All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1211 - Chapter 1220

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第1211話

そう言われて、咲玖が音々と握手しようと差し出した手は、宙で固まり、顔に浮かべていた愛想笑いも、こわばっていった。だが、「向こうへ行って」と音々は、咲玖を無表情で見つめて言った。咲玖は気まずそうに立ち上がると、航太のそばへ移動した。航太は音々を見ると、やはり腹の虫が収まらなかったのか、刺々しい口調で言い放った。「君とはもう縁を切ったはずだ。こちらも、君の生活を邪魔する気はない。ならば我妻家のことに口を挟む資格は、君にはないはずだ!」「あいにく、私が口出ししているのは我妻家のことじゃない。依頼人から頼まれた家庭トラブルの調停よ」そう言って、音々はポケットから一枚の書類を取り出すと、テーブルに叩きつけた。「よく見て。これは、私と浩平さんの間で交わした業務委託契約書。彼は詩乃の専属ボディーガードとして、私を雇ったのよ。日付は三日前」航太は眉をひそめ、契約書をひっつかんで隅々まで目を通した。そして、浩平がまさかこんな手を打っていたとは予想してなかったようで、「浩平のやつ、よくも俺を謀ったな!」と言った。航太は契約書を叩きつけると、悔しそうに歯を食いしばった。「男の子が生まれたら成和の養子にするという約束も、きっと俺を丸め込むための言い訳に違いなかっただろう!」それを聞いて、「あら、すごい」と音々は手をぱちんと叩き、面白そうに笑った。「やっと気づいたみたいね」一方で、航太はきょとんとした後、怒りで顔を真っ青にした。「まさか......君も知っていたというのか?」「浩平さんは、60億円もの大金を払ってまで、詩乃と一緒に我妻家から籍を抜いたのよ。そんな人が、自分の子どもをあなたたちに渡すと思う?」そう言って音々は鼻で笑った。「航太さん、あなたは跡継ぎ欲しさにどうかしてる。自分の子どもを道具扱いするのはあなたの勝手だけど、誰もが同じだと思わないで」「君は......」「まあまあ、落ち着いて」声を荒げようとする航太を音々は制し、タバコを一口吸うと、何気なく言った。「跡継ぎが欲しいんでしょ?いい方法があるけど......私を信じるかどうかは、あなた次第ね」その言葉を聞き、航太は眉をひそめた。「君が浩平とグルになって俺を騙している可能性だってあるだろう?!」「私はただ、あなたが他人の子どもを物みたいに狙うやり方が気に食わないだけよ」音
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第1212話

詩乃はまばたきをすると、慣れ親しんだ男の香りで、すっかり目が覚めた。「お兄さん......」詩乃はぱちくりと瞬きをして、浩平を見つめた。「どうして帰ってきたの?明日だって言ってたじゃない」「残りの仕事は秘書に任せればいいから」浩平は彼女のなめらかな頬を撫でた。「すまない。俺の配慮が足りなかった」詩乃は首を振った。「あなたのせいじゃないよ。私だってあの人たちが、あんな無茶をするなんて思わなかったんだから」「子どもが生まれるまでは待ってくれるものだと思っていたんだが」浩平は体を起こし、ため息をついた。「まさか、この数ヶ月すら我慢できないとはな」「お兄さん、怖いの」詩乃は彼の手を握った。「あの人たちは、なんとしても我妻家の後継ぎを手に入れようとするはずよ。音々さんや岡崎家には手を出せないし、兄さんは子どもができない。となると、狙われるのは私たちの赤ちゃん......」「大丈夫だ。この件は音々さんと対策を話し合ってある」浩平はなだめるように言った。「音々さんの知り合いに、腕のいい漢方の先生がいるんだ。その人なら、兄さんの不妊も治せるかもしれない」「本当?」「ああ」浩平はかすかに口角を上げた。「実は兄さんの問題も生まれつきってわけじゃないんだ。誰かに毒を盛られた後遺症なんだから、腕のいい先生なら治せるはずだ。ただ、少し時間はかかるが」「もし兄さんの体が本当に治るなら、彼にとってもいいことね!」「ああ、俺たちにとってもな」浩平は詩乃の鼻を優しくつまんだ。「兄さん自身に子どもができれば、我妻家の連中も俺たちに手を出してこなくなるはずだ。それどころか、うちの子が兄さんの子と跡継ぎ争いをするんじゃないかって、逆に恐れるようになるかもな」「私たちの子どもはそんな後継ぎになんてさせないから。お兄さん、約束して。男の子でも女の子でも、心から愛して、子供たちに好きなことをやらせてあげて、そして、幸せな子ども時代を過ごさせてあげるって!」「もちろんだ」浩平は優しい眼差しになった。「俺たちの子どもだ。大切に愛するに決まってる。でも、『子供たち』って言ったな。もしかして、二人目も欲しいのか?」その言葉に、詩乃は思わず顔を赤らめた。彼女は浩平の視線を避け、小さな声で言った。「できることなら......もちろん何人かは産むつもりよ。一人っ子じ
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第1213話

