All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 461 - Chapter 470

560 Chapters

第461話

「子どもが、生まれる……」瑠璃は歯を食いしばりながら、輝の手を強く握った。輝には出産の経験などない。だが彼女の寝間着の裾から水がぽたぽたと滴り落ちているのを見て、羊水が破れたのだと悟った。輝は喉を鳴らしながら彼女の手を握り返した。「怖がるな。俺が病院まで連れて行く」深夜の岸本邸が大きくざわつく。瑠璃の母は衣を羽織って起き上がり、幼い子どもたちも起き出した。瑠璃の母は病院へ同行しようとしたが、輝は瑠璃を慎重に抱きかかえて車の後部座席に乗せ、言った。「家で子どもたちをお願いします。こちらは私がついていきます……家族を呼んで世話を頼みますから、ご安心を。瑠璃を苦しませはしません」それでも瑠璃の母は心配そうにしていた。その時、清らかな少年の声が響く。「僕も一緒に行きます」琢真だった。若々しく澄んだ香りを纏った少年は、義母の隣に座り、ぎゅっとその手を握った。顔には不安が色濃く刻まれている。輝も車に乗り込み、運転手に命じる。「病院へ急げ」黒い車は豪雨の中、ゆっくりと邸宅を離れていった。瑠璃の母は美羽を抱き、茉莉の手を引きながら、その背をいつまでも見送った。……車内では、瑠璃の陣痛が刻一刻と強まり、額は汗で濡れていた。だが彼女は唇を噛みしめ、声を押し殺している。豪雨は柱のように降り、フロントガラスを叩きつける。ワイパーは必死に雨を払うが、道は険しい。運転手は速度を上げられず、雨に阻まれながら進んでいた。しかし子どもは急ぐように下りて来ようとしている。「痛い……」抑えきれぬ悲鳴が、車内に響いた。羊水はとめどなく流れ出ていた。もう出産は避けられない。だが前方の道が冠水で塞がれ、病院へは大きく迂回するしかない。陣痛は間隔を詰め、彼女の指は輝の腕に深い爪痕を刻む。車は突然止まった。運転手が飛び出して確認すると、工事区間の標識が雨に流され、進むも退くもできない状態だった。ワイパーは力なく左右へと揺れ、往復を繰り返すばかりだった。「……っ!」女の叫びが車内を揺らす。琢真はどうすべきか分からず、ただ輝を見つめた。輝は周囲を一瞥し、病院に間に合わぬと判断すると、低く言った。「俺が取り上げる」瑠璃は目を見開いた。「あなた、正気じゃないでしょう!」闇の中、輝
Read more

第462話

東の空が白み、雨は止んでいた。瑠璃が目を覚ますと、そこは病院のVIP個室だった。淡い桃色の壁に、薬品臭はなく、ほのかな花の香りと、赤ん坊特有の甘い匂いが漂っている。胸元には小さな温もり。覗き込めば、夕梨が器用に乳を吸っている。広い室内に響くのは、ちゅくちゅくという音。小さな口の端に白い雫を残し、まるで子豚のように夢中で飲んでいる。ベッドの脇では、茉莉と美羽が頬をつけて覗き込み、目を輝かせていた。茉莉が囁く。「美羽、あなたも赤ちゃんのとき、こんなふうに可愛かった?」「さあ……お兄ちゃんに聞いて」美羽は首を振った。母を早くに亡くした彼女は、生まれてすぐ人工乳で育った。そんな記憶は残っていない。琢真は少し離れた椅子に座り、妹たちの会話に耳を赤くしながらも、言葉を失っていた。年頃の少年らしい、こそばゆい照れが耳朶に滲んでいる。二人の小さな娘は歓声を上げながら、新しい命を心から喜んでいた。産後の瑠璃は枕に身を預け、子どもたちを見守りながら微笑む。雨上がりの枝が新芽をつけるように、その笑みは柔らかで、生の力を宿していた。美羽は勢いよく瑠璃に抱きつき、頬に口づけた。「ママ、もう痛くない?」幼い子ゆえに、何のためらいもなく「ママ」と呼ぶ。無邪気な声に、瑠璃はただ優しく微笑んだ。茉莉はそっと琢真の隣に腰を下ろし、上目遣いに言った。「夕梨、とても可愛いわ。お兄ちゃんも見に行かないの?」琢真の耳はさらに赤くなり、咳払いをして髪を撫でながら答える。「あとでな」夕梨は母の胸に吸いついたまま。茉莉はそれ以上言わず、抱き枕を抱えて窓の外の緑を眺めた。青空と濃い葉の緑。その静かな姿を見上げる彼女に、琢真の目がふと留まる。穏やかな横顔を見ているうちに、彼の胸に込み上げるものがあった。——父が最期に与えてくれた、ひとつの家。瑠璃、祖母、茉莉、美羽、そして夕梨。そこには確かに「家族」があった。その時、病室の扉が静かに開いた。現れたのは輝だった。清潔な衣服に着替え、手には家の使用人が煮たばかりの肉粥を入れた食籠を提げている。背後には瑠璃の母も控えていた。輝の黒い瞳がふと陰り、わずかにためらうように動きを止めた。だが次の瞬間にはベッド脇に歩み寄り、膝をついて小さ
Read more

