All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 311 - Chapter 320

322 Chapters

第311話

八雲がさっき怒っていたのも、たぶん私が先にサインしてしまい、彼の面子を潰したからだろう。あれほどプライドの高い紀戸家の御曹司にとって、離婚話は本来、彼から切り出すべきものだったはずだ。けれど、結果はすでに決まっている。彼が同意しないはずがない。翌日、東市協和病院に着いたばかりの私に、桜井がこう教えてくれた。「更衣室の件、もう青葉主任に報告したわ。麻酔科内で内部調査に入ってるよ」私は慌てて現場へ向かい、数名の上層部がすでに揃っているのを目にした。私の説明を一通り聞き終えると、豊鬼先生は私のロッカーの扉を見つめ、眉を深くひそめた。「これは一体どういうことだ?水辺ちゃん、ついこの前、しばらくは目立たないようにしろと言ったばかりだろう。どうしてまた自分から嵐のど真ん中に飛び込むようなことをしたんだ?」豊鬼先生は確かに、このところは平穏に過ごすよう、何度も私に言い聞かせていた。手術室にも入らせなかったのは、私を守るためであり、同時に二つの診療科の関係を円滑に保つためでもあった。けれど今回は、明らかに誰かが意図的に私に泥をかぶらせ、私をわざと世間の表舞台へ引きずり出しているのだ。「豊岡先生、水辺先生はもう十分おとなしく、我慢してます。どんどんエスカレートしている、あの人たちが悪いのです……」桜井はこの件にずっと憤っていて、つい我慢できずに口を挟んだ。「桜井さん」看護師長が肘で桜井の腕を軽く突き、低い声で制した。看護師長の視線を受け、桜井は無理やり言葉を飲み込み、俯いた。その顔には、なおも悔しさが滲んでいる。「豊岡先生のおっしゃる通りですね。優月ちゃんは本当に気の毒です。いつも風当たりの強い立場に立たされて。ロッカーの件だけでも、これで二度目ですし、今回は接着剤で完全に塞がれていました。これはもう、新しい扉に交換するしかありませんね」看護師長は豊鬼先生の言葉に沿いながらも、さりげなく私を庇い、青葉主任に向かって微笑んだ。「青葉主任、こうしたことが何度も起きている以上、優月ちゃんへの影響はかなり大きいです。きちんと調べる必要がありそうですね」青葉主任は頷いた。「そうだね。ただ、更衣室には監視カメラがない。外の監視カメラの映像から出入りした人物を洗うしかないね」「内部の人間に決まってます!水辺先生を誹謗中傷していた、あの数人じゃないです
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第312話

更衣室のようなプライベートな空間に、監視カメラを設置することは不可能だ。だが通常、出入りするのは私たち内部の人間に限られている。もっとも、私がこうした結論に至ったのは、単なる推測ではない。理由は、私のロッカーの扉に書かれていた、あの血のように赤い【消えろ学術ビッチ】という八文字――その「インク」だ。「青葉主任、ご覧ください。この文字は、手術室で使われている生体染色液で書かれたものです」私はロッカーの扉を指さし、低い声で言った。青葉主任は驚いた表情を見せた。豊鬼先生は扉をじっと見つめ、すでに何かに気づいた様子だ。眉をひそめたまま、この時は一言も発しなかった。看護師長が一歩前に出て、注意深く確認すると、驚いたように口を開いた。「本当だ……これはヘマトキシリン溶液ね。とうりで見覚えのある色だと思ったわ。こんなもの、外部の人間には手に入らない。やっぱり、やったのは内部の人間ですね」「もし内部の人間だとすれば、これは厳正に対処しなければならない」青葉主任の表情はさらに重くなった。「同僚間の争いは性質が悪く、影響も極めて大きい。すぐに管理層へ報告します」「ほら、やっぱり内部の人間じゃないですか!」桜井は勢いづいたようで、声がまた大きくなった。看護師長を一瞥してから、少しだけ声を落とした。「しかも、水辺先生を勝手に仮想敵にして、報復しに来た人だと思います……」ほとんど、葵の名前を口にしかけている。私は桜井を止めようと思った。だがその時、更衣室の入口から、聞き慣れた甲高い大声が響いた。「どういう意味なんですか、桜井看護師?桜井看護師が言ってるのって、まさかうちの葵のことじゃないでしょうね?葵がずっと水辺先生を仮想敵にしてるって言いたいのですか?それで、水辺先生のロッカーに――」薔薇子だった。振り返ると、怒りに満ちた顔の薔薇子だけでなく、その背後に立つ葵の姿も目に入った。葵はもともと華奢でか弱い印象の子だ。ここ数日は明らかに気分も優れず、顔色も悪い。化粧もしておらず、素顔のままの小さな顔は、いっそう憔悴して見える。薔薇子の言葉を聞いた瞬間、葵の丸い目が一気に赤くなり、潤んだ光がみるみるうちに瞳の縁に溜まり、ひどくかわいそうに見える。唇を噛みしめ、必死に感情を抑えようとしているのが分かるが、口を開いた瞬間、か細い声にはすでに泣き声が混
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第313話

