All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

周防夫人はすぐに気持ちを切り替え、明るい声で息子に話しかけた。「今日ね、市場で立派な南天の鉢植えを見つけたの。舞とあなたの家に飾ったら、家内安全や無病息災を願うにはぴったりだと思って。とても縁起がいいのよ」京介は淡く微笑んだ。「……そんなことは、母さんの好きにしていいよ」周防夫人はますますご機嫌だった。「珍しいわね、今日のあんた、本当に素直ね!それからね、舞にもプレゼント買ったのよ。カシミヤのマフラー、LVの新作。あの子にぴったりの清楚な色でね、妊婦なんだから、外出時はちゃんと暖かくしないと。あんたもちゃんと気をつけてあげて、何かあったら、母さん許さないからね!」スマホ越し、京介はただ静かに聞いていた。通話が切れるまで——黄昏はもうすぐ夜に飲まれようとしていた。彼は煙草の先を見つめながら、ふと遠い目をした。中川はずっと傍に付き添っていた。空がすっかり暗くなったころ、京介はぽつりと告げた。「……宗田先生に伝えてくれ。手術は今は見送る。代わりに、薬で進行を抑えてもらいたい」中川は言葉を失った。「でも、それは……」京介は足元の吸い殻を踏み消し、彼女の方へゆっくりと顔を向けた。淡い笑みを浮かべて——「佳楠、『でも』は要らない。言った通りにしてくれ」長い間、彼が彼女の名前を呼んだのは初めてだった。中川佳楠(なかがわかな)。彼女は、京介の大学の後輩。出会ってからもう何年も経つ。その名を呼ばれた瞬間、佳楠は堪えきれず泣き崩れた。あの周防京介が、まるで遺言のような口調で語るなんて信じたくなかった。——彼は、いつも強く不屈の人だった。どうしてこんな病が彼を襲うのか。……夜更け。山寺には鐘の音が静かに響いていた。大伽藍の中、荘厳な仏たちが見守るなか——ひとり、黒衣の男が長く伏している。その腕は不自然に萎え、僧侶は静かに問うた。「貪・瞋・痴を捨てること、それを悔いたことは?」京介は、目を閉じたまま答えた。「悔いたことは……ありません」僧はさらに問う。「善き者には試練多く、悪しき者は長らえる……それでも、悔いはないと?」京介は目を開き、仰ぎ見る——天上に連なる神仏の数々を。その視線は澄んでいた。「京介は悔いず。ただ、妻子が無事である
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第272話

再び舞に会ったとき——京介の心は、まるで一度この世を去って、また戻ってきたかのようだった。言葉にできない寂しさ、すべてが灰になったような空虚感が胸を締めつけた。それでも、彼が彼女を見る眼差しはどこまでも優しかった。静かに歩み寄り、距離があと一歩になったところで、そっと彼女のお腹に手を添える。「……今日、赤ちゃんは静かにしてたか?」舞は避けなかった。ただ、彼の手を見つめながら、静かにその手を取った。「……まだ小さいんだから、って何度言ったらいいの」京介の黒い瞳が揺れ、微笑がこぼれた。「そうだな……まだ小さい。パパのことなんか、まだわからないか」……舞は思わずくすりと笑った。けれど同時に、胸の奥にじわりと沁みる痛みもあった。——京介は、変わった。けれど、何がどう変わったのか。言葉にはできなかった。京介は膝をつき、そっと彼女のふっくらとしたお腹に顔を埋めた。灯りに照らされた彼の横顔はいつになく柔らかくて——その声もまた、最愛の人にしか見せない、静かな温もりを宿していた。「舞……うちの願乃が生まれたらさ、みんなで一緒に、どこかへ旅行に行こうよ。九郎みたいに、何もかも忘れて、心からのんびりと……付き合い長いけど、俺たちって、ちゃんと旅行したこと、一度もないだろ?」舞は、彼が夢物語を語っているように感じた。——栄光グループの社長がそんなに自由に動けるわけない。三日も休めたら上等だ。彼女は、白くしなやかな手を彼の髪に落とし、ゆっくり撫でながら、少しからかうように言った。