All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 421 - Chapter 430

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第421話

横断歩道の上に、小さな身体が血にまみれて倒れていた。少女は痙攣を繰り返している。茉莉は意識が遠のき、朦朧としながらも、父の言葉を思い出していた。——夜の遊園地へ連れて行ってくれるって……そして、ママに電話してくれるって。けれど今は、とても痛くて、寒い。パパ……茉莉を抱きしめて……お願いだから、知らないおばさんの手に渡さないで…………周囲には、いつしか人だかりができていた。車道の真ん中に横たわる小さな女の子を、皆が息を呑んで見つめている。「どこの家の子が、こんなところで……」「親はどこにいるんだ……」誰もが胸の奥でそう思った。——赤信号を渡るなど、どれほど不注意な親が連れていたのか。無責任な囁きが飛び交う。車の運転手が慌てて駆け寄り、茉莉の容態を確認した。少女はなおも震え、目を固く閉じたまま、途切れ途切れに呟く。「パパ……ママに電話して……茉莉、遊園地に行きたいの……ずっと……パパと行けてないから……」男は彼女を動かすこともできず、すぐさま119へ通報し、警察にも連絡した。「誰か!親御さんはいませんか!」と叫び続ける。群衆の後ろで、絵里香は血だまりの中の茉莉を呆然と見つめ、震えが止まらなかった。信じられない光景に、どうすればよいのか分からない。夕陽が地面を染め、温かな余光が差し込む。けれど、茉莉の瞼は重く、もう眠りに落ちそうだ。——ママ……どこにいるの?家に帰りたい…………その時、背の高い影が差し、茉莉の全身を覆った。耳に届いたのは、懐かしい声。——パパだ。痛い、痛いって伝えたいのに、目も口も動かない。ただ痙攣する身体を抱きしめられ、温もりに包まれる。けれど、その温かさは心の奥には届かない。小さな指が震え、必死に動こうとする。大切なモモウサを、パパに伝えたかった。パパの分と、茉莉の分と、二つしかない。けれど、手は伸ばせず、頬を伝うのはただ涙だけだった。——パパ……茉莉、痛いよ…………凛々しい男は地に片膝をつき、顔を涙で濡らしていた。娘を抱き上げ、救急車へ走る。足元はふらつき、今にも倒れそうだ。袖を掴む女が「輝……わざとじゃないの、事故なの……」とすすり泣く。だが彼は耳を貸さず、乱暴に振り払って救急車へ飛び乗
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第422話

輝は壁に頭を預け、ひたすら沈黙していた。絵里香は周囲を見渡すが、誰ひとりとして彼女を庇う者はいない。やがて、彼女は堰を切ったように叫んだ。「赤坂茉莉、赤坂茉莉って……お義母さん、はっきりさせてください!輝の妻は私です。ここで必死に救われようとしているのは、しょせん私生児にすぎない。姓だって赤坂であって、周防じゃないんです。これは交通事故であって、私が故意にやったわけじゃない!まるで私が命で償わなきゃいけないみたいに言わないで!」その言葉に、寛の妻は激昂し、指を突きつけて叫んだ。「今なんて言った?もう一度言ってみなさい!その口、引き裂いてやる!」……絵里香は顔を冷たく歪めた。「私、間違ったこと言ってる?」輝が口を開こうとしたその時、別の声が響いた。——周防夫人だった。彼女は一歩ずつ、絵里香の前へ歩み寄る。顔には怒気が滲み、その目は鋭い光を宿していた。「今、茉莉を私生児と呼んだわね?あなた、自分が周防家の正妻だと高を括って、私たちを見下しているの?いいわ、なら全部ぶち壊してやる。今日で終わりにしましょう!」そして視線を輝に移し、嗄れた声で続けた。「どうして瑠璃があんなに急いで岸本と結婚したか、あなた不思議じゃなかった?理由を教えてあげる。彼女は妊娠していたのよ。あなたが英国に発つ前の晩、一緒にいたでしょう。その夜、あなたの子を宿したの。彼女はあなたの帰りを必死に待ち、矜持を捨てて会社まで押しかけた。けれどあなたは冷たく告げた——結婚する、と。天のいたずらだとでも言えば聞こえはいい。けど真実は違う。あなたは一度も本気で彼女を大切にしなかった。本当に想っていたなら、途中で一度でもイギリスから帰ってきて、ちゃんと説明していたはずでしょう?でも、あなたにとっては一晩の遊びにすぎなかった。どうせ彼女なら分かってくれるって……そう思ったんでしょうね。でもね、輝、その時、彼女はあなたの子を身ごもっていたのよ。『私生児』だなんて言葉が、どれほど人を抉るか、分からないの?彼女に二人も私生児を産ませるつもりだったの?」輝の顔から血の気が引いた。おばさんが……何を言っている?瑠璃のお腹の子……それが、自分の……?輝の体は小刻みに震え、潤んだ瞳から涙がこぼれ落ちそうになる。信じられないことに
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第423話

