All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 451 - Chapter 460

560 Chapters

第451話

岸本は逝った。夜更け——瑠璃は人知れず、家族だけで彼を見守った。枕元には白木の台が据えられ、小さな灯明の炎が静かに揺れている。この静けさは、琢真と美羽が父へと静かに別れを告げられるように——そう願ってのことだった。琢真はすらりとした体をまっすぐに伸ばし、二人の妹の手を取って父の傍らに立った。瑠璃の母は悲嘆に暮れながらも気丈に、一階で使用人たちに指示を飛ばし、明け方に備えた。富商であった岸本のもとには、訃報が広まるや否や、数えきれぬほどの弔問客が押し寄せるに違いなかった。夜が白み始める頃、瑠璃の母はついに力尽きた。その時、長身の影がゆるやかに現れた——周防輝だった。彼は唇に煙草を挟み、あたかも日常の作業をこなすかのように、使用人へ指示を与えつつ、自らも黙々と動いた。さらに父へ電話をかけ、かつて周防祖父の葬儀を仕切った一座を呼び寄せると、ほどなく専門の人々が到着し、別邸は整然とした空気に包まれた。物音はひどく控えめで、亡き人を騒がせることは決してなかった。瑠璃の母はふと悟った。これは岸本が生前に託した手配なのだ、と。胸の奥は複雑だった。彼は逝き、孤児と妻を残してしまった。夜明けとともに、岸本家の親族や友人たちが続々と駆けつけ、最後の別れを告げた。瑠璃は喪服に身を包み、三人の子どもと共に黒衣をまとっていた。茉莉もその列に加わっていた。輝は作業員の中に紛れ、茉莉が棺へと花を手向ける姿を見つめた。心に苦い痛みが広がる。だが誰を責められるでもなく、己を恨むしかなかった。——岸本が予見したとおりだった。その死は、巨大な遺産をめぐる争いの火種となった。美羽の母、藤原笙子の実家は力が弱く、声を荒げることはしない。だが琢真の母——岸本の最初の妻の実家は違った。孫の将来を案じると言いながら、琢真に相続されるはずの財産を一時的に母方の伯父の名義に移し、二十四歳になるまで預かるべきだと主張した。琢真は拳を固く握りしめ、潤んだ瞳で瑠璃を仰ぐ。彼女はその心を理解した。義理の息子の手を取って、毅然と告げた。「雅彦は逝きました。ですが、この家はまだ散ってはいません。これからは私が琢真と美羽の後見人となり、成人するまで見守ります。岸本の遺したものは、琢真だけでなく美羽も等しく受け取る権利があります。今は、その時
Read more

第452話

暮れなずむ頃、瑠璃は一人、「夕梨」へ足を運んだ。名のとおり、八月の別邸は「夕梨」と呼ばれる花で満ちていた。無数の花房が枝に垂れ、塀際まで重たげにしなり、遠目には一面が桃色の海のように広がっていた。——まるで、この邸そのものが、そしてこれから生まれてくる子の名が、すでに花として咲き誇っているかのように。その柔らかな色合いは、いかにも温やかで——かつての岸本の趣味とはまるで異なっていた。庭で働いていた庭師は、彼女に気づくと手袋を外し、深々と頭を下げた。「奥様、これは岸本様のご指示で植えたものです。もう数ヶ月前から育てていて……いま、ちょうど見頃でございます」庭師も岸本の逝去を知っていた。だが生前に命じられていたのだろう——岸本夫人には悲しみを語らず、ただ花を見て歩き、心安らぐひとときを過ごさせよ、と。瑠璃はそっと手を伸ばし、花弁に触れた。指先がかすかに震え、鼻の奥がつんと熱くなる。その感触は、まるで岸本の心に触れるかのようだった。彼は「子どもを自分の子のように愛すると誓う」と言った。そして実際にそうしたのだ。見上げれば、夕空は茜色に染まり、雲がきらきらと輝いている。頬を一筋の涙が伝った。屋敷の中には入らず、彼女はただ庭いっぱいの夕梨を眺めた。——夕梨が成長した暁には、この家を託そう。そして語ろう、天から見守る父が確かに存在したことを、と。帰り際、車の傍らに黒衣の輝が立っていた。碧い夕空を背に、その姿はどこか寂しげに映えた。彼は煙草を指に挟み、頬をこけさせていたが、瑠璃に気づくとすぐに火を消した。喉仏が上下する。「送っていく」瑠璃の声はかすれていた。「運転手は?」輝の視線は深く、重かった。「帰した。これからは俺が専属の運転手になる。しばらくは岸本家に寝泊まりして、お前と子どもたちを守る。無事に出産を迎えるまで……雅彦さんと約束したから」その呼び方は、あまりに親しげで、瑠璃は思わず言葉を失った。それでも彼女は車に乗るしかなかった。輝はドアを開け、一方の手で車の屋根を支えながら彼女を見つめ、かすれた声で囁いた。「乗って」八ヶ月を超える腹を抱えて身をかがめるとき、彼の手が自然と支えに伸びた。掌が小さな命を宿す腹に触れた刹那、温もりが伝わる。だが——その腹を、彼
Read more

