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第1541話

執事はため息混じりにそう語った。「若旦那様は、ずっと透子様のことを忘れられずにおられるのです。これまでの一連の行い、極端なものも含めまして、すべては愛ゆえのこと。わたくし個人としましては、やはりお二人が結ばれることを願っております。もちろん私心ではございますが、若旦那様には幸せな愛を手に入れていただきたいのです」新井のお爺さんはそれを聞きながら、遠くを見つめて物思いに沈んだ。――孫の恋路が順調であることを、わしが望んでいないはずがあろうか。自分の体のことは自分が一番よくわかっている。どうにか命を繋いでいるだけで、すでに人生の終着点に立っているのだ。かつての願いは、死ぬ前にひ孫を抱き、孫の事業と家庭の両方が円満になるのを見届けることだった。そうすれば思い残すことなく、安心してこの世を去れる。だが今となっては、その願いは到底叶わないだろうと思い知らされていた。死ぬ前に蓮司を新井グループの後継者として確固たる地位につかせることができれば、水野のお爺さんへの何よりの顔向けになる。あの世へ旅立った後も、早逝した蓮司の母親に胸を張れるというものだ。新井のお爺さんはそう心の中で策を練り、一刻も早く回復して、せめて簡単な意思表示だけでもできるようになりたいと願った。そうすればすぐに遺言を公表し、悠斗が地位を奪う道を完全に断ち切れる。博明にもこれ以上、自分や私生児にまだチャンスがあるなどと勘違いさせ、好き勝手させておくわけにはいかない。脳卒中で倒れる前、新井のお爺さんは悠斗を使って蓮司を牽制し、危機感を抱かせることで、恋愛に溺れるのをやめさせようと考えていた。しかし今となっては、体がもう待てない。いつ次の発作が起きるかわからないし、次こそは持ちこたえられないかもしれないのだ。今回は、ひとえに蓮司が心配でならないというその気力だけで、どうにか持ちこたえたのだ。このまま死ねば、博明は世間に向かって「親父は蓮司に激怒させられて死んだのだ」と言いふらすだろう。そうなれば外部からの非難が殺到し、取締役会の内部からも圧力がかかり、蓮司の立場は間違いなく危機に陥る。新井のお爺さんは深い憂慮に包まれ、限られた時間の中でいかにして蓮司の未来に道を敷くか、そのことばかりを考えていた。しかし、ふいに執事が言った言葉を思い出した。あの馬鹿な孫は
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第1542話

新井のお爺さんはそれを聞きながら、実は自分でも今回の脳卒中は不可解だと感じていた。蓮司の言う通りだ。この馬鹿な孫がこれまでしでかした問題は、数え切れないほどある。透子のプロジェクトに細工をし、人命を危険に晒すようなことまでやってのけた。あの時、どれほど激しく怒っても、少し胸が苦しくなり呼吸が乱れる程度で、薬を二錠飲めばすぐに治まった。言ってしまえば、蓮司に何度も怒らされ続けた結果、心臓も鍛えられてすっかり麻痺してしまったのだ。理屈で言えば、今回、蓮司が病院のベッドで大人しくせずに詐病を使って透子を騙し、会いに行ったという話など、過去の所業に比べれば象と蟻ほどの差でしかない。それなのになぜ、自分は脳卒中で倒れたのだろうか。なぜあれほど突然発作が起きたのか。ほんの少しの前兆すらなかった。あの時、自分は入院中で、毎日測る血圧も正常だった。急性脳卒中を起こす理由などどこにもないはずだ。新井のお爺さんは眉をひそめた。考えても答えは出ず、筋が通らない。あり得ないことだ。しかし、倒れる直前に、蓮司が詐病を使って透子に会いに行ったという話を耳にしたのは事実だ。あの時、直接殴りに行こうとした結果、病室のドアを出ることすらできずに倒れてしまった。新井のお爺さんがいくら考えても納得がいかずにいる一方、病床の脇にいる蓮司は、お爺様に無視されているのは、自分のせいで脳卒中になったことをまだ根に持っているからだと思い込んでいた。蓮司は悪さをして叱られた子供のようにしょげ返り、うなだれてひどく落ち込んだ様子で座っている。