All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1071 - Chapter 1080

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第1071話

夜が更けた。村の入り口でいちばん立派な一軒家も、ようやく灯りの大半が消えた。酒を飲みに来て、ついでに食事までご馳走になっていた村人たちは、三々五々、帰っていった。翠乃は客を見送り、家に戻ると片付けを始めようとした。木のソファに腰を下ろした博は煙草をくゆらせながらぶつぶつと言った。「他人はごまかせても、俺の目はごまかせねえ……また、あいつにいじめられたんじゃないのか?あの小僧が不誠実な真似をしたなら、俺があいつの脚を叩き折ってやる。朝倉家の世話にならなくてもいい。豊海村に戻って、俺が漁をして、おまえと愛樹、愛夕を養う」淡い黄色の灯りが、部屋に滲む。翠乃は食器を片付けながら、そっと首を振った――「……いいえ。いじめられてなんか、いないわ。お父さん。愛樹や愛夕のことを考えたの。イギリスの生活に、あの子たちが馴染めないかもしれないし……それに、私もお父さんを置いて行けない。いろいろ考えて、イギリス行きはやめることにしたの。国内でも勉強はできるし、仕事だって持てる。そうすれば、お父さんのことも見ていられるでしょう」……博は俯き、手にした煙草の吸い殻をじっと見つめた。しばらくして、口に含んだ最後の一服を力いっぱい吸い込む。それから顔を上げ、娘を見て、苦笑した。「翠乃は母親が早くに亡くなって、俺が育てた。おまえの胸の内が分からないわけがない……きっと、あいつに止められたんだろう?俺が話をつけに行く」翠乃は慌てて制した。声はかすれるほど低い。「お父さん、やめて……これは私が決めたこと。人は恩を忘れちゃいけないの。立都市に残るわ。愛樹も愛夕も、立都市にいさせる。寒笙の両親も、それを喜ぶはずだから」博は胸が締めつけられるような思いで、娘を見つめた。やがて、小さく息を吐く。「……俺が不甲斐ないばかりに、何もしてやれん」学はなくとも、博は粗野な人間ではない。翠乃が決めた以上、そして止める以上、朝倉家に乗り込めば、かえって彼女の立場を苦しめることになる……娘に後ろ盾はない。朝倉家と完全に縁を切るなど翠乃にとっても、子どもたちにとっても得策ではなかった。博は胸を痛め、その夜じゅう煙草を吸い続けた。空が白み始め、東の空が明るくなる頃、翠乃はトランクいっぱいに新鮮な魚を積み込み、車を走らせ、立都市へ
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第1072話

翠乃は伏し目がちに、寒笙を見つめた。その瞳には深い情と乞うような色が浮かんでいる。あまりにも無垢で――まるで、彼女を脅し、追い詰めてきたのがこの男だとは思えないほどだった。……可笑しい。寒笙は本気で思っているのだ。すべてがかつてのように戻れると。翠乃の声は淡々としたものから冷えきったものへと変わり、ひどく硬かった。「書斎で話しましょう。愛樹も愛夕も……もう、大人の話が分かる年齢よ」そう言い切ると、彼女は強く手を振りほどき、子ども部屋を出ていった。去り際、その背筋はまっすぐに伸びていた。本当は限界だった。心も身体もとうに疲れ果てている。それでも、寒笙の前で弱さを見せるつもりはなかった。――これから先も、決して。背後から注がれるのは、男の深く考え込むような視線。……十分後。寒笙はいつもの穏やかな装いで書斎に入ってきた。室内に足を踏み入れた瞬間、彼は足を止める。翠乃は床まで届く窓の前に静かに立っていた。その背中はやはりまっすぐだ。まるで式典に臨むかのように、隙がない。――けれど、彼は覚えている。かつての翠乃はもっと明るく自由な少女だった。生き生きとして、束縛を嫌い、笑顔を惜しまなかった。それが今は常に自分を律し、どこかに閉じこもっている。寒笙は身を翻し、ゆっくりと書斎の扉を閉めた。そして振り返った、その瞬間――翠乃が静かに口を開いた。声には言葉にしきれない疲労が滲んでいた。「……朝倉寒笙。あなたの勝ちよ。私はイギリスへは行かない。愛樹も愛夕も海外で暮らさせない。立都市に、ずっと残る。――それで、ご満足ですか。寒笙様?」寒笙は彼女の背後へ歩み寄る。一瞬、ためらうようにしてから両手をそっと彼女の肩に置いた。次の瞬間――乾いた音が書斎に響いた。不意を突かれ、寒笙の端正な顔が横を向く。彼は怒ることもなく、ただ静かに彼女を見つめ、舌先で口内を押さえた。その声はなおも低く、艶を帯びていた。「翠乃……恨んでいるのは分かっている。でも、僕はお前と別れたくないだけだ。まだ、可能性があると思っている。お前を失いたくない」翠乃の声は震え、冷たい笑いが漏れた――「だから?私の将来を差し出して、あなたの好きを守れっていうの?それが、あなたの
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第1073話