「妊娠すると三年間は頭が回らなくなるって言うけど……ねぇ京介、私まだボケてないのに、あなただけ先におかしくなってどうするの?」「……本気で言ってる」彼の声は、ごく小さく少し詰まっていた。けれど舞は、それに気づかない。京介は続けた。「春になったら、家族五人で外へ出かけよう。花も草も川も山も、ぜんぶ見に行こう。俺たちが見逃してきた時間を、子どもたちには全部見せてやりたい。同じ轍を子どもたちには踏ませたくないんだ」本当は——彼には、舞と一緒にしたいことが、まだ山ほどあった。若くして出会った二人だったのに失ったものが多すぎた。どうにもならない運命——きっと、京介と舞ほど、その言葉の意味を噛
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第273話

京介はもう一度、舞に視線を向けた。彼女が起き上がろうとするのを、そっと手で制した。「ここで寝て。俺が子どもたちを見てくる。妊娠中なんだから、ちゃんと休まないと」舞は何か言おうとしたが、京介は身を寄せ、優しく彼女に口づけた。「じゃあ、俺、下で素麺食べてくる」……京介が階下に降りると、素麺はすでにのびてひと塊になっていた。使用人が慌てて言った。「旦那様、作り直しますね」けれど京介は軽く首を振った。「いいよ。肉味噌をもらえる?」使用人は微笑んだ。「やっぱり、奥様の手作り肉味噌は、旦那様のお気に入りですね。何年経っても変わらない」京介も、ごく淡く微笑んだ。やがて、肉味噌が運ばれてきた。彼は「もう休んで」と言い、使用人を下がらせた。夜は、まるで墨を流したように深く静かだった。京介はひとり、ダイニングに腰を下ろし、決して美味しいとは言えない素麺を、ゆっくりと食べ終えた。そして、片手で煙草を取り出し、火をつけた。静かに深く吸い込んだ。体はもう限界を迎えつつあった。妻と子どもたちのために、今できることを考えなければならない。もし、運命がほんの少しでも味方してくれるなら——願乃がこの世に生まれてくるその日まで、自分の命が持ちこたえてくれたら、それでいい。栄光グループのことはすべて舞に託すつもりだ。三人の子どもたちは、きっと家族に見守られながら、立派に育っていくのだろう。成長した姿を思い浮かべるだけで胸が熱くなる。きっとどの子も、若い頃の自分と舞のように整った顔立ちになるはずだ。京介の目がじんわりと潤んだ。——本当は、見届けたかった。子どもたちが大きくなる姿も。舞が白髪になっていくその様も。新たな命が生まれる前に、伝えなければならないことが山ほどある。まずは栄恩グループの株式だ。彼は自身が保有するすべての株を舞に譲る決意をした。これから先、舞が実質的な経営権を握り、子どもたちが成長したら、舞の意思で分配すればいい。だが、京介の心の中には澪安を後継にと考える気持ちが強くあった。男の子は、妹たちを守るものだと信じていたから。そして、実はもう一つ伝えなければならないことがある。夜更け。京介は静かに子ども部屋に入り、澪安と澄佳の様子を見に行った
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第274話

翌日——栄光グループ、本社ビル最上階・社長室。京介は一人、オフィスの革張りチェアに腰をかけ、指先に煙草を挟みながら、静かに煙を吸っていた。薄青い煙が、ゆらゆらと天井に溶けていく。彼は——ある人物を待っていた。ほどなくして、中川がドアを開け、ひとりの男性を案内して入ってきた。やってきたのは、周防家と縁深い弁護士、石川弁護士である。彼は空気を読むのが早い。京介の表情を見るなり、ただごとではないとすぐに悟った。だが顔には穏やかな笑みを浮かべ、ソファに腰を下ろしながら軽く聞いた。「社長、何かご依頼ですか?」京介は煙草の火を静かに消し、静かに頷いた。「……少し、大事なことを頼みたい」石川弁護士の表情が少し引き締まる。