第463話

二時間後。美羽はすやすやと眠りについた。輝は細心の注意を払いながら、美羽を広いソファに寝かせ、腹に毛布を掛けてやった。彼女は寝返りを打ち、背凭れに涎を垂らしながら夢の中で何かを呟いている。輝の大きな掌がしばらく彼女の頭に添えられ、眠りが深くなったのを確かめてから離れた。瑠璃も眠っていた。夕梨もまた、安らかな寝息を立てている。部屋には香ばしい匂いと静かな温もりが漂い、格別の安らぎが満ちていた。輝はベビーベッドに近づき、眠る赤子の顔を覗き込む。昨日のしわくちゃな顔とは違い、ふっくらとした頬。胸の奥に不思議な感覚が広がった。——血を分けた我が子であることに加え、自らの手でこの世に迎え入れた存在。最初に抱きしめたのは、この自分だったのだ。血に濡れた小さな肉の塊。だがそれは、瑠璃の優しさそのものだった。輝はそっと頬に触れる。赤子は「ん」と口を鳴らし、また甘い欠伸をした。父親という立場の喜びは尽きることがない。輝は小さな手を握り込む。爪の先ほどの大きさしかない指は、それでも温かく、確かな命を感じさせた。彼は頭を垂れ、敬虔な気持ちで娘の頬に口づけした。その光景を、瑠璃は目を細めて静かに見ていた。初めて父となった男の姿。抑えきれぬ喜びを、必死に堪えている背中。……午後三時。周防家の人々が訪れた。気まずさを隠すように、京介夫妻も両親も揃ってやって来た。大所帯でぞろぞろと押しかけ、病室は一気に賑やかになる。そして当然のように、夕梨への贈り物を抱えていた。誰もが心の中で理解していた——この子は輝の子だと。差し出された品は、どれも世に稀な逸品ばかり。惜しみなく与えられる贈り物の数々が、その事実を雄弁に物語っていた。瑠璃は気が引け、受け取りを渋ったが、輝が代わりに決めた。「夕梨の嫁入り道具にすればいい」ちょうどその時、夕梨が目を覚ました。黒豆のような瞳に、つややかな黒髪。周防一族の面々は大喜びだった。寛の妻が微笑みながら言う。「ありがとう。輝ももう四十近いのに、父親になれたなんて」瑠璃は淡く笑うにとどめ、空気は微妙に揺れた。礼の妻は赤子を抱き、しげしげと眺めて笑った。「髪と瞳は輝そっくり。鼻や口元は瑠璃ね。あら可愛い、人見知りもしない
Read more