重苦しい沈黙が流れた。輝はやっとの思いで口を開いた。「茉莉が……事故に遭った。今、手術中だ」ちょうどその時、看護師が現れ、新しい危篤通知を手渡した。瑠璃はそれを受け取り、一字一句を追うように読み上げた。【脾臓破裂・重度脳震盪】その言葉は、彼女にとってまるで未知の文字の羅列のように響いた。今朝、茉莉は元気に登校したばかりだった。可愛らしいワンピースを着て、車に乗り込む前に手を振り、笑顔は小さな太陽のように輝いていた。どうしてその子が、今、手術室で命の境をさまよっているのだろう。瑠璃は涙に濡れた目を上げ、輝を射抜くように見据えた。「どうして……?茉莉はあなたと一緒にいたのに、どうして事故に遭ったの?」絵里香が慌てて口を挟んだ。「輝に頼まれて、茉莉を食事に連れて行ったんです。横断歩道を渡っていた時、白いセダンが猛スピードで……気づいたら茉莉は血だまりに倒れていて……赤坂さん、私も輝も故意じゃありません。ただの交通事故です。信じてください!」瑠璃の目は真っ赤に染まり、涙は止めどなく溢れ続けた。彼女はふらりと輝の前に進み出ると、思い切り頬を打った。乾いた音が廊下に響き、皆が息を呑む間もなく、もう一度、力任せに打ち据えた。「輝!あの女が故意だったかどうかは後で糾弾する。でも、あなたは父親よ!私は何度も言ったはず。あの女に茉莉を預けないで、と。レストランだけならいい、と。それなのに、どうして彼女に任せたの?子を産んだことのない人間に、母親の気持ちなんて分かるわけがない。他人の子の重みを背負えるはずがない。けれど、あなたは父親でしょう!あの時どこにいたの?教えてよ、どこにいたの!」輝は打たれるままにし、ただ彼女の隆起した腹部を見つめた。胸の奥に溢れる悔恨と自責は言葉を奪い、かろうじて絞り出した声はかすれていた。「こんなことになるなんて、思わなかった。瑠璃……ごめん」その横で、絵里香がたまらず吐き捨てた。「所詮は私生児でしょ。輝は十分に良くしてあげたじゃない」瞬間、瑠璃の手が再び振り抜かれ、彼女の頬を打った。「口の利き方を、教えてやるわ」絵里香は反射的に手を上げたが、輝が素早くその手首を掴んだ。強く握り締められた痛みに、彼女は顔を歪める。輝の眼差しには怒りが燃えていた。
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第424話