第453話

岸本家に戻った時には、すでに暮色が広がっていた。車は門前に停まったが、瑠璃は降りようとせず、深い藍に染まった空を見つめたまま、かすかな声で言った。「周防輝……帰って。もう来ないで」車内に沈黙が落ちた。輝は顔を背け、外灯に照らされた横顔が鏡に映り、鋭い輪郭を際立たせる。しばし後、バックミラー越しに彼女を見つめながら、掠れる声で口を開いた。「ここには俺が必要だ」それは誇張ではなかった。琢真の母方——三浦家は、なお財産を狙って牙を研いでいる。加えて、瑠璃の出産は目前に迫っていた。輝が傍にいることで、誰も軽挙妄動はできないのだ。後席から、瑠璃の声が乾いて響いた。「不便だし、適切じゃない」黒い瞳がバックミラーを通して彼女を射る。痩せた横顔。産月を迎えているはずなのに、少しも豊かな気配がない——岸本雅彦の死が、どれほど彼女を削ったかが分かる。長く見つめ続け、ようやく低く言葉を絞り出した。「お前が案じていることは分かってる。俺が……そういう気を起こすんじゃないかって。でも、瑠璃。俺はそんな人間じゃない。雅彦さんが逝ったばかりだ。今の俺にあるのは、お前と子どもたちを守りたい気持ちだけだ。感情のことは……待てる」そして現実を突きつけるように続けた。「家には男手が要る」それは真実だった。瑠璃の母は高齢で頼れる力は限られている。残された子どもたちは、あまりにも幼い。それでも瑠璃は首を振り、受け入れようとはしなかった。彼女はドアを押し開け、外へ降り立つ。石段には子どもたちが整列していた。琢真が一人の手を引き、もう一人を腕に抱いている。その子はまだ幼く、ふっくらとした頬に切れ長の美しい目をした顔立ちで、じっとこちらを見ていた。茉莉は白い顔を上げ、暮色の中で澄んだ声を響かせた。「パパ」輝は歩み寄り、片腕で茉莉を抱き上げ、細い鼻をつまんで微笑む。軽く頬に口づけを落とすと、茉莉は細い腕で彼の腰にしがみつき、首元に顔を埋めた。甘えるように、そしてどこか切なく。傍らで美羽がじっと見上げる——彼女には、もう父はいない。輝はその頭を撫で、優しく笑んだ。やがて茉莉を降ろし、夜の色を背に、自らの黒いベントレーへ乗り込む。車は低い音を残して走り去り、やがて闇に溶けた。その後、輝は桜丘マンションへ戻
Read more

