All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1251 - Chapter 1260

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第1251話

帰り道、車に乗り込んで十分ほど走ったころ、願乃はやはり我慢できずに口を開いた。「大学のとき、かなり人気あったんでしょう?さっきの女の人たち、みんなあなたに好意がありそうだったし」彰人は小さく「ん」とだけ応じた。しばらくしてから、助手席の願乃に視線を向け、やわらかな声で続ける。「ラブレターは何通ももらった。でも、読む前に全部返したよ」「え……」願乃は思わず目を見開いた。あの女たち、彼女のことを見てもまったく敵意を見せなかった。普通なら、恋のライバルに会えば、多少は感情が表に出るものなのに。驚いたまま、どこか昔に戻ったような気がした。赤信号で車が止まる。彰人は横目でじっと彼女を見つめた。その視線は静かで、けれどどこか核心を突いている。願乃の胸の内を読んだように、ゆっくりと言った。「相手がお前だってわかってるからだよ。だから、嫉妬もしないし、腹も立てない」願乃は思わず顔を覆った。「どうして……?」なんだか、思いがけず大事にされているようで、くすぐったい。彰人の眼差しがわずかに深くなる。「願乃、忘れたのか。同級生より十歳も下だろ。そんなに年の離れた相手に張り合おうなんて、普通は思わない」それに――女心は案外複雑だ。いっそ全く関係のない誰かに奪われたほうがいい。少なくとも、同じ輪の中の誰かに持っていかれるよりは。だから、彼女たちは願乃に敵意を向けなかった。願乃はぐるぐると考えた末、ようやく腑に落ちた。何も言わなかったが、仕草はどこか意味ありげで――キャンディをひとつ取り出して、口に放り込む。……誰だって、可愛がられるのは嫌いじゃない。どれだけ大人になっても、それは変わらない。周防社長であっても、例外ではない。彰人はそんな彼女をよくわかっていた。内心では少し驚く。――これだけで、機嫌が直るのか。青信号に変わり、車は再び走り出す。彰人は前を見たまま、何気ない調子で言った。「今度の同窓会、来るか?みんなお前に会いたがってる」願乃は足を軽く伸ばし、咳払いをひとつ。「そんなに大した人間なの、私?」彰人は低く笑っただけで、答えは返さない。言わなくても伝わることもある。返事がないのを見て、願乃はちらりと彼を見やり、そっと背伸びをする。やがて
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第1252話

願乃は本革のシートに身を預けたまま、男を見つめていた。その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。――もう少し、優しくしてあげてもいいのかもしれない。一度、死の淵から戻ってきた人なのだから。そう思いながらも、それを口に出すことはなく、代わりに軽い調子で言った。「最近ちょっと仕事が大変でね。しばらく休もうかなって思ってるの。だから、その間は――彰人、代わりに働いてくれる?」彰人は低く「いいよ」と答えた。そして、ふいに手を伸ばし、彼女の頬を軽くつまむ。あまりにも自然で、親密な仕草だった。願乃はそれを避けなかった。それが、むしろ珍しい。身体を重ねることはあっても、こうした恋人同士のような触れ合いを、彼女は普段あまり好まない。それなのに今は、まるで当たり前のように受け入れていた。彰人の眉がわずかに動く。彼はもともと、相手の感情を読むことに長けた男だ。変化に気づかないはずがない。だが、あえて問い詰めることはしない。それではあまりに無粋だと知っているから。代わりに、今度は鼻先を軽くつまみ、すぐに手を離すと、そのまま車のドアを開けた。二人は並んで車を降り、邸へと入る。中では、使用人がすぐに出迎えた。清席の様子や家のことを、手際よく報告する。以前は主に願乃へ話していたが、最近は彰人にも同じように伝えるようになっていた。彰人は誰に対しても穏やかで話しやすい。結局のところ、男もきちんと家のことに関わるべきだと、皆が思い始めているのだろう。彰人がその場で指示を出している間に、願乃は子どもの様子を見に行った。――ちょうど眠ったところだった。夜番の女性が小声で言う。「やっと寝たばかりですよ。さっきまでちょっとぐずってて」そう言いながらも、その表情は優しさに満ちている。結代は本当に愛らしく、普段はとても聞き分けのいい子だ。この家は雰囲気もよく、主人たちも穏やかで、待遇もいい。実の孫を見るより、気持ちが楽だと思うことさえある。願乃は軽くうなずき、ベッドのそばに腰掛けて、しばらく静かに子どもを見守った。――それでも、あのときのことは許せない。彰人の、あの計算。だが、この子を産んだことを後悔したことは一度もない。こんなにも、愛おしい命なのだから。やがて結代が深
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第1253話

