中川は、日記を読み終えたときには、すでに涙で顔が濡れていた。けれど、その哀しみは記憶を失った男の心には届かない。彼は見えず、何も覚えていなかった。彼の世界には、昼も夜もなく、ただ「山田」という名の男が静かに寄り添うだけ。その夜、朝霞川の水音がざわめき、岸辺を打つ潮の音が止まなかった。京介は、珍しく眠れずにいた。「山田さん」暗がりの中で彼は低く声を上げた。すぐに山田が身を起こした。「胸が苦しいですか?水でも飲みますか?」京介は首を振った。「今夜……潮が満ちてきてるんじゃないか?川の水が揺れてるのが分かる。落ち着かなくて、気分が悪いんだ。いいか?一緒に、川の方まで連れていってくれないか?」視力を失った彼はせめて音と風に触れたかった。山田は黙って頷き、上着を着せ、黒いロングコートを羽織らせた。懐中電灯を手に、もう片方の手で京介を支えながら、ゆっくりと夜の道を進んでいく。朝霞川の河岸では、大学生たちが篝火を囲み、歌い、笑っていた。赤く照らされた夜空に、若さが溢れていた。京介は、耳を澄ました。——その旋律が、心の奥に届くかのように。さらに進み、川のほとりへ辿り着いた。山田が静かにささやいた。「遠くに、無数の灯りが浮かんでいます……学生たちは、手に線香花火を持って遊んでいます。若いって、いいものですね」黒いコートが夜風に翻り、朝霞川を見つめる京介の姿は、どこか荘厳で美しかった。その姿に、通りすがりの女子学生が目を奪われ、「どこかで見たことがある気がする」と囁いた。だが——彼の黒い瞳は焦点を持たず、ただ潮騒の音に耳を傾けていた。山田は、何も言わなかった。京介の心の内を覗く術などない。ただ、静かに彼のそばに立ち、潮風の中に身を置いていた。京介はこの運命を波ひとつ立てずに受け入れているようだった。彼は、本来、運命などに屈するような人間ではなかった。彼は、自らの命を代償にして舞と子どもたちのための道を整えた。山田は思った。——きっと京介は後悔などしていないだろう。もう一度人生をやり直せたとしても、彼はきっと同じ道を選んだに違いない。山田は、たった一人きりの人生を生きてきた。周防家に仕え続け、家庭も、妻も持たなかった彼には、あの燃えるような愛情は、到
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