看護師長は、すでに苛立ち始めている桜井を押さえつつ、笑顔で口を開いた。「松島先生、実は私たち誰も――」「ええ、尾崎看護師の言う通りだ。証拠もないのに、軽々しく人を疑うべきではない」これまで一言も発していなかった豊鬼先生が、このタイミングで突然口を開いた。しかも彼は私の方を見て、諭すような口調を取った。「水辺ちゃん、物事は証拠がすべてだ。お前と松島先生の間に多少のわだかまりがあるとしても、わずかな発見や主観的な推測だけで、同僚を疑うのはよくない」……なるほど。豊鬼先生の言葉と、今のその態度を見ていると、彼が私の指導医なのか、それとも葵の指導医なのか、本当に分からなくなってくる。八雲が葵を指導していた時は、無条件かつ全面的な擁護だった。それに比べて、豊鬼先生が私を指導してきた間は、庇うどころか、事あるごとに私を落とし穴へ突き落とした。――失礼だが、私はいつ「葵を疑っている」と言っただろうか?私は一度深く息を吸い、落ち着いた声で言った。「豊岡先生、まず第一に、私と松島先生の関係は円満で、対立や確執は一切ありません。意図的に彼女を標的にする動機も存在しません。以前、松島先生とは交流も多く、同じ部屋をシェアする話が出たことさえありました。この件については、看護師長が証人です」看護師長はすぐに頷いた。「ええ、私が証言します」薔薇子に抱き寄せられ、目に涙を溜めていた葵は、しばらく沈黙した後、かすかに頷いた。その一瞬の動きで十分だ。私は話を続けた。「第二に、先ほど私が青葉主任にご報告したのは、文字に使われた液体についての発見だけです。この文字が内部の人間によって書かれた可能性があること、院側に監視カメラの映像を確認し、厳正に対処してほしいと申し上げただけで、誰がやったかについては、誰一人として名前を挙げていません。それなのに尾崎看護師は、最初から『私たちが松島先生を冤罪にかけている』と言い切り、私に『同僚を悪意で攻撃した』という大きなレッテルまで貼りました。そんなに慌てるなんて……何かやましいことでもあるからじゃないですか?」私は最後に薔薇子をまっすぐ見据え、視線と同じくらい鋭い口調で言い切った。そうだ。私は、薔薇子こそが「後ろめたい」のではないかと感じている。薔薇子の視線が一瞬揺れた。だが、それでも強気な態度を崩さない。「水辺先生、
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第314話