第464話

輝は疲れていた。それでも美羽を抱き上げ、歩きながら問いかける。幼い少女は何でも思ったままを口にする。輝は低く笑った。その笑顔は大人の男の魅力に満ち、廊下を行き交う看護師たちは思わず目を向けた。一階に停められた黒い高級車を見れば、彼の素性を推し量るのは容易かった。夜。瑠璃は夕梨に授乳していた。窓は半ば閉ざされ、微かな風が入り込んだ。その風にはわずかな熱気が混じっていたが、エアコンがすぐにそれを遮り、かえって室内には心地よい涼しさが広がっていた。出産から三日。浴室で身を清め、髪を丁寧に洗った瑠璃の姿は、どこか力みが抜けて、すっきりと晴れやかだった。その胸に抱かれた夕梨は、母の香りに包まれているようで、安心しきった表情を浮かべていた。まるで瑠璃自身が花のような芳しさを纏っているかのように。長い髪を垂らし、柔らかな笑みで子を見つめる母の横顔。輝はドア口に立ち尽くし、やがて窓辺に歩み寄り、窓を閉めながら低く声をかけた。「風邪をひくぞ」そう言ってベッド脇に腰を下ろし、夕梨の頬に指を伸ばす。小さな顔が一瞬父親を見上げ、また夢中で乳を吸った。そのむさぼるような音が、静かな病室に小さく響く。「……少し外して」瑠璃が小声で告げる。輝は艶めいた冗談を口にしかけたが、彼女との関係、そしてじっと自分を見つめる美羽の存在を思い出し、言葉を飲み込んだ。代わりに美羽を抱き上げ、応接間へと移動する。ほどなくして白川が甘味を運んできた。ちょうどよく、美羽にそれを食べさせてやることができた。兄や姉が学校へ通い、家で宿題に追われている間、輝と過ごす時間がいちばん長いのは美羽だった。時には会社へも連れて行くことがある。輝は約束どおり、実の子と変わらぬ父の愛情を注いでいた。それは難しいことではなかった。美羽は天真爛漫で、人を惹きつけずにはおかない子だったから。彼の手元にはまだ処理しきれていない仕事が残っていた。それでもソファに腰掛け、ケーキを頬張る美羽の隣で書類に目を通していた。食べ終えると口元を丁寧に拭ってやり、再び立ち上がる。あちらには、「大きなお姫さま」と「小さなお姫さま」が待っている。彼は忙しさに追われながらも、その役目を喜びとして受け入れていた。疲れはあれど、胸
Read more

第465話

その場に居合わせた人々は皆、思わず息を呑んだ。庶民にとっては、まるで天から降ってきたような富のきらめきに、ただ圧倒されるしかなかった。一般的な産後ケア施設でも、百万、二百万も払えば十分贅沢だと自慢できる。だが——六日間の入院で一千万円。その桁外れの金額に、誰もが息を呑んだ。沈黙の後、優奈が無理に笑みを作った。「私たちだって、いいプランを選んだのよ。無痛分娩のコースで」虚栄心に駆られ、彼女は二百万のコースを選んだ。実際には中途半端で大したこともない。だが彼女にとっては、夫・延生の「誠意」を形で確認するためのものだった。瑠璃が得た富も幸福も、彼女にとっては目障りな棘でしかない。——夫を亡くした女が、なおも恵まれている。かつての男が、また心を寄せている。優奈は、息子を産んだ自分こそ勝者だと誇り、冷ややかに瑠璃を見下ろした。「稼いだって意味ないわ。結局、男の子がいないんだから!男の子がいなければ……」瑠璃はいつもなら争わぬが、思わず言い返した。「産めるなら、いくらでも産めばいいじゃない」優奈は顔を歪め、激昂した。だが延生が鋭く叱りつける。「いい加減にしろ!」息子を産んだことを盾に、体裁も忘れてなお、彼女は夫に詰め寄った。「まだあの女を忘れられないの?」結婚してから、二人の仲は冷えていた。優奈は嫉妬深く、束縛は苛烈。夫が女同僚と会話すれば問い詰め、LINE履歴を見つければ相手を削除・ブロック。延生はまともに仕事もできず、何度も上司に注意され、心身ともに疲弊していた。産後二か月。夫婦の営みもなく、彼は書斎に逃げ込んで眠るだけ。鬱屈を抱えた優奈の不満は募り、とうとう瑠璃にぶつけられた。延生の胸には、長いあいだ積もり積もった不満があった。その抑えきれぬ感情が、ついに大勢の前で噴き出す。「そうだ。忘れられない。それがどうした」思わず吐き捨てたその一言に、優奈は崩れ落ちた。人前も憚らず、声を上げて泣き叫んだ。「酷い!私は神谷家のために息子を産んだのよ!それなのに、あなたはこんな仕打ちを……!」だが延生の顔は冷ややかだった。声すら揺らさず、ただ突き放す。「産まなくてもよかった」もしも優奈があの時、地方までついて来て無理に関係を迫らなければ——
Read more