京介は、机の引き出しから一枚の譲渡契約書を取り出した。その声はごく静かだった。「名義上、私の持つ栄光グループの30%の株式を、婚姻関係にないまま、葉山舞に贈与したい。これで、彼女の持株比率は40%になり、実質的な筆頭株主として一票決定権を持つことになる」石川弁護士は静かに息を吐いた。まるで胸の奥につかえていた何かをようやく外へ解き放つように。——これはただの「少し大事なこと」なんかじゃない。栄光グループの支配権が移るだけではない。もはや、彼自身の雇い主も変わるのだ。若くして京介はこの帝国を築いた。この男がなぜ?まだ若い。しかも遺言ではなく「今すぐ贈与」という形だ。正気とは思えない。数兆円を、まるごと差し出すような行為。周防家の墓石もきっと音を立てて跳ね上がるだろう——だが彼は法律家だった。まずは職務として慎重に確認を促した。「……少しお考えになるお時間を取られては?」京介は微笑を崩さぬまま、書類にサインし、さらりとそれを押し出した。「いつか俺が栄光グループを去り、立都市を離れる日が来たら……そのときは、この件、公証してくれ」石川弁護士はしばし絶句した。死以外に、去る日などあるだろうか?何も言えなかった。慰めの言葉を探そうとしても、どこにも見つからなかった。京介は、相変わらず穏やかに微笑んでいた。「……舞には、俺がいなくなるまで言わないでくれ。きっと、悲しむから」石川弁護士は深く頷いた。部屋を後にする時、ふと思い出した。——
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第275話

舞はふわりと微笑み、断ることはなかった。京介はいつも通りの穏やかな顔を保ち、まるで何も異変などないかのように振る舞っていた。灯りを一つひとつ飾り終え、ふと彼の目に留まったのは——舞の首に巻かれたカシミヤのマフラー。LVの新作。たぶん、母が買ってくれたものだろう。そして舞は、それをちゃんと巻いていた。それだけのことが、京介の胸をやさしく揺らした。彼はそっと近づき、舞の腰を抱き寄せた。「……新年のプレゼント、何が欲しい?」舞は再び微笑み、首を横に振った。京介の視線は彼女をまっすぐ捉えたまま離れなかった。——いくら見ても足りない。自分があとどれだけ正気でいられるか、彼にはわからなかった。もしかしたら、明日には舞の顔さえ忘れてしまうかもしれない——だから、今のうちに。覚えているうちに。彼女の顔を、声を、仕草を、子どもたちの笑顔を——全部、目と心に焼きつけておきたかった。忘れたくない。舞も、澪安も、澄佳も、そしてこれから生まれてくる小さな願乃も。忘れてしまわぬように。すべて、大切なものを、書き残しておきたいと願った。この瞬間のまなざしに、舞は気づかなかった。京介は愛してるとも離れたくないとも言わなかった。ただ、黙って隣にいて、黙って手を貸して、黙って彼女を見つめていた。——いずれ別れが来ても彼女の心が少しでも傷つかないように。その夜、京介は日記をつけ始めた。その日、その時の記憶を、一つひとつ書き残しておくために。……彼は今夜も、舞を主寝室で休ませたまま、自分は隣で静かに寄り添っていた。京介は、柔らかな彼女の体を抱き寄せたまま、朝まで静かに寄り添い、昔の話をぽつりぽつりと語って聞かせた。けれど、語るのは決まって美しい記憶ばかりだった。舞は彼の胸に顔をうずめたまま、ふっと囁いた。「ねえ、京介。最近ちょっと老けたんじゃない?過去ばっかり懐かしんでる」京介は穏やかに笑った。「そうかもしれないな」……大晦日。京介は舞と子どもたちを連れて、周防家の本家へ向かった。復縁していない舞は、周防宅のことには一切関わらず、ただ子どもたちの世話だけに徹していた。年越しの食事が終わると、寛夫婦と礼夫妻が、それぞれ子どもたちにお年玉を渡した。分厚い封
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第276話

