All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

中川は、日記を読み終えたときには、すでに涙で顔が濡れていた。けれど、その哀しみは記憶を失った男の心には届かない。彼は見えず、何も覚えていなかった。彼の世界には、昼も夜もなく、ただ「山田」という名の男が静かに寄り添うだけ。その夜、朝霞川の水音がざわめき、岸辺を打つ潮の音が止まなかった。京介は、珍しく眠れずにいた。「山田さん」暗がりの中で彼は低く声を上げた。すぐに山田が身を起こした。「胸が苦しいですか?水でも飲みますか?」京介は首を振った。「今夜……潮が満ちてきてるんじゃないか?川の水が揺れてるのが分かる。落ち着かなくて、気分が悪いんだ。いいか?一緒に、川の方まで連れていってくれないか?」視力を失った彼はせめて音と風に触れたかった。山田は黙って頷き、上着を着せ、黒いロングコートを羽織らせた。懐中電灯を手に、もう片方の手で京介を支えながら、ゆっくりと夜の道を進んでいく。朝霞川の河岸では、大学生たちが篝火を囲み、歌い、笑っていた。赤く照らされた夜空に、若さが溢れていた。京介は、耳を澄ました。——その旋律が、心の奥に届くかのように。さらに進み、川のほとりへ辿り着いた。山田が静かにささやいた。「遠くに、無数の灯りが浮かんでいます……学生たちは、手に線香花火を持って遊んでいます。若いって、いいものですね」黒いコートが夜風に翻り、朝霞川を見つめる京介の姿は、どこか荘厳で美しかった。その姿に、通りすがりの女子学生が目を奪われ、「どこかで見たことがある気がする」と囁いた。だが——彼の黒い瞳は焦点を持たず、ただ潮騒の音に耳を傾けていた。山田は、何も言わなかった。京介の心の内を覗く術などない。ただ、静かに彼のそばに立ち、潮風の中に身を置いていた。京介はこの運命を波ひとつ立てずに受け入れているようだった。彼は、本来、運命などに屈するような人間ではなかった。彼は、自らの命を代償にして舞と子どもたちのための道を整えた。山田は思った。——きっと京介は後悔などしていないだろう。もう一度人生をやり直せたとしても、彼はきっと同じ道を選んだに違いない。山田は、たった一人きりの人生を生きてきた。周防家に仕え続け、家庭も、妻も持たなかった彼には、あの燃えるような愛情は、到
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第292話

舞には、誰も真実を告げなかった。礼はいつものように静かに慰め、寛夫妻もそっと支えた。輝は一言も発せず、石川弁護士に至っては職業柄、何も語らなかった。けれど、周防夫人だけは堪えきれなかった。突然、大声で泣き出してしまった。「舞……もう京介はいないと思って生きなさい!三人の子どもを、しっかり育ててあげて。京介は言ってたのよ。もし、いつか本当にあなたがいい人と出会えたなら、もう待たずに、その人と生きていけって——」声を張り上げて泣き叫ぶその姿に、誰も言葉を挟めなかった。——誰も治せない爆弾を抱えていた、舞の京介を。怒鳴ろうとした礼も、結局言葉を飲み込んだ。長い沈黙のあと、舞は「分かりました」とだけ言って、手元の書類に静かにサインした。その書面には、既に京介の筆跡があった。力強く、迷いのない文字だった。その四文字を指でそっとなぞる。まるで彼の声が、温度が、そこに残っているかのようだった。「……周防京介は、もう、いない」彼が遺したのは——名声、地位、財産、そして三人の子ども。彼自身は、いったいどこへ行ってしまったのだろう?舞は天を仰ぎ、涙を飲み込むと、一気にペンを走らせた。白い紙に深く刻まれた二つの名前——【周防京介】【葉山舞】——これをもって、栄光グループは主を変えた。石川弁護士は書類を丁寧に鞄にしまい、立ち上がって微笑んだ。「葉山社長、これから末永く、よろしくお願いいたします」舞は、静かに頷いた。