夫の浩平は、これから生まれてくる子の父親でもある。この先ベビー用品などを買うたびに、いちいち彼を頼るわけにもいかない。浩平も忙しいから、毎回買い物に付き添ってはくれないだろうから。そう思って彼女は彼からの申し出はありがたく受けることにした。「お腹、空いてないか?」浩平は彼女の顔をそっと撫でた。「うん、ちょっとだけ」詩乃はお腹をさすりながら言った。「あなたも、まだ食べてないんでしょ?」「ああ、まだだ」浩平は低い声で答えた。「急いで帰ってきたんだ。あなたと赤ちゃんと、一緒にご飯が食べたくてね」「じゃあ、今起きて支度をしてくる!」浩平が帰ってきたことで、詩乃の張り詰めていた気持ちが和らいだ。詩乃はベッドから起き上がると、いつもの元気を取り戻したようだった。浩平はそんな彼女をひょいと抱き寄せ、自分の膝の上に座らせた。彼の長くて綺麗な指が、詩乃のふんわりとした髪に差し入れられる。そして、後頭部をそっと支えながら囁いた。「もう一回、キスしていい?」そう言って、詩乃が応えるより先に、浩平は目を閉じ、彼女の柔らかな唇を塞いだ。すると、詩乃はまつ毛をわずかに震わせた。しばらくして、彼女はゆっくりと目を閉じ、細い腕を浩平の首に回して、ぎこちなく彼のキスに応えた。......今回の事件がきっかけで、香凜とKという二人が詩乃専属のボディーガードになった。詩乃が出産を終えるまで、彼らはグレースヴィラに住み込み、24時間体制で待機することになった。契約を結んだのは音々だったけれど、給料は香凜とKに直接支払われた。費用を払ったのは浩平で、相場よりも高い金額だった。二人は高すぎると遠慮したが、音々は「浩平さんはお金持ちだから」と言って、心配せず受け取るように伝えた。浩平は確かにお金持ちだ。世間では、彼が才能あふれる映画監督で、数本の高評価・高収益の大ヒット映画を撮ったことしか知られていないが、実際には、浩平が代表を務めるアトリエに所属するタレントたちが大きな収益をもたらしているのだ。ただ、浩平は普段から目立つことを嫌う性格だ。だから、彼について世間が知っている情報は、映画に関するものだけだった。先日トレンド入りしたのは、ここ数年で唯一の例外だった。そして、その件が由理恵の仕業だということも、浩平は音々を通じて突き止めていた。
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第1214話

