All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

瑠璃は輝の気配を察すると、かすれた冷ややかな声で言った。「もう帰って。二度と来ないで」輝はその背後に立ち、一歩の距離を残したまま立ち尽くした。伸ばしかけた手は、肩に触れる前にゆっくりと降ろされ、代わりに苦い吐息となる。「茉莉が……俺を見られないと泣くんだ。駄々をこねる。あの子には俺が必要だ」瑠璃の瞳は赤く腫れていた。「そうね、あの子はあなたを探して泣き喚くでしょう。でも泣いて、騒いで……やがては泣かなくなる。少しずつ、忘れていくの。あなたのことも、あなたの妻が与えた傷も。輝、知らないはずがないでしょう?事故は高宮絵里香が信号を無視したせいよ。それに肝心な時、あの女は茉莉を見捨て、自分の命ばかり守った。これを、あなたはどう償えるっていうの?」言葉にすると胸が裂けるような痛みが走る。悔しくて、悔しくて仕方なかった。瑠璃は俯き、小さく呟く。「聞いたわ。彼女は英国であなたのために、もう子どもを産めなくなったって。輝、あなたが彼女を娶って密かに愛し合うのは勝手よ。でも、どうして私の娘を巻き込むの?茉莉を渡して、彼女に育てさせたいって?そんなのあまりに残酷じゃない……」「違う、そうじゃない!」輝は数秒間沈黙し、かすれた声で告げた。「俺と彼女はもう別居している」……午後二時。栄光グループ、最上階の社長室。白川が法務部の大野弁護士を伴って入室する。「周防社長、大野先生がお見えです」輝は頷き、椅子を示して座らせると、白川に顎で合図した。「出ていってくれ」扉が閉まると同時に、輝は大野弁護士を見据え、低く切り出した。「譲渡契約を作ってほしい。俺の名義の瑠輝グループ株式——三十五パーセントを無償で赤坂瑠璃に託す。形式上は彼女の名義だが、将来はすべて子どもたちに分配させたい」短い一言一句に、大野弁護士の脳は混乱した。「輝、あなたの持ち株は六十五パーセントに過ぎません。その三十五を譲れば、赤坂さん次第では会社の支配権を失うことになりますよ。それと……お子さんは茉莉ちゃん一人のはずでは?」……大野弁護士は周防家と古くからの縁があり、信頼に足る人物であった。輝は隠すことなく、一つひとつ答える。「もし瑠璃が望むなら、それでもいい……子どもは茉莉だけじゃない。彼女のお腹の子も、俺の子だ」
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第432話

絵里香は鬱屈した気持ちを抱え、夜の酒場へ足を運んだ。夜が更けるとともに、店内は喧騒に包まれる。雑多な香水の匂い、露出の多い服、男女が絡み合い、スポットライトの下で体を揺らしながら踊り狂う——安っぽい艶めかしさが充満していた。絵里香が求めていたのは、まさにその空気だった。若い頃はいつも親に逆らってばかりいた彼女も、やっと大人しくなったはずだった。だが灼熱の照明の下、コートを脱ぎ捨て、タンクトップとミニスカート姿で妖艶に舞う。湿った黒髪を振り乱すたび、男たちの視線が集まる。やがて、一人の男が彼女を試すかのように抱き寄せ、視線には抗えぬ火が揺らめいた。彼女は拒まなかった。二人は踊りながら次第に息を合わせ、肌を寄せていく。いくつか曲が過ぎた後、二人は通路で抱き合い、激しく口づけた。だが、それだけでは足りなかった。そのままホテルへ向かい、部屋を取る。絵里香は、抑圧されていた欲望を惜しげもなく解き放った。婚姻の中で受けた冷遇を、男との一夜が埋め合わせてくれる。男は慣れた手つきで、彼女を巧みに悦ばせた。絵里香は意に介さない。遊びでいい。——放縦の一夜。翌朝、彼女は見知らぬ天井の下で目を覚ました。男女の営みの残り香が漂い、全身の毛穴が開くような感覚に思わず跳ね起きる。目の前にあったのは、若く整った顔の男。容姿は悪くないが、どう見ても遊び人。信用できる相手ではない。絵里香の胸に後悔がよぎる。