を見渡し、片方の口元を歪めて笑った。「俺が楽になったところで、何になる?楽でなかったら、何になる?」「別に。ただ、答えが聞きたかっただけ」その言葉が、私の次の言葉を決めた。慎一は眉をひそめた。「それが、そんなに大事か?」彼の冷たい視線に耐えきれず、私はゆっくりと目を閉じた。「大事だよ」慎一は鼻で笑った。「お前が雲香を嫌ってるのは分かってる。今のお前には、それな
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