寒笙はこれまでに翠乃のこんな姿を見たことがなかった。彼女は顔を覆ったまま泣き続けている。涙は今も、指の隙間から静かに滲み落ちていた――声はない。朝の光がその一粒一粒を照らし、きらめかせる。まるで、夢か幻の泡のように。やがて、力が抜けたように彼女の声はさらに低く穏やかになる。「寒笙、先に帰って。私が引っ越したら、お手伝いさんたちは朝倉家に戻すわ。あの人たちを困らせないで。それから……私の住む場所には来ないで。愛樹と愛夕に会いたいなら、朝倉家の本邸へ連れて行く。これ以上、関わらないで。寒笙……もう、あなたとは向き合えないの」寒笙はぼんやりとそれを聞いていた。彼女は行かない――そう、思い込んでいた。だが、違った。こんなにも彼女は傷ついている。本当に耐えきれないほどに。寒笙は去った。人の気配が消えると、翠乃は顔を覆ったまま、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。誰もいないのを確かめて、ようやく仮面を外し――声を上げて、泣き崩れた。そのとき。扉の隙間から小さな手がそっと伸びる。そこにいたのは愛夕だった。愛夕は呆然と母の泣く姿を見つめる。さっき帰ってきたとき、ママは元気だった。――パパがママをいじめたの?小さな唇をきゅっと噛みしめる。愛夕は決めた。おじいちゃんとおばあちゃんに、伝えよう。パパがママを泣かせたんだと。……それから半月後。翠乃は新しい住まいへ移った。手元にはある程度の資金があった。寒笙と離婚した際、朝倉家から支払われたのは、現金約六十億円に加え、あの小さな別荘だった。彼女はその別荘を売りに出し、資金の一部を使って、二百平方メートルの広いマンションを購入した。家事のプロである二人の家政婦は澄佳の紹介で雇った。澄佳は知っていた。夕梨も朝倉家の人間も――すべてを。なにしろ、愛夕の口がよく喋るのだ。やがて、寒笙の両親の耳にも入った。二人は寒笙を本邸に呼び戻し、容赦なく叩きのめした。――朝倉家本邸。晴臣は革ベルトを振り回し、疲れ果てると、それを床に投げ捨て、次男を指差して怒鳴りつけた。「翠乃はもう出て行った!お前の顔を見るのも嫌なんだとよ!無理やり引き留めて、何になる?食えるのか、着られるのか?愛樹も愛夕も朝倉
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第1074話

