All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

輝が去り際に置いていったのは、一通の離婚協議書だった。だが絵里香は署名を拒んだ。——彼を引き留めるのだ。老いようと、死に至ろうと、絶対に離婚はしない。自分が幸福を得られないのなら、輝にも手に入れさせはしない。外の夜景を睨みつけ、憎悪が骨の髄まで染み込む。その時、バッグの中でスマートフォンが鳴った。画面に浮かぶ名は——赤坂瑠璃。一瞬の逡巡ののち、彼女は通話を取った。声には露骨な警戒が滲む。「何の用?」受話器の向こうで、瑠璃は微笑を含ませて答えた。「周防夫人、少しお話しできませんか?」絵里香は思わず息を呑む。——半時間後。二人はとある高級カフェで向かい合っていた。店内は洗練され、客層も上質。もちろん値段も安くはなく、コーヒー一杯が二千円前後。普通のサラリーマンが気軽に通えるような店ではない。先に到着していたのは瑠璃だった。窓際に腰掛け、隆起した腹を抱えている。その姿が、絵里香の視線に突き刺さる。だが女の本能か、負けじと背筋を伸ばし、気品を纏う仕草で椅子に座った。物音に気づいた瑠璃は顔を上げ、柔らかく言葉を放つ。「園浩司(そのこうじ)のベッドでは……そんなに淑やかじゃなかったみたいね」絵里香の顔が凍りつく。浩司——それは、彼女の情夫。瑠璃は淡い笑みを浮かべた。「どうして知っているのか、不思議でしょう?浩司はジムのインストラクター。女遊びが激しくて、お金にも困っていた。だから、私が資金を出したの。彼が奥さまに付き添って遊びに専念できるように……そして、いくつか証拠も残してもらったわ」絵里香は蒼ざめた。あの若い男は——輝ではなく、瑠璃が送り込んだのだ。まるで頭の奥で何かが弾ける。これまで、てっきり輝が離婚のために仕組んだと信じていた。だが真犯人は、瑠璃だったのだ。殺してやりたい——その憎悪が、瞬時に全身を満たす。瑠璃の笑みが冷たくなり、一語一語を刻むように告げる。「今日あなたが記者を呼び、私を葬ろうとした。でも……ちょうどよかった。私もあなたに用があったの。茉莉が脾臓を失った件、忘れたなんて思っていないわよね?法律では裁けなくても、欲望は人を滅ぼす——少し楽しい映像もあるし、ついでに忠告しておくわ。浩司は遊び人。ちゃんと検査し
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第442話

透明なガラス一枚を隔て、輝は静かに絵里香を見つめていた。その瞳には、これまで見せたことのない陰惨な色が宿り、今にも彼女を殺めかねぬほどだった。真実は、あまりに滑稽だった。——ただ、絵里香が「周防輝の妻」になりたかったから。そのために彼女は、わざわざ交通事故を仕組み、自ら救済者を演じた。だが、結局自分の手で全てを壊したのだ。可笑しいではないか。あの日、手術台に横たわり涙を流す彼女の手を、輝は強く握りしめ、生涯を共にする誓いを口にした。その頃——瑠璃は彼の帰りを待っていた。どう言えば一緒になれるか、未来の幸せを夢想しながら。男の視線は瑠璃に移る。その眼差しには、渇望と懇願が混ざり、赦しを乞う色が浮かぶ。だが、女の表情は淡々としていた。「赤坂瑠璃、もう気にしていないの?」絵里香の声は震えていた。夜の街は、澄んだ闇に包まれ、ネオンの灯が眩く瞬く。瑠璃は長く外を見つめたのち、静かに首を振った。「ええ……もう気にしてない」すべては過ぎ去ったのだ。卑屈さも、痛みも、迷いも。今の彼女は——岸本の妻。瑠璃は絵里香を振り返らず、その視線から外れ、ふくらんだ腹を庇いながら黒塗りの高級車へと歩み寄った。ドライバーはすでに待っており、恭しくドアを開ける。瑠璃は灯火を映す瞳に、温度を失った影を宿したまま、静かに乗り込んだ。——絵里香は終わった。子を産むことはできず、病を抱え、未来を閉ざされた。輝が誰よりも耐えられない。車がゆっくりと走り出す。