新井のお爺さんは言葉を発せないが、心の中で思った。数日前、目を覚ました時に、すでにこの孫には伝えたはずではないか。あの時、蓮司は床に跪き、自分は瞬きで立ち上がるよう促したはずだ。もし本当に怒っていたなら、あの時点で相手になどしていなかっただろう。新井のお爺さんは、蓮司が自分を責め続けている姿を見て、少し不憫に思った。蓮司に向かって瞬きで合図を送ったが、何度も瞬きを繰り返し、まぶたが疲れてきても、この馬鹿な孫は一向に顔を上げようとしない。新井のお爺さんは疲れてしまった。死にかけの老いぼれがベッドで身動きも取れずに横たわっているというのに、なぜ自分が誰かを慰めなければならないのか。自分の方がよほど可哀想ではないか。
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第1543話

「わたくしが旦那様に確認いたしました。旦那様は若旦那様を嫌ってなどおられません」蓮司は言った。「じゃあ、どうしてお爺様は俺を無視するんだ?最初は白い目を向けてきたのに、今はそれすらしないで、ただ目を閉じて俺を見ようともしない」執事は言葉に詰まった。それについては自分にもわからなかったのだ。説明のしようはなかったが、一つだけ保証できることはあった。「旦那様が若旦那様を嫌っていないことだけは確かです。その点だけはご安心ください。旦那様がお話しできるようになられましたら、ご自身で直接お尋ねになればよいのです。今は旦那様がお言葉を発せない状態ですから、祖父と孫の間で無用な誤解を生むべきではありません。ましてや、若旦那様がお一人で思い悩む必要などないのです」蓮司はもっともだと思った。すべては、お爺様が話せるようになってから直接聞けばはっきりすることだ。……翌日。予定されていた三組の面会客のうち、二組は執事が出迎え、病室へと案内した。蓮司は病院の入り口で透子を出迎える役目に専念し、ついてきていたボディーガードたちを少し後ろへ下がらせた。今日は念入りに髪をセットし、久々に仕立ての良いスーツを身にまとい、無精髭も綺麗に剃り落としている。全く新しい姿で透子に会いたかったのだ。コースターが敷地内に入ってくると、蓮司はすぐさま胸を張り、堂々とした足取りで車の方へ向かった。ほんの十歩足らずのコンクリートの地面だが、蓮司はまるでレッドカーペットの上を歩いているかのような風格を漂わせ、周囲にスポットライトでも当たっているかのようだった。コースターが止まり、蓮司は近すぎず遠すぎない絶妙な距離に立った。車のドアが開き、沸き立つ高揚感を抑えつつ、満面の笑みを浮かべて口を開く。「とう……」しかし、その声が出るより先に、視界に飛び込んできたのは雅人の冷たく人を寄せ付けない顔だった。その瞳の奥には、微かな殺気すら宿っている。一瞬にして、蓮司の纏っていた華やかなオーラは打ち消され、顔の笑みもピクリと引きつった。「橘社長……」蓮司は頭を下げ、恭しく挨拶をした。雅人は一切反応を示さず、まず自分が車を降りると、手を差し出して透子をエスコートした。橘の両親も反対側のドアから降りてきた。雅人はそのまま妹を連れて病院の中へと歩き出し、終始蓮
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第1544話

そのことを思い出すと、美佐子の目に映る今日の蓮司は、善人の皮を被った偽善者にしか見えなかった。面会の時間が重ならないよう手配されていたため、病室に到着した時には橘家の面々しかいなかった。執事がすでにベッドの背もたれを起こしており、新井のお爺さんは上体を起こした状態で橘家の人々を迎えた。言葉が話せないため、懸命に手を上げて挨拶しようとしている。祥平がすぐさま声をかけた。「おじ様、どうかそのままお休みになっていてください。我々にお構いなく」新井のお爺さんがゆっくりと瞬きをすると、執事が傍らで説明を加えた。「旦那様は現在、瞬きをすることしかおできになりませんが、幸い意識ははっきりしております。