寒笙はゆっくりと立ち上がった。その表情はどこか呆然としている。寒真が肩を叩き、声を和らげた。「とりあえず服を着ろ。見られるだろ。みんなお前が子どもの頃から知ってるんだぞ、恥ずかしくないのか。それより、ちゃんと考えろ。翠乃は前に進みたいんだ。なら、お前は土台になればいい。金が要るなら出せばいい。そばにいてほしいなら、しつこく張り付いてろ。女はしつこい男には弱い。感動しないはずがない」横で聞いていた晴臣は思わず言葉を失った。長男を見直したという顔だった。寒笙の瞳に少しずつ光が戻る。寒真がもう一度、肩を叩く。「決まったみたいだな?」……事業をやるには、元手がいる。寒真は世英グループを継いだが、寒笙もまた加賀谷家の孫だ。冷遇するわけにはいかない――それが祖父の仁政の言葉だった。「寒笙が事業をやりたいなら、兄であるお前が全力で支えろ」書斎では、寒笙がソファにうつ伏せになっている。家庭医が慎重に背中の傷を処置していた。寒真は書机の向こうに腰掛け、煙草をゆっくり吸いながら、弟が痛みに顔を歪める様子を眺めている。処置が終わると、顎で合図し、医師を先に下がらせた。書斎の扉が開き、閉じる。中に残ったのは朝倉家の兄弟だけだった。寒真は歩み寄り、寒笙のそばに腰を下ろし、包帯に触れるか触れないかの距離で、指を伸ばす。「まだ、痛むか?」寒笙は顔をしかめながら起き上がり、兄から差し出された煙草を唇にくわえ、火を借りる。火が点くと、静かに一服した。何も言わず、ただ迷うような表情。半分ほど吸ったところで、ようやく口を開いた。「兄さん……あの日、翠乃は本当にひどく泣いてた。あんなに苦しそうな顔、初めて見た。皆は僕を薄情だと言う。翠乃を縛るなって。でも、分かってるんだ。イギリスに行きたいのはただのキャリアじゃない。僕から逃げたかったんだ。向こうに定住するとまで言った」寒笙は俯き、声を落とす。「でも、僕は終わらせたくない」寒真が問い返す。「じゃあ、適当な女と偽装結婚して、親権を盾に脅すのは正解だったのか?考えたことあるか?もし翠乃が覚悟を決めて、愛樹と愛夕を手放したら。そのとき、お前はどうする?」寒笙は首を振った。「彼女はそんなことしない」寒真
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第1075話

ベントレーのドアが開く。寒笙は車を降り、そのまま顔を上げて、この別荘を見つめた。ここで、彼と翠乃は確かに一時は夫婦として暮らしていた。――だが、あの頃の翠乃は幸せではなかった。豊海村に比べれば、物質的には遥かに恵まれていた。それでも、彼女は幸福ではなかった。夫は家に帰らず、若い女子学生との関係が絶えなかったのだから。夜の闇の中、寒笙の目尻から熱い雫が一筋こぼれ落ちた。――翠乃に、申し訳が立たない。……翌日。寒笙は立都大学を訪れ、辞職を申し出た。学科主任は彼の話を聞き、目を丸くした。しばらく彼を見つめた後、立ち上がって丁寧にお茶を淹れ、立都大学最年少の准教授である寒笙の前に置くと、腰を下ろし、穏やかに語りかけた。「寒笙、君の気持ちは分かるよ。教授の給料は高くない。正直、月給じゃ外食も一、二回がやっとだ。だが君は、立都大学で最も人気のある若手教授だ。君の授業を履修する学生は多い。まあ……大半は女子学生だがね。それだけ、実力がある証拠だ。見た目の良さも多少はあるだろうが」主任は微笑む。「もう一度、考えてみないか。数日経てば、気持ちが変わるかもしれない。教える仕事は、やりがいのある仕事だよ」だが、寒笙の決意は揺るがなかった。結局、主任は折れ、退職の手続きを認めるしかなかった。別れ際、主任は彼の肩を軽く叩いた。「戻りたくなったら、いつでも来なさい。立都大学は君の家だ」寒笙は微笑んだ。手続きを終え、大学を去る前に、彼は研究室へ戻り、荷物をまとめた。同僚たちが三々五々集まり、別れの言葉をかけてくる。寒笙は人望があった。容姿もよく、条件も整い、何かと同僚の世話を焼く男だった。ただ一人――真理だけが、彼をじっと見つめていた。その瞳には、悔しさと、手放したくないという思いが交錯している。寒笙は隠すことなく、彼女に別れを告げた。だが、彼女は感情を抑えきれなかった。「彼女のために辞めるの?そうでしょう?」その問いに、寒笙は眉をひそめた。彼女は一線を越えている。彼は覚えている。彼女を舞台に上げ、望みはすべて与えた。報酬として、彼は二億円を渡した。それで、清算は済んでいるはずだった。二億円あれば、立都市で最上級の住まいが買える。広い高級
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第1076話