詩乃は正期産で陣痛が始まったけれど、初産だったから、子宮口はなかなか開かなかった。その日、彼女が家でお昼ご飯を食べていた時、突然、足の間から透明で温かいものが流れ出たのだ。それはあまりに突然の破水だった。清水とベビーシッターは、急いでKに車を用意させると、詩乃を支えながら車に乗せた。そして、入院バッグを持って、彼女らもすぐ病院へと向かった。その間、清水はまず音々に電話をし、その後に浩平に連絡を入れた。音々もその知らせを受けると、すぐに丈に電話をかけ、急いで病院へ向かった。詩乃は車の中で横になっていたけど、破水したこと以外、お腹に痛みはまだなかった。その一方で、清水は彼女をなだめた。「奥様、大丈夫ですよ。初産は時間がかかるものですから。リラックスしてくださいね。まずは病院に行きましょう、そこに着けば先生も看護師さんもいるので心配することはありません。さっき、旦那様にも電話を入れましたから。今頃、もうこちらに向かっていらっしゃるはずです」それを聞いて詩乃は頷いた。「清水さん、大丈夫。まだお腹は痛くないので」だけど、いくら表向きでは落ち着いたように見せても、彼女の内心は少し緊張していた。そこで、清水は彼女の手を強く握り、優しく話しかけ続けた。今日という日が来るまで、詩乃は心の準備をしっかりしてきた。妊婦健診はずっと順調で、最後のエコー検査での推定体重は約三キロ。胎位にも問題はなく、医師からは自然分娩を勧められていた。詩乃は二人目も考えていたから、自分でも自然分娩を望んでいた。でも、いざその時を迎えると、やはり少し怖かった。そう思いつつ、彼女は浩平に会いたくてたまらなかった。赤ちゃんが生まれる前に、彼は間に合うだろうか?本当のところ、詩乃も、生まれてくる赤ちゃんの顔を浩平に一番に見てほしかったし、何より、今この時にそばにいてほしかった。もうすぐ母親になるんだと思うと、詩乃は密かに自分を奮い立たせた。もうすぐ赤ちゃんに会えるんだ。たとえ浩平が間に合わなくても、強く、勇敢でいなくちゃと、彼女はそう自分に言い聞かせた。......そして、病院に着くと、丈が手配してくれた田中主任が、すでに医療スタッフやストレッチャーと共に救急外来の入り口で待っていた。こうして、数人がかりで車から降ろされた詩乃は、ストレ
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第1215話

詩乃は声を詰まらせながら言った。「もう病院に来てずいぶん経つのに、赤ちゃん、まだ全然......でも、破水しちゃったし、このままだと危なくないかな?」「怖がらないで。先生や看護師さんがちゃんとついててくれる。みんなプロなんだから、大丈夫だって言ったら大丈夫だよ。心配いらない」詩乃は鼻をすすりながら言った。「もしかして、赤ちゃんもあなたを待っていたのかな?」浩平は苦笑いした。「そうかもな。あなたを一人で苦しませるのが嫌で、俺が帰ってくるのを待っててくれたんだよ」詩乃は笑った。「優しい子ね!」「ああ、あなたみたいに、いい子で、思いやりがあるんだ」浩平は彼女の頭を撫でた。「とりあえず横になってて。俺、先生に話を聞いてくるから」「うん、早く戻ってきてね」浩平が戻ってきたことで、詩乃はすっかり安心するようになったのか、思わず彼に甘えてしまったのだ。その様子に、浩平はさらに愛おしさがこみ上げてきて、彼女の口元にもう一度キスをしたあと、ゆっくりと立ち上がって病室を出ていった。......それから、浩平は、田中主任のオフィスへと向かった。主任によると、詩乃は陣痛が弱いらしい。しかし、初産婦としては、お産の進み具合はまだ正常の範囲内だそうだ。浩平は、お産を早める方法はないかと尋ねた。詩乃がこんなふうに苦しんでいるのを見ていられなかったのだ。田中主任は言った。「今すぐ帝王切開に切り替えるとお考えでなければ......自然分娩の場合、今の段階で何かをするのはおすすめしません。もし九時を過ぎてもこの状態が続くなら、陣痛促進剤の使用を検討しましょう」状況を理解した浩平は、病室へと戻った。彼が、病室に入ると、清水がちょうど詩乃に夕食を食べさせているところだった。詩乃は横になったままなので、食事をするのは大変だった。でも、出産する時に力が出なくなるのは困るからと、看護師は少しでも食べるよう勧めてきたのだ。そして、浩平に気づいた清水は、声をかけた。「旦那様」一方で、浩平はそばに近づくと、「清水さん、俺が代わるよ」と言った。清水は頷くと、お椀とスプーンを浩平に渡した。浩平はベッドのそばに腰を下ろし、自ら詩乃に食事を食べさせた。詩乃はお椀の半分ほど食べたが、それ以上は喉を通らなかった。そこで、浩平は彼女の顔と手を拭
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第1216話