男も目を覚まし、逞しい上体を起こして彼女を見つめ、だるげに笑う。「後悔した?それとも、もう良妻に戻る気か?」絵里香は無言で衣服を拾い、着始めた。男は低く笑い、背後から腰を抱き、肩に顎をのせて耳元に息を吹きかける。「昨夜、悪くなかったろ?」わざとらしい問いかけ。互いの相性は抜群だった。絵里香は挑発的に横目で睨む。男は彼女を抱き上げ、再びベッドに投げ出した。——新たな一戦。その時、絵里香は目を細めながら思った。輝を裏切ったという事実が、胸の奥で甘美な復讐の味わいに変わっていく。若い男に付き合わされ、彼女はしばし快楽に酔った。週に何度も逢瀬を重ね、ホテルの一室は「恋人ごっこ」の舞台と化す。その光景は、短い動画として切り取られ、密かに保存されていたことを、彼女は知
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第433話

二階では、茉莉が薬を飲んでいた。小さな掌に白い錠剤をのせたまま、なかなか飲み込もうとせず、母をうるんだ瞳で見上げている。ちょうどその時、琢真が美羽を抱いて階段を上ってきた。その様子を見て足を止め、小さく笑って言った。「俺、干し梅取ってくる」すぐに琢真は袋を手に戻ってきた。自分はあまり好きではないが、クラスの女子たちに人気の銘柄で、酸っぱくて甘いと評判だ。ついでに買っておいたのだった。琢真は茉莉の前にしゃがみ込み、一粒を取り出して唇へ差し出す。「薬を先に飲んだら、これをあげる」白く丸い顔がぎゅっとしわ寄せられ、まるで小さな肉まんのように愛らしい。やっと薬を飲み水で流し込むと、待ちきれないように梅干しを口に含んだ。酸っぱさと甘さが広がり、薬の苦みは消えていた。茉莉は残りを見て、つい目を輝かせる。琢真はその頭を撫で、穏やかに言った。「元気になったら、五袋買ってやる」だが今は、一粒飲むごとに、一粒だけ。茉莉はしょんぼりと肩を落とす。美羽が小さな首を伸ばしてねだる。「美羽も欲しい」琢真は笑って、妹にも一粒を口に入れてやった。傍らで瑠璃が微笑む。「琢真の方がずっと上手ね」少年は浅く笑い、窓辺へ歩み寄る。澄んだ眼差しが外に停まる黒い車へと注がれた。視線の先にあるのは、動かぬ黒い車体。その視線に気づき、瑠璃もそちらを見やった。昼食を終え、子どもたちが眠りについた頃。瑠璃は一人、外へ出た。黒い鉄門が静かに開かれる。外に停められた黒いベントレーから、輝が姿を現す。その黒い瞳は彼女の大きくなった腹部に釘づけだった。「茉莉は、この二日どうだ?お腹の子は元気か?お前を困らせてないか?」瑠璃は冷ややかに答える。「あなたには関係のないことよ」輝の瞳にかすかな失望が宿る。「なら……お前に関わることを話そう。大野から聞いた。俺が譲った株を、お前は受け取らなかったそうだ。なぜだ?復讐したいなら今すぐできる。瑠輝グループの支配者を差し替えるのも、お前次第だ」陽光は真夏のように強く照りつけていた。だが瑠璃の体は凍りついたように震える。「株なんて、何になるの?あの子の摘出された脾臓を取り戻せる?いいえ、輝。私ができる一番の報復は、あなたを無視し、遠ざかること。だから
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第434話

岸本が問いかけた。瑠璃は顔を上げ、明るい灯りに照らされて静かな面持ちを見せる。少し思案し、淡く答えた。「来たわ。でも中には入れなかった」岸本は妻の隣に腰を下ろし、彼女の手から本を取り上げて数頁めくると、静かに言った。「子どもに会いに来たんだろう?少しぐらい通してやっても良かったじゃないか。茉莉はあいつのことが好きなんだ」瑠璃は夫の表情を探るように見つめ、やがて冷ややかに言い放った。「会う必要はないわ。もう、関わらない方がいい」岸本は微かに笑い、それ以上は追及しなかった。代わりに軽く妻の腿を叩き、立ち上がる。