瑠璃の唇は震え、何度も言葉を紡ごうとするが、一音も出てこない。岸本がそっと支え、医師に頭を下げる。「子どもは助かったんだ。安心して」優しく声を掛けられ、瑠璃は涙をぽろぽろと零した。わずか数時間の出来事が、一生分の涙を流したかのようだった。その場にいた周防家の者たちも、ようやく大きく息をついた。茉莉はVIP病室へ運ばれた。岸本はあえてその場を離れた——瑠璃と輝、親として避けられない話があると分かっていたからだ。廊下を歩きながら、岸本の胸にはひどく冷たい風が吹き込む。自分の体は今はまだ持ちこたえている。だが、もし自分が先にいなくなったら……残される子どもたちは、血の繋がった両親を失う。瑠璃が必死に守ってくれるとしても、どうしたって同じではない。五月の夜は、病院という場所のせいか水のように冷たかった。ふと、廊下の突き当たりで寛とその妻に出くわした。彼らは驚きと共に、複雑な眼差しを向けてきた。感謝、後悔、羞恥……入り混じった感情。岸本はすべてを察したように、淡く微笑むしかなかった。……VIPの小児病室は、落ち着いた優しい雰囲気に整えられていた。茉莉はまだ目を覚まさず、小さな身体をベッドに横たえている。かすかな胸の上下だけが、生の証だった。瑠璃はほとんど跪くようにベッド脇に身を寄せ、小さな手を握りしめていた。瞬きするのも惜しいとばかりに、わが子を凝視する。病衣の下、摘出された脾臓の痕跡が痛々しく走っている。母親にとって、これほど胸を裂かれるものはない。瑠璃はまともに見る勇気もなく、指先を触れさせることさえ怖かった。心を引き裂くような苦しみは、すでに限界に達している。外は闇に包まれ、やがて雨音が響き始めた。稲光が夜空を裂き、嵐の雨が地を叩きつける。それはまるで、今夜に降り注ぐ哀悼の雨のようだった。しかし病室は静まり返り、点滴の雫が一定のリズムで落ちる音だけが響く。茉莉の顔は血の気を失い、精気を吸い取られたかのように見えた。輝はベッドの傍らに立ち、血に染まった小さなウサギのぬいぐるみを握りしめていた。もう一つは自分の手元にある。あの日、茉莉は笑顔で言った——これ、モモウサだよ。パパの分と、茉莉の分と、二つしかないの。喉が詰まり、男は言葉を失った。その
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第425話

瑠璃は一瞬、言葉を失った。——輝はもう知ってしまった。「どうして黙っていた?どうして……妊娠を教えてくれなかった?もし言ってくれたら……」掠れた声で問う輝に、瑠璃は笑った。泣くよりも痛ましい笑みで。「私に……あなたに縋って結婚を迫れっていうの?でも、あなたは英国で別の女に婚約を約束した。一本の電話すらなく、あっさり他人を妻に選んだ。私に選択肢なんてあった?——あの日、新しい女を控室に住まわせて、大々的に婚約を発表したのは誰?もし本気なら、どうして一言の知らせもくれなかったの?子どもは産むわ。でも姓は岸本。出生証明書には、父母の欄に——岸本雅彦、赤坂瑠璃と書かれる。周防輝ではなく」そう言って彼女は静かに目を閉じ、涙を零した。もう恨む力すら尽き果て、ただ彼の存在を拒絶したかった。窓の外は雷鳴と嵐。長い沈黙の後、輝の声が低く漏れた。「お前と彼は、寝たのか」自分でもなぜ口にしたのか分からなかった。実際には、瑠璃と岸本の関係は深い口づけと触れ合いに留まっていた。けれど彼女はきっぱりと言い切った。「当たり前でしょ。私たちは夫婦。夫婦には夫婦の営みがある」一瞬で、輝の顔から血の気が引いた。ゆっくりと窓辺に歩み寄り、雨夜を見つめる。なぜあんな問いを口にしたのか、自分でもわからない。もし形だけの結婚なら、まだやり直せるのではないか——そんな淡い幻想に縋ったのかもしれない。問いかけた自分を責めながら、彼女の言葉が胸を切り裂く。——瑠璃は岸本と寝た。輝は乾いた笑いを漏らした。それは、まるで行き場を失った負け犬の遠吠えのような、苦々しい笑いだった。この夜、彼はすべてを失った。最も大切なものを。……夜更け、瑠璃は小さな茉莉の顔にそっと頬を寄せた。八歳のわが子は、すでに脾臓を失った。胸が張り裂けるほどの痛みだった。やがてVIP病室の扉が静かに開き、岸本が入ってきた。涙を流す瑠璃を見つけ、彼は何も言わず肩を抱き寄せる。「できることなら、この身を差し出してでも、あの子の痛みを引き受けたい」嗄れた声で洩らす妻に、彼はただ優しく言った。「分かってる。だけど今は強くあらねば。子どもを支えてやらなきゃ」二人は寄り添い、かつての恋人と完全に別れを告げた。……一夜が明
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第426話