今回はまるで違っていた。これまでとは、まったく。願乃は明らかに積極的で――どこか、昔に戻ったかのようだった。これまでは、どちらかといえば受け身か、あるいはただ生理的な欲求を満たすだけの行為に過ぎなかった。けれど今夜は違う。感情を求めている。こうしてほしい、ああしてほしいと――彼に望んでいる。男にとって、その違いははっきりしている。彰人にとって、それはただ一言で表せた。――満ち足りている。すべてが終わったあと、身体の奥まで満たされていた。ソファに横たわり、腕の中にはしなやかな彼女の体。手放すのが惜しくて、眠る気にはなれない。しばらくして、願乃は彼の首に腕を回し、小さな声で尋ねた。学生時代のこと。そして――あの支援者のことを。彰人は視線を落とす。「知りたいのか?」願乃は小さくうなずいた。「……ちょっとだけ」彰人は天井を見上げ、くすりと笑う。「じゃあ、願乃。金婚式のときに教えてやるよ。あと十五年くらいか。計算すると――一年で三百六十五回として……毎日付き合ってくれれば、四千回くらいはいくな」願乃は思わず呆れた。外では品のある紳士然としているくせに、こういうときの彰人はまるで別人だ。特にベッドの上や、そのあととなると――平気でそんなことを口にする。まるでビジネスエリートらしくない。とはいえ、そういう場面でも気取ってばかりの男というのも、それはそれで味気ない。そんなことをぼんやり考えながら、願乃はいつの間にか眠りに落ちていた。夢に現れたのは――二十代の彰人。颯爽とした、若き日の姿。苦労の影など一切なく、まっすぐこちらへ歩いてくる。白いシャツに、淡いブルーのデニム。清潔で、軽やかで。それは彼女が好きな姿であり、同時に、見たことのない姿でもあった。彼女が出会ったときの彰人は、すでに完成された大人の男だったから。ふと、願乃は思う。――昔の彼はどんなふうに生きていたのだろう。知っているのは両親がいないこと。孤児だったこと。その後、鈴音の家に半ば引き取られたことくらい。半分眠りながら、明日になったら聞いてみよう――そう思っていた。けれど。翌朝、目を覚ましたときには、すっかり日が高く昇っていた。部屋の中は暖かく、身体に
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第1254話

