All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 481 - Chapter 490

音々は少し間を置いてから、柔らかな笑みを浮かべて言った。「申し訳ありません、二宮さん。今夜は家庭教師が安人くんの勉強を見ることになっていて、そちらに行くことはできません」それを聞いて、綾の顔が曇った。「まだ4歳なのに、厳しすぎるんじゃないですか？」「安人くんは、将来の碓氷グループの跡取りですよ」音々は真剣な表情で言った。「財閥の跡取りともなれば、このくらいの歳から英才教育を始めるのはよくあることです。二宮さん、そんなに心配しないでください。私と誠也も安人くんのことを大切に思っています。勉強と生活のバランスを考えて、無理をさせないようにしていますから」「英才教育？」綾は怒りで顔が紅潮した。「まだ4歳なのに、もう英才教育を始めるなんて......一体、安人を何だと思っていますか？」「もちろん、碓氷グループの跡取りとして考えています」音々は眉をひそめ、綾の質問に不満そうな様子だった。「二宮さん、安人くんを大切に思う気持ちは分かります。でも、男の子は甘やかしてはいけません。安人くんは碓氷家の子供です。彼はきっと他の人よりも優秀になり、将来はあなたの誇りとなるでしょう。あなたが彼を産んだように、彼もあなたに恩返しをするはずです」「優秀になってほしいなんて思わないし、恩返しなんていりません。ただ、健康で無事に育ってくれればそれでいいです！ただ、楽しく、朗らかな大人になってほしいだけです！」「二宮さん、こんなことを言っていては世間知らずだと思われますわ。どこの親だって、自分の子供が優秀で、出世してほしいと思っています。でも、どの子供も碓氷家のような家庭に生まれるわけではありません。二宮さん、あなたが安人くんを大切に思う気持ちは分かりますが、誠也もこうして育ってきました。彼ができたことは、安人くんにも必ずできるはずです」「あなたは分かっていません」綾は音々を睨みつけた。「私が今まで、あまりにも考えが甘かったです。あなたと誠也が、安人を大切にしてくれると本気で信じてしまったのです」そう言って、綾は体を屈めて安人を抱き上げようとした。しかし、安人は音々の後ろに隠れた。綾は驚いた。「安人？」彼女は信じられないといった様子で息子を見つめた。「お母さんだよ。一緒に帰ろう？」安人は音々の服の裾を掴み、首を横に振った。「母さん、帰りたく

病院の非常階段で、丈は重々しい声で言った。「安人くんを利用して綾さんを追い詰めるなんて、酷すぎるぞ！」電話の向こうの誠也は、何も言わなかった。丈はしばらく待ったが、結局誠也は一言も発しなかった。顔を手で覆い、丈は尋ねた。「私が言ってもどうにもならないってことか？」「ここまで来たら、もう後戻りはできない」「同情はしない！」丈は歯を食いしばって罵った。「自業自得だ！誠也、最初からこの道を選ぶなら、そもそも綾さんに近づくべきじゃなかった！」「俺は償っているつもりだ」「だけど償いにもなってないじゃないか！」丈は誠也に苛立ちと同時に、心を痛ませていた。「岡崎さんが言ってたことは間違ってない。あなたと出会わなければ、綾さんの人生はこんなに辛いものにはならなかった」「ちゃんと手配はしておくよ」誠也の声は、とても小さかった。「綾が苦労するのは分かっている。でも、子供がいれば、彼女はきっと乗り越えられるはずだ」「もういい、勝手にしろ！」丈は男としても、これ以上聞くに堪えなかった。「自分の命が短いからって、好き勝手言うな！綾さんはまだ若いんだぞ。あなたが死んだら、遺産と子供を抱えて、あなたより若くて健康な男と再婚するかもしれないんだ！そしたらその男があなたの遺産を使い、あなたの子供がその男をお父さんと呼ぶんだぞ！」しかし、電話口から聞こえて来たのは、男の抑圧された咳き込む音だった。まもなくして、通話は切れた。丈はいらいらと頭を掻きむしり、非常階段を出て行った。そして、不意に人とぶつかりそうになった。なんと輝だった。「誰と電話してたんだ？」輝は丈をじっと見つめ、詮索するように言った。「碓氷さんか？」丈は閉まった非常階段のドアを振り返り、少しやましい気持ちになった。「聞こえてたのか？」「誰かと結婚するとか、子供に他人をお父さんと呼ばせるとか、そんなこと言ってたな」「ああ、そのことか」丈はため息をつき、言った。「碓氷さんじゃない。別の友達だ。最近奥さんと離婚するとかで、私が説得してたんだ！」輝は丈を見つめていた。丈は眉をひそめ、わざとらしく尋ねた。「こんなに見つめて、どうしたんだ？」「あなたの友達は、どうも人柄があまり良くないようだな？みんな離婚騒ぎを起こしているのか？」輝は眉を上げた。「佐藤先生、気をつけた