葵は小柄で、背の高い八雲の前に立つと、いっそうか弱く見える。彼女はそのまま顔を上げ、涙に濡れた目で八雲を見つめた。目の縁を赤くしながら泣いている様子は、ひどくかわいそうだ。八雲でなくても――見ている私ですら、思わず庇ってやりたくなるほどだ。もしここにこれだけ人がいなければ、葵はきっと、八雲の胸に飛び込んでいただろう。八雲が中へ入ってくると、まず私の顔に視線を留め、そしてすぐに逸らした。その後、目を伏せ、目の前で雨に打たれてぐしゃぐしゃになった花のように泣く葵を見下ろし、そっと彼女の肩に手を置いた。「……泣くな」その声は低く柔らかく、どこか抑え込まれた溺愛が滲んでいる。彼女は小さく、彼は大きい。彼女はか弱く、彼は強い。彼女は風にも耐えられなさそうな可憐な花で、彼は安心感に満ちた大樹のように、彼女を庇い、包み込んでいる。――その光景を前にして、私の一瞬の恍惚は、はっきりと覚めた。八雲は現在、停職中だ。本来なら調査を受け終えたあとは自宅待機し、できるだけ疑念を招かぬよう、この騒動のもう一人の当事者である葵から距離を取るべき立場にある。だが、彼は彼女をあまりにも大切にしている。自分が寵愛する人が傷つくことなど、到底耐えられない。だからこそ、急いで病院まで駆けつけたのだ。しかも――彼の手には、彼女のために用意した食事まで提げられている。先ほどの慌ただしさは、まるで雲に乗って、想い人を救いに来たヒーローそのものだった。その「想い人」は、葵だ。彼は彼女を溺愛している。同時に、あらゆる面で彼女のために考えている。だからこそ、皆の前で葵を抱き寄せ、優しく慰めることはしなかった。それは、この場に私たちがいるからだけではない。彼女を守るためでもあるのだ。今はまだ、通報を巡る騒動の渦中にある。この状況で、もし八雲が公然と葵を抱きしめれば、かえって彼女の立場を悪くする。人々はきっと、葵が本当に実力で東市協和病院神経外科に入ったのではなく、彼との私的な関係によって入局したのだと、そう思ってしまうだろう。その抑制は、紛れもなく深い愛だ。実に王道で、胸を打つ恋愛のワンシーン。もし――この場面の男性が、私の夫である八雲でさえなければ、私はきっと素直に見惚れ、心から祝福していただろう。私は視線を逸らした。これ以上、愛を抑制しながら
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第315話

「紀戸先生、本当に申し訳ありません。すべて水辺が悪くて、松島先生に辛い思いをさせてしまいました」豊鬼先生は立ち去らず、むしろ私の腕を引いた。「水辺ちゃん、早く松島先生に謝りなさい」……謝る?私の夫である八雲と、八雲の大事な人である葵が、私の目の前で抑制された深い愛を見せつけているというのに、この妻である私が葵に謝れ、と?何に対して?離婚協議書をもっと早く片付けて、八雲をさっさと葵に差し出さなかったことに対して?私は何一つ間違っていない。だから、謝る必要もなければ、謝るつもりもない。葵の「辛い思い」は、私が生んだものではない。私は淡々と口を開いた。「先ほどもはっきり申し上げました。これは私の問題ではありません。ですから、謝罪の必要はないと考えます」周囲の空気が、一気に冷え込んだ。八雲の漆黒の瞳が、私の顔に突き刺さった。冷たく、鋭く、値踏みするような視線。――きっと、八雲は今、さらに怒っているのだろう。それでも私は目を逸らさない。真正面から、その視線を受け止めた。「私は『後ろめたい者は慌てる』と言っただけです。悪事をしていない人間に、後ろめたさもなく、辛い思いもしないでしょう」「水辺ちゃん、お前今日どうしたんだ?どうしてまだそんな余計なことを言うんだ!」豊鬼先生が焦って声を荒げた。「じゃ聞くけど、水辺先生は後ろめたくないのか?水辺先生は、仕事であれ、私生活であれ、悪事をしたことがないのか!?」八雲の声は、はっきりと刺々しかった。――大事な葵のために、八雲は本気で怒っている。ようやく必死に押さえ込んだ感情が、その一言で再び溢れ出した。八雲が、私が彼を通報したのだと「決めつけている」ことは、ずっと前から分かっていた。それでも、この真正面からの問い詰めには、胸が痛まずにはいられない。彼自身が停職処分を受けたときでさえ、私を責めなかったのに――彼の大事な葵が傷ついた途端、ここまで強い口調で私を責め立てる。私が彼を通報したのかどうか、そしてそれで葵に迷惑と屈辱を与えたのかどうかを問い詰める。八雲は彼女を愛している。彼自身よりも、ずっと。「八雲先輩……そんな聞き方、しないで。水辺先輩を……私、信じているよ……水辺先輩が……通報したわけじゃないって……」葵はまだ嗚咽しながらも、八雲の服の裾を掴み、必死に私を庇
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第316話