メッセージを送ってから五分ほどで、返信が来た。【たぶん八時半くらい!どうした?】願乃はそれを二度ほど読み返し、そのまま運転手に電話をかけた。「今夜は彰人を待たなくていいわ」運転手は少し戸惑った様子で尋ねる。「では、社長はどうやってお帰りに……?」願乃はごく自然に答えた。「私が迎えに行くから」――え?運転手は一瞬、言葉を失った。願乃は本当に向かった。秋の夜は少し冷える。メディア本社ビルの前に、一台の黒いGクラスが停まっている。小花柄のワンピースに、黒のトレンチコートを羽織った願乃は、その傍らで静かに待っていた。手には、夜食の入った袋。さっき自分で食べてみて美味しかったから、彼の分も買ってきたのだ。彼女はメディアの社長。最大株主でもある。そんな彼女が、会社の入口で夜食を手に、彰人を待っている。退社する社員たちは皆そこを通る。ひと目で、誰を待っているのかがわかる。――副社長を迎えに来たのだと。内心では、驚きと羨望が入り混じる。まさか――あの周防社長をここまで振り向かせるなんて。しかも、女性のほうが迎えに来るなんて、滅多に見られるものではない。やがて八時半。残っていた社員もほとんど帰り、彰人がようやくビルから出てきた。階段を下りた瞬間――視界に入ったのは願乃の姿。Gクラスの前に立ち、夜食を手にしている。少し冷えたのか、鼻先が赤く、目元もどこか潤んでいる。まるで、泣いたあとのようだった。彰人は歩み寄り、袋を受け取ると、そのまま彼女の目元に軽く触れる。「どうした?」願乃はさらりと答える。「風で砂が入っただけ」彰人は低く笑った。片手に夜食を持ち、もう一方の手で助手席のドアを開ける。「ほら、乗って」願乃は自分で運転するつもりだったが、彰人はそれを許さなかった。自分が運転席に座り、シートベルトを締める。「まだそんなに年寄りじゃない」軽く言いながら、夜食の袋は願乃の膝に戻した。「食べてろ」「もうお腹いっぱいなんだけど」小さく不満をこぼす。彰人はハンドルを握ったまま、もう片方の手で彼女の頬を軽くつまむ。願乃は避けることもなく、くすりと笑った。「七時に食べたばっかりだし」「そうか」短く返す。願
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第1255話

口づけを終えると、彰人はそのまま彼女の頬を軽くつまんだ。なぜ突然迎えに来たのか――あえて聞こうとはしない。どうせ、他の誰かを迎えに来たわけではない。話したくなれば、いずれ彼女のほうから話す。焦る必要はない。これから先、同じ時間を過ごしていく相手は自分なのだから。――そう思えるあたり、彰人の精神の安定は並ではなかった。やがて車を発進させると、願乃は窓の外に視線を向けたまま、しばらくしてから、ふと静かに口を開く。「ねえ、彰人。前に同級生に同窓会誘われてたでしょ?一緒に行ってもいい?来月、チャリティーパーティーやるの。そこに招待してあげようかなって。スタイリストも手配すれば、きっと喜ぶと思うし」あのときの女性たちは、皆それなりに整っていた。少し手をかければ、十分華やかになる。――パーティーが嫌いな女性なんて、そう多くはない。彰人は内心、わずかに驚いた。これまで、願乃はこうした場に自分を絡めることをあまり良しとしてこなかった。それが、こんなふうに自分から口にするなんて。だが――やはり聞かない。それが彼の流儀だった。ただ、胸の奥ではうっすらと答えに辿り着いている。――やっぱり、願乃だ。あの頃と変わらない。幼くて、まっすぐで、初めて出会ったときのまま。あの、みじめだった過去の写真。本当は一生見せるつもりはなかった。けれど――彼女は見てしまった。埋めてきたものに、触れてしまった。ならば、何かで埋めてくれればいい。たとえば――新しい結婚届とか。たとえば――きちんとした「夫」という立場とか。どれでもいい。彼は贅沢を言うつもりはなかった。――案外、簡単に満たされる男なのだ。車内には、それぞれの思惑が静かに流れていた。ひとりは揺れ動き、ひとりは静かに噛みしめる。夜はそのまま、深く続いた。願乃は少し不安になるほどに彼に翻弄される。――まだ先は長いのに。そんなことを考えながらも、ふっと笑みがこぼれた。細い腕を彼の首に回し、そっと肩に身を預ける。昔のように、素直に。彰人は彼女に口づける。願乃も拒まない。静かに抱きつき、身を任せる。――一夜の、解放。翌朝。彰人は珍しく寝過ごした。朝八時。清席が駆け寄り、父親の体
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第1256話