「岡崎先生、お久しぶりです」音々は輝の前に歩み寄り、唇を上げて笑って言った。「二宮さんが体調崩したと聞いたので、お見舞いに果物を少し買ってきました」輝は今、音々を見ると、まるでテレビドラマに出てくる意地悪な役どころを見ているようだった。彼は大きな体でドアを塞ぎ、冷酷な顔で彼女を追い返そうとした。「偽善はやめて、その腐った果物を持って、とっとと出て行け！」音々は眉を上げて笑った。「このおもてなしの態度は、実に斬新ですね」「あなたをもてなすつもりはないんだけど？」輝は呆れたように目を上に向けた。「ああ、厚かましいにもほどがある！」音々は言葉に詰まった。輝は明らかに、彼女を綾に会わせるつもりはなかった。音々は腹を立てることもなく、果物を隣の席に置いた。「分かりました。歓迎されていないようなので、失礼します」「果物を持って行け！」「ほんの気持ちです。お受け取りにならないなら、皆さんで分けてください」そう言うと、音々は颯爽と踵を返して出て行った。輝は怒りで爆発しそうだった。果物を見ると、さらに腹が立った。ちょうど清掃作業員が通りかかったので、輝はすぐに作業員を呼び止め、果物を渡した。厄介な事を片付け、輝は病室のドアを開けた。綾はいつの間にか目を覚まし、ベッドに座ってぼんやりとしていた。物音を聞いて、彼女は輝の方を向いた。「目が覚めたか！」輝は入ってきてドアを閉めた。彼はベッドの傍に行き、綾の額に手を当てた。「熱が下がったな。今はどうだ？気分は？」綾は首を横に振った。「だいぶ良くなった」輝はベッドの脇に座り、彼女の青白い顔を見て、胸が痛んだ。「綾、考えすぎだ。まずは気持ちを楽にして。安人くんの親権の件は、また一緒に考えよう」綾は、だいぶ落ち着きを取り戻していた。「今、夢を見た」輝は彼女を見つめた。「どんな夢だ？」「誠也を殺して、私が刑務所に入る夢を見た」「綾！」輝は叱責した。「そんな極端な考えはよせ。二人の子供たちのことを考えろ」綾は振り返り、輝を見て、かすかに唇を上げた。「夢の中で、安人が誠也のようになるのを見た」輝は驚愕した。綾はうつむき、ゆっくりと口を開いた。「母の事件の再審の日、浩二は彼女を憎しみに満ちた目で見ていた。あの時、彼は本当に救いようがないと思っ