ですので、皆様のお話はすべて理解しております」祥平と美佐子は、目の前の新井のお爺さんを見つめた。ほんの数日前に会ったばかりだというのに、今日見ると、まるでさらに十歳も老け込んだかのようで、顔のシミまで増えているように感じられた。二人は先ほど道中で蓮司から二度目の脳卒中について聞いていたため、心から痛ましく思った。これほどの高齢で過酷な闘病を強いられているのだ。一度目の脳卒中で脳内出血を起こし、二度目も血圧の急上昇による微小な血管の破裂だったという。まさに生き地獄だろう。透子がベッドのそばに寄り、優しく気遣うように尋ねた。「お爺様、お加減はいかがですか?どこかお辛いところはありませんか?」新井のお爺さんの衰えきった姿を見て、透子は胸を締め付けられるような悲しみに襲われた。目頭が熱くなり、瞳に涙が滲み始める。新井のお爺さんは、透子が今にも泣き出しそうなのを見て、慰めるように瞬きをした。しかしあまり効果がないと悟り、懸命に腕を持ち上げようとする。それに気づいた透子は、自ら手を伸ばしてその手を握りしめた。枯れ枝のように痩せ細った指の感触に、ついに涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。透子が泣いているのを見て、ベッドの反対側にいた蓮司がすかさず回り込んできた。ポケットからハンカチを取り出し、透子の涙を拭おうとする。しかし、手を伸ばすより早く、大きな背中が目の前に立ちはだかった。蓮司は、突然割り込んできた雅人を見つめ、唇を引き結んで黙り込んだ。手にしたハンカチをぎゅっと握りしめ、やがて静かにポケットへ戻した。雅人はティッシュを取り出し、妹の涙
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第1545話

新井のお爺さんの老いを、ここまで生々しく肌で感じたのは初めてだった。命の灯が静かに細りゆく――どれほど抗おうと、その歩みを止める術はないのだと、透子は胸に突きつけられたような気がした。傍らに立っていた蓮司は、止めどなく涙を流す透子を見かねて、穏やかに声をかけた。「透子、お爺様は大丈夫だよ。話せないし動けないだけで、それ以外は意識もしっかりしてるから」――本当なら、雅人に代わって透子を腕の中に抱き寄せて慰めてやりたい。だが、どれほど隙をうかがい、タイミングを見計らっても、雅人が鉄壁のように立ちはだかり、入り込む余地など微塵もなかった。「意識がかなりしっかりしてるんだ。本当だよ。もし口がきけたら、昨日の時点で俺はこっぴどく怒鳴りつけられてたはずだからね」口先でしか慰められないもどかしさ。それでも一刻も早く透子の涙を止めたくて、蓮司はつい自虐的なことまで口にしてしまった。その言葉が耳に入った途端、祥平と美佐子は思わず顔を見合わせ、揃って蓮司に視線を向けた。だが当の本人は、自分が何をしでかしたのかまるで気づいていない。ベッドの上で、新井のお爺さんが心中で毒づく。――この大たわけが。家の恥を外に撒き散らしてどうするつもりだ。呆れて白目を剥きそうになる。まったく、腹が煮えくり返る。蓮司という男は、透子を前にすると途端に頭が空っぽになりおる。彼女を宥めるためなら、自分が叱られたことすら笑い話にしてしまうのだ。だが、頼むからわしを巻き込まないでほしい。お前は恥をさらしても平気かもしれんが、わしはこの歳で赤っ恥をかかされるのは御免だ。新井のお爺さんが静かにまぶたを閉じたのを見て、祥平と美佐子は疲れて休みたいのだろうと察し、辞去を申し出た。言葉を発せず、客をもてなすこともできない新井のお爺さんは、目配せで蓮司に見送りを促す。「お加減がよくなりましたら、またお見舞いに伺いますよ」祥平が穏やかに告げた。新井のお爺さんはゆっくりと一度だけ瞬きをした。――その言い回しからすると、橘の一家はもうしばらく国内にとどまるつもりらしい。何があって出国の予定を延ばしたのだろうか。蓮司は先導して病室を出ると、話をしながら歩き始めた。だがその足が、無意識のうちにじりじりと透子の方へにじり寄っていく。雅人がすかさず牽制に動いた。蓮司と透子の距離が
