All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 361 - Chapter 370

その時、個室にいた誠也は、ちょうど彼女の方を見た。目が合うと、綾は視線をそらし、「大丈夫、約束があるから」と言った。そう言って、綾は初と優希を連れて隣の個室へと入っていった。個室のドアが閉まるのを見届けて、柚は目を細めた。そして、誠也の方を向き、困ったように言った。「碓氷さん、ごめんなさい。私、また何か失礼なことを言ってしまったのでしょうか？」誠也は何も言わず、悠人を見た。悠人はうつむいて、とても落ち込んでいる様子だった。誠也は視線を戻し、表情を曇らせた。......隣の個室。綾は優希をベビーチェアに座らせた。初は優希を見て、少し考えてから尋ねた。「綾、百瀬さんのこと、どう思う？」綾は少し間を置いて、「普通よ」と淡々と言った。優希は果物を食べながら、大きな目で母親と初を交互に見ていた。それを見て、初はそれ以上何も言わなかった。子供の面前では、こういう話はしない方がいい。......ほどなくして、要が到着した。要を見て、優希は嬉しそうに声を上げた。「北条おじさん！」優希は両手を広げ、「抱っこ！」と言った。要は近づき、優希を抱き上げた。「優希、俺に会いたかったか？」「うん！」優希は唇を尖らせて、「とっても会いたかった！夜、北条おじさんが美味しいおやつを作ってくれる夢を見たの！」と言った。それを聞いて、三人の大人は笑った。「おやつが食べたいなら、明日作ってきてやろう」「本当？」優希は大喜びで、「北条おじさんも、私や母さんみたいに北城に引っ越してくるの？」と尋ねた。「いや」要は言った。「出張で来ているだけだ」「そうなんだ......」優希は少しがっかりした。「じゃあ、またすぐ北条おじさんに会えなくなるの？」「そんなことはないさ」要は彼女の小さな鼻をつまんで、「今回はしばらく滞在する予定だから。2週間くらいはいるかな」と言った。「2週間なんてあっという間だよ！」優希は眉をひそめた。要は微笑み、彼女をベビーチェアに戻し、近くの席に座った。綾は彼に注文するように促した。しかし、要は紳士的にメニューを彼女に返し、「好き嫌いはないから、あなたが好きなものを頼んでくれ」と言った。田舎で母親に付き添っていた数日間、綾は要がどんなものでも食べるのを確かに見

遥は、脚本を読み込みが足りなかった。伝統楽器に対する認識も浅く、演技が表面的なものになってしまっていた。撮影開始から1週間が経ったが、進捗は一向に進まなかった。ついに、高山監督がブチ切れた。「カット！カット！カット！」撮影現場に、高山監督の怒号が響き渡った。「もう撮影は中止だ！！」恒は慌てて駆け寄り、監督をなだめた。「高山さん、落ち着いてください。怒ると体に毒ですよ。桜井さんは久しぶりに撮影するから、まだエンジンがかかっていないんですよ。大目に見てやってくださいよ......」「1週間も経ってるんだぞ！」高山監督は腰に手を当てて怒鳴った。「まだ1シーンもOKが出てないんだ。スタッフ全員が、彼女のせいで時間を無駄にしてるんだ。渡した人物設定は読んだのか？」恒は愛想笑いを浮かべた。「読みましたよ......」「読んだのに、どうしてあんな演技になるんだ？」高山監督は首をさすり、深く息を吸い込んでは吐いたりと繰り返した。しかし、それでもどうしても腹の虫が収まらなかった。「最初から彼女はこの役には合わないって言っただろう。なのにあなたたちは......」高山監督はため息をついた。「社長に電話して、桜井さんを降板させてくれ。うちの事務所の......なんだっけ、ああ、入江さん！そう、彼女だ。彼女なら、もっとうまくやってくれる！彼女にやらせろ！」「それは......」恒は困った顔をした。「桜井さんは社長が指名した主演女優なんです。降板させるのは難しいです」「降板させられないなら、もうこの映画は撮れない！」高山監督は、ついに啖呵を切った。「社長に、自分で監督を探せって伝えろ！」「高山さん、何を言ってるんですか！」恒は高山監督の肩を叩いた。「落ち着いてください。すぐに社長に電話して、事情を説明しますから」高山監督は鼻を鳴らした。恒は携帯を取り出し、少し離れた場所に移動して電話をかけ始めた。パラソルの下で、遥は椅子に座り、少し離れた場所で電話をしている恒を見ていた。彼女は高山監督の言葉は、全て聞こえていた。あの高山監督、よくも自分を馬鹿にしたものだ。自分を降板させたいだと？遥は心の中で冷笑した。自分は今、事務所が力を入れて売り出している売れっ子女優だ。誰が誰を降板させるのか、まだ分からないぞ。電話を