「先に風呂に入ってくる」「ええ……」瑠璃は頷き、クローゼットで寝間着を用意した。畳んでいるとき、夫がまだ言い足りないことを抱えていると感じた。——予感は的中した。入浴を終え、二人は寝室で並んで横になった。岸本の温かな手が、彼女の膨らんだ腹を優しく撫でる。慈しみが掌から滲む。やがて彼は静かに口を開いた。「瑠璃……子どもの名前を決めよう」胸が震えた。だが彼女は微笑みを作り、問い返す。「どんな名前がいいと思う?」おそらく女の子だろう。岸本は黒い瞳を細め、しばし考え込むと呟いた。「名前は……夕梨がいい。夕暮れに咲く花のように、遅れてもなお美しく。そして、受けた恩を忘れずに生きてほしい」「岸本夕梨(きしもとゆうり)」瑠璃は小さく反復し、肩を夫に預ける。「とても綺麗な名前ね」夜は静かに流れ、岸本は妻の指を固く絡めた。【その手を離さず、共に歩み、白髪になるまで】かつて信じなかった言葉が、今では切実な願いだった。だが伝えるべき言葉は、喉奥に絡まって出てこなかった。……深夜、瑠璃が眠りについたあと。岸本は一人バルコニーに出た。心身は疲弊しているのに、どうしても眠れなかった。胸の奥に引っかかるものがあり、心が休まらないのだ。門の外には黒いベントレーがまだ停まっていた。その車体に凭れ立つ、背の高い影。岸本はその姿を見つめ、理由もなく煙草を欲した。ふとした拍子に、二人の視線がぶつかる。張りつめた空気が流れ、微妙な沈黙が場を支配する。やがて——輝は無言のままドアを開け、車内へと身を滑り込ませた。……黒いベントレーが静かに動き
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第435話

不意の再会に、絵里香は目を輝かせた。「輝……帰ってきたのね!」男の腕に縋ろうとしたが、無情に振り払われる。「どうして?せっかく戻ってきたのに、拒むの?やり直しましょう、ね?あなたの嫌うことは全部改めるから……」明るい灯の下、輝の黒い瞳は冷え切っていた。低く鋭い声が落ちる。「鏡で自分の姿を見てみろ」薄い唇から、冷たく吐き捨てた。「あばずれだ」絵里香の顔は凍りついた。その間にも、輝は書類を手に取り、足早に階段を下りていった。残された彼女は手すりに縋り、泣き叫ぶ。やっとの思いで寝室に戻り、全身鏡の前に立つ。薄いドレスを脱ぎ捨て、体に散った赤い痕を映し出す。そして、ひとり哂った。——さっきのあの目。まるで汚物でも見るように。彼は、私が誰と寝ようと気にしていない。ただ「汚い」と嫌悪しているだけ。なのに。赤坂瑠璃はもう岸本の妻。毎晩同じ寝床にあるのに、どうして嫌わない?どうして宝物のように大事にして、傷を埋めようとする?それどころか——輝は待っている。瑠璃が振り向く、その時を。そんなの、許せない。胸の奥で嫉妬と憎悪が煮えたぎった。……三日後。瑠璃と母は茉莉を連れて病院へ再診に向かった。その日、岸本は珍しく同行しなかった。仕事が立て込んでいるのだろうと瑠璃は深く考えず、運転手に任せて病院へ。車内で茉莉は母に寄り添っていた。事故以来、彼女は以前よりも寡黙になり、一人で服をめくって腹の傷跡を眺めては、じっと黙り込むことがある。その心の傷は、まだ長く残るに違いない。三十分ほどして、黒い車が静かに病院の玄関前に停まった。運転手が降りて後部へ回り、瑠璃のためにドアを開ける。瑠璃の母が先に降り、茉莉を抱き上げようとした、その時——聞き覚えのある声が響いた。「……俺が」瑠璃は一瞬、凍りついた。顔を上げると、そこに輝が立っていた。黒いシャツに同色のパンツ。成熟した風貌、抑えた表情。「どうして今日の再診を知ってるの……?」胸の奥に危うい予感が芽生える。だが、それを打ち消すように唇を結んだ。輝は答えず、ただ茉莉を抱き上げた。久しぶりに父に会った小さな腕が、強く首に回される。瑠璃は反感を覚えつつも、娘の笑顔に水を差すことはできなかっ
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第436話