話している最中、二階からばたばたと足音が響いてきた。少し慌ただしいその音――願乃が階段を下りてきたのだ。忙しい身でありながら、身だしなみはきちんと整っている。モナの姿を見つけると、願乃はどこか照れくさそうに髪を指先で整え、軽く咳払いしてから彰人に向き直った。「あなたの同級生の方に、コーヒーに誘われてるの。ちょっと行ってくるね」ダイニングテーブルに座っていた彰人は口元を拭いながら言う。「少し食べてから行け」わざとゆっくりとした口調で続けた。「向こうは優雅にコーヒーを楽しむのに、お前だけ空腹でがっついてたら格好がつかないだろ。俺の同級生なんだ、多少は気を遣わせてくれ……体面ってものがある」モナは願乃が怒ると思っていた。――本当に意地が悪い上司だ。だが、願乃は何も言わずに歩み寄り、上座には座らず、そのまま彰人の隣に腰を下ろした。自然な仕草だった。彰人は空の椀を取り、温かいスープをよそって差し出す。瑞々しい山芋を数切れ添え、さらに口当たりの良い肉料理を少しだけ取り分けた。彼女が体型を気にしているのも分かっているから、無理には勧めない。ただ、軽く胃に入れる程度でいい。願乃はそれを当たり前のように口に運んだ。その様子を見て、モナは思わず呆然とする。――え、なにこれ。二人、いつの間にこんな……まるで新婚みたいな空気に戻ってるの?さすが氷室社長だわ……願乃は若くて美しく、手入れも行き届いていて、まだ二十代後半にも見える。だからこそ、この空気が成立しているのだろう。もしそうでなければ、とても収拾がつかない。モナはちらりと彰人の髪を見る。――よかった、まだ大丈夫そう。あと数年は恋愛できるわね。心の中で、そっと額の汗を拭う。……もう一度、拭った。結局、先に家を出たのは願乃だった。今日はひときわ若々しい装いだ。ショート丈のファーコートにロングブーツ。メディアの社長に就いてからはほとんど見せなかったスタイルだ。モナは思う。――同級生に会うから、ちょっと張り合ってるのかしら。外で車のエンジン音が響く。それを聞きながら、彰人はくすりと笑った。「可愛がられるのが好きなんだ、あいつは」同級生たちは彼女より十歳ほど年上だ。軽く首を振る。「家でも兄弟に散々甘やかされてる
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第1257話

願乃はわかっていた。けれど、あえて分からないふりをする。長年連れ添った夫婦でも、ほんの少しの余白は必要だ。そういう曖昧さが日々を少しだけ甘くしてくれる。家が近づいた頃、ふと思い出したように口を開いた。「ねえ、彰人。あなたの学部に弓長久志(ゆみながひさし)って人、いたでしょう?仲があまり良くなかったって聞いたけど……千佳さんから、風間さんがその人も同窓会に誘って、しかも来るって聞いたの」ちょうど目の前に、屋敷の黒いアイアンゲートが見えてくる。彰人はハンドルを切り、ゆっくりと車を敷地内へ滑り込ませた。門が静かに開き、車はそのまま中へと入っていく。車を停めると、彼は横目で願乃を見た。まっすぐで、少しだけ熱を帯びた視線。――自分のために気にしてくれているのだと、分かっている。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、誰かに想われているその感覚がたまらなく心地いい。彰人はきっと断らない。シートベルトを外し、ふっと笑ってから、軽く願乃の頬をつまんだ。――ご褒美のつもりだ。願乃は少しむっとする。まるで子ども扱いだ。それでも、どこか照れてしまうのは否めない。――もう三十を過ぎているのに。……その後の数日、願乃は同窓会の準備に追われていた。伸二とも直接会い、千佳たちとも打ち合わせを重ねる。一方で彰人はというと、メディアで相変わらず忙しく働いていた。高級ブランドショップでは、千佳がまとめたサイズ表をもとに、全員分のスーツをオーダー。女性たちの分は別途選びに行き、願乃は馴染みのハイエンドサロンでドレスとバッグを見繕った。母親が常連のVIP顧客ということもあり、特別に割引も効く。数日で、合計は二億円を軽く超えた。もっとも、願乃にとっては大した額ではない。それでも彼女はきちんと彰人に電話を入れる。少し鼻にかかった声で。風邪気味なのか、どこか柔らかい響きが混じっている。――昨夜のせいだ。クローゼットで、急いで……しかも窓を閉め忘れたまま。終わったあと、すぐに冷えてしまった。さっき千佳に心配されたとき、顔が真っ赤になったのもそのせいだ。電話口で、願乃は小さく言った。「ねえ、彰人……ちょっとお金、いるの。二億円くらい」向こうで、くすりと笑う気配。
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第1258話