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第1546話

「橘会長、奥様、雅人さん、栞さん!皆様、父のお見舞いに来てくださったのですね。父の様子はいかがでしたか?意識はしっかりしていましたか?私は家族でありながら門前払いを食らっていまして、中に入ることすら許されず、父がどんな状態なのかも知らされないままなのです」そう言って、博明はいかにも重苦しげにため息をついてみせた。聞いていた蓮司が、冷たい目をすっと博明へ向けた。――この男は本当に面の皮が厚い。自分の非には一切触れず、さも俺が面会を妨害しているかのように仕立て上げ、橘家の前で俺の印象を貶めようとしている。祥平は当たり障りなく答えた。「おじ様の容態は安定していましたよ。気力もまずまずでしたが、まだ目を覚ましている時間は短く、お体を休める必要があるようでした」「それを伺って少し安心しました。父がこちらの病院に移ってからというもの、気が気ではなくて……それなのに実の息子であるこの私が、いまだに枕元にも立てないとは」博明は遠回しに嘆き続け、己の孝心を演出しながら、暗に蓮司の冷酷さを橘家に印象づけようとしていた。「本日はわざわざお越しいただき、父もさぞ喜んだことと思います。先日も本家の者たちが見舞いに来たのですが、結局一人として病室には通してもらえなかったそうでして……」ねちねちと告げ口じみた不満を並べ立てる博明に、蓮司はついに堪忍袋の緒が切れ、冷え切った声で言い放った。「下心のある人間をお爺様に近づけないだけだ。本家の連中を通さなかったのは、あの時お爺様がまだ意識を取り戻していなかったからだ。それに、誰かさんの手駒に利用されるのを防ぐ意味もある」博明がかっと目を剥いた。だが言葉を返すより先に、蓮司が畳みかけた。「あんた。橘家の皆さんの前で、自分のしてきたことを全部暴かれたいなら、好きなだけ続ければいい」博明はぎりっと歯を食いしばった。ここで蓮司とやり合ったところで、勝とうが負けようが橘家にこの醜態を晒すことに変わりはない。そうなれば残るのは、「家庭ひとつ治められない腑抜け」という烙印だけだ。天秤にかけた末、体面を取った。博明は震える拳を握り込んで怒りを呑み下すと、蓮司から視線を切り、こわばった笑みを貼りつけたまま祥平へ向き直って愛想よく話しかけ始めた。蓮司はその様を、冷淡な目で見下ろしていた。唇の端に、かすかな嘲りがにじむ
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第1547話

祥平が静かに口を開いた。「彼らがどう争おうと、それは彼らの問題だ。おじ様が穏やかな晩年を過ごせるなら、それでいい」雅人がすかさず切り返す。「あれだけ揉めていては、穏やかな晩年など望めないだろう」祥平は黙り込んだ。――確かに、息子の言う通りだ。子や孫が骨肉の争いを繰り広げ、掴み合いまでしている。あんな光景を見せられて、心を痛めない親がいるはずもない。雅人は淡々と続けた。「父子で権力を争い、その周りでは隠し子まで機をうかがっている。規模の大きな一族なら、どこにでもある話だ。ただ、新井のお爺様の二度目の脳卒中には博明さんが絡んでいるという話もある。真偽はさておき、仮に事実なら――実の父親に刃を向けるなど、人の道に外れている」美佐子が驚いた声を上げた。「え?お爺様の二度目の発作は、博明さんのせいだというの?」雅人が答えた。「あくまで伝聞だけどね。前回僕たちがお見舞いに行った後、間もなく倒れたらしい。義人叔父さんによれば、発作が起きた時、病室にいたのは博明さんだけだったそうだ。監視カメラの映像も確認済みだと。映像では、博明さんがベッドの傍らで何かを言い、その直後にお爺様が倒れている。ところが博明さん本人は、刺激するようなことは何も言っていないの一点張りで、決して認めようとしない。それどころか、蓮司が来たせいでお爺様が興奮して倒れたんだと言い張っているらしい」美佐子は眉根を寄せた。別に蓮司の肩を持つわけではない。ただ、客観的に考えればおかしな話だ。