その日の午後、栄光グループは最新の株式構成の変更を正式に発表した。——新たな代表取締役社長として、葉山舞の名が記された。このニュースは瞬く間に広がり、主要な経済メディアのトップを一日中独占した。周防家の権力構造に何が起きたのか。そして、周防京介の行方は——様々な憶測と推測が飛び交い、世間の関心は一気に栄光グループに注がれた。世間では京介はすでに亡くなっているという噂が流れていた。【半年前の飛行機事故。だが、その情報は封鎖されたまま。葉山舞が出産を終える頃、ようやく一部のメディアを通じてほのめかされる形で公にされた】また、別の説もあった。【周防京介は出家したのだと】鳳泉寺には、日々仏前で跪く黒衣の男がいるらしい。「絶対にあれは周防京介だ」と語る者も
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第293話

窓の外の雪を見つめながら澄佳はふと思った。お庭に、黒い車が止まるんじゃないかって。車のドアが開いて、パパが線香花火を持って降りてくるの。澪安と一緒に遊べるように、ちゃんと二束、買ってきてくれるはず。そんなパパが、死んじゃうなんて絶対にない。だって、まだ一度も妹を抱っこしていないんだよ。そんなの、ありえないよ。けれど、彼女は毎日待っているのに。大きな窓辺にちょこんと座って、ずっとずっと待っているのに。——どんなに待っても、パパは帰ってこなかった。小さな瞳に、ぽつりと涙がにじむ。そのまま、母・舞の胸に飛び込んだ。「ねえ、ママ。パパは、帰ってくるの……?」暖かな灯りの下で、舞はそっと娘を抱きしめて、その幼い頬に頬を寄せるようにして、こうささやいた。「帰ってくるよ。きっと、澄佳が小学生になる頃かも。あるいは、大人になって、お嫁さんになったその日かもね——」五歳の少女なりに、なんとなく分かっていた。澄佳は母の胸に顔をうずめたまま、長い間じっとしていた。やがて、ぽつりとつぶやいた。「わたし、ママのそばにずっといるからね」舞の胸が、きゅっと締めつけられるように痛んだ。……深夜、子どもたちが寝静まったあと——舞は、ひとり窓辺に立って、白い雪を見つめていた。——京介、あなたは、いったい今どこにいるの?……雪は、夜通し静かに降り続いた。翌朝、街はまだ一面の銀世界。栄光グループの本社ビル前に、漆黒の高級車が静かに停まった。車を降りたのは、真っ白なスーツに身を包んだ舞。中川はすでに外で待機しており、車のドアを開けながら手際よく本日の予定を報告する。「社長、本日午前は月例の役員会議がございます。午後二時には、雲城市から赤坂副社長が来社され、業務報告を予定しております。夜はチャリティー・ガラへのご出席となっております」隙のない装いに、社屋前の社員たちが一斉に頭を下げた。「葉山社長、おはようございます!」彼女はかつての自分に戻っていた。実のところ、舞が栄光グループを継いだ当初、その道のりは決して平坦ではなかった。社内には彼女を侮る者もいれば、あからさまに反発する者もいた。だが舞は、ひとりずつ粛々と対処し、必要とあらば容赦なく排除した。今や、彼女の実力
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第294話

舞は試作品を一瞥し、あまり満足そうではなかった。「この製品のコンセプトは記憶や想いでしょう?でも、売るには見た目も重要よ。あまりにもチープすぎて、高級路線とは思えない。市場で戦うには、これでは足りないわね。しっかり見直してちょうだい」プロジェクトマネージャーは恐縮しながら頭を下げた。「申し訳ありません。すぐに改良いたします!」そのとき、彼の隣にいた新人秘書の大学生が勢いよく口を挟んだ。「倉庫に、もうひとつ、特別なサンプルがあります。すごくよくできていて……よかったら、そちらもご覧になりますか?」マネージャーがすかさずたしなめた。「会議中だぞ。お前が口を挟む場面じゃない」上司に怒鳴られ、新人は顔をこわばらせ、それ以上言葉を続けることはなかった。