夜九時までかかった。寒笙は自ら子どもたちを送り届けることにした。運転手は逡巡した。翠乃が機嫌を損ねるのではないかと案じたのだが、寒笙は「僕から話す」とだけ言った。愛樹と愛夕も、もう少し父と一緒にいたかったのだろう。「わっ」と声を上げて車に潜り込んだ。最近、寒笙は車を替えていた。黒のロールス・ロイス・ファントム。流れるような光をまとい、無数のきらめきを放っている。後部座席の愛樹と愛夕は、あちこち触ってしばらく遊んでいたが、子どもは眠りに落ちるのが早い。十分も経たないうちに、二人は肩を寄せ合い、甘い寝息を立て始めた。上質なレザーの香りに、子ども特有の体温と匂いが混じる。――甘く、何の憂いもない。寒笙はハンドルを握り、前方に集中しながら、時折ルームミラー越しに子どもたちを見る。そのたび胸の奥がやわらいだ。これは翠乃が彼に産んでくれた二人の子どもなのだ。夜の道を高級車が滑るように走る。およそ二十分で、市街の一等地に建つ高級マンションの前に到着し、車は静かに停まった。シッという音とともに運転席の窓が下りる。細縁の眼鏡をかけた男は顔を上げ、最上階の部屋を見つめた。ここには何度も来ているが、いつも下から見上げるだけで、一度も中に入ることは許されなかった。しばらく見上げてから、寒笙は携帯を取り出し、翠乃に電話をかけた。三、四度のコールの後、翠乃が出る。運転手から連絡が入っていたのだろう、彼女は要点だけを問う。「愛樹と愛夕、もう着いたの?迎えに下りるわ」寒笙は頷く。「うん。下にいるよ」その声音は言いようもなく穏やかだった。通話の向こうが数秒沈黙し、切れた。五分ほどして翠乃が下りてきた。初秋の夜は少し冷える。彼女は黒の、やや大きめのベースボールジャケットを羽織り、下は黒のスキニーパンツ。近づく彼女を、寒笙は無意識に何度か目で追い、女性物だと確かめてから表情を緩めた。車を降り、彼女の前に立つ。久しぶりの再会だった。男の眼差しはわずかに深まる。寒笙が見つめれば、翠乃も視線を向けた。忙しさのせいか、寒笙は少し日焼けし、少し痩せていた。だが、全体の佇まいは以前より内に収まり、落ち着いている。翠乃は深追いせず、後部座席のドアを開け、眠る愛樹と愛夕を見下ろした。そして迷う
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第1077話

翠乃は小さく首を振った。ふいに身を翻し、足早に床まで届くガラス窓の前へ向かう。背筋をぴんと伸ばし、喉元を詰まらせたまま、吐き出すように言った。「どういう意味?朝倉寒笙、何のつもり?私たちはもう離婚した。円満解散なんて程遠く、あんなにも無様な別れ方をしたのに、今さら誕生日の贈り物?復縁?それとも……あなたの相手をしろって?あなたはいまや大手企業の社長でしょう。こんな駆け引きをする必要なんてない。女が欲しければ、いくらでも寄ってくるはずよ。どうして、わざわざ私のところに来るの?」……一気に言い切った。すると寒笙は静かな声で返した。「翠乃。そこまで取り乱すってことは……お前の中で、僕はまだ大事な存在なんじゃないのか」立ち上がり、彼女の背後へ回る。両手で肩を押さえ、片手を離すと、半ば強引に、エメラルドを彼女の首元へとかけた。指先で軽く整えながら言う。「きれいだ。肌によく映える」翠乃の全身がわずかに震えた。そっと手を上げ、昂価なエメラルドに触れようとして、誤って男の手に触れてしまう。その瞬間、彼の手が重なり、彼女の掌を包み込む。身体が密着し、親密そのものの距離になる。翠乃は長いこと、呆然と立ち尽くした。ガラス越しに映る、二人の姿を見る。自分はラフな格好、寒笙はきちんとした装い。――豊海村にいた頃とは、まるで別人だ。どこから湧いたのか分からない力で、彼女は男を強く突き放した。指先に力がこもり、宝石は勢いよく引き抜かれ、シャンデリアの下で一筋の光を走らせる。二人は向かい合って立つ。男の顔には隠しきれない驚きが浮かんでいた。翠乃は浅く息をつきながら言う。「あなたの物なんて要らない。寒笙、もう来ないで。あなたも、あなたの贈り物も、私は受け取らない。諦めて……再婚されるのが嫌なら」「再婚……?」男の瞳が陰り、胸を抉られたような表情になる。翠乃は笑った。自嘲と皮肉が滲む笑みで。「当時、あなたは再婚を盾に私を脅したでしょう。私の大切なものを奪った。なら、私も同じことをする。それって、公平じゃない?だから寒笙、もう私を追い詰めないで。強要しないで。そうしないなら……本当に、誰かと結婚するから」寒笙は彼女を睨みつけた。絞め殺したい衝動と、口づけてこの言葉を引き戻したい衝動が、
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第1078話