瑠璃の胸にあるのは、もはや失った恋の痛みではない。病院のベッドに横たわる茉莉の傷み——その苦しみだけが胸を占める。男などどうでもいい。子どもこそが命なのだ。すべては、終わった。夜十時。瑠璃が帰宅すると、まず茉莉の部屋へ足を向けた。術後の茉莉の傍には、二人の看護師が夜通し控えている。ピンク色の子ども部屋は、穏やかで静かだった。茉莉は安らかに眠っている。部屋には柔らかなジャスミンの香りが漂い、心を落ち着ける。看護師が立ち上がり、小声で報告する。「夕食もしっかり食べて、もう眠りました」「ありがとう」瑠璃は腹を庇いながらベッドに腰を下ろし、小さな頬を優しく撫でた。温かく、静かで——つい先日まで血の海
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第443話

輝は絵里香の後頭部を押さえつけ、無理やりソファに沈め込んだ。そのまま高宮家の人々に冷ややかな声を投げかける。「医者を呼んで診てもらったらどうだ?彼女がどんな病を抱えているのか。それと——イギリスでの事故は彼女が仕組んだことだ。俺を救ったように見せかけ、結婚へと持ち込むためにな。信じられないなら、運転手を呼べばいい」「絵里香、まさか本当なのか!」絵里香の父は顔を真っ青にした。絵里香は顔を覆い、嗚咽交じりに叫ぶ。「お父さん、私はただ輝が好きだったの!愛していたの!英国にいる時は順調だったのに、帰国してからは彼の目には赤坂瑠璃しか映らなかった。あの夜、何度電話しても繋がらず、彼女と一緒にいるってわかった。だから、何か手を打たなきゃと思ったのよ!ちょうど英国支社に問題があって……私のしたことは全部、彼を愛していたからなの!」絵里香の母は娘を庇い、夫を睨んだ。「あなた、言いすぎよ!」そして輝を見据え、震える声を落とす。「いずれにせよ、あなたにも責任はあるはず。絵里香はあなたのせいで子を産めなくなり、女の病まで背負ったのだから」周防家の人々は、思わず失笑した。寛の妻は、ついに遠慮を捨てて言い放つ。「恥知らずは何人も見てきたけど、ここまでとはね。全部あなた方の娘の自業自得でしょう。ジムの男と関係を持ったのも、自分で望んだから。英国での事故だって、罰が当たっただけ。子を産めなくなったのは天の裁きよ。責任を輝に押し付ける?冗談じゃないわ。私たちは逆に、茉莉の脾臓を返してほしいくらいよ!」「事故は絵里香に関係ない!警察署だって無罪にした!」絵里香の母は憤然と反論した。さらに言葉を重ねようとしたその時——輝の声が、低く会場を切り裂いた。「すぐに署名しろ。こちらもまだ顔を立ててやるつもりだ。だが補償など一切ない。一億円?笑止千万だな。別邸も本日限りで明け渡せ。今夜をもって、二度とこの地を踏むことは許さん」大野弁護士が新しい離婚協議書を差し出す。絵里香は一瞬迷った。だが高宮家の両親は首を縦に振らなかった。高宮家は、代々学問を尊ぶ家柄とはいえ、財閥の富には遠く及ばない。兄・弘道は結婚を控えており、住む家が必要だった。絵里香の離婚を利用して、この別邸を手に入れられるのなら好都合。絵里香の両親は
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第444話

高宮家はなおも離婚を拒んだ。彼らの狙いはただ一つ——あの別邸を手に入れ、弘道の新婚用の家にあてること。だが、輝には力も手段も余りある。一週間後、高宮家の両親と弘道は、揃って勤務先から停職処分を受けた。弘道の上司である理崎さんは、静かに言葉をかけた。「弘道、若者が上を目指すのは悪いことじゃない。より良い暮らしを望むのも当然だ。だがな、我々は自分の手で働き、正しく稼がねばならん。邪な道に頼ってはならない。停職の理由は詳しくは言えない。ただ一言、忠告する。誰を怒らせたのか、よく考えてみなさい」弘道の端正な顔が歪んだ。心の中では、すべてを理解していた。——これは、周防輝の意志だ。周防家ほどの権勢があれば、数人を潰すなど容易い。