周防家の書斎は、かつて周防祖父の私室だった。その静謐な空間に、父子二人だけが向かい合っていた。香炉には松の香が淡く漂い、京介は慎ましく線香を手向ける。遺影に向かい、どこか神妙な面持ちを浮かべていた。その脇で、礼が唐突に口を開いた。「京介、白石家の娘の件、お前とは関係ないと誓え。お爺さんの前で、きっぱり誓ってくれ。それで俺はお前を信じる」京介は目を伏せた。そして、わずかに口元を緩めた。「父さん、いつから彼女のことを気にかけるようになったんですか?」礼の目が鋭く光る。「もともと好きじゃなかったさ。お前も知ってるだろう。だがこれは、お前のために言ってるんだ。関与していないと、はっきり証明してくれ」京介は一歩下がり、遺影を見上げた。低く呟くように言った。「父さん、ご心配には及びません。白石音瀬の死に、俺は関係ありません。昔は、死なせないように一応守ってやってました。でも今は、もう庇う気もない。あんな狂気の巣窟で、事故が起きたって何の不思議もありません」礼はじっと息子を見据える。その目には疑念と信頼が交錯していた。やがて、口の端に微笑を浮かべてぽつりと洩らした。「……佳人でありながら、盗人にも劣るとはな」京介は彫刻のような窓辺に佇んでいた。橙の明かりがガラス越しに揺れ、まるで窓の端が燃えているかのよう。その光は彼の面影を照らし、いっそう気品を引き立たせていた。礼はその姿を見て満足げに頷き、低く語りかける。「今日呼んだのはな、お前が何かを隠してるんじゃないかと思ってな。京介、お前がどれだけ有能でも、お爺さんが家のことを一任したとしても、俺にとってはずっと子どもだ。使いものにならない父親かもしれんが、ずっとお前のことを考えてる。舞とも上手くやってるし、子どもも二人いて、この秋にはまた一人増える。お前が幸せそうで、父さん、本当に嬉しいんだよ……たまにこうして、お爺さんの遺影に向かって話しかけるんだ。『父さん、あんた、見る目なかったな。京介は、ちゃんと幸せになったよ』ってな」礼の素直な言葉に、京介は胸を打たれたように微かに目を細めた。ちょうどその時、書斎の扉が静かに開き、母が現れた。「京介」その柔らかな呼び声に、彼は微笑んで応えた。「母さん」周防夫人の目には光るものがあり、コートのポケットから
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第277話

少なくとも、舞はまだ彼の傍にいる。長い付き合いだが、二人の間にロマンチックな時間はほとんどなかった。それでも、ふとした瞬間——京介の胸が不意に熱くなった。彼はそっと手を伸ばし、舞の手を包み込んだ。彼女の手のひらは少し冷えていて、自分の温もりに馴染んだ。舞は手を振りほどくこともせず、じっと子どもたちを見つめたまま、ぽつりと呟いた。「京介……一生、こうして子どもたちを見ていられたらいいのにね。朝も早起きしなくてよくて、終わらない仕事に追われることもない」京介は彼女を見下ろし、最初は小さく「うん」と頷き、それから静かに笑った。「舞……お前が、じっとしていられるわけないだろ」舞も微笑んだ。肩にかけたショールを直しながら、優しく落ち着いた声で言った。「あなたって、ちょっとだけ……私のことを分かってるのね」京介の瞳は深く、そしてどこか熱を帯びていた。「ちょっとどころじゃないよ」その響きが妙に艶っぽく感じられたせいか、舞は黙ってしまった。二人は肩を並べて立ち、目の前の子どもたちを見守っていた。周囲には線香花火の火花が舞い、子どもたちの笑い声が夜に溶け込んでいく。漆黒の夜の中で京介の目が潤んだ。堪えきれず、舞の首筋に手を添え、唇をそっと彼女の口元に落とした。「……舞。あけましておめでとう」低く、優しい声だった。……年が明けた朝——白石家の者が騒ぎを起こしに来た。白石正明の妻が周防家の門前で喚き散らし、娘の音瀬の命を返せと叫んでいた。その言葉の下劣さに、礼は本気で「この場で消してやろうか」とさえ思ったほどだった。