輝はふと顔を上げ、瑠璃を見た。胸の奥で、少年のように鼓動が早まる。期待と喜びが入り混じる。否定することなく、財布を取り出し微笑んだ。「じゃあ、二人分。飲み物は温かい水にしてくれ」店員が素早く入力する。「合計で六千二百六十円です」会計を済ませ、五分ほどでチキンセットが出来上がった。輝はトレーを手に席へ向かう。窓際に座る瑠璃の横顔、白い首筋に黒髪がかかり、その美しさに思わず目を奪われた。彼は視線を深め、そっと席に着くと、丁寧に二つのセットを並べた。「一人分ずつだ」茉莉の前を整え、瑠璃の方へも向き直る。「いい匂いだな。少しは食べてみないか」声には滅多に見せない柔らかさが宿っていた。茉莉は嬉しそうに頬張り、その香ばしさに目を輝かせる。瑠璃は小さな口元を拭いながらも、自分の分には一切手をつけない。娘のためなら譲歩できても、男の心には応えない。彼の株も、彼の差し出すチキンも、要らない。輝は理解していた。だが失望を表には出さず、黙って娘の世話をする。時折視線は向かいの瑠璃に留まる。その身には新しい命を宿し、どこか柔らかな光を放っていた。三人の空気は、張り詰めたまま微妙に揺れていた。やがて茉莉が口を拭い、上目遣いで囁く。「ママ、お手洗い行きたい」瑠璃は娘の手を取り、洗面所へ。平日の昼、女子トイレは静まり返っていた。茉莉は子ども用の個室に入り、小さな顔を赤らめて座り込む。瑠璃は外で待つ。その時——入口の扉が音を立てて閉まった。次の瞬間、輝が姿を現した。「あなた、正気なの?ここは女子トイレよ!」瑠璃は思わず息を呑む。輝は構わず歩み寄り、低くかすれた声で言う。「今だけなんだ……二人きりで話せるのは」茉莉に聞かせたくなくて、瑠璃は水を流しっぱなしにして声を潜める。「私たち、話すことなんてない」輝は聞き入らない。「次の検診はいつだ?一緒に行かせてくれ」瑠璃は俯き、白い掌を腹に添えた。「あの夜、雅彦と名前を決めたの。女の子なら夕梨。姓は岸本よ」拒絶の色は、誰の目にも明らかだった。生まれてくる子は岸本の名を背負い、父と仰ぐのは雅彦だけ——そう決められていた。輝の顔色は蒼白に沈み、頬の筋肉が震える。長い沈黙の後、搾り出すように言
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第437話

帰り道、娘はずっと不満げに父を責め立てていた。輝は繰り返し謝り続け、ようやく車の前に辿り着く頃になって、茉莉は心を和らげて彼を許した。彼は名残惜しそうに娘を抱きしめ、何度も頬に口づける。そして視線は瑠璃と、その腹部へ。言いたいことは山ほどあったが、子どもの前では飲み込むしかなかった。「パパ、また会いに来るよ」茉莉は素直に頷く。輝は腰をかがめ、丁寧に娘をチャイルドシートへ乗せ、シートベルトを直す。そのまま小さなお腹を撫でた。罪悪感と愛しさが入り混じる。「もう痛くないよ」娘の無垢な一言に、男は危うく涙を落としそうになった。瑠璃も車に乗り込み、黒い窓ガラスがゆっくり上がっていく。輝はその向こうに、濡れた瞳を見た。——泣いているのか?眩しい陽射しの中、彼はひとり立ち尽くす。孤独が影のようにまとわりつく。空いた時間ができれば、必ず後悔が胸を刺した。——あの時、軽率に決断すべきではなかった。生む力を失った絵里香を憐れんで娶り、瑠璃を手放したこと。あれこそが、最大の過ちだった。……車内。瑠璃の目はずっと潤んでいた。母はその心情を悟り、複雑な思いに包まれる。あの流感以来、岸本の体調は芳しくない。数日前、あの周防が屋敷の前に姿を現してからというもの、岸本は様子が変わってしまった。今日も、輝は突然現れた。母にとって岸本は、もう半ば実の息子のような存在。胸が痛んでならなかった。屋敷に戻ると、茉莉は疲れ切って眠り込んだ。美羽は姉と遊びたくてそっと忍び寄り、ベッドの縁に身を乗り出す。丸々とした体が愛らしい。