財産分与なしの離婚を回避するため、彼は毎日詩織のご機嫌を取り、三人の息子にも気を遣っていた。今日は蘭のもとで、ようやく男としての見栄を満たされたように感じた。上機嫌になると、彼は大盤振る舞いになった。「後で金を届けてやる。ただし現金でしか渡せないが」「お金はいらない」蘭は優しく言った。「晋さん、あなたと一緒にいるのはお金のためじゃないし、あなたへの気持ちはお金で測れるものじゃないのよ」晋は胸を打たれ、何か言おうとしたその時、部屋のドアがノックされた。「開けろ！抜き打ち検査だ！」晋と蘭は顔を見合わせた。蘭は起き上がり、慌てて服を掴んで身につけた......ピッ――電子ロックが解除され、ドアが開いた。警察官が突入し、中村家の三兄弟が後を追った。三人の息子を見た晋は、雷に打たれたように動けなくなった。その瞬間彼は悟った。全てが終わったのだと............すぐにネット上で突如、ある動画が拡散された。全裸の女性が数人の女性にホテルのベッドに押さえつけられ、暴行を受けている映像だ。それは、見るも無残な光景だった。女性の顔は殴られて腫れ上がり、髪は乱れ、散々な様子だった。そして、あれがかつての直哉の妻、蘭だということも誰かに気づかれてしまった。動画はあっという間に拡散された。たちまち、社会の大きな注目を集めた。さらに、多くのプラットフォームが次々と転載をし始めたことで炎上した。その結果、コメント欄にも、事情を知るという人物の発言まで現れ始めた――【この小林って不倫ばっかりしてるんじゃん！ざまーみろ、天罰が下ったんだ！】【この女、どう見ても腹黒そう。既婚者を専門に狙ってるんだろ。昔、二宮ていうのもこいつと不倫してたんじゃない？で、二宮が死んだら今度は桜井に乗り換えたんだ！】【確か娘を一人産んでるはずだけど、桜井家はその娘を良く思ってないらしいね。今まで彼女が公の場で娘の話をしたことあったけ？】ほどなくして、ネット上に第二の動画が登場した。探偵が遥に送ったあの動画だ。野次馬たちは、その内容に言葉を失った。【中村は頭おかしくなったのか？いい歳して何やってんだよ！しかも息子たちに持ち株と役職を剥奪されたらしいぞ。このまま孤独死まっしぐらだな！】【やっぱり男は死