家へ戻ると、絵里香はソファにだらしなく凭れ、電話越しに男と軽口を叩いていた。彼女はすでに開き直り、病を抱えた身ゆえ「どうせなら刹那を楽しめばいい」とばかりに、新しい相手を探していた。その姿に、弘道は激昂する。携帯をもぎ取り、罵声を浴びせた。「お前がそんな淫らな真似をしたから、輝に捨てられたんだ!体に病気を抱えていながら治療もせず、まだ遊び歩くなんて……狂ってるのか!?せっかく掴んだ周防夫人の名を、自分の手で汚したんだ!」絵里香は呆気に取られたが、やがて冷ややかに笑った。「停職されたのは、私のせい?父さんも母さんも職を失ったのは?弘道、あんたが別邸を欲しがったからよ。同情を引くために事故を仕組んだのは誰だと思ってるの?今さら自分だけ助かろうなんて、甘い考えね」その瞬間、弘道の手が飛んだ。妹に平手打ちを浴びせる。かつては大切にしていた。だが、今は利益のために容赦を失った。絵里香は頬を押さえ、ソファに崩れ落ちた。声も出せず、ただ現実を受け入れられずにいた。「家族全員が職を失ったんだぞ!」弘道は鼻先に指を突きつけて怒鳴る。「どうする気だ!金もねえ、見栄も張れねえ!お前の性病だってどう治すつもりだ!今すぐ輝に土下座して、命乞いでもしてみろ!」絵里香はしばらく沈黙し、やっと呟いた。「彼は私を憎んでる。頼んでも無駄よ」離婚の署名以外に道はない。弘道は冷徹に見下ろした。「それを考えるのはお前だ」しかし彼女はなおも拒んだ。だが数日も
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第445話

人波の中で、絵里香は今にも泣き出しそうに縋った。「輝、お願い。助けて」だが男の瞳は、もはや一片の情も映していなかった。かつては、愛情がなくとも幾ばくかの哀れみを注いでいた。しかし——目の前にいたのが毒を宿した蛇だと気づいた今、その視線は容赦なく冷たく閉ざされていた。輝は時間を無駄にせず、一通の離婚協議書を放った。すでに自らの署名は記されている。「署名しろ。それで高宮家には手を出さない」震える手で紙を拾い上げた絵里香は、力強い署名を見つめる。見上げた男の表情は、すっかり見知らぬものになっていた。思い返せば、かつて一度は優しさを見せてくれた夜もあった。だが今、彼女に残された選択肢はなかった。家に居れば息も詰まる。女は俯き、走り書きのように名を記した。輝はそれを確認すると、迷いなく窓を閉じた。「待って!」彼女は必死に窓を叩き、車を追いかけて十数メートル。減速した車に並ぶと、叫ぶように問いかけた。「輝、少しでも、私を好きだったことはあるの?」ハンドルを握ったまま、輝は前を見据え、嘲るように吐き捨てた。「一度もない」その一言に、彼女は立ち尽くした。やがて、かすかな笑みが浮かぶ。——愚かだった。茉莉の臓器を奪わせ、彼に憎まれて……どうして愛を期待できようか。彼にとって、自分はただの汚れた女にすぎない。……その日のうちに手続きは完了した。離婚が成立し、短い結婚生活は法的にも終止符を打たれた。八月。瑠璃はすでに妊娠八か月。あとひと月もすれば、新しい命が産声をあげる。月曜は、産科検診の日。母は茉莉の世話を引き受け、使用人を伴い病院へ。検査結果は異常なし。帰り道、瑠璃はこれから生まれてくる赤ん坊のために秋物の衣服を買い足そうと思い立つ。ついでに母子用品の店を覗き、粉ミルクも見てみようと考えていた。近ごろ、岸本の体調はすぐれない。瑠璃は思案していた。夕梨が生まれたあかつきには粉ミルクで育て、自分が会社の舵を取ろう、と。もう彼にこれ以上の負担を強いるわけにはいかない。店内を歩きながら、瑠璃はふと手を伸ばし、せり出した腹をそっと撫でる。まだ姿を見ぬ我が子へ向ける眼差しは、どこまでも柔らかかった。何着か小さな服、ミルク、オムツ、玩具……カー
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第446話