深夜。寒笙は建物を出て、下へ降りた。細い雨が糸のように降り続き、秋の土を湿らせ、同時に男の胸の奥まで濡らしていく。黒のロールス・ロイス・ファントムの前に立ち、寒笙は顔を上げ、あの一角の灯りを見つめた。あそこには彼の妻と子どもがいる。――だが、もう行くことはできない。翠乃は彼を拒んだのだ。くすんだネオンの光が寒笙の横顔を照らし、寂寥を一層深める。雨は次第に衣服を染み通らせていくが、彼はそれを感じ取ることすらなかった。……マンションの中。寒笙が去ったあと、翠乃は力を抜かれたようにガラスにもたれかかった。額を預け、細い喉元をぴんと張ったまま、全身から力が抜けていく。失ったのは掴みかけた機会なのか。それとも、かつて愛した人なのか。――いつから、彼を愛さなくなったのだろう。たぶん、栞という女性の存在を知ったあの瞬間から。いったん起きてしまったことは元に戻せない。愛するのはもう難しかった。どれほどの時間が経ったか分からない。翠乃はそっと涙を拭い、心を整えた。――生活は続いていく。……それからというもの、翠乃は折に触れて寒笙と顔を合わせるようになった。さまざまな場所で。彼はいつも細縁の眼鏡をかけ、きちんとした装いで、遠すぎず近すぎない距離から彼女を見つめている。時折、二言三言声をかけてくる。人目のある場では、翠乃も露骨な態度は取れず、応じるしかない。その瞬間、彼の目は驚くほど明るくなる。嬉しさを隠しきれないそんな表情で。それが翠乃にはつらかった。もう愛してはいない。それでも思い出すたび、胸の内で彼を責めてしまう。――結局は彼が大切にしなかったのだ。秋の午後。翠乃は【翠巧堂】で原稿とデザイン画に目を通していた。そこへアシスタントが小声で告げる。「上野さん、木田という女性が、少しお話ししたいと。うちのお客さまではないようですが……お知り合いですか?」翠乃は一瞬、言葉を失った。すぐに察する。来たのはおそらくあの木田先生――寒笙に想いを寄せていた女性だ。少し考えてから言う。「通して」アシスタントは頷いて去り、ほどなく真理を連れて戻ってきた。初秋だというのに、彼女は体に張り付くレザースカートを履き、黒髪だったストレートを大きく巻
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第1079話