ほどなくして――彰人の同窓会当日を迎えた。どうやら彰人がかなり金をかけていると聞いたらしく、久志は「ちょうど用事がある」などと言いながらも、願乃に取り入ろうと考えたのか、その日は珍しく太っ腹だった。酒代も遊び代も、すべて自分が持つと言い出したのだ。ただ一つ――願乃の前で体面を保つために。まさか彼女があの新妻モードを演じるとは、夢にも思っていない。伸二は面白がって、わざと最上級の手配をした。会場は立光ホテルの最上級個室「千花ホール」六卓分の料理と酒で、およそ二百五十万円。二次会まで含めれば、最低でも四百万円はかかる。決して小さくない額だ。それを久志は歯を食いしばって支払った。――彰人との確執。実のところ、大したものではない。ただ一つ、彼が富裕層の息子で、彰人が後ろ盾のない人間だったというだけの話。だが大学時代、どの面でも久志は彰人に敵わなかった。指導教員は明らかに彰人を贔屓し、女子たちは彼に夢中だった。久志は納得できなかった。自分の方が恵まれているはずなのに、なぜいつも一段下に見られるのか。結婚だってそうだ。彰人は周防家の令嬢――願乃を手に入れ、一気に上へと駆け上がった。とはいえ、名家での生活など窮屈に決まっている。久志はそう思い込み、どこか歪んだ感情を抱いていた。だからこそ、彼は派手なインフルエンサーの女性を妻に選び、その日も連れてきていた。……一方、邸宅では彰人は願乃の装いを見て、少し意外に思った。普段の彼女はどちらかといえば華やかに着飾る方だ。だが今夜は違う。グレイッシュグリーンのニットに、身体のラインをきれいに見せる黒のパンツ。足元は同系色のカジュアルシューズ。長い髪も、あえて手を加えずに自然に下ろしている。ただ――手にしているのは希少皮革のエルメスのバッグ。軽く千万円は超える代物だ。全体としては、あくまで素朴。だが、隠しきれない品の良さがにじんでいる。対して彰人は抜かりなかった。クラシックなブラックスーツに、ダークグレーの細身のネクタイ。端正な顔立ちと相まって、否応なく目を引く。――これでは、同級生たちが騒ぐのも無理はない。車が立光ホテルに到着する。降りた瞬間、願乃はすっと彰人の腕に絡みついた。猫のように、するり
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第1259話