第454話

輝はすぐに岸本家へ戻らず、まずはシャワーを浴びた。シャツとスラックスを脱ぎ捨て、高く鍛えられた体をそのまま浴室に入れる。シャワーヘッドをひねると、ほどなく蒸気が立ちこめ、五官は霞んでいく。だが瞳の奥に沈む痛みだけは、なお鮮やかだった。——岸本は逝った。瑠璃はひとり残された。自分も独り身。それでも、どうすれば彼女を取り戻せるのか、どれだけの時が要るのか、その答えは見えない。ただ一つ分かっているのは、決して諦めはしないということだった。十分後、輝は腕を伸ばして湯を止め、タオルで顔と体を拭った。視線がふと下へ落ち、数秒だけ止まったが、すぐに黙って無視した。服を着替え終えると、玄関のチャイムが鳴る。使用人が来たのかと思いきや、扉を開けると——そこに立っていたのは京介だった。きちんと仕立てられたスーツに身を包み、まるで宴席からそのまま抜けてきたかのように整っている。「京介様がどういう風の吹き回しだ?」輝は半ば呆れながら招き入れた。京介はマンションの中を一瞥し、口元に笑みを浮かべる。「いい部屋じゃないか。おや、スーツケースまである。これはもう岸本家に入り婿になる気満々か?伯父さん伯母さんが泣くぞ。でもまあ、考えようによっては悪くない。あの二人も、兄貴が一生独り身なのは見たくないだろうから」輝はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。黒い瞳が深く沈む。「くだらん皮肉はやめろ」「祝いの品だよ」京介は書類を差し出す。「二千億円規模のプロジェクト。兄貴が岸本家の婿になる前祝いだ」「……ふざけんな」輝は悪態をつきながらも受け取り、数枚をめくった途端、表情が変わった。「本当にいい案件だな」京介は勝手に酒棚からワインを注ぎ、グラスを掲げる。「兄貴に渡すのは当然だろ。一つで十分、翔和産業に腰を据えさせ、古狸どもの口を塞げる」輝は書類に目を落としたまま、片手で咎める。「酒は控えろ」「心配無用。運転は妻に任せてる」京介は軽く笑った。輝は冷ややかに睨む。「俺の前で、夫婦の惚気はやめろ。鬱陶しい」「はいはい、輝様」京介は半分飲み干し、グラスを置くと、それ以上長居せずに帰っていった。夜風が頬を撫でる。気分は妙に清々しかった。一階の黒いロールスロイス。運転席にいるのは舞
Read more

第455話

夜の八時、輝は再び岸本家へ戻ってきた。別邸の中は静まり返り、葬儀の白幕も鯨幕もすでに取り払われていたが、亡き主人の気配はなおも漂い、空気に沁みついて離れなかった。黒いベントレーが停まると、使用人が戸惑いながら声をかけた。「周防様?」輝はトランクから二つの大きなスーツケースを取り出した。腰を据えるつもりであることは明白で、使用人たちは思わず目を見張る。——周防様はここに住み込む気なのか?奥様と子どもたちを奪おうとしているのか?「客室に運んでくれ。いつもの部屋だ」輝は短く言った。その言葉に、使用人たちはほっと胸を撫で下ろした。夏の夜、風は柔らかかった。彼は周囲を見回し、庭の片隅にある小さなブランコへ腰を下ろす。ここは幼い娘たちが一番好きな場所だ。軽く揺らしていると、白くふっくらとした小さな影が駆け寄ってきた。「叔父さん、ここに住むの?」輝は見下ろした。まるまると愛らしい小さな子。周防の子どもたちにはいないような、よく育った姿だった——岸本は子を育てるのが上手かったのだ。輝は片手で美羽をひょいと膝に乗せ、夜風にあたりながらその頬を指でつついた。「住んでもいいさ。お前が望むなら、叔父さんの家に一緒に来てもいい。大きな家もあるんだ」琢真と美羽さえ受け入れてくれるなら、自分は決して見捨てない。——瑠璃に告げたとおり、血のつながりなど関係ないのだ。美羽はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。「本当?じゃあブランコ押して!」——誠意を試すように。輝はまだ夕食も取っていなかったが、笑って頷き、美羽の背を押した。子は満面の笑みではなかった。父を失った痛みは消えない。けれど、そばにいる大人の手が揺らすブランコに、少しだけ心は和らぐ。二階では、痩せた少年が黙ってその様子を見つめていた。彼の胸に去来する思いは、言葉にはならなかった。やがて庭に瑠璃の母が現れた。「まだ食事をしていないのでしょう。台所でうどんを作った。にんにくは入れていない」そのひとことに、輝の目が赤く潤んだ。「俺は今まで、本当にろくでもないことばかりしてきました。でも今は違います。心から償いたいです。ずいぶん久しぶりです、あなたの手作りのうどんをいただくのは」瑠璃の母の胸に、ひとしずくの感慨が広がった。彼女の心は岸本と同
Read more