彼は綾に電話をかけた。三回かけたが、どれも出なかった。誠也は険しい顔で、清彦に電話をかけた。「綾がどこにいるか調べてくれ」すると、悠人が宿題を終えてちょうど階下に降りてきた。リビングのソファに座っている誠也の姿を見ると、彼はすぐに近づいて行った。「お父さん」誠也は悠人を見て、「宿題終わったのか？」と尋ねた。「うん！」悠人は尋ねた。「お父さん、おばさんと優希は今夜帰ってくるの？」誠也が口を開く前に、清彦から電話がかかってきた。彼は電話に出た。清彦は言った。「奥さんは優希ちゃんを連れて雲水舎へ行かれました」誠也は眉をひそめた。清彦は「文子先生が来ています。どうやら奥さんと優希ちゃんは今夜雲水舎に泊まるようです」と答えた。「分かった」電話を切ると、誠也は立ち上がった。「宿題が終わったら早く寝ろ」「お父さん、また出かけるの？」悠人はじっと誠也を見つめた。「ああ、友達に会ってくる」そう言うと、誠也は玄関へ向かって歩き出した。柚が階下に降りてくると、庭から車のエンジン音が聞こえた。彼女は眉をひそめ、急いで玄関まで行ったが、マイバッハのテールランプしか見えなかった。誠也はまた出て行ってしまった。柚はがっくりと肩を落とし、ため息をついた。悠人が近づいてきて、彼女を観察するように言った。「柚先生、どうしてこんな夜遅くに化粧してるの？」柚は驚いて、自分の頬に触れながら、視線を泳がせた。「あ、あの......新しく買った化粧品を試してみただけだよ」「へえ」悠人は頷き、もう一度彼女を見て言った。「すごく似合ってるよ。柚先生、化粧したら女優みたい！」「悠人くんは口が達者なんだから！」柚は顔を覆い、照れくさそうに言った。「ちょっと化粧しただけなのに、女優と比べるなんて」「本当だよ！」悠人は言った。「僕にとって、柚先生は綾母さんの次に美人だよ！」柚の笑顔が一瞬固まった。やっぱり、綾の方が上なのね......柚は少し胸がチクッとしたが、悠人の前ではそれを表に出さなかった。そもそも綾は悠人にとって特別な存在なのだ。実の母親である遥でさえ、代わりになることはできない。こんなことでクヨクヨするのはやめよう。しかし、遥のことを考えると、柚は少し気になった。「悠人くん、遥母さん

だから彼は毎年家族3人での旅行に付き合っただけでも、夫として、父親として、自分はよくやっているほうだと思っていた。しかし最近、丈がイクメンぶりを発揮しているからか、ふと昔のことが頭をよぎるようになった。ただ、思い出してみると、5年間の結婚生活であまり関わっていなかったことに気がついた......「黙り込んでどうしたんだ？」誠也は我に返り、咳払いをして言った。「出てきて、一杯一緒に飲まないか？」「酒か？」丈は即座に断った。「ダメだ。妻に知れたら、跪いて反省させられる！」誠也は黙り込んだ。「いや、そうじゃなくて、綾さんと優希ちゃんがこっちに戻って来たんじゃないのか？なんでまた飲みに行こうなんて気になるんだ？」「彼女たちは今日、雲水舎にいるんだ」「親子そろって家出されたのか？」誠也は眉間を押さえた。「違う。文子先生が来ていて、今週はずっと雲水舎に泊まるらしい」丈はようやく異変に気づいた。「碓氷さん、なんだかやけに寂しそうだな！」誠也は言った。「......一杯付き合ってくれ」結局、丈は友達として、一人ぼっちの誠也に同情した。「妻に許可をもらってくる。許可が下りるかは分からないが、後で電話する」誠也は言葉に詰まった。電話を切り、誠也は車の窓を開けた。夜の風が車内に入り込んできた。誠也はネクタイを外し、ボタンを2つほど外した。だが、胸のモヤモヤは晴れない。彼はドアを開けて車から降りた。車のドアを閉め、車に寄りかかりながらタバコに火をつけ、物憂げに吸い始めた。街灯の下、男の横顔は冷たく、タバコをくわえた薄い唇と顎のラインが美しかった。赤いフェラーリが道の脇に止まり、派手な身なりの裕福そうな女性が降りてきた。女性は彼に向かって口笛を吹いた。「一人？一緒にドライブしない？」誠也は声のする方へ視線を向けた。街灯の下、男の細長い目は冷たく光っていた。女性はたじろいだ。誠也の目線に怯え、彼女はアクセルを踏み込んで走り去った。遠くまで行ってから、女性は携帯を取り出して電話をかけた。「ねえ、すごいイケメンを見つけたの！かっこいいのはもちろんなんだけど......誘う？車から降りる勇気もなかったんだけど！なんだか近寄りがたい雰囲気だったし、もういいや......」-丈