「駄目よ」瑠璃はきっぱりと答えた。それは輝を憎んでいるからではない。ただ、もう必要がなかったのだ。岸本は病を抱え、家には子どもたちがいる。自分が夜通し看病することもできるし、人を雇うこともできる。それでも、周防家の施しは一切受けたくなかった。輝が渡そうとした株も受け取らず、寛とその妻から差し出された金も返した。もう一切関わり合いたくなかった。瑠璃の口元に浮かんだのは、解放ではなく「諦観」の微笑みだった。同伴していた使用人は気配を察し、彼が茉莉の父であることも知っていたので、気を利かせて会計に向かった。空間には、かつて愛し合った二人だけが残された。けれど瑠璃は何も言わず、先に立ち去った。黒塗りのワゴンへ乗り込む。輝は追いかけなかった。車内、彼女は無表情のまま、強烈な夏の日差しを眺めていた。やがて、使用人が店から出てきた。両手には二つの袋を提げていたが、より多くの荷物は輝の手にあり、それらはすべてトランクに収められた。車に乗り込んだ使用人は、ためらいがちに口を開いた。「全部、周防さんがお支払いになりました。断ったのですが……どうしてもと」瑠璃は咎めず、ただ前席の運転手に声をかけた。「出して」車がゆっくりと走り出す。輝はしばらくその場に立ち、車尾を見送り続けた。視界から消えるまで。車内では沈黙が支配した。彼女は窓の外に顔を向け、決して言葉を発さなかった。過去を振り返るまいと思っても、記憶は洪水のように押し寄せる。——瑠璃、俺は離婚した。あの男の軽い一言が、胸を焼いた。恨むまいとしても、どうしても憎しみが込み上げてくる。……三十分後、車は別邸に到着した。玄関に入った瞬間、主治医が近寄り、小声で告げる。「奥さま……ご主人が今日、吐血されました。黙っていろと仰せでしたが、隠すべきではないと思いまして」手にした袋が床に落ち、玩具が散らばった。小さな夕梨のために買ったばかりの品々。階段の上から、足音が響いた。見上げると、岸本がそこにいた。薄い色のシャツに身を包み、やつれた体を無理に支えて立っている。精悍な笑みを浮かべていたが、それが作り物であることを、彼女は知っていた。それでも、彼は最後までいい印象を残そうとしている。
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第447話

岸本の体は、日ごとに衰えていった。化学療法は受けず、午後になると医師が訪れて点滴と鎮痛剤を施す。子どもたちの前では、彼はいつも穏やかに振る舞い、調子の良い日には宿題を見てやることもあった。夕暮れ、別邸の東屋。柔らかな枕を敷いた寝椅子に、岸本は身を預けていた。庭では琢真が妹たちと遊んでいる。美羽の小さな鼻先には汗の粒が光り、茉莉はまだ術後の身で、長椅子に腰掛けてただ眺めていた。やがて、琢真が一粒の干梅を差し出す。茉莉は口に含み、ほんのりとした甘酸っぱさに笑みをこぼす。疲れた美羽がふらふらと父のもとに駆け寄り、両手を伸ばした。「パパ、だっこ」岸本は腕を持ち上げようとした。だが力は入らず、小さな身体を抱き上げることができない。幼い美羽は事情を知らず、ただ無垢な瞳でせがみ続ける。岸本は震える手で娘の頭を撫で、声を詰まらせた。「明日、抱っこしような」美羽の顔はしょんぼりと曇った。そこへ琢真が歩み寄り、軽々と妹を抱き上げる。妹は嬉しそうに兄の首に腕を回し、頬に口づけを落とした。「これからは、俺が抱っこするよ」その一言に、岸本の目は赤く潤んだ。掌を見下ろせば無力感が募る。だが顔を上げ、子どもたちを見守れば、そこに確かな安堵もあった。門口に、エンジン音が響いた。黒いベントレーがゆっくりと入ってくる。降り立ったのは輝だった。ハンティングジャケット姿の彼の手には、子どもたちへの線香花火が抱えられていた。「パパ!」茉莉が駆け寄り、彼の脚に抱きつく。輝はそっと抱き上げ、その華奢な身体を腕に収めた。琢真はじっとその光景を見つめる。夕陽に照らされる少年の横顔には、複雑な迷いが浮かんでいた。「美羽も、おじさんにご挨拶してきなさい」岸本が穏やかに促す。少年は唇を噛み、父を見た。まだ少年の顔立ちには、どうしても拭えない不満の色がにじむ。すでに世の道理を知る年頃だ。岸本には、息子の胸の内など分かりきっている心の奥でひとつ溜息をつき、表情がわずかに歪む。「琢真」父子の心は通じ合っていた。若き日というのは、何もかもに逆らいたくなるものだ。だが琢真は、ぐっとこらえて飲み込んだ。——父は自分の余命を知り、子らの未来のために後ろ盾を作ろうとし