第456話

だが、指が扉を叩こうとした瞬間、輝は身を引いた。——近くにいながら、かえって恐れる。今の自分は独りの男であり、彼女は岸本の未亡人。扉一枚の隔たりは、世間の非難や千里の距離にも等しかった。彼は静かに手を下ろし、夜の廊下に立ち尽くす。長い沈黙ののち、そっと背を向け去っていった。その気配を、扉の向こうで瑠璃はすべて感じ取っていた。彼がそこに立ち、ためらい、結局は去っていくことも。——よかった、叩かなくて。彼女は主寝室に戻り、灯りの下で静かに指輪を外す。内側に刻まれた文字を、長く見つめた。それは岸本の愛の証だった。彼は一度も言葉にしなかったが、英語の銘刻は誰の目にも明らかだった。思えば、輝が英国へ渡っていた数年、岸本はすでに心を決めていたのかもしれない。冗談の中に隠すようにして。——もっと早く彼と共に歩んでいれば。そう悔いる心もあった。けれど人生には、悔いや惜しみがつきものだ。ベッドに横たわり、そっと目を閉じる。頬を伝った雫は枕に染み込んだ。彼女の指先は枕の表面をかすかに撫で、深夜の静けさの中で岸本を思い続ける。それでも、その唇には終始ほのかな微笑が宿っていた。岸本との日々は、間違いなく幸福だった。——深く、愛されていたのだから。……翌朝。瑠璃が支度を整えて階下に降りると、輝の姿はなく、美羽もいなかった。茉莉が報告する。「パパは車で待ってるよ。ママと一緒に検診に行くって。美羽も車で遊んでる」——昨夜、輝は早くも一人を味方につけていた。瑠璃は一瞬驚いたが、何も言わず、上品に朝食を終えた。玄関で車を出すと、輝が降りてきて柔らかく告げる。「一緒に行こう。妊婦健診に」「医師に同行してもらうわ」「彼女は休暇を取った」あきれ果てて睨みつけると、黒い瞳が深く返す。輝は美羽を抱き下ろし、優しく言う。「帰ったらまた乗せてやるからな」美羽は彼の車が気に入り、内装にも目を輝かせていたが、それでも素直に頷いた。真夏の陽射し。譲らぬ男。結局、瑠璃は車に乗り込むしかなかった。輝の視線が丸くせり上がった腹に落ちる。——もう間もなく生まれる命。瞳に深い色が宿る。やがて彼は静かにドアを閉めた。運転は滑らかで慎重だった。病院も医師も訊ねず、迷わず目的地
Read more

第457話

赤坂家は、結局のところ輝の存在を受け入れるしかなかった。追い出そうにも叶わず、打ち倒そうにもできない。彼はこの家に根を下ろしたのだ。外の世界では、確かに噂が飛び交っていた。だが、彼が翔和産業に二千億円規模の契約をもたらした事実、そして背後には周防一族が控えていること。なかでも周防京介の冷酷さを恐れぬ者はおらず——輝様の道を邪魔する者など、命がいくつあっても足りはしない。そうして立都市の社交界は、口を閉ざした。ただ、家の中では微妙な距離感が続いた。瑠璃は輝を追い出そうとはしなかったが、ほとんど言葉を交わすこともない。それは憎しみからではなく、この関係のあまりに突飛さを思えばこそ。無力感に包まれていた。幸い、輝は一線を越えることなく、礼節を守り続けていた。……輝は二つの会社を切り盛りしていた。日中は息つく間もなく駆け回り、代わりに専門スタッフを手配して家を支えたが、夜八時には必ず帰宅し、子どもたちと過ごした。瑠璃の無事を確かめてから、書斎に籠り仕事を片づける。眠りに就くのは決まって深夜一時。翌朝七時にはまた子どもたちと庭を散歩し、肥えた小さな美羽をブランコに乗せてやる。ある朝、輝はうたた寝してしまい、ふと目を覚ますと、茉莉が静かに傍らに腰かけていた。その腕の中では、美羽が白くふっくらした頬を彼の胸に押しつけ、よだれを垂らしながら気持ちよさそうに眠っていた。茉莉が囁く。「パパ、美羽はあなたのことが大好きだよ」夢の中でも美羽は「パパ」と呼んでいた。輝は思わず目を細め、黒髪を撫でてやり、ふっくらした頬にそっと口づけた。実のところ、彼もこの幼い子が愛おしくてたまらないのだ。傍らの茉莉がその様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。彼女もまた、美羽のことが大好きだった。八月の終わりの朝、頬を撫でるように清風が吹き抜ける。二階のバルコニーには、清らかな少年の姿——琢真が、静かにその光景を見下ろしていた。……その夜、輝には大切な会合があった。翔和産業の長らく進展のなかった交渉は、幾度もの折衝を経て、新たな局面を迎えていた。相手方の商社に新しく就任した女性副社長がこの案件を高く評価し、強い関心を示したのだ。その夜、翔和産業は相手側の代表団を迎えて会食を催し、彼女も席に加わった。
Read more