詩乃はまだ若く、自然分娩だったこともあって産後の回復は順調だった。それに、専門のベビーシッターと清水のサポートに加えて、夫の浩平も献身的にそばにいてくれたので、気持ちも体もすぐに回復することができた。赤ちゃんも、とっても手のかからない子だった。産後の静養期間中はずっと、よく飲んでよく寝て、全然泣いたりぐずったりしなかった。ベビーシッターも「こんな天使みたいな赤ちゃんは、この仕事を長年やってきて初めてです」と、何度も感心していた。そして、赤ちゃんの名前は我妻陽斗(あづま はると)、愛称は「ようくん」と名づけられることになった。この愛称は、詩乃がつけたものだった。理由は彼女が妊娠後期に、急に羊羹にハマってしまったからだ。当時、清水は、市販のものは添加物が心配だと言って、わざわざ作り方を覚えて、よく冷凍庫にストックしてあげていたのだ。陽斗は生まれた時3100グラムで、ガリガリで小さくて、シワシワだった。詩乃は初めてその顔を見たとき、思わず目を疑った。ずっと夢見ていた浩平そっくりの可愛い赤ちゃんとは、あまりにもかけ離れていたのだ。だが、詩乃ががっかりしているのを、浩平は見逃さなかった。「生まれたばかりの赤ちゃんはみんなこんなものだよ。すぐに可愛くなるさ」と彼はそう言って彼女を宥めた。それでも詩乃は不安そうで、泣きそうな顔で浩平を見つめた。「ねぇ、もしかして、この子、私たちの悪いところばかりが遺伝しちゃったのかな?」浩平は彼女の鼻の頭を軽くつまんだ。「俺たちに欠点なんてないだろう。だから俺たちの子どもは、絶対に世界一可愛くて優秀な子になるよ」彼がきっぱりと言い切ったので、詩乃の心の中にあった不思議な不安は、すっと消えていった。その後、一ヶ月の記念に、家で記念写真を撮ってもらった時は、カメラマンも陽斗のことを「整った顔立ちですね」と褒めてあげるほどに育ったのだ。そう言われて、詩乃も写真を見返してみると、いつの間にか、陽斗は生まれたての頃とは全然違う顔になっていることに気づいた。顔のパーツは本当に浩平にそっくりで、特にすっと通った鼻筋や、切れ長の奥二重の目元がよく似ていた。清水は、「本当、旦那様にそっくりなおりこうさんですね。きっと、妊娠中に奥様が旦那様のことばかり考えていたからですよ」と笑って言った。その言葉に、詩乃は恥ずかし
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第1217話

それを聞いて、詩乃は唇を引き結び、何も言わなかった。その時、二人のもとへ、華やかで美しい女性が歩み寄ってきた。「詩乃さん」女性の明るく甘い声がした。詩乃と音々は、声のした方へ目を向けた。すると淡いピンクのドレスを着た蛍が目に入った。それは、今日の詩乃のドレスと同じ系統の色だった。それを見て、詩乃は、かすかに眉をひそめた。さっきまで、蛍はこんなドレスは着ていなかったはずだ。詩乃の視線に気づいた蛍は、笑って説明した。「詩乃さん、誤解しないでください。わざとじゃないんです。さっき人にぶつかられて、ドレスにワインをこぼしてしまって、そしたら浩平さんが、わざわざ新しいドレスに着替えるのを手伝ってくれたんです」彼女は「わざわざ」という部分を、特に強調して言った。それを聞いて、詩乃は、さらに眉間のしわを深く寄せた。一方で、そばで聞いていた音々は、とうとう笑いをこらえきれない様子で言った。「浩平さんは息子のことで手一杯なのに、あなたみたいな子の着替えまでわざわざ付き合ってあげるほど暇じゃないでしょ?」そう言われて、蛍は顔をこわばらせた。「中島さんですよね?初対面なのに、そんなキツイ言い方をすることないでしょ」「キツイだって?」音々はグラスの中のワインを揺らし、冷たく笑った。「事実を述べただけよ。でも、どうしても私の言ったことをきつく感じるなら、それはそれで仕方がないけど」「あなたは......」蛍は歯を食いしばり、みるみるうちに目を赤くして、詩乃に視線を移した。「詩乃さん、浩平さんが気を使ってくれたことが、そんなに気に入らなかったんですね。でも、だからって中島さんにそんなひどい言い方をさせなくても......」そう言うと、蛍は顔を覆って泣き出してしまった。それを見て、詩乃は眉をひそめた。蛍の行動がまったく理解できない彼女が何か言おうとしたが、その前に音々が動いた。音々はグラスの赤ワインを一気に飲み干すと、そのグラスを詩乃に押し付けた。詩乃は呆然と音々を見つめた。「お姉さん、あなたは......」「赤ちゃんのところに戻って!」音々はそう言うと、長いドレスの裾を持ち上げ、太もものあたりで無造作に結んだ。次の瞬間、訳が分からず戸惑う蛍の長い髪を、音々は鷲掴みにした。「今日こそ躾がなってないその腐った根性を叩きのめ
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第1218話