実は、舞はこのプロジェクトに強い関心を持っていた。彼女は椅子から立ち上がり、「……じゃあ、倉庫を見に行きましょう」と静かに言った。プロダクトマネージャーは一瞬止めようとしたが、結局、何も言えなかった。五分後、一行は社内の倉庫に到着した。例の新人秘書が、自信満々の表情で黒いカバーをめくった。次の瞬間、実物大のリアルなアンドロイドが舞の目の前に現れた。——それは、まさしく周防京介だった。顔立ち、肌の色、佇まい、目の奥の静けさに至るまで、あまりにも似すぎている。まるで彼がそこに生きて立っているかのような錯覚に、舞はその場に立ち尽くした。舞の胸が大きく波打った。彼女の視線が潤み、震える手がその顔にそっと触れる。唇が微かに開き、押し殺すような声で言った。「……みんな、出て行ってちょうだい」誰も口を挟めず、倉庫から出て行った。プロダクトマネージャーは秘書を睨みつけ、低く吐き捨てた。「……明日から来なくていい」がらんとした倉庫に、残されたのは舞と「周防京介」だけ。舞は、静かにヒューマノイド型ロボットへと手を伸ばした。その頬、その胸元……まるで本物の彼に触れるように、震える指先で輪郭をなぞっていく。その輪郭に触れるのは、あまりにも久しぶりだった。どれほど長い間、彼にこうして触れることすらなかっただろうか。胸のあたりに小さなボタンがあった。彼女がそっとそれに触れると、機械が起動する音の後、静かな男の声が響いた。それは、紛
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第295話

大晦日の少し前、初雪のあとの快晴。高速道路の両脇には雪が積もり、山脈と松の枝を白く覆っている。辺り一面が、北風のように凍てついた銀世界だ。冬の江は大半が氷に閉ざされ、陽が差すわずかな水辺だけが、きらきらと金色の光を跳ね返していた。一台の黒い車が、朝霞川へと疾走していた。舞は車内で、じっと窓の外を見つめていた。鼻先は赤く、寒さがそのまま顔に出ている。正午。まばゆい陽光の中、車は朝霞川のほとりに到着する。そこには一軒のリゾートヴィラがあった。冬のこの時期、人気はまったくなく、静まり返っている。唯一、煙突から煙の上がる小さな山小屋が一軒。誰かが暖炉を使っているのだろう。舞は運転手にその小屋の前まで車を進めさせた。車が止まると、彼女は震える指先でドアノブを掴み、よろけるようにして外へ出た。身体のこわばりが激しく、筋肉の痛みまで走る。それでも、彼女はほとんどためらわず、小屋の扉を押し開けた。小屋の中は明るく暖かい。暖炉には火が灯っている。黒い服を着た男が、背を向けてソファに座っていた。後頭部の短く整えられた黒髪のあいだから、わずかに白髪が覗く。扉の音に気づいた彼は振り返らず、静かに言った。「申し訳ないが、ここは貸していない」その声は——周防京介のものだった。生きていた。彼は——生きていた。舞の喉が詰まる。ゆっくりと彼に近づき、震える声で言った。「京介……あなたを世界中探したの。いろんな国へ飛んだのに、どこにもあなたはいなかった」——まさか、朝霞川にいたなんて。——まさか、立都市の中にいたなんて。そう口にしたとたん、涙が溢れた。とめどなく落ちた。震える手を彼の肩にそっと添える。その温もりを感じる。確かに、彼はこの世にいる。恩讐も、愛憎も、今はどうでもよかった。ただ、彼が静かに、冷たくひとり死んでいくことだけは絶対に嫌だった。けれど——男は沈黙を続けた。舞は彼の前に回り込んだ。そして次の瞬間、言葉を失った。確かに、周防京介だった。けれど、その顔には感情がなかった。目に焦点がなく、虚ろだった。舞は彼の頬に触れ、信じられない気持ちで彼の様子を探った。どうして反応がないの?どうして彼は見えていないの?男は静かに彼女の手を取った。真っ黒な瞳が揺れる。「お会い
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第296話