車が動き出そうとしたその時、輝はふいにブレーキを踏み、動きを止めた。両手をハンドルに置いたまま、ぼんやりと窓の外を見つめる。そこには大きなお腹を抱えた妊婦と、その傍らで笑顔を向ける夫の姿があった。女の顔は幸福に満ち溢れ、その光景は輝の胸を深く抉った。——瑠璃のことを思い出した。二度の妊娠。一度は自分が不在で気づきもしなかった。もう一度は、さらに惨たらしい形で。彼女に与えたものは、幸福ではなく嵐ばかり。輝の目が赤く滲み、やがてハンドルに額を伏せた。長い間、動けなかった。やっと車を動かし、半時間後に別荘へ戻る。玄関先に出迎えた使用人が、声を潜めて告げる。「奥さま、昨夜はひどくお怒りでした。物をいくつも壊されて、夜半まで泣き通しで……旦那さま、慰めて差し上げませんか」輝は上着のボタンを外し、険しい顔を見せた。それ以上、使用人は何も言えなかった。昼下がり、邸内は静まり返る。男は胸の内のざわめきを抑えながら階段を上がった。二階へ辿り着くと、主寝室の前でひと呼吸置き、ゆっくりと扉を押し開けた。リビングでは、絵里香がバスローブ姿でスマホをいじっていた。扉の音に顔を上げ、当然のように言う。「帰ってきたのね。さっき兄から電話があったわ。双方の両親で会食の日取りを決めて、結婚式の相談をしたいって」何気ない一言に、血の通わぬ冷たさが滲んでいた。輝は上着をソファに投げ、対面に腰を下ろす。「茉莉があんなことになった今、結婚式を挙げるわけにはいかない」絵里香は顔を曇らせた。「でも茉莉には瑠璃がついてるじゃない。こっちには関係ないわ。それに、あの子は瑠璃が勝手に産んだのよ。今のお腹の子だって彼女が勝手に残した。輝、どうか情に流されないで」輝の顔には感情の色が一切なかった。「茉莉は脾臓を失った」絵里香は気休めのように彼の腕を叩き、平然と口にする。「生きているなら、それで十分でしょ」輝は深い眼差しでじっと絵里香を見据える。——初めて、この女を「他人」として見るような感覚。彼女はなおスマホをいじり、兄の高宮真人(たかみやまさと)と連絡を取り続けていた。やがて輝が口を開く。「一つ聞く。昨日の事故……どうして茉莉だけが倒れ、お前は無傷でいられた?」その瞬間、絵里香の指
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第427話

警官がスマホを取り出した瞬間、絵里香は慌てて払い落とそうとした。だが細い手首は、輝の手にしっかりと捕えられる。「公務の妨害はするな」その瞳には、冷たく不可解な光が宿っていた。警官は苦笑しながら再生を始める。横断歩道を、一人の女が子どもの手を引いて信号を無視して渡っていく。子どもは不安そうに袖を引くが、女は上の空で気づかない。白いセダンが急には止まれず、真正面から迫る。女はとっさに自分だけを守り、子の手を離した。轟音と共に、小さな身体が血だまりに横たわった——……映像は途切れ、青い画面が残った。輝の目にはその最後の光景が焼き付いていた。——血の海に倒れる茉莉。次に視線を移せば、怯えたように顔を背ける絵里香。「これが、お前の言う『間に合わなかった』か。赤信号を無視し、迫る車に……娘を放り出したのか」絵里香は映像を直視できず、必死に弁解した。「私……混乱してたの。何も覚えてないの。本能よ、輝!私は故意じゃない!」「本能……?」輝は彼女の手首を乱暴に振り払い、ソファへ叩きつけるように投げ出した。絵里香は顔をソファに埋め、髪がほどけて、泣き声が情けなくくぐもる。「輝……怒るのは分かる。でも、人前では少しは私に体裁を保たせてくれない?私は周防家の奥さんなのよ」その言葉に、輝の黒い瞳が濡れ光った。「お前のせいで茉莉は脾臓を失ったんだ……それでも、体裁が大事か」絵里香は顔を上げ、虚ろに呟いた。「起きてしまったことは変えられない。あなたは子どもを大事にするけど、私を顧みたことはあった?私はあなたのために不妊になったのよ!瑠璃の子は死んでいない。ただ脾臓を摘んだだけ。腹にももう一人いる。だけど私は……一生産めない」言い終わるか終わらないうちに、彼女の頬に輝の平手が飛んだ。怒りに任せたその一撃は容赦なく、絵里香の顔は横に弾かれ、瞬く間に腫れ上がる。歯の根が緩んだ気さえした。「脾臓を摘んだだけだと?お前は本当に冷血だ」頬を押さえ、絵里香は苦笑する。「冷血でも、結局あなたは私を妻にしたわ」やがて声は大きくなり、ほとんど狂気に近かった。「後悔してるんでしょ?本当はずっと彼女のことばかり!夜中に寝言で、何度も名前を呼んでるじゃない!でももう遅いのよ。あの人は岸本の妻、あ
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第428話