言うべきことはすべて言い切り、私はそのまま更衣室を出た。これ以上、八雲と葵と同じ空間にいたくない。私の夫である彼と、その「彼の寵愛を一身に受けている」葵が、深く、執拗なほどに愛し合っている光景は、私にとってあまりにも目障りだったからだ。だが更衣室を出たあとも、豊鬼先生の声が耳に入ってきた。「申し訳ありません、紀戸先生。水辺は性格があまりに頑なでして。後ほどきちんと話しておきます。改めて、紀戸先生と松島先生に謝らせますので……」続いて、泣き声を含んだ葵の声。「いえ、豊岡先生……そこまでなさらなくていいです。たぶん、たぶん水辺先輩は一時的に感情的になって、あんなことをしてしまっただけなんです……八雲先輩も、水辺先輩を責めないでね。ほら……私たち、同じ学院の先輩後輩だし……」――笑える。その言い方、まるで私が八雲を通報した張本人だと決めつけている。私のこの後輩、さっきまで八雲の前で涙をぽろぽろこぼしていたくせに、今度は忘れずに私のために嘆願までしてくれた。なんともご立派な同門愛だ。ありがたく思うべきなのかどうか、正直分からない。だが、八雲をあれほど怒らせて、私に酷い言葉を吐かせたのは、結局のところ――彼女の、あの「かわいそうな涙」が原因じゃない?「そういう関係があるからこそ、なおさら慎重に扱うべきでして……はぁ、水辺という子は……」豊鬼先生はなおも取りなしていた。「当然、慎重に扱うべきです」八雲の声が響いたのは、まさにその時だ。玉石が打ち合わさるように澄んで冷たく、凛とした声音。だが次に葵へ向けられた言葉は、明らかに柔らかくなった。「葵が彼女をかばう必要はない。この件は、院の調査結果が出てから判断しよう」それ以降の会話は、もう耳に入らなかった。正確に言えば、八雲のその「当然、慎重に扱うべきです」という言葉を聞いた時点で、もう何も聞きたくなくなっていた。私は足早にその場を離れ、胸の奥がひどく荒んでいくのを感じた。やはり、八雲は私を信じていない。それどころか、決して私を見逃すつもりもない。そしてその大きな理由の一つが――彼が寵愛する葵なのだ。彼の目には、私が彼が寵愛する葵を傷つけた存在に映っている。だからこそ、許すはずがない。最初からこうなると分かっていた。なのにあの三年間の結婚生活を考えて、少しくらいは信じてく
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第317話

「そんなことないよ」氷の底に突き落とされたようだった私の心に、かすかな温もりが染み込む。身体に張りついていた緊張も、少しずつ解けていく。私は口角を引き上げ、無理のない笑みを作った。殴り合いをしたわけじゃない。けれど――ある意味では、確かに「喧嘩した」。さっき八雲の前で、あれだけの言葉を吐き出した時、私はほとんど全身の力を使い果たしていた。それなのに。結婚して三年になる夫は、私がどんな目に遭ったのかを前にしても、心配も焦りも一切見せず、ただ「なぜ彼の大事な葵をいじめたのか」と問い詰めてきただけだった。それに比べて――浩賢という「友人」の方が、よほど私を気遣ってくれる。三年間の夫婦関係なんて、まるで他人同士だ。私は指を軽く丸め、浩賢に向かって軽く微笑んだ。「大丈夫、洗い方は分かっているよ。今から回診に行かないといけないから」浩賢は眉をひそめ、まだ納得していない様子だが、私は足早にその場を離れた。仕事を一通り終えてから、ようやく手についた染色液を処理した。度数調整されたアルコールで脱水し、キシレンで透徹させると、指先はようやく元の清潔さを取り戻した。そこへ桜井が近づいてきて、最新の状況を教えてくれた。「やっぱり院内でも大事になってる。今、調査が始まっていて、最近手術室に出入りして染色液を使った人は、全員事情聴取されてるみたい。でもおかしいのよ、水辺先生。あの松島先生だけ、調べられてない。これ、完全に取りこぼしじゃない?」「……彼女じゃないと思うわ」私は手についた水を拭き取りながら、唇を引き結んで言った。葵は最近、匿名通報の件の余波で手術室に入っていない。それに、私の推論では――葵には、この件を起こす動機がない。むしろこれは、誰かが意図的に私と葵の対立を煽り、漁夫の利を得ようとしているように見える。「そうなの?でも、誰かに指示してやらせた可能性は?」桜井は眉を寄せた。「私、あの人が一番怪しいと思うの。ここまで大事になってるのに、彼女だけ何事もなくて。紀戸先生に慰められてたし、今も普通に神経外科で仕事してるよ」胸の奥が、またぎゅっと痛んだ。手を拭く動作が少し強くなり、胸が詰まるような感覚に襲われる。感情を何度も押し殺してから、ようやく口を開いた。「彼女も私と同じで、東市協和病院に来たばかりのインターンよ。そこまでの影響力はな
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第318話