帰りの車中、京介は舞と同乗していた。礼夫妻は当然、同行を望んだ。久々の再会を共に味わいたかったのだ。けれども——舞はそれを制した。彼女は周防夫人を見つめ、静かに口を開いた。「中川が伝えているはずです。今夜の会食、必ず出席していただきたいです。栄光グループが取り込みたい岸本さんがいます。あなたは奥様と懇意でしょう?なら、お願いできるのはあなたしかいないですよ」価値を認められているとはいえ、周防夫人は息子に会いたかった。でも舞は、昔から容赦がない。正直、周防夫人はちょっと怖いのだ。一方の礼は、それを見ていてどこか嬉しそうだった。……山田は荷物をまとめて舞に同行した。中川も合流し、京介を支える舞の姿を見るなり、急いで車のドアを開けた。「葉山社長!」舞は一瞥をくれたあと、改めて問う。「佳楠……あなたのこと、信じていいのかしら?」佳楠は覚悟を決めた顔で答えた。「一生、葉山社長についていきます」舞はそれ以上追及せず、京介を車に乗せた。山田も続いて同乗し、彼の診療記録を舞に手渡した。「先週、宗田先生が再診しました。これがその所見です」車が走り出す。舞はふと横を向き、京介を見る。彼は静かだった。記憶も、白も黒も——彼の世界にはもうなかった。舞は京介の隣で彼の手を握りながら、もう片方の手で分厚い診療記録を読み進めた。半年間で、二十冊近くに及ぶ記録。舞の目は真剣そのものだった。山田はその様子を見て、ふと確信した。——きっとこの人なら、京介様を救い出してくれる。舞は全てを読み終えると、黙ったまま、京介の手を強く握りしめた。……一時間後、車は白金御邸に到着した。巨大なガジュマルの木を回り込んで、駐車場に停車した。後部座席のドアが開き、山田が京介を支えて降ろした。家の中にいた使用人がその姿を目にし、言葉を失った。そして、涙ぐみながら大声で叫んだ。「澄佳ちゃん、澪安君!……早くおいで!誰が帰ってきたと思う?」やがて、澄佳と澪安が走り出てくる。玄関で目にしたのは——父親だった。一瞬、動きが止まり、それから駆け寄った。二人して京介の脚に抱きつき、泣きながら叫んだ。「パパ!パパ……!」使用人たちも、目を潤ませた。——奥様がどれだけ待ち望んでいたか。そ
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第297話

リビングは春のように暖かく、心地よい空気に包まれていた。京介はコートを脱ぎ、薄手の黒いカシミヤニット姿になっていた。柔らかな素材が、引き締まった胸元をほんのり浮かび上がらせ、広い肩と相まって、ただ静かに座っているだけでも見惚れるような存在感があった。澄佳は童話の絵本を手に、感情豊かに朗読していた。「むかしむかし、白雪姫という美しいお姫さまがいました。継母はその美しさを妬み、毒リンゴで姫を眠らせました。姫は目覚めることはありません。ただひとつ、真実の愛のキスを除いては——ある日、王子が森を通りかかり……」……読み終えると、澄佳はパチパチと輝く瞳で父を見上げた。「パパ、前にこうやって読んでくれたの。覚えてない?」京介の脳裏にその記憶はなかった。けれど澄佳はそんなことでめげない。すぐにベビーベッドへ駆け寄り、使用人の手を借りて、小さな願乃を抱き上げる。そして京介の鼻先に赤ちゃんをそっと近づけ、得意げに言った。「ね、いい匂いでしょう?この子が小さな願乃。ママが新しく生んだちっちゃい妹よ。わたし、毎日おむつ替えしてるんだ。大きくなったら、きっと感謝してくれるはず!まだ小さいから、童話もいっぱい読んであげるんだ〜」赤ちゃんの体から漂う、ほんのり甘いミルクの香り——それは、癒しそのものだった。京介は見えない目で、自然と両手を広げて、願乃を受け取った。澄佳はじっとその様子を見ていて、羨ましそうに眉を下げたが、口ではふふんと澄ました。「でしょ?いい匂いでしょ?この子は妹、名前は願乃。パパとママの赤ちゃんなんだよ」そして今度は澪安を引っ張ってきて、誇らしげに紹介した。