午後、絵里香は警察署から戻ってきた。車を降りた瞬間、膝が震え、ふらつきながら邸内へ入る。中はしんと静まり返っている。彼女は使用人をつかまえて問いただした。「旦那さまは?」使用人は即座に返ってきた。「旦那様は病院へ行かれました。出る前に、妊婦用の滋養を作るよう仰せつかって……」——妊婦?滋養?その言葉に胸が抉られる。絵里香はわずかに頷き、黙って二階へ。寝室に入るなり、彼女は真っ先にシャワーを浴びに行った。警察署の取り調べ室にはタバコの煙が充満し、粗雑な物言いに晒された。——だが、違法とまでは言えない、と釈放された。無傷で戻れた自分に、思わず鼻歌すらこぼれる。輝はいま怒りの渦中。だからこそ、優しく寄り添えばいい。時間が経てば、再び結婚式の話もできる。子どもが欲しければ、養子を取ればいい——瑠璃の娘を育てる必要などない。三十分ほど湯に浸かり、彼女は素足のまま浴室を出た。薄く透ける浴衣を羽織り、念入りに手入れしたあと、足先に鮮やかな紅のマニキュアを塗る。男なら誰もが好む、神経を刺激する色。絵里香はそれだけでは飽き足らず、わざわざ階下に降りて台所に命じた。輝のためだと、精のつく料理をいくつも用意するように、と。「これで年末には跡取りも」と無邪気に言った新しい料理人の言葉に、絵里香は顔を曇らせ、二階へ戻った。夜十時。ようやく車の音が庭に響いた。絵里香は慌てて階下へ。客間では、輝がソファに身を沈め、煙草を燻らせていた。コートは椅子に掛けられ、眉間には深い皺。絵里香は隣に寄り、昼間と打って変わり、柔らかい声で尋ねた。「茉莉の容態はどう?」輝は黒い瞳を上げ、冷ややかに射る。「お前が心配するのか?」絵里香は息を整え、柔らかく囁いた。「あなたの血を分けた子でしょう。私だって気にかけてるわ。あなたが彼女を可愛がるのは反対しない。でも、お願い。私を冷たくしないで」輝は答えず、ただ「飯は一椀と野菜でいい」と使用人に告げた。「これは甲羅のスープよ。なかなか手に入らないの。男に良いの」輝の視線は、彼女の薄紅の透ける浴衣に留まった。しかし言葉はなく、沈黙だけが落ちる。食事を早々に済ませると、書斎にこもって急ぎの案件を処理した。寝室に戻ったときには
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第429話