詩乃は我に返って浩平を見た。「お兄さん、蛍さんは音々さんに連れて行かれちゃったの」そう言われて、浩平もいまいち状況が飲み込めなくて、尋ねた。「一体何があったんだ?」すると、詩乃は包み隠さず事の経緯を話した。「なにやらお仕置きをしようとしているみたい」それを聞いて、浩平は一瞬きょとんとしたが、すぐに困ったように笑った。「音々さんなら加減を知ってるさ。心配いらないよ」すると、詩乃は首を傾げた。彼女はまさか、自分が逆に慰められるなんて思わなかったから。「心配をしてるわけじゃないの。でも、蛍さんはあなたの実の妹だし、これから公開される映画のヒロインでもあるのよ。本当に大丈夫かしら?」「音々さんのやり方は信頼しているよ」浩平は詩乃の腰を抱く手に、優しく力を込めた。「彼女たちのことは放っておこう。あなたは今晩まだ、何も食べていないだろ?さあ、何か食べに行こう」すると、詩乃はふと蛍のドレスを思い出し、つい付け加えるようにして言った。「彼女、私と同じ色のドレスに着替えてたわ。あなたが一緒に選んであげたんだって言ってたけど」その言葉に、浩平は眉をひそめた。「今日はまだ一度も蛍に会ってない。陽斗の世話をしたり、お客さんの対応をしたりで忙しかったんだ。あなたから聞くまで、彼女が来ていたことさえ知らなかったよ」「あなたのことは信じてるわ」詩乃は言った。「ただ、理解できないの。あなたの実の妹なのに、私に対してはいつも敵意むき出しで。兄妹だって知らなかったら、あなたに片想いしてる腹黒い女だって誤解するところだったよ」その言葉に、浩平は一瞬動きを止めた。「彼女は、由理恵さんに甘やかされて育ったせいで、人との距離感がわからないんだろう。正直、俺への独占欲が少し強いと感じていたんだ。だから、今はなるべく距離を置くようにしている」詩乃は頷いた。「あなたの妹だから強くは言えないけど、たとえ兄妹でも、私に張り合ってくるのはいい気がしないの」「ごめん。俺の配慮が足りなかった」浩平は詩乃を抱き寄せ、メインテーブルに腰を下ろした。その頃、メインテーブルにはもうほとんど人がいなかった。宴会もたけなわで、みんな食事を終えつつある。しかし、コース料理は次々と運ばれてくるので、全てが終わるには一時間以上かかるのだ。浩平は眠ってしまった陽斗をベビーシッタ
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第1219話