八雲が、加藤さんに食事を届けた……?昼の出前だけじゃない。朝には、味噌汁まで――?加藤さんから聞かされたその事実に、私は一瞬、完全に思考が止まった。あまりに信じがたくて、思わず聞き返してしまった。「……お母さん、勘違いじゃない?」八雲がそんなことをするなんて、あり得ない。昨夜から今朝にかけての私たちの関係は、「非常に不愉快」なんて言葉では到底足りない。彼が、あの「大事な葵」の前で、どんなふうに私を辱めたか――私は今でもはっきり覚えている。そんな彼が、どうして加藤さんに食事を届ける?「本人が直接手渡してくれたのよ、どうして間違えるの?まだボケてないわよ。それに、八雲くんのあの顔、間違えようがないじゃない。あれほど整った顔、他にそうそういないもの」加藤さんは呆れたように言い、少し間を置いてから付け加えた。「でもね、彼の顔色があまりよくなくて、なんだか嬉しくなかったわ。昨晩は一体どうやってご機嫌を取ったのか、教えて」……それは、確かにその通りだ。八雲の容貌は、間違えようがない。同じレベルの顔立ちの人間なんて滅多にいないし、別人と見間違える可能性はゼロに近い。ということは――本当に、八雲が加藤さんに食事を?そう考えると、あの店の料理が届いた理由も説明がつく。出前をしないあの店に手配できるのは、彼しかいない。けれど……なぜ?私たちは、もうすぐ離婚する。昨夜だって、彼は玉惠の前で、田中弁護士に離婚協議書を急がせ、署名もすると約束した。以前、まだ離婚が現実的になっていない段階でも、彼が加藤さんにここまで気を遣ったことなんてなかった。いつも頭を下げ、機嫌を取っていたのは加藤さんの方で、関係の主導権を握っていたのは、常に八雲だった。私は八雲がなぜこうしたのか推測できず、すぐには加藤さんの問いに答えなかった。すると加藤さんは少し身を乗り出してきて言った。「優月……この食事はあんたが頼んだものじゃないの?もしかして、八雲くんがわざわざ届けてくれたのかしら?」私の反応から真相を察したのか、目の奥に希望と喜びの色が浮かんで、声も抑え気味にわずかに興奮が混じている。「優月、八雲くん、もしかしてそんなに離婚したくないのかしら。態度は冷たいけど、おじさんの手術もちゃんとやってくれたし、今日も食事を届けてくれたじゃない。ちょっと示してく
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第319話

