輝が去り際に置いていったのは、一通の離婚協議書だった。だが絵里香は署名を拒んだ。——彼を引き留めるのだ。老いようと、死に至ろうと、絶対に離婚はしない。自分が幸福を得られないのなら、輝にも手に入れさせはしない。外の夜景を睨みつけ、憎悪が骨の髄まで染み込む。その時、バッグの中でスマートフォンが鳴った。画面に浮かぶ名は——赤坂瑠璃。一瞬の逡巡ののち、彼女は通話を取った。声には露骨な警戒が滲む。「何の用?」受話器の向こうで、瑠璃は微笑を含ませて答えた。「周防夫人、少しお話しできませんか?」絵里香は思わず息を呑む。——半時間後。二人はとある高級カフェで向かい合っていた。店内は洗練され、客層も上質。もちろん値段も安くはなく、コーヒー一杯が二千円前後。普通のサラリーマンが気軽に通えるような店ではない。先に到着していたのは瑠璃だった。窓際に腰掛け、隆起した腹を抱えている。その姿が、絵里香の視線に突き刺さる。だが女の本能か、負けじと背筋を伸ばし、気品を纏う仕草で椅子に座った。物音に気づいた瑠璃は顔を上げ、柔らかく言葉を放つ。「園浩司(そのこうじ)のベッドでは……そんなに淑やかじゃなかったみたいね」絵里香の顔が凍りつく。浩司——それは、彼女の情夫。瑠璃は淡い笑みを浮かべた。「どうして知っているのか、不思議でしょう?浩司はジムのインストラクター。女遊びが激しくて、お金にも困っていた。だから、私が資金を出したの。彼が奥さまに付き添って遊びに専念できるように……そして、いくつか証拠も残してもらったわ」絵里香は蒼ざめた。あの若い男は——輝ではなく、瑠璃が送り込んだのだ。まるで頭の奥で何かが弾ける。これまで、てっきり輝が離婚のために仕組んだと信じていた。だが真犯人は、瑠璃だったのだ。殺してやりたい——その憎悪が、瞬時に全身を満たす。瑠璃の笑みが冷たくなり、一語一語を刻むように告げる。「今日あなたが記者を呼び、私を葬ろうとした。でも……ちょうどよかった。私もあなたに用があったの。茉莉が脾臓を失った件、忘れたなんて思っていないわよね?法律では裁けなくても、欲望は人を滅ぼす——少し楽しい映像もあるし、ついでに忠告しておくわ。浩司は遊び人。ちゃんと検査し
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