第466話

瑠璃は輝に小さく囁いた。「行きましょう」二人がVIP特別検査室へ入ると、背後から優奈の罵声が響いた。「赤坂瑠璃!あんたのせいで、私の結婚は不幸なのよ!どうして死なないの!」瑠璃は振り返り、静かに言い放った。「死ぬべきなのは、不幸に甘んじる人間じゃなくて?私は幸せよ。だから死ぬ気なんてない」優奈の顔は涙に濡れ、言葉を失った。周囲の視線は冷たく、嘲笑と軽蔑が一斉に注がれる。……検査室の中。女医が瑠璃を奥へ導き、夕梨は輝の腕に預けられた。医師は世情に疎く、何気なく微笑みながら言った。「お父さん、抱っこの時は頭をしっかり支えてくださいね」——お父さん。その響きに、輝の胸は満ち溢れた。ソファに腰かけ、愛おしげに赤子の頬を撫でる。美羽がぴったり寄り添い、彼は差別せずに小さな頭を撫でた。「妹も美羽と同じくらい可愛いな」「妹、まるでお人形さんみたい」「美羽もきれいだよ」「えへへ」美羽の顔がぱっと輝いた。カーテン越しにやり取りを聞いていた女医が、冗談めかして口を挟む。「旦那さん、本当に子煩悩ですね。若いうちに、もう一人——今度は男の子を考えてみては?」瑠璃は言葉に詰まった。自分と輝の関係を説明できない。だが彼は図々しくも微笑んだ。「もう息子がいます。全部で四人の子どもですよ。一番上は男の子です」「まあ、四人も!全然そうは見えませんね。赤坂さん、とても若々しくて」「私のママ、きれいだから」美羽が誇らしげに口を挟む。その無邪気な言葉に、瑠璃の胸の奥に温かなものが広がり、自然と微笑みがこぼれる。琢真も美羽も、実子と変わらぬほどに手のかからない子たちだった。だからこそ、彼女にとっては血のつながりなど関係なく、同じように愛おしかった。「息子がいるから、もう十分です」輝の心に、言葉にできない感情が差し込む。その時、布のカーテンが灯りに透け、奥の光景が細部まではっきりと浮かび上がった。輝の視線に映ったのは、わずかに脚を開いた瑠璃の姿。手袋をはめた女医が、その奥を何度も往復して診察していく。産婦の健康を守るための処置だと頭では理解している。それでも胸に込み上げる感覚は奇妙で、思わず過去の記憶が呼び覚まされ、喉がごくりと鳴った。だが輝は、必死に視線
Read more

第467話

病室に戻っても、空気はどこか微妙なままだった。輝も瑠璃も、先ほど検査室で起きたことには一切触れない。ただ一人、美羽だけが屈託なく笑っていた。学校のない彼女は、この病院を我が家のように駆け回る。それでも瑠璃が休む時は、きちんとソファで絵本を広げたり、ベビーベッドに身を乗り出して妹を覗き込んだり、時には紙おむつを運んできたりと、小さな「お手伝いさん」としての役目を果たしていた。検診を終え、輝は会社へ戻っていった。病室には静かな安らぎが漂う。その時——ノックの音。美羽が弾かれるように立ち上がった。「私が開ける!」ドアを開けると、そこに立っていたのは、母の昔の恋人だった。延生。彼は大ぶりの果物籠を手に、気まずそうに立っていた。外見からして数万円はする品だろう。視線を落とし、美羽に問いかける。「おばさんは……いらっしゃるかな?」「ママなら、ここにいるよ」無邪気な声に、彼は一瞬目を瞬かせ、それから微笑んだ。「そう……ママ、か」その表情は柔らかだった。だが——皮肉なことに、自分の息子にすら向けたことのない温もり。家には優奈のとげとげしい声ばかりが満ち、帰宅すれば書斎に籠もるしかなく、心を許す場などどこにもなかった。忘れていた。自分も、かつてはこんな穏やかさを持っていたのだと。美羽が後ろを振り返る。「ママ、叔父さんが来たよ」瑠璃が目を上げ、延生と視線を交わした。長い沈黙のあと、彼女は静かに言った。「入って」延生は手土産を提げて病室へ入ってきた。そこはVIP仕様の一室で、病院というよりも高級ホテルのような佇まいだった。物質的なことに頓着しない彼は、豪奢さに嫉妬することはなかった。ただ胸に広がったのは取り返しのつかない悔恨。かつて、本当に良き女を自ら手放してしまったのだという痛切な思いだった。果物籠を置き、延生はソファに腰を下ろす。美羽はバナナを一本剥き、差し出した。延生は、それが岸本の子であることを知っていた。差し出されたバナナを受け取り、しばし視線を落としたのち、瑠璃を見上げる。そして小さく声を落とした。「いい子だな」「ええ、とても可愛い子よ」瑠璃は微笑んだ。彼の視線はやがて、ベビーベッドの夕梨へ。父親が誰であれ——それが岸
Read more