「蓮司を見て怒ったのが原因なら、その場ですぐに倒れているはずでしょう。後になってから発作が起きるなんて筋が通らないわ。私たちがいた時も蓮司は同席していたし、親子で言い合いにすらなっていたけれど、お爺様に変わった様子はなかったじゃない」つまり、博明の主張はどう聞いても理屈に合わない。誰の耳にも苦し紛れの詭弁としか響かないだろう。祥平が聞いた。「カメラを確認したなら、博明が何を言ったかわかるんじゃないのか。双方で押し問答する必要もあるまい」雅人が首を振った。「あの病院の監視設備が旧式で、映像しか録れていない。音声は入っていなかったんだ」祥平は言葉を呑んだ。――設備の旧さか。そこは盲点だった。美佐子が指摘した。「けれど今の段階では、事情を知る内部の人間はみな、一
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第1548話

もし本当にあの医者が買収されて手引きをしていたなら、それは人命に関わる重大な犯罪だ。新井グループほどの一族が、黙って見過ごすはずがない。祥平が静かに切り出した。「我々も少し手を貸そう。義人一人にすべてを背負わせるわけにはいかん。あの医者の周辺を当たってみよう」今の新井グループの内部は、権力闘争で混沌としている。博明の派閥がかき回し、蓮司を支えられる人間はごく僅かだ。しかも蓮司本人は自身の怪我の治療とお爺さんの看病を抱えている。今回、蓮司が娘の命を救ってくれた恩を思えば、この程度の力添えは当然のことだった。雅人が応じた。「ああ、スティーブに指示して……」そこへ、不意に透子が口を開いた。「お父さん、お兄さん、大丈夫よ。あの病院の先生のことなら、義人叔父様がもう調べ終わっていて、問題なかったってわかってるから」車内の三人が、一斉に透子へ目を向けた。美佐子は目を丸くし、雅人はわずかに眉をひそめる。祥平が聞いた。「栞、なぜそれを知っているんだ?義人に直接聞いたのか?」透子が首を横に振ると、すかさず雅人が畳みかけた。「まさか新井から聞いたんじゃないだろうな」その一言に、透子の心臓がわずかに跳ねた。――やはり兄の勘は鋭い。そう簡単に誤魔化せる相手ではない。。それでも透子は表情を崩さず、そっと拳を握り込みながら答えた。「ううん。新井家の高橋さんに聞いたのよ。この二年の間にお爺様や高橋さんとは親しくさせてもらっていたし、今回お爺様のことがとても心配だったから、私から高橋さんに連絡してみたの」三人はそれぞれ納得したように視線を前に戻した。筋は通っている。素直で聡明で、心根の優しい透子が嘘をつくはずがない――誰もがそう信じて疑わなかった。雅人も疑念を解いた。今日の面会中、妹は終始蓮司を空気のように扱い、一度として目を合わせなかったことを思い出したからだ。話が落ち着いたその時、車内にスマホのバイブ音が響いた。雅人がちらりと視線を送ると、透子がスマホを取り出し――画面を一瞥した途端、すっとしまい込んだ。その不自然な素振りに、雅人が声をかける。「どうした?誰からだ?」「なんでもない。迷惑メールよ」透子は涼しい顔で答えた。雅人はそれ以上追及しなかった。やがて祥平と美佐子が別の話を始め、透子は窓の外に目を向けたまま、心の中
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第1549話

その頃、透子たちはちょうど家に着いたところだった。車を降りた瞬間、透子のスマホが鳴った。彼女は画面をちらりと見て、即座に切った。美佐子が首をかしげた。「どうして出ないの、栞?」「セールスの電話よ」透子はさらりと答えた。雅人が怪訝そうに口を挟む。「君の番号は通信会社に手配して、情報が漏れにくいようにしてあるし、迷惑電話も自動で弾く設定にしてあるはずだ。それでもセールスがかかってくるのか?」透子は内心、しまったと唇を噛んだ。――やっぱり嘘はつくものじゃない。次の瞬間にはもうボロが出る。「ただの知らない番号だったから、てっきりセールスかなって思っただけよ」透子はぎこちない笑顔でごまかした。「知らない番号か。