あの食事は、本来――葵のために用意されたものだったのだろう。ただ、葵はすでに食事を済ませていて、もう食べられなかった。だから八雲は、まるで「施し」でもするかのように、葵が手を付けなかった弁当を加藤さんのところへ持ってきた。そのほうが、よほど筋が通る。八雲が、わざわざ加藤さんに食事を届けに来る?私に歩み寄る?そんなこと、あるはずがない。そもそも、あの食事は最初から加藤さんのためのものじゃない。加藤さんは、ただの「残り物を受け取った人」に過ぎない。そして加藤さんは知らない。八雲がおじの手術を引き受けたのも、私との取引があったからだということを。そこに、情けや好意なんて一欠片もない。胸に、無数の針が一斉に突き立てられたように痛んだ。痛みがあまりに密で、どこを押さえればいいのかすら分からない。どこを押さえても――この、穴だらけになった心は、守れない。私は八年間、八雲を愛し、三年間の結婚生活で、文字通り彼の身の回りのすべてを世話してきた。食事だって、いつも病院まで届けた。それでも私は、彼から何かを返してもらおうなんて、考えたこともなかった。ほんの少しの気遣いすら、期待したことはない。ましてや、彼が私に食事を届けてくれるなんて――想像したことすらなかった。けれど、葵と出会ってからの彼は違った。葵を大切にし、何から何まで気を配り、細やかに守った。自分が停職中であろうと関係ない。時間ができれば、こうして大事な葵に食事を届けに来る。――彼は、気遣えない人間なんかじゃない。愛し方を知らないわけでもない。ただ、その相手が――私ではなかっただけ。「……結局、昨夜はうまく宥められなかったのね……」加藤さんが小さくため息をついた。珍しく、それ以上は何も言わず、私たちは無言のまま食事を続けた。夕方、仕事を終える頃には、おじは目を覚ました。ただ、まだ体力が戻っておらず、ベッドに横になったまま大きく動くことはできない。声も弱々しく、以前のような張りはない。加藤さんは嬉しさのあまり涙を流した。「お兄さん、やっと目を覚ました……この数日、心配で心配で……」雅典が検査をしながら、私に笑って言った。「水辺先生、もう安心して大丈夫。術後の数値はすべて正常。あとはしっかり静養すれば問題ないよ」「ありがとうございます、佐伯先生。この間、本当に
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第320話

おじが加藤さんの言葉に同調し、八雲にきちんと感謝すべきだと言い出すなんて、正直、私は思ってもみなかった。だっておじは、これまでずっと八雲のことをよく思っていなかった。二人は過去に衝突したこともあり、相性も悪く、おじは八雲をかなり嫌っていたはずだ。それなのに、どうして感謝する気になったのだろう。「さっきお前の母さんから聞いたんだがな、俺は三回も手術をして、ICUにも何日も入って、ようやく一般病棟に移れたんだ。この手術が簡単なわけがない。それを、あんな大御所の医者が引き受けてくれたんだ。それはもう、情けだよ。昔ちょっと揉めたことはあっても、それはそれ、これはこれだ。助けてもらった以上、感謝しなきゃならん」おじはまだ体力が戻っていないのに、気性が荒く、一息でそこまで話すと、激しく咳き込み始めた。加藤さんは慌てて背中をさすりながら、さらに畳みかけた。「そうよ優月、加藤家は昔から、恩と恨みはきっちり分ける家よ。恩を受けたら、必ず返さなきゃ」私は言葉を失い、思わず苦笑した。指先で掌をぎゅっと掴む。――恩?あれは取引だ。どこに恩なんてあるというのか。加藤さんは内情を何一つ知らない。それを、八雲が私に情けをかけてくれていた証拠だと思い込み、この機会を逃すなと言っているのだ。でも――そもそも、掴む必要なんてない。それに今の八雲は、私に会うことすら嫌なはずだ。彼の目には、私は彼を告発して停職に追い込み、なおかつ彼の大事な葵に屈辱を味わわせた女として映っている。私への恨みこそあれ、私の感謝など、受け取るはずもない。けれどおじは頑固で、義理を何より重んじる人だ。「感謝なんて不要だ」と言えば、きっと怒る。しかも手術直後で、刺激は禁物。私は少し考えてから、柔らかく口を開いた。「分かった。じゃあ、改めてお礼の席を設けよう。でもおじが主役なんだから、必ず出席してもらわないと。退院してからにしない?それなら無理もないし」「……うん、それもそうだな」おじは、ようやく納得してくれた。だが加藤さんは焦ったように、私の袖を引っ張った。「優月、それはダメだわ……」「どうしてダメなの?それに、今回助けてくれたのは紀戸先生だけじゃない。さっきの佐伯先生も、藤原先生も、高橋看護師長も、みんな本当に尽力してくれた。感謝するなら、皆さんまとめてお招きするべきだし、
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