浴室。明るい照明に照らされた鏡には、蒼白な男の顔が映っていた。黄金の蛇口をひねると、水音が静かに流れる。輝は両手で水を掬い、荒々しく顔を擦った。鏡の中の自分を見た瞬間、遠い昔に置き去りにされた人間のような錯覚を覚える。——茉莉は病院のベッドに横たわり、瑠璃は自分の子を宿しながら、今は別の男に寄り添われている。あのとき英国にいた自分が、もう少しだけ踏みとどまっていれば。茉莉は事故に遭わずに済んだのではないか。——周防輝、お前は何様のつもりだ。冷水を繰り返し顔に浴びせ、タオルでゆっくりと拭った。黒い瞳が瞬き、やがて覚悟を固める。浴室を出るころには、心はすでに静まっている。彼はクローゼットに向かい、黒の平服に着替えると、スーツケースを引き出し、数着の替えを簡単に詰め込んだ。ファスナーを閉め、持ち出そうとしたそのとき——廊下に足音が響き、絵里香が立ちふさがった。彼女は夫の手にあるスーツケースを見て、一瞬呆然としたのち、鋭く問いただす。「輝……どういうつもり?スーツケースを持って、どこへ行く気なの?」輝は隠さなかった。灯りの下で新妻を見据え、淡々と告げる。「英国でお前は子を産めなくなり、今度は茉莉から脾臓を奪った。これで帳消しにはならない。だが、もう一緒には暮らせない。夫婦だった縁として、十億円は補償する。この別荘には、しばらく住んでいろ。ただし一か月後、俺は離婚を訴える。そのときは出てもらう」絵里香はしばし呆然とした。輝がスーツケースを引き、彼女の横をすり抜けようとしたその瞬間になってようやく我に返り、必死に取っ手をつかんだ。「私たち、夫婦なのよ?一度結ばれた縁は、そんな簡単に切れるものじゃないでしょう?輝、私たちの楽しかった日々を全部忘れたの?本当に私を捨てて、二度目の女にするつもり?子どもも産めない私を……」だが男の心は微動だにしない。離婚の意思は岩のように固かった。「すまない。そして、俺はお前を許すつもりはない」そして、冷たく彼女の指を一本ずつ剥がし、背を向ける。輝は絵里香の指を一本ずつ外し、無情にスーツケースを引き寄せると、背を向けて出ていった。廊下に乾いた靴音が響く。慌てて浴衣姿で追いかけた絵里香は、足を取られて転び、床に崩れ落ちた。涙で顔を濡らしながら夫の名を
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第430話

東の空が白み始めた頃。キッチンからは、コトコトと粥を煮る音が響いていた。二時間の火加減を経て、湯気と共に立ち上る肉粥の香りは、柔らかく胃をくすぐる。「これからは周防さんも、このやり方で作ってください。術後の子には淡泊なものが一番です。肉は少しだけに」そう言って、使用人は保温容器に粥を移し替えた。輝は頷き、深く息を吸い込む。——香ばしい匂いの奥で、決意は固まっていた。絵里香との離婚は避けられない。その後に待つのは、瑠璃と茉莉への償い。たとえ彼女が岸本の妻であっても、父として、男として、背を向けることはできなかった。……午前八時。輝は病院に到着し、VIP病室の前で足を止める。中から、小さな泣き声が漏れてきた。「ママ……茉莉、お腹が痛い……どうして、お腹に大きな傷があるの?」続いて、瑠璃の優しい声。——だが言葉の内容までは聞き取れない。輝は壁に背を預け、天井を仰いだ。視界は滲み、胸の奥にはどうしようもない痛みが広がる。やがて看護師が出てきて驚いたように声を掛ける。「周防さん、中に入らないのですか?」その一言に背中を押され、彼は静かに扉を開けた。病室は消毒薬の匂いが漂い、小さなベッドの上に茉莉が横たわっていた。涙の跡を残した頬、まだ怯えの残る目。だが輝を見つけると、必死に笑みを浮かべて手を伸ばした。「パパ……」輝は駆け寄り、頭を撫でた。「肉粥を持ってきた。少しずつ食べような」茉莉は小さく「うん」と返事をした。傍らで瑠璃が何か言いかけたが、岸本がそれを制して彼女を病室の外へ連れ出した。その瞬間、輝は胸の奥から感謝の念が込み上げてきた。病室には、父と娘だけが残された。輝はこれまでにないほど細やかに、小さな匙で一口ずつ食べさせた。茉莉は弱々しくも、ゆっくりと口にした。——お粥を食べ終えるのに、三十分もかかった。茉莉はひどく疲れていて、まぶたが重く閉じそうになる。それでも父から目を離したくなくて、必死に開けたまま見つめ続け、小さく呟いた。「パパ。茉莉が眠ったら、手を握っててくれる?怖いの。車がまた来るんじゃないかって……ぶつかって、すごく痛かった。今もまだ、ずっと痛いの」輝はその小さな手をしっかり握りしめ、ついに堪えきれず顔をそむけ
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