スティーブに持ち主を調べさせよう」雅人の声は真剣だった。透子の個人番号は、一般の人間がそう簡単に入手できるものではない。「いいってば、お兄さん。スティーブだって毎日忙しいんだから、こんな些細なことでわざわざ手を煩わせなくていいわよ。前にプロジェクトでやり取りした人かもしれないし、後でかけ直して確認してみるから」それを聞いて、雅人はそれ以上踏み込むのをやめた。だが胸の奥には、一抹の寂しさが残る。たったこれだけの些細なことすら、妹は自分を頼ろうとしない。幼い頃に生き別れ、施設で育った透子は、何でも自分一人で片づけようとする性分が骨の髄まで染みついている。どれほど近しい家族であっても、迷惑をかけまいとする。甘えることを知らないのだ。雅人は前を歩く透子の背中を見つめ、表情にうっすらと哀しみを滲ませた。よその兄妹がどんな関係なのかは知らない。ただ自分は、妹の身の回りのことをすべて整えてやりたいと思っている。悩みも苦労も何ひとつ背負わせず、ただ毎日、笑って暮らしてくれればそれでいい。少し気が沈んでいたせいか、先ほどの「知らない番号」の件が妙に引っかかっていた。十分ほど経って、雅人はスティーブにメッセージを送り、透子から番号の調査依頼が来ていないか確認した。返ってきた答えは「来ていません」、雅人の胸がさらにずしりと重くなった。――これだけ時間が経ったということは、やはり自分に頼ることなく一人で片づけてしまったのだ。スティーブから「何かあったのですか」と逆に聞かれ、雅人はしばし唇を引き結んだ。両親に
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第1550話

【それに、これは「お嬢様が何もかも社長を頼りたがらない」というレベルの話ではないかと。言ってみれば手を洗うのと同じ程度の、ごくごく日常的な些事です。まさか手を洗う前にいちいち社長へご報告なさったり、社長に洗っていただいたりするわけにはいかないでしょう?】スティーブは、自分の宥め方も喩えもなかなか的を射ていると自負していた。これを読めば、社長ももう考えすぎることはあるまい。だが現実は甘くなかった。今の雅人の頭は完全に感情に支配されており、理性のかけらも残っていなかったのだ。【実を言うと、栞のために城を一棟買って、何十人もの使用人をつけて身の回りの世話をさせようかと考えたことがある。そうすれば、手を洗うような些細なことすら自分でやらなくて済む。それに、僕がそばにいる時に栞が甘えて任せたいと言うなら、喜んで世話をしてやりたいと思う】画面を凝視したまま、スティーブは完全にフリーズした。――誰でもいい。今すぐ来て、この状態の社長を連れ去ってくれ。そして、まともな方の社長を返してほしい。社長は冗談を言っているのではない。本気だ。「喜んで」という一語が、その本気度を如実に物語っている。返す言葉が見つからなくなったスティーブは、とりあえず関連する記事を検索し、そのリンクをそのまま送りつけた。「シスコンの人に見られる典型的な特徴とは?」「きょうだいへの支配欲・独占欲が強すぎる場合の対処法」「心理カウンセラーが解説:子供への支配欲が強すぎると反発を招き、親子の溝が深まる原因に」リンク先を一つずつ読み終えた雅人は、しばらく沈黙した後、スティーブにメッセージを送った。【つまり君は、僕が妹に対する支配欲やら独占欲やらが少々強すぎると言いたいのか】スティーブは心の中で即座にツッコんだ。――「少々」ではございません。「極めて」です。だが口が裂けてもそうは言えないので、慎重に言葉を選んで返した。【多少その傾向はおありかと。ただ、根本にあるのは、社長がお嬢様との二十年という空白を埋め合わせたいと強く願っておられるからでしょう。お嬢様はご家族と二十年もの間離れ離れになり、その間に数え切れないほどの辛い思いをされてきたのですから。そのような状況であれば、最上のものをすべてお嬢様に差し上げたいと思われるのは至極当然のことです。
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