第458話

輝は伏し目がちに言った。「もう、あの人を裏切りたくない——失礼する、蘭堂さん」言い捨てると、足早に立ち去った。背後に残る艶めかしい肢体へ、一瞥すらくれない。彼にとって蘭堂は、ただの数字、ただの取引先に過ぎなかった。女であるかどうか、美貌かどうか、腰の細さや胸の豊かさなど——どうでもいい。関心があるのは事業だけ。女なら、すでに家にいるのだから。……残された洗面所。蘭堂は指に細いシガレットを挟み、妖しい瞳に複雑な光を宿していた。——ここまで脱ぎ捨てて誘っているのに、まったく揺るがないなんて。本当に男なのかしら?舌で唇を湿らせながら、電話を取り出す。宛先は京介。「京介さん、案件はまとまったわ。利益を二%削ったから、埋め合わせてね。それに、周防輝って本当に男かしら?」受話口から低い笑い声。「ご苦労だった、蘭堂さん」通話を切ると、彼女は携帯を投げ出し、煙を深く吸い込んだ。——本来なら、身体を売る必要などない。だがもし輝が受け入れてくれるなら、それも悪くはなかった。脳裏に浮かぶのは、あの長い脚。タイトなスーツパンツに包まれ、うっすらと男の存在感を覗かせる。広い肩、そして完璧に刻まれた顎のライン。——周防一族の男たちは、まるで天が造り上げた芸術品。彼女は唇を舐め、今夜は別の「男」を自らにあてがうことを決めた。……会所を出た輝を、運転手が恭しく迎える。「周防様」ドアが開けられ、輝が乗り込もうとしたその時——「輝」掠れた声に振り返ると、そこに立っていたのは高宮絵里香だった。かつての華やぎは跡形もなく、質素な装いに落ちぶれていた。荒んだ日々に病を抱え、遊興に溺れては酔い潰れ、持っていた金もすぐに使い果たした。行き場を失い、最後に縋る相手として選んだのは輝——かつての夫だった。彼女が求めたのは、十億円だった。彼女はしばし、彼のシャツの襟に残る紅の跡を凝視し、小さく言った。「輝。夫婦だったよしみで、助けて」輝の口元に冷笑が浮かぶ。「もう清算は済んでいる。お前の生死に、俺が関わる理由はない」踵を返そうとした瞬間、絵里香が袖を掴む。だが輝の瞳は冷え切っていた。その視線はまるで病原菌でも見るようで、彼女の指先から力が抜ける。「お願い……治療費
Read more