「こっちは澪安。パパがいちばん可愛がってたんだよ!」澪安は病弱で、小さい頃から多くを察してきた。今も、京介に身体を預けながら、じっと顔を見上げ、泣くのを堪えていた。澄佳は腰に手を当てて、得意気に言った。「とにかく——もうどこにも行っちゃダメだから!目が見えないなら、わたしが面倒みるし。ダメだったら澪安もいるし!」……舞は部屋の入口に立ち、胸がぎゅっと詰まった。京介がこちらを向いた。だが、その瞳には焦点はない。舞はそっと近づき、彼の腕に抱かれた願乃の頭を撫でながら囁いた。「お腹が空いたみたい」……そ
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第298話

宴が終わり、周防夫人は車に揺られて帰宅した。家に入るなり、クラッチバッグをソファへ放り投げ、魂の抜けたような顔で座り込んだ。その様子に気づいた寛の妻が心配そうに声をかけた。「お義姉さん、どうなさったの?」周防夫人は彼女を見て、それから寛と礼兄弟の顔を交互に見つめた。そして突然、ソファの肘掛けに身を伏せ、わっと泣き出した。「今夜は……舞を助けようと思ってたのに、結局、私が助けられてしまったの。社交の場で、あんな目に遭うなんて……今さらだけど、彼女がどれだけ大変な思いをしていたのか、わかった気がする……私、もっと早く、ちゃんと向き合っていればよかった……」寛の妻は、そっと寄り添い、優しく慰める。礼は鼻で笑った。「やっと、わかったのか?昔、あれだけ言っても聞かなかったくせに。もしあのとき——」責めるような言葉が出かけたが彼は飲み込んだ。……今さら、何を言っても無駄だ。周防夫人もまた、自責の念でいっぱいだった。「伊野祖母の体調も良くないし、舞の母も身動きが取れない。いま彼女には、信頼できる誰かが必要なのよ。礼、今からでも私、引っ越して彼らと暮らすわ。京介の世話もしたいし、子どもたちの面倒も見たい」礼は冷静に返した。「舞は、あなたに心を開いてないだろう」周防夫人の頬に涙が伝う。「それでもいいの。頭を下げてでも、そばにいたいの」周防家の面々は、その姿に目を見張った。——まるで、別人のようだった。……夜の白金御邸。京介は、記憶も視力も失っていたが、頭の冴えは相変わらずだった。たった一日で、主寝室の構造をおおよそ把握し、手探りながらも慎重に歩けるようになっていた。小さな願乃のベビーベッドは、主寝室に置かれている。夜は母と一緒に眠るのが習慣だ。使用人はミルクを作りに行っていた。冬の夜、赤ん坊の身体から漂うミルクの香りは、優しく人の心を和ませる。お腹が空いたのか、願乃は「んーんー」と甘えた声を出していた。たまらなく愛らしい。京介にはその姿は見えない。けれど、聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされている彼は、すぐに気づいて起き上がった。音のする方へ手を伸ばし、ベッドの縁に触れる。騒いでいた願乃は、好奇心いっぱいの黒い瞳で、上から覗き込む父の気配を感じ取った。嬉しかったのだろう。彼
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第299話

舞はベビーベッドに手を添え、願乃の安らかな寝顔を見つめながら、低く呟いた。「この子も澄佳と同じ。パパ似だね。澪安だけ、私に似てる」そう言い終えたとき、彼女の瞳にはほのかな涙が滲んでいた。夜はさらに深く、静けさに包まれていた。舞は入浴を済ませ、軽くスキンケアをしたあと、寝室に戻った。部屋の灯りは読書灯ひとつだけ。ベッドの上では、白いシャツを着た京介が枕元にもたれて座っていた。ベビーベッドは、彼の手が届く距離まで不思議と近づいていた。——京介は、何も言わないけれど、願乃のことがとても気になるのだと、舞にはわかっていた。舞は布団をめくり、温かい寝床に身を滑り込ませる。男の体温でぽかぽかと熱くなっていて、彼女はそっと彼の腰に頭を預けた。