「私は復縁しても復縁しなくても、安人の母親であることに変わりはありません。ましてやあなたには、いや、誠也にも、私が安人に愛情を示すことを阻む権利はないです」音々は綾をじっと見つめた。たった一日しか経っていないのに。綾はかなり変わっていた。「二宮さん、誤解しないでください。私はただ、誠也の指示通りに安人くんの世話をしているだけです」音々は微笑んだ。「もし誠也のやり方に納得いかないなら、あなた自身で彼に話せばいいですよ」綾がここに来たのは、もともと息子に会うためと、誠也とはっきり話し合うためだった。彼女は彩に、誠也はどこにいるのか尋ねた。彩は音々を見た。「誠也は書斎にいますよ」音々が言った。「でも、あなたに会うかどうかはわかりません」綾は音々の言葉には耳を貸さず、彩の方を見て言った。「安人の教育について、彼に説明を求めていると伝えてください」彩は頷いた。「分かりました。碓氷さんに伝えます」彩は荷物を置いて、二階へ向かおうとした。「私が行ってきます」音々が言った。「彼は最近仕事が忙しくて、邪魔されるのが好きじゃないんです」彩は綾を見た。綾は何も言わず、黙認した。すると、音々は二階へと歩いて行った。音々が上がっていくと、彩は慌てて綾のそばに行き、小声で言った。「二宮さん、どうか中島さんのことを怒らないでください。彼女は口が悪いだけで、本当は安人くんのことはとても大切に思っています......」「山下さん」綾は彩を見て言った。「あなたが安人の世話をよくしてくれると信じています。でも、だからといって、私が誠也と中島さんの安人への接し方を認めているわけではありません」彩は唇を噛み締め、何か言いたげだった。しかし、その前に、音々が二階から降りてきた。「誠也が上に来るように言っていました」綾は優希の手を引いて二階に上がった。優希は階段を上がりながら、きょろきょろと辺りを見回していた。綾は娘を見下ろした。この子はここに来てからというもの、一言も話さず、大きな目をくるくると回して好奇心いっぱいの様子だった。綾は、優希が父親に会いたがっていることを見抜いていた。子供は子供だ。安人が何度か誠也のことを褒めるのを聞くと、優希の心も揺れ動いていた。ただ口では未だに、父親が嫌いだとか言い張ってい

優希は尋ねた。「安人くん、お部屋見ていい？」安人は頷いた。「いいよ」それを聞いて彩は微笑んだ。「じゃあ、二階へ」安人と優希は手をつなぎ、彩と一緒に二階へ上がった。綾は持ってきた服を手に取ると、後を追おうとした。その時、音々が彼女を呼び止めた。「二宮さん、少しお話よろしいでしょうか」綾は足を止め、音々の方を振り返った。「二宮さん、安人くんはとても賢い子です。あなた自身の独占欲のために、彼の成長を妨げないでください」綾は唇を曲げ、冷たい視線を音々に向けた。「今、独占欲が強いように見えるのは、あなたのほうじゃない？」音々は眉をひそめた。「言うべきことは誠也に全部言いました。もし私の行動が気に入らないなら、誠也に直接言ってください。これから無理に仲良くしてもらう必要もないです。私はあなたの男にも興味ないので、だからあなたも私の息子にも手を出さないでください」そう言うと、綾はもう音々に構わず、二階へ上がった。二階、主寝室の隣の子供部屋から、子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。誠也は子供部屋の入り口に立ち、優しい眼差しで二人の子供たちを見ていた。優希は安人のベッドの上で飛び跳ねた。「安人くん、夜は一人で寝るの？」ベッドに座っていた安人は、小さな顔を真剣にして言った。「うん」「じゃあ、誰が絵本を読んでくれるの？」「お父さん」優希は急に動きを止めた。そして安人の前にしゃがみ込み、言った。「お父さんってカチカチじゃん。あんなので読んでくれる絵本、面白い？硬い声で読んでもらったら、眠れなくなるんじゃないの？」安人は真剣な顔で言った。「お父さんの声は優しくていい声だよ」「え？」優希は眉をひそめ、想像しようとしたが、どうしても父親が絵本を読んでいる姿が想像できなかった。しょんぼりとした顔で、唇を尖らせた。「私、生まれた時からお父さんがいないの」安人は優希を見つめ、彼女が悲しんでいるのを感じたのか、慰めるように言った。「僕は生まれた時から母さんがいないんだ」優希は少し考えてから、ため息をついた。「そっか。じゃあ、あなたのほうがかわいそうかも。母さんがいないと、おっぱい飲めないって言うもん！だから私より小さいんだ！」「ミルク飲んでるよ！」安人は反論した。「それは牛のおっぱいじゃん！」優