詩乃は頷いた。「はい。お姉さん、帰り道、運転気をつけてね」「分かったよ。あなたたちも早く帰って」音々は手を振って、その場を去った。浩平は詩乃の肩を抱き、「俺たちも帰ろう。夜はほとんど何も食べてないだろ。家に帰ったら清水さんに何か作ってもらうよ。何がいい?」「浩平さん!」だが、二人が廊下の先にある休憩室へ向かおうとした時、背後から蛍の泣きじゃくる声が聞こえた。その状況に、浩平と詩乃は顔を見合わせた。そして、浩平が言った。「先に休憩室で待っててくれ」詩乃は頷くと、まっすぐ休憩室へと向かった。一方で浩平は振り返り、自分の方へ歩いてくる蛍を見つめた。彼女の顔には涙の跡があり、メイクは崩れ、髪も乱れていた。着ていたドレスの胸元は少し破れており、蛍は手で押さえていたが、それでも肌が見え隠れしていた。この様子では、事情を知らない人が見れば、誰かにひどい目に遭わされたのだと思うだろう。でも、音々は暴力で人を傷つけるような人間ではない。この姿は、多分蛍の自作自演に違いないだろう。そう思うと、浩平は顔を曇らせた。「付き人はどうした?」「私、分からないの......」「分からないなら電話しろ」浩平はこめかみを揉みながら、自分の秘書に電話をかけた。そこへ健二が急いで駆けつけると、浩平は彼に指示した。「彼女に何か羽織るものを持ってきて、連れて帰れ」健二は頷くと、蛍のそばに寄り、自分のジャケットを脱いで彼女に掛けようとした――すると、「あっち行って!」蛍は突然、差し出されたジャケットを荒々しく払い除け、嫌悪感を露わに健二を睨みつけた。「なんなのよ。あなたなんかの服、私が着るわけないでしょ?!」健二はその場に固まり、信じられないという顔で蛍を見つめた。これが、いつも人前では明るく愛嬌のある、あの蛍なのだろうか?「蛍!」浩平が怒鳴った。「自分が何をしているか分かっているのか?」蛍は浩平に怒鳴られてびくりとし、途端に涙をこぼした。そして、彼女はもう耐えきれなくなったかのように、その場にうずくまって泣き叫んだ。「どうして?同じ妹なのに、どうして詩乃さんにはあんなに優しいのに、私にはこんなに冷たいの?どうしてなの?同じ妹なのに、詩乃さんにするみたいに私にも優しくしてくれないの......ただ、一緒に育
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第1220話

それから、グレースヴィラに戻ると、清水はキッチンで食事の支度を始めた。陽斗はベビーシッターに任せて、詩乃は主寝室に戻り、シャワーを浴びてメイクを落とした。披露宴自体は、彼女が何か準備をしたわけではなかった。でも、妊娠してからはドレスやハイヒールをあまり着る機会がなかったから。披露宴ではほとんど立ちっぱなしだったので、さすがに少し疲れてしまった。そこで、詩乃がネグリジェを手にバスルームへ向かうと、浩平はスマホを持って書斎に入っていった。......そして、書斎の窓際に立つ浩平はマネージャーの日和からの電話を受けていた。「カウンセラーが蛍の催眠療法をしてくれたんだけど、彼女の精神状態はかなり深刻みたいです」それを聞いて浩平は眉をひそめた。「原因は分かったのか?」「今のところ、はっきりとは分かりません。でも、蛍が催眠状態のとき、何度も由理恵さんのことを口にしていたらしいです」日和の声は重かった。「蛍の話では、物心がついたときから、由理恵さんにずっと鏡の前に立たされて、表情の練習をさせられていたそうです。もし、『あの人』に似ていなければ、罰を与えられたらしいです」「『あの人』とは?」日和はため息をついた。「カウンセラーの方もその話を聞こうとしたのですが、あの人の話になると、蛍の情緒が不安定になってしまうんです。それで、彼女をこれ以上傷つけるのを避けるため、治療を一旦中断したのです」「分かった」浩平は眉間を揉んだ。「蛍のこと、頼んだぞ。映画は来月公開だ。このタイミングで、絶対に問題は起こさないようにしておけ」「分かっています」日和は少し間を置いて尋ねた。「もし、映画が公開される時になっても蛍の状態が良くならなかったら、どうするおつもりですか?」「治療を続けるさ。彼女は新人だ。舞台挨拶に参加しなくても、そこまで大きな影響はないだろう」「承知いたしました」電話を切ると、浩平は窓の外の月を見上げた。その瞳は冷たく沈んでいた。数分後、浩平は音々の番号に電話をかけた。電話はすぐにつながった。音々が言う。「あら、我妻監督。子守りはしなくてよかったの?私に電話なんて珍しいじゃない」だが、浩平は挨拶もそこそこに、単刀直入に尋ねた。「あなたは、蛍に何か問題があると気づいていたんじゃないのか?」「問題って、何のこと?
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