何も言わず、ただその胸によりかかる。男女の髪が絡まり合い、静かな夜がそこにあった。どれほど強い女でも——長い不安と疲労を癒やしてくれる時間はきっと必要なのだ。それに、舞の中ではまだ不安が渦巻いていた。京介の病は治るのだろうか。玉置先生に会えるまで、安心などできるはずがなかった。沈黙の中、京介が口を開いた。「……俺たち、昔は仲良かったのか?」舞はそっと微笑んだ。「うん、すごく。仲が良くなきゃ、三人も子どもはできないでしょ?」京介の瞳が、ふっと暗く沈んだ。しばらくの沈黙のあと、彼は手探りで舞の肌に触れ、低い声で尋ねた。「……どうして願乃に母乳をあげない?」舞は彼の手首を掴んだが、彼は手を引かず、どこか固執したような表情を見せた。舞は目を閉じて、小さく呟いた。「……忙しすぎるのよ」——その直後、彼女の視界が反転した。京介が覆いかぶさってきたのだ。薄手のシルクのナイトウェアでは、肌の温もりを隠せない。彼はその漆黒の瞳で彼女をじっと見つめた。それから——何の情も交えず、自分の「所有物」を確認するように、彼女の体の隅々を触れていった。まるで、医者の検査のように冷静に。そして最後に、彼の高く通った鼻先が舞の頬に触れ、静かに香りを吸い込んだ。「……何してるの、京介」舞は低く問いかけた。彼は黙って彼女を見つめ、そして、そっと身を引いて隣に横たわった。舞の胸は、早鐘のように高鳴っていた。——もしかして、京介は、私に失望したのだろうか
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第300話

まもなく、ドアの外から使用人の声がした。「奥様、周防夫人がスーツケースを持ってお見えです」——やはり来たか。舞は予想していた。淡々と返した。「わかった。すぐに降りるわ」彼女は京介の腕の中からそっと抜け出し、優しく声をかけた。「顔を洗って、朝ごはんを食べましょ」舞は京介を洗面所へ連れていき、自ら歯磨き粉を出し、タオルを絞って差し出す。彼の顎には、青く短い無精ひげが生えていた。舞はシェーバーを取り出し、丁寧に剃ってやる。最後に温かいタオルでそっと拭き取ったところで、手首を軽く掴まれた。京介の声が静かに落ちる。「……そこまでしなくてもいい。別々に寝たほうがいいかもな」舞は顔を上げた。「……気を遣ってるの?」京介はしばらく黙ってから、低く答えた。「……そうじゃない。ただ……どこか、まだ馴染めない」朝のこと——身体が反応していた。だが、彼はそれを抑え込んだ。彼は知っていた——妻は仕事のできる女で、容姿も体つきも一流だ。それでも、どうしても本能のままに彼女を抱くことはできなかった。心の奥底では、ある女性を愛している——そんな感覚があった。それが妻なのかどうか、彼自身にもわからなかった。愛がなければ、たとえ身体が衝動に駆られても、彼は彼女を抱こうとはしなかった。舞は、彼の手をそっと包み込んだ。「……時間が経てば、慣れるわ」京介の瞳は、深い闇のように沈んでいた。……その朝、京介は一階には降りず、リビングで朝食をとった。澄佳と澪安は、すでに学校が冬休みに入っていたが、早起きして父に付き添っていた。願乃の面倒は使用人が見てくれていた。一方、舞はゆっくりと一階へ降りる。キッチンでは周防夫人が料理に奮闘していた。元はといえば、上流階級の暮らししか知らない彼女。朝食を作るつもりが、もう少しでキッチンを火事にしそうになった。舞の姿を見て、周防夫人は気まずそうに言った。「……良かれと思って、やっただけよ」——断られるのが、怖かった。けれど、舞の言葉はあっさりしていた。「住みたいなら、どうぞ」周防夫人の目に涙が浮かんだ。「舞……必ず京介と子どもたちの面倒をしっかり見るわ。あなたの足を引っ張るようなことは絶対にしない。あなたは外のことに集中して。家の
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