その後、翠乃には縁談が持ち込まれるようになった。相手はいずれも、影響力のある取引先絡みの紹介だった。翠乃は恋愛をする気になれなかった。最も真摯な感情はすべて寒笙に捧げ、最後は無残にも踏みにじられたのだ。だが、紹介役の王城(おうじょう)夫人は粘り強かった。願乃がそっと耳打ちする。「王城夫人のご主人、国内のミスコンの主催者で、家柄も相当よ。王城夫人と良好な関係を保つのは大事なの」翠乃は思わず苦笑した。――仕事のために、お見合いまで引き受けろというの?相手は王城夫人の実家の甥。条件は申し分なく、海外帰りで、いまは一族企業に勤めている。年齢も若く未婚だという。ある晩餐会で翠乃を一目見て心を奪われたらしく、その場で追うことはしなかったが、周囲から「彼女は既婚」と聞いて一度は身を引き、やがて「離婚した」と知ると、すぐに伯母に仲介を頼んだ。名は王城直哉(おうじょう なおや)。当初、王城家は難色を示した。翠乃は離婚歴があり、しかも朝倉家の次男の元妻だったからだ。だが直哉は彼女でなければ結婚しないという姿勢を崩さず、ついに家族が折れた。直哉はH市の出身で、伯母である王城夫人は立都市に嫁いでいる。想いを募らせてからというもの、彼はたびたび立都市に足を運び、翠乃が出席する宴があれば必ず顔を出した。言葉少なだが、いつも微笑みを浮かべ、彼女を見つめている。翠乃はもう少女ではない。その視線に宿る熱を感じ取り、やがて王城夫人から正式に話を切り出された。ついに断りきれず、顔を合わせることになる。場所は評判のいいカフェ。直哉は素朴な包みの赤い薔薇を携え、そっと翠乃の前に置いた。その所作だけで、彼の誠意は十分に伝わった。三十分ほど話してみて、翠乃は彼の人柄を掴んだ。内向的で飾り気がなく、留学経験とは裏腹に、どこか古風。終始、礼儀正しく敬意をもって接してくる。義理で来た席だった。だが、別れ際にはほんの少し心が動いている自分に気づいた。確かに、結婚相手としては申し分ない。――けれど、彼女には愛樹と愛夕がいる。もしこの縁を受け、再婚を考えたなら、寒笙は黙っていないだろう。彼はきっと昔の癖を繰り返し、また親権を盾に迫ってくる。逃げ場はない。この一生、寒笙が手を放さない限り、新しい感情
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第1080話

翠乃は力なく横たわっていた。全身に力が入らない。ひとつには疲労が溜まり、微かな熱もある気がしたこと。もうひとつには彼の力があまりにも強く、男女の体力差があまりにも明白だったこと。抵抗する気力すら湧かず、口を開くと、声はひどく掠れていた。「朝倉寒笙。愛樹と愛夕を連れて行かせたのは、そのため?そんなものが欲しいなら、お金を払って外で探せばいい。きれいな若い子なんて、いくらでもいるでしょう」寒笙は彼女に密着したまま、離れない。視線は暗く底が知れなかった。しばらくしてから、低く嗄れた声で言う。「嫌なら、どうして外の男に会った?翠乃……寂しかったのか。それとも、身体が欲したのか。どちらも、僕が与えられる。僕がまだお前を好きだって、分かってるだろう。与えるつもりがあるのも。それなのに、どうして他の男に会う?好きなのか?あいつを見て、心が動いたか?胸が高鳴ったか?」そう言い終えると、彼は彼女の胸元を強く掴んだ。「……っ」翠乃は声を上げる。胸が大きく上下し、頬が薄紅に染まる。「寒笙、やめて……これは卑劣よ」彼はじっと彼女を見下ろした。露骨で、成熟した男の色気を隠そうともしない眼差し。三十を迎えた寒笙は男として最も勢いのある年齢だった。翠乃は羞恥に耐えかね、もがいたが、そのすべてが無駄だった。彼は彼女の動きに身を任せながら、なおも支配を解かず、灼けるような視線で見つめ続ける。やがて彼女は力尽き、荒い息をつきながら横たわった。車内は暗い。男の声が低く沈んで響く。「答えろ。あいつにも感じたのか?僕と一緒だった頃みたいに、首に縋りつきたくなったか?抱いてほしいと思ったか?カフェで向かい合いながら、あいつと……そんなことを想像したか?」――ぱん、と乾いた音。寒笙の頬に平手が落ちた。強くもなく弱くもない。彼はそっと自分の頬に触れ、怒る様子も見せない。女の戯れだとでも思ったかのように。翠乃は荒い息のまま言う。「……離して」男は身を屈め、彼女の耳元に口づける。「離したら、また外の男のところへ行くのか?」そう言って、彼女の頬を軽く打つ。暴力ではない。秘めた意味を帯びた、男女の間の懲らしめ。そして彼は彼女の顔を包み込み、口づけた。「……っ、……」翠
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