第459話

夜の帳が降りた。黒光りする車が別邸へと滑り込み、輝がふらつく足取りで降り立った。酒が少し過ぎていたのだろう。運転手が慌てて支えた。「周防様、お気をつけください」「大丈夫だ」輝は気にも留めず、上着を腕に掛けたまま玄関へ。靴を履き替えようとしたとき、不意に動きが止まった。淡い灯りの下、階段から降りてきたのは瑠璃。水を飲みに来ただけなのだろう。互いに視線がぶつかり、同じように足を止めた。「喉が渇いたのか。俺が淹れてくる」嗄れた声で輝が言う。「いいわ、自分でやる」瑠璃は臨月に近い重たい腹を抱え、足取りもおぼつかなく、ゆっくりとキッチンへ向かった。彼女がガラスのコップに温い水を注ぎ、半分ほど口にしたとき、背後で足音が近づいた。次の瞬間、ドアが静かに閉ざされる。狭い空間に、二人きり。彼女の指からコップが離れ、小卓に置かれる。卵形の顔は伏し目がちに灯りを受け、白く、どこか儚げに見えた。「酔ってるわね」その声は夜気に溶けるほど静かだった。背を扉に預けた輝は、ただその背中を見つめた。妊娠で不自由そうな歩み、その姿が痛々しく映る。やがて堪えきれず、そっと腰を抱き寄せ、顎を肩に落とした。「子は……元気か。暴れてないか」「酔ってる」彼女は同じ言葉を返す。「いや、正気だ。少なくとも意識はある。瑠璃……俺はお前が恋しい。こうして二人きりの時にしか、言えない」或いは——酔いに任せなければ、言えぬ言葉。夜は静まり返り、胸には言葉にならぬ苦しみと恋慕が渦巻いていた。同じ屋根の下に住みながら、世間の目に縛られ、平静を装う日々。彼女を岸本の未亡人として扱うしかなかった。だが本当は、若き日の恋人。腹に宿るのは、自分の血。抑え込んできたものがついに溢れ、強く抱きしめる。頬を擦り寄せ、声は熱に溶けそうに震えていた。「瑠璃、俺を抱いてくれないか。何度、お前の扉の前で立ち止まったか。何度、叩きたい衝動を堪えたか……」胸の奥の苦しみと恋しさが、とうとう堰を切った。後頸を掴み、耳もとに唇を寄せる。血が逆流するほどの昂ぶり。だが——その先へは進まなかった。ただ、抱くだけ。ただ、離したくなかった。頬を伝った涙。後悔の言葉は、喉に詰まったまま。瑠璃は酒の匂いを感じ取り、静か
Read more

第460話

室内は、雷光に照らされては闇に沈み、明滅を繰り返していた。かつては恋人同士。だが今は、名も定められぬ曖昧な関係。長い沈黙ののち、輝の喉がわずかに鳴った。耳に届いたのは、瑠璃の低い囁きだった。「もう帰って。いままでありがとう」「俺は行かない」頬に残る紅の痕も気にせず、扉を開けて振り返る。「部屋まで送る」「周防輝」彼女が制した。輝は押し殺した声で笑みを含んだ。「平手打ちか?戯れだと思えばいい。気が済むまで、何度でも打てばいい」瑠璃は思わず吐き捨てる。「頭おかしい」瑠璃は吐き捨てる。輝は彼女の手首を掴み、真っ直ぐに見据えた。瞳の奥には、過去も怒りも、すべてを抱え込んだ熱が宿る。あの夜、窓辺で重ねた口づけ。争いも、笑いも、抱擁も。——すべてが甦る「そうだ、俺は狂ってる。だからこそ岸本の家にまで転がり込んで、お前と子どもたちを守ろうとしてるんだ。この狂気は心に根を下ろして、一生治らない。お前が許してくれない限り、俺はずっと狂ったままだ」彼女の掌を胸へと押し当てる。胸の奥は焼けるように熱く、心臓は一打ごとに烈しく脈を打っていた。瑠璃が手を引こうとしても、輝はなお強く握りしめる。その視線は鼓動よりもさらに灼けつくほど激しく、彼女を抱き寄せると、酒気に任せて身を屈め、唇を奪った。それは乱れた口づけだった。快楽ではない。抑えきれぬ渇望と、押し殺した激情、そして誰にも渡したくない執念が絡み合っていた。やがて、彼の唇の端に赤い血が滲んだ。それでもかすかな笑みを浮かべ、彼女の頬を撫で、かすれ声で囁いた。「瑠璃、俺はまだ、お前の男でいたい」瑠璃の瞳から、涙が零れ落ちた。——どうして泣かずにいられよう。流転の人生。やっと手に入れた安らぎの家を守りたいだけなのに。雅彦が逝っても、その想いを抱いて生きたいのに。彼は許されぬ過去を背負いながら、なおも彼女に縋りつく。——もし壊れた縁が簡単に戻るのなら、「割れた器は元に戻らない」などという言葉は生まれなかっただろう。瑠璃はふらりと寝室に戻り、扉を背に崩れる。外では雷鳴が轟き、豪雨が滝のように降り続く。心もまた、冷たく濡れていた。思い返すのは、雅彦との最後の日々。人は一生幸せでいられるわけではない。け
Read more
PREV
1
...
4445464748
...
56
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status