第468話

美羽はまだ子どもで、すべてを理解しているわけではなかった。けれど、母が父——岸本を愛していることだけは感じ取っていた。母がときおり写真を見つめてぼんやりしたり、指に残る指輪を撫でる姿を、何度も目にしてきたからだ。美羽は瑠璃の肩に寄り添い、小さな声で囁いた。「わたしも……お父さんに会いたい」瑠璃は胸が締めつけられるように愛おしく思い、娘を抱き寄せ、頬をぎゅっと寄せた。——その頃、車に戻ったのは延生だった。隠すつもりでいたが、優奈にはすぐに気取られてしまった。車中で彼女は夫を責め立てる。「あなた……あのクソ女に会ってきたんでしょ?」延生は冷たく声を落とした。「言葉を慎め。あの人はお前の姉だ」優奈は鼻で笑った。「私に姉なんていないわ。結婚前、嫁入り支度を頼んだときだって、死んでも出してくれなかった。実の妹に冷たく突き放して……今さら姉なんて呼べるもん?」延生はハンドルを握りしめ、抑えきれぬ苛立ちを抑えつつ吐き捨てる。「お前の家族の価値観には、本当に驚かされる」すると優奈は顔を寄せ、声を甲高くした。「それなら、どうして私を抱いたの?今や彼女の周りには男が何人もいる。あなたなんて順番にも入れないでしょ?悔しいのね!」「頭おかしい」延生はそう吐き捨て、アクセルを踏み込んだ。もう相手にする気もなかった。だが優奈は引き下がらず、帰宅するまで延生と罵り続け、家に戻ってからも口論は続いた。この結婚は、まるで鉄格子の牢獄のようだった。そして、天は彼らに微笑まなかった。その夜、一本の電話が入る。病院からだった。息子の神谷実生(かみやみお)が、先天性の白血病と診断されたのだ。まだ小さな子で、生存の可能性は限りなく低い。ただ延命のための治療で、金を積んでも望みは薄い——それでも、何もしないわけにはいかなかった。延生は椅子に崩れ落ち、長い沈黙の後、医師に問う。「治療費は、どのくらい必要ですか」「少なくとも六千万円はご用意ください」六千万円という額は、本来なら神谷家にとってどうにかなる額だった。だが結婚の際、優奈の実家に骨までしゃぶられるような持参金を求められ、家はすっかり疲弊していた。手元にあるのは二千万ほど。それでも、幼い命を見捨てることなどできない。延生は即座に決断した——婚礼
Read more