周防夫人はしばし考えた末、自ら出るのが一番だと判断した。身支度を整え、庭に出ると、かつて信頼していた女の姿が目に映った。その瞬間、心からこう思った——自分の情けなど、犬にでも喰わせた方がマシだったと。白石夫人は泣き喚いていた。「どこよ、あの人でなしの京介!音瀬はあんたのせいで死んだのよ!それなのに、何の謝罪もないなんて——どういうつもりなの!」警備員が彼女を取り押さえ、これ以上口汚く叫ばせぬようにした。周防夫人は静かに前に出て、冷たい口調で告げた。「謝罪?……何の?」怒りのあまり、手を振り上げ、平手で白石夫人の頬を打った。白石夫人は呆然としながら
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第278話

白石夫人の唇が小刻みに震えていた。羞恥と怒りにまみれ、すべてを見透かされたような屈辱が全身を突き刺していた。だが、京介は小切手を渡すことすらせず、さらに冷淡な声を落とした。「本気で死にたいなら、他にもいくつか方法を提案してやろうか。少しは楽に逝ける死に方、選ばせてやるよ」その瞬間、白石夫人は全身を小鹿のように震わせた。外見こそ気丈に見えるが、中身はからっきし。白石家で本当に怖かったのは、音瀬一人だけだった。この数年、音瀬は生き地獄のような日々を送り、白石夫妻は何も言えずに耐えていた。死んだ今になって騒いでいるのも、結局は一儲けできればという下心ゆえだ。だが——京介には、その魂胆は最初から丸見えだった。彼女が踵を返そうとした時——京介の声が再び降ってきた。「これからは、二度と立都市に戻ってくるな」そう言いながら、彼は上着のポケットから一枚の判決文を取り出した。そこには、白石家がまだ彼に12億円の債務を残していることが記されていた。それを改めて突きつけられた白石夫人は、顔面蒼白となって門を出ていった。彼女と正明は、その日を境に二度と姿を見せなかった。——そんな自己中心的な親たちだからこそ、音瀬のような狂気に満ちた娘が育ったのだ。二階の窓辺で、周防夫人は白石夫人の背を見送っていた。ふうっと肩の力を抜き、ほっとして振り返ると、小さな応接間に舞が座っているのが見えた。思わず動きを止める周防夫人。そして、周囲に誰もいないのを確かめると、気まずそうに歩み寄り、舞の前で腰を低くした。「……京介を責めないでやって。あの子だって白石家の者と会いたくなかったの。あっちが勝手に押しかけてきたのよ。もう全部、京介が処理してくれたから」舞は静かに答えた。「お茶を取りに来ただけです」その一言に、周防夫人はばつが悪そうに髪を耳にかけた。ちょうどその空気を察してか、京介が階段を上ってきた。周防夫人はすぐさま立ち上がり、「あなたたち、ゆっくりね。私はもう一眠りしてくるわ」と言い残して去っていった。応接間には二人だけが残された。京介は舞を見つめ、静かに言った。「もう、お前と子どもたちを傷つける者はいない」舞は小さく頷いた。——音瀬は死んだ。泣く者は泣き、喜ぶ者は喜ぶ。舞は京介に
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第279話

夜、二人は子供を連れて白金御邸へと帰宅した。正月の立都市はことのほか華やかで、街のあちこちが火樹銀花に彩られていた。車内では、澄佳と澪安が興奮気味におしゃべりし、大人の二人は静かに外の灯火を眺めながら、それぞれの思いに沈んでいた。京介はそっと舞の手を握った。舞はそれを拒むことなく、そのまま寄り添っていた。家に着いたとき、澄佳はすでに夢の中で、口元にはよだれが光っていた。澪安もまた、眠りながら甘い寝言を洩らしていた。京介は、子どもたちを一人ずつ抱いて階段を上がっていく。舞は疲れたろうと運転手に手伝わせようとしたが、京介が首を振った。「すぐに大きくなって、もう抱けなくなる。今のうちに、いっぱい抱いておきたいんだ」その言葉に、舞は小さく微笑み、それ以上何も言わなかった。