瑠璃はそんな妹を抱き上げ、リビングで絵本を読み聞かせた。美羽は夢中で聞き入り、黒い瞳がきらきら輝く。瑠璃の母は特別にふわふわの卵焼きを用意した。夕暮れ、空は茜に染まる。琢真が学校から戻り、家には賑わいが戻った。沈んでいた空気は少しずつ和らいでいく。ソファに寄りかかる茉莉は、どこか倦怠そうに見えた。制服姿の琢真は、百七十センチの細身の体に白いシャツがよく映えて、すらっとした姿は、いかにも知的で爽やかだった。彼は茉莉のために、丁寧に宿題を見てやっていた。やがて茉莉は、お腹の傷が痒くなり落ち着かなくなった。涙を滲ませる彼女に、琢真はそっと視線を上げ、
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第438話

岸本は歩み寄り、膝を折って彼女の前にしゃがんだ。伸ばした指先がそっと妻のまぶたに触れる。そこは赤く滲んでいて、触れただけで小さく震えた。声は低くかすれ、胸の奥から絞り出すようだった。「ただ、これから先、お前と子どもたちを見守ってくれる人が必要だと思ったんだ」否定はしなかった。瑠璃の目はさらに赤く染まり、声はわずかに強くなる。「そんな日なんて来ない!雅彦……もし来たとしても、私は子どもたちを必ず育てる。誰にも頼らない!」岸本の顔に、静かな哀しみが浮かんだ。「瑠璃、俺が臆病だと思えばいい。けどな……もしもの時、支えてくれる人間がいなかったらどうする?琢真はまだ少年だ。どんなに優秀でも、背負える年じゃない……それにお前もわかっているだろう。俺には、もう時間がない」あの流感がすべてを変えた。明るい灯りに照らされた瑠璃の顔は、蒼ざめていた。——泣くな、と言えるはずもなかった。その夜、岸本の咳は一段と増えた。彼は隠れて痛み止めを飲み、抗がん治療を受けるべき体なのに、もう望んでいなかった。——どうせ終わりが来るなら……堂々と逝きたい。子どもたちの中に残る俺は、強くて立派な父でいたい。そう思って、彼は妻のうなじに手を回し、抱き寄せた。「瑠璃……俺は悔やんでいる。幸福は目の前にあったのに、手放した。けれど運命は再び俺に微笑んでくれた。お前と結婚し、一つの家族になれた……こんなにも家を愛しく思ったことは、今までなかった。お前だけじゃない。琢真、美羽、茉莉、そして母さん。朝も夕も、夜も——そのすべてが宝物だった。若い頃、休む間もなく働き続けて、安らぎを得たことなんてなかった……でも、あまりにも短すぎる」瑠璃は夫の胸に顔を埋め、薄いシャツ越しに体温を感じていた。やがて、かすれた声で呟く。「あなたがあんな人じゃなかったら、美羽は生まれなかった。美羽は本当に可愛い子」「ああ、美羽は可愛い」岸本は妻の髪に唇を落とし、温もりと哀しみを込めて囁いた。——周防輝を病院へ呼んだのは、自分だった。嫉妬もあった。独占欲もあった。けれど、瑠璃には子どもが多すぎて、琢真はまだ幼い。妻が苦しまぬようにと思えば、それしか方法がなかった。二人は黙って抱き合い、それぞれに思いを抱えた。……夜も更けた。
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第439話

けれども、その夜、瑠璃は驚くほど積極的だった。白く細い指先が、岸本の黒髪を絡め取る。強くも弱くもなく、ただ優しく揉むように。視線を合わせるその瞳は、ひときわ甘やかで情に満ちていた。遊び慣れた男なら、なおさら異変に気づかぬはずもない。「瑠璃?」岸本が顔を上げる。黒い瞳が、底知れぬ深さを帯びる。瑠璃は身を寄せ、首に腕を回すと、顎先から鼻先へ、そして最後に薄い唇へと口づけを重ねた。岸本はしばらく固まったように動かず、まるで理性と欲望の間で激しく揺れ動いているかのようだった。だが結局、その誘惑に抗うことはできなかった。彼は瑠璃の後ろ髪を掴み、鼻先を擦り合わせるようにしながら、深く唇を重ねる。一度、二度……瑠璃はすでに受け入れていた。