第469話

その夜——立都市の病院、VIP母子病室。輝が戻ってきたのは夜十時を回った頃だった。まだ大人も子どもも眠ってはいない。美羽は今日は琢真に連れられて家に戻っている。茉莉が美羽に会いたいとねだったからだ。病室には柔らかな灯りがともり、ほんのり甘い乳の香りが漂っていた。瑠璃はベッドの背に寄りかかり、夕梨に乳を含ませている。静けさのなか、小さな喉が一心に啜る音が規則的に響き、輝の眉間をほどき、喉仏を無意識に揺らした。今夜は、三人だけ。扉の前でしばし立ち尽くした後、彼は静かにドアを閉め、ベッド脇に腰を下ろす。黒い瞳で彼女を見つめ、信じられないほど柔らかく声を落とした。「今日、神谷延生が来ていたのか」瑠璃は身を少し横にし、距離をとった。「美羽に聞いたの?それとも……誰かを置いてるの?」輝は目を細めて笑った。「そんな人間、どこにいる」彼女は信じていないようだったが、追及はしなかった。二人はもはや恋人でもなく、憎しみすら残していない。余計な争いに意味はないのだ。「ただの見舞いよ。礼儀みたいなもの。説明するつもりじゃないの。私たちの関係に、説明なんて要らない。ただ、あなたが私の私事に踏み込まないでほしいだけ」「神谷は……お前の私事なのか?」瑠璃は答えず、ただ赤子を抱いて乳を与え続けた。生まれたばかりの夕梨は、ふっくらとした体つきで、母体が十分な栄養を摂っていた証だった。これは間違いなく、輝が雇った立都市でも最高の栄養士の功績である。彼女の体は痩せていたが、金の力は子にしっかりと宿っていた。夕梨は啜りながら、時おり黒い瞳を男のほうに向ける。二十センチ先も見えないはずの目で、それでも世界を確かめようとする好奇心。やがて飲み終えると、すぐに温かな尿を洩らした。「俺がやる。お前は休んでろ」輝が制し、彼女は素直に従った。彼はもう手慣れたものだった。片腕で赤子を抱きながら小さな下着を脱がせ、尻を洗い清め、新しいものを穿かせてベッドへ戻す。輝にとって父親になるのは二度目だったが、赤ん坊の世話を自分の手でやるのは初めてだった。小さなお尻を軽く叩き、優しく笑う。「ぷくぷくしてるな」瑠璃は胸を痛め、慌てて口を挟んだ。「強くしないでね」彼は赤子を抱き上げ、その柔らかな頬にいくつも口づけた。
Read more

第470話

一晩中、雨。ぽつり、ぽつりと途切れることなく降り続き——輝は片腕を枕に浅い眠りを繰り返し、ようやく夜半過ぎに深く眠りについた。いつ雨が止んだのかは知らない。目を覚ますと、東の空が白み、厚いカーテンの隙間から淡い光が差し込んでいた。外は静まり返っている。輝は横を向き、小さなベッドの中を覗き込んだ。夕梨が目を覚まし、両手をいじりながら、黒々とした瞳をくるくると巡らせている。丸々とした小さな足を勢いよく蹴り、小さな口からは「あー」「うー」と声を洩らしていた。——なんとも愛らしい。輝は指を差し出した。赤子はそれを掴み、兎が人参を抱えるようにしっかりと握りしめる。その父子の光景に和んでいたとき——病室の扉がノックされた。医師か看護師の巡回かと思い、輝は指をそっと引き抜き、立ち上がって扉を開けた。だが、目にした顔に眉がひそめられる。立っていたのは、赤坂大輔と優奈の父娘だった。大輔は、輝を見るやいなや卑屈な笑みを浮かべる。この男のすべての卑下と媚びへつらいは、新しい家庭に注ぎ込まれてきたのだろう。踊り子あがりの女のどこにそこまでの魔力があったのか。瑠璃の母より美しいわけでも、気品があるわけでもないのに。「部屋を間違えたんじゃないか」輝はそう言って扉を閉めようとした。大輔が慌てて声を上げる。「周防さん!どうしてもお願いがあって……どうか、瑠璃に伝えていただくだけでも」輝は眉をひそめ、遠くに立つ警備員を一瞥した。——役立たずばかりだ。瑠璃を起こすつもりも、彼女にこの醜態を見せる気もなかった。扉を閉じ直し、冷ややかに睨み据える。「お前と彼女は、とっくに縁を切ったはずだろう」大輔は苦渋の表情を浮かべ、なおも言葉を絞り出した。「実は……困ったことがありまして」輝は黙したまま。大輔は彼の表情を探りつつ、意を決して口を開いた。「優奈の子が病気で……生まれつきの白血病なんです。最初の治療費だけで六千万円……」「神谷家なら、それくらい出すのは難しくないだろう」輝が冷ややかに返すと、優奈が思わず口を挟んだ。「でも延生は、私たちの家を売って治療費にしようって……そんなの許せません!」大輔も慌てて同調する。「そうです、家を売ったら優奈の住むところが……」輝は思わ
Read more
PREV
1
...
4546474849
...
56
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status