夜が更け、京介は子どもたちを抱きかかえて寝室へと運んだ。淡い照明が彼の横顔を照らし、その表情には限りない慈しみと切なさが滲んでいた。彼はそっと、何度も子どもたちの頬に口づけを落とした。——あと、何回抱きしめられるだろう。あと、何度名前を呼べるだろう。澄佳は背が伸びていた。澪安もずっしりと重くなった。愛情に包まれ、二人の子どもたちは静かに、たくましく成長していく。ただ——この先、自分がいなくなったら。澄佳は夜泣きするだろうか。澪安は目覚めて「パパは?」と探すのだろうか。ベッドの傍で、京介は長く彼らを見つめ、名残惜しそうにその場を離れられずにいた。足音が聞こえて初めて、彼はふっと表情を緩めて舞を見た。「もう待ちきれない?プレゼントが欲しいんだろ?」京介が用意した新年の贈り物は、二つあった。一つは、高級ジュエリー。【幻夜】と名付けられたエメラルドのセット。二百億円の価値があるそれは、多くの女性が夢見る至高の一品だった。舞も女である以上、その価値の高さは見逃せなかった。だが、母になった今、それを身に着ける場面は少ない。結局、ジュエリーは厳重な金庫にしまわれた。「この原石、俺が自分で選んだんだ。三ヶ月かけて仕上げた。お前が着けたら、絶対に誰よりも輝くと思ったから」クローゼットの鏡に映るふたりの姿を見つめながら、京介が低く呟いた。舞は無言で金庫の鍵を閉めると、そのまま寝室へ戻ろうとした。だがその瞬間、
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第280話

春が過ぎ、夏が来た。六月——舞のお腹は少しずつ丸みを帯び始め、ぴんと尖ったその形からして、中にいるのはきっと女の子だろうと感じさせた。夏の夜。空は墨色に染まり、別荘のパーゴラには満開の藤の花が絡みついていた。風に揺れる薄紫の房は、どこか涼やかで、夢のように可憐だった。舞はリクライニングチェアにもたれ、穏やかな寝息を立てていた。毛布が肩から掛けられ、長く艶やかな黒髪が風にそよぎ、まるで夜風に揺れる藤の花のようだった。潤んだ肌、寝顔は母となった穏やかさと柔らかさでいっそう白く輝いて見えた。その指先に、そっと大きな掌が重なる。京介が彼女の前にしゃがみこみ、その手を包むと、顔をそっと膨らんだお腹に寄せた。妊娠五ヶ月を過ぎたお腹はふっくらと丸みを帯びており、額に触れた瞬間、子どもの胎動が微かに伝わってきた。小さな拳ではなく、にゅるりと滑るような動き——まるで小さな柚子が、お腹の中でころころ転がっているようだった。京介は思わず、そっと唇を近づけた。この子に——願乃に、会いたくてたまらなかった。生まれてくれば、きっと兄と姉のように可愛いに違いない。舞が目を覚ますと、京介がまさにお腹に顔を寄せているところだった。彼女は静かに笑って言った。「まだそんなに大きくもないのに……交流なんてできないわよ。京介、最近ちょっと子どもっぽくなってきた」京介も微笑を浮かべた。「男は死ぬまで少年だって、言うだろ?」舞は彼の端正でどこか影のある顔を撫でながらふと呟いた。「そんなの、嘘よ。京介、あなたには少年なんて時期、あった?私があなたと出会ったのは22歳の頃だけど……あの頃から、もう十分老成してた。時々思うの。そんなふうに生きてて、苦しくないの?でも……もっと愚かだったのは私ね。あなたが『頂点に立つ』って言えば、私はただついて行った。あなたは実際に、今その場所にいる。でも——幸せ?」その問いかけに京介は何も答えなかった。ただ黙って、彼女の掌に顔を預け、静かにそのぬくもりを感じていた。夏の夜風が藤の花を揺らす。それは二人が過ごす——かけがえのない時間だった。……夜が更けて。書斎には、筆の音だけがさらさらと響いていた。山のように積まれた書類。傍らには乱雑に開かれたノート。だが京介
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