その光景を見た瞬間――久志は思わず目を引きつらせた。一方で伸二は、してやったりという顔でにやりと笑う。「な?言っただろ。彰人はな、奥さんをきっちり手のひらの上で転がすタイプなんだよ。周防家のお嬢様だって例外じゃない。あの顔見ろよ、完全に惚れきってる。この前な、ブランド店で買い物してたときもさ、カード切る前に、いちいち彰人の秘書の顔色うかがってたんだぞ。千佳たち、完全に固まってたわ」そう言って、ぽんと久志の肩を叩く。「あとでちゃんと見とけよ。勉強になるから」久志はひどく気が重くなった。――自分は何か悪いことをしたのか。願乃に頼み事をするだけならまだいい。金持ちのお嬢様に頭を下げるくらい、経験がないわけじゃない。だが今は違う。すべての決定権は彰人にある。つまり――彰人に頭を下げなければならない。それは久志にとって、死ぬよりも屈辱だった。そんな中で、彰人がこちらへ歩み寄ってくる。久志の表情はひどくぎこちない笑顔に歪んでいた。彰人は変わらず落ち着いた様子で、手を差し出す。「久しぶりだな、久志」「……ああ、久しぶり」久志もぎこちなく手を伸ばす。その間、願乃は何も言わない。ただ静かに彰人の腕に寄り添い、隣にいる存在として振る舞う。男が口を開くまでは、決して出しゃばらない。――まるで、どこかの上流階級の理想の妻。そういう女性を、彼女はこれまで何度も見てきたのだろう。完璧に再現していた。そのせいで、久志は距離感を掴めず、結局ぎこちなく笑うしかない。「……彰人の奥さん?」彰人がちらりと視線を落とすと、願乃はふわりと微笑んだ。甘く、柔らかい笑み。彰人は思わず苦笑する。――完全に、役に入り込んでるな。そのとき――再びエレベーターの扉が開いた。モナが足早に出てきて、彰人にスマートフォンを差し出す。「氷室さん、ニューヨークから急ぎの連絡です」彰人はわずかに眉を寄せながらも受け取り、そのまま英語で応対を始めた。流れるようなやり取り。短い時間で意思決定が進み――最終的に、五千万ドル規模の案件をその場で決める。通話を終え、スマートフォンをモナに返すと、淡々と一言。「プライベートの時間だ。今後はこういうのは通さなくていい」「承知しました」モナ
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第1260話

やがて食事が始まると、あちこちからグラスを手にした同級生たちが挨拶にやって来た。彰人は普段から体調管理に気を遣っており、必要のない席ではほとんど酒を口にしない。代わりに、断りきれなかった願乃が何杯か付き合うことになった。そして――気づけば、彼女のグラスはそっと取り上げられていた。少し飲み過ぎたのだ。頬をほんのりと赤く染め、願乃はそのまま彰人の腕に頬を預ける。身体はぽかぽかと温かく、もう動く気にもなれない。――演技ではない。ただ、こうして寄り添っていたかっただけ。ふと顔を上げると、彰人が誰かと話しているのが目に入る。引き締まった顎のラインは、若い頃と変わらない。それがどうしようもなく愛おしくて――願乃は周囲の目も気にせず、そっと手を伸ばした。指先で彼の頬に触れる。そしてそのまま、身体をさらに寄せると、小さく何かを呟き――そのまま、静かに眠りに落ちた。――酔ってしまったのだ。個室の中がふと静まり返る。誰もが彰人の腕の中で眠る女を見つめていた。三十を過ぎているはずなのに――この場にいる四十代、五十代に近い面々の中では、どう見てもひときわ若く、柔らかく見える。羨望の視線が自然と彰人へ向けられる。同時に――願乃に向けられる視線もまた、羨ましさを含んでいた。――あの人と結ばれた女性。彰人の目は驚くほど穏やかだった。誰も見たことのないほど、優しく。彼はそっと願乃の頬を軽く叩き、眠っていることを確かめると、顔を上げて伸二に視線を送る。声を抑えて言った。「寝たみたいだ。先に帰る。続きはまた今度な」伸二は思わず口を開きかけて――その様子に、ふっと苦笑する。――まるで赤ん坊をあやしてるみたいじゃないか。彰人は立ち上がり、細心の注意を払うように、願乃を抱き上げた。壊れ物を扱うように。まるで、何よりも大切なものを抱くかのように。その姿に、千佳たちは思わず顔を覆う。――やばい、無理。心の中で悲鳴が上がる。自分たちの夫は普段は「帰るぞ」と髪を引っ張るようなタイプばかりだというのに。それに比べて、この差。それに、彰人の体力の余裕にも、妙なところで感心してしまう。あれだけの体格差で、軽々と抱き上げている。帰り際、千佳がふと気づき、慌ててバッグを手に取
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