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第448話

輝の味噌ラーメンは、とても食べられたものではなかった。結局、使用人が新しく料理を拵えた。食事のあとも輝はすぐに帰らず、岸本と二局の将棋を指した。瑠璃はやんわり止めたが、岸本は手を振って、どうしても二局は指したいと譲らなかった。細い三日月が林の梢にかかる。だが岸本は二局続けることはできず、一局終えるとソファに身を預け、眠りに落ちた。瑠璃の母は足音を忍ばせて薄い毛布を掛け、輝に小声で告げた。「眠ったなら、起こさないでおきましょう。夜は咳がひどいから……眠っている方が、少しは楽なのよ」その声音には、溢れるほどの慈しみが滲んでいた。輝は静かに聞き入れ、手元の駒を一つずつ片付けていった。立ち上がると、外は突然の豪雨と暴風。濃緑の枝々が荒れ狂う風雨に揺さぶられ、今にも折れそうにしなっている。背後には、浅く穏やかな岸本の寝息。——命は儚い。輝は一瞬ためらったが、やがて瑠璃の母に別れを告げた。瑠璃の母は外の風雨を見やり、言いかけては口を噤んだ。そのとき、不意に岸本が目を覚ました。玄関口から潮を含んだ湿風が流れ込み、部屋の隅々にまで沁みわたった。岸本は咳き込み、ソファに凭れたまま、輝を引き留めた。「風雨が強すぎる……今夜はここに泊まっていけ!」輝は断ろうとした。だが階段の上に、瑠璃が立っていた。灯りの下、その顔色は蒼白。それでも微笑みを作り、女主人らしい口ぶりで言った。「雅彦の言うとおりよ。外は大荒れだし……泊まっていって、明日の朝に帰って」空気は、ひどく微妙だった。輝の黒い瞳は瑠璃を射抜き、次いで岸本に戻り、そして薄く笑った。「では、お言葉に甘えます」瑠璃は夫を見やり、穏やかな声で言った。「私が客室へ案内してくる」そう言って二階へと向かう。輝は軽く頷き、あとに続いた。一階。岸本はまだソファに座ったまま、呆けた表情を浮かべている。瑠璃の母は毛布を引き直し、声を潜めて叱った。「あなた……あの人を呼んで、琢真の心を傷つけることになってもいいの?瑠璃の心を痛めても?」岸本は母の手を握り、苦く笑った。「母さん、俺は……やむを得なかったんだ」瑠璃の母は深く息を吐いた。「まさか、本当に彼が来るとは思わなかった」周防家の長男である輝は、今や何の肩書きも持た
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第449話

雨は止む気配もなく降り続いていた。別荘の換気システムは最新のものだが、それでも瑠璃はじめじめとした湿り気を感じていた。それは心のせいなのか、屋敷そのものの湿気なのか、あるいは過ぎ去った日々のせいなのか……主寝室に戻ると、岸本の姿がなかった。洗面所にいるのかと思い、何度か呼びかける。「雅彦……雅彦」しかし応えはなく、洗面所も衣装部屋も空っぽだった。明るい照明の下、しばし立ち尽くした瑠璃は、ふと胸騒ぎを覚え、隣の客室へ向かった。厚い絨毯に足音は吸い込まれ、ベッドに凭れていた男は気づかない。彼女が近づいたとき、声を発するより先に喉が詰まった。「雅彦」小さく呼ぶと、彼はゆっくり目を開き、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。「瑠璃……どうした?目が赤いじゃないか。外はまだ雨か?もう夜明けか?」