けれど岸本は、最後の一線を越えることはなかった。荒い息を吐きながらも、その瞳はなお深く彼女を見据えていた。だが結局、心を砕くようにして、自分は果たさず、彼女にだけ女としての歓びを与えた。だが、それは瑠璃が求めていたものではない。彼女が欲したのは、ただ体を重ねることではなく——自分をすべて岸本に委ね、真に夫婦となることだった。それを岸本も分かっていた。しかし彼は彼なりの理由で、彼女を完全には抱かなかった。白い枕に仰向ける瑠璃。黒髪と紅い唇が映え、あまりに美しかった。彼女はそっと目を閉じ、震える声を漏らす。「どうして?」岸本はゆっくりと腕を回し、顔を首筋に埋め、しばし沈黙してから、低く囁いた。「瑠璃。俺は、そんなに自分勝手にはなれない」「私たち、夫婦でしょう!」涙声で訴える瑠璃。……一連の騒ぎのあと、瑠璃は岸本に対して実に厳しかった。彼の病状は主治医と直接やり取りし、残業を望んでも、秘書がすぐさま彼を家へ送り返す。「奥さまのご意向です」と添えて。岸本の胸には甘やかさと、同時にほろ苦い感情が残った。この噂はすぐさま商界に広まり、「妻の尻に敷かれている」と嗤う者もいれば、羨望に歯ぎしりする者もいた。——たとえば、輝。七月初め、立都市の商工会が開かれた。ちょうど岸本の体調が優れず、代わって瑠璃が出席することになった。三日間だけのことだ。偶然にも、彼女の席は輝の隣だった。【周防輝 赤坂瑠璃】席に着いた瑠璃は、
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第440話

輝の顔は血の気を失ったように強張った。火を見るより明らかだ、この記者たちを呼んだのは高宮絵里香だ。嫉妬に狂い、常軌を逸した行動に走ったのだ。会場は静まり返り、いつの間にか立都市で名のある顔ぶれが周囲を取り巻いていた。そこには輝の協力者も競合相手も混じっている。もし真実を口にすれば、自身も瑠璃も一瞬で身の破滅となり、さらに岸本の顔にも泥を塗ることになる。かつての輝は、傲慢で不遜だった。かつての輝は、何よりも面子を重んじた。だが今、彼は挑発する記者に向かい、全市に配信されるカメラの前で、あまりに軽く口を開いた。「岸本夫人の腹にいるのは、もちろん岸本さんの血を分けた子だ。岸本さんの、正真正銘の実の子だ」ざわめきが一斉に広がる。横の記者が昂然とカメラに向かい叫ぶ。「聞きましたか!周防社長ご本人が認めました。この子は婚姻の下に生まれる子だと。これで赤坂社長の立場は明白になった!」配信画面には、たちまち「水戸黄門」風の決め台詞が乱舞し、コメント欄はお祭り騒ぎとなった。階段に立つ輝の顔が、わずかに歪んだ。その一言を口にした時点で、瑠璃の腹の子は永遠に「岸本」の姓を持ち、世間の目には岸本の子として扱われる。彼・周防輝とは無縁の存在となってしまうのだ。階下では、岸本が瑠璃を支えながら車へと導いていた。彼は車の屋根に手をかざし、妻の頭がぶつからぬよう細心の注意を払う。誰が見ても、仲睦まじい夫婦そのものだった。瑠璃が先に乗り込み、岸本も続いて身をかがめ、二人の手が自然と絡み合う。——なんとも、愛に満ちた光景。夕刻、真紅の夕日が西空を染め上げる。微風が輝の黒髪を揺らすが、その瞳の奥に宿る喪失と迷いまでは吹き払えない。本来なら、すべて自分のものだったはずなのに。悲しみは悲しみとして、喪失は喪失として……しかし今、彼には重要なことがあった。……夜が降りた頃、輝は別邸に戻った。絵里香はまだ帰っていなかった。彼はソファに腰を下ろし、根気強く待つ。使用人が夕食を勧めるも、男は首を振った。ここを家だとは思っていない——ゆえに、食卓につく気もない。やがて使用人が下がり、ほどなく絵里香が戻った。まるで予想していたかのように、男を待たせることなく。灯りが煌々と照らす広間。
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