大きく膨らんだ腹の中には、岸本が名付けた「夕梨」が育っている。彼が与えられるのは「嫡出子」という名分だけだと言っていたが、実際にはそれ以上を与えてくれた——家庭という居場所を。瑠璃は嗚咽を飲み込み、彼がなぜ客室で眠っているのかは問いたださず、ただ黙って布団をめくり、彼の隣に横たわった。顔を彼の胸に寄せ、鼓動を聞きながら囁く。「会いたくて来ちゃったの。外はまだ土砂降り……まだ夜明けには遠いわ。雅彦、ほんの少し眠っただけよ。朝まではまだまだよ」彼女は痩せこけた夫の顔を撫でた。毎日無理をして、子どもの前ではきちんとした姿を保ち、笑顔を見せ続けてきた。その裏で、どれほど痛みに苛まれていたことか。そして今夜、輝を家に招き入れたのも、結局は彼女を思うがゆえだった。——雅彦は愛してくれている。その決断がどれほど辛かったか、彼女にはわかっていた。拒めば彼が苦しむのもわかっていた。言葉はもうなく、ただ夫の胸に伏して心音と雨音を聞く。やがて暴風雨は鎮まり始めたが、夜の帳はなお濡れて揺れていた。枝から、軒先から、雫がひとつひとつ滴り落ち、かすかな音を立てて心に響く。岸本は咳を二度ほどし、夜に紛れ込ませた。妻を見下ろし、そっとその指を絡めて思う——瑠璃、なぜそこまで。予感だったのかもしれない。彼はつい先ほど、子どもたちを見に行った。琢真はまた背が伸びたらしい。眠りに沈むその横顔は、若かりし頃の自分を映す鏡のようであ
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第450話

瑠璃は、時が途絶えたかのように夫の胸に凭れたまま硬直した。ほんの刹那——けれど、すぐに悟った。雅彦はすでに、彼岸へと旅立っていたのだ。彼女は冷えゆく手を固く握りしめ、頬を彼の胸に押し当てる。涙は声もなく流れ落ちる。もう一度だけ、その体温を、心臓の鼓動を、声を、笑みを感じたいと願いながら。昨日の夕陽が最後だった。昨夜の将棋も最後の一局だった。知っていたなら、果物を切って差し出し、もう一度微笑んでいただろう。知っていたなら、琢真や美羽も呼んで、もっと長く一緒にいさせてやったのに……せめて最後の温もりを孤独にしないために。胸に顔を埋め、瑠璃は静かに語りかける。「雅彦、まだいるんでしょう?どこにいるの?琢真の部屋を見に行った?美羽のところへ?きっと、あの子たちはぐっすり眠ってるわ。雅彦、あなたは変わったのよ。最初に婚約した頃は、そんな人じゃなかった。自信に満ちて、誇り高くて……家の中に他人がいるなんて、絶対に許せない人だった。でも今は違う。琢真も美羽も、大切にしてくれた。心配しないで。あの子たちは私が育てるわ。琢真が大きくなったら、会社も託す。これは犠牲でも、自己満足でも、恩返しでもない。あの子たちは、私の子どもでもあるから。だから、私はここで生きていく。琢真や美羽と一緒に……母も、ここで暮らし続ける。雅彦……聞こえてるでしょう?まだそばにいるんでしょう?行きたくないんでしょう?」……涙がひと粒、ぽろりと落ちた。八月の雨夜に、岸本の命は尽きた。激しい雨の夜。だが彼の最期は静かだった。最愛の妻が側にいて、声をかけてくれる。人生に悔いがあるとすれば、瑠璃と本当の夫婦になれなかったこと。しかし彼は後悔していない。それが妻に残せる最後の優しさだったから。やがて雨は止み、空は白み始める。瑠璃は夫の顔を撫で、誰にも知らせず洗面所へ行き、熱いタオルを絞って戻った。丁寧に顔を拭い、看護師を呼び、最後の衣装にと三つ揃えのスーツを着せる。岸本はお洒落を好み、英国仕立てのスーツを数多く持っていた。最後の一着は、瑠璃が選んだ濃いブラウン。白い肌と穏やかな風貌に良く映え、生地も上等なものだった。すべてが整ったとき、振り返ると客室の扉に輝の姿があった。眠らず、まだ昨日の白いシャツのまま。袖口には煙草の灰が僅
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