All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 661 - Chapter 670

誠也は綾に背を向け、相変わらず長身でスタイルが良かったが、少し痩せたようだった。綾は静かに彼を見つめていた。それから数分間、沈黙が続いた。綾はため息をつき、吹っ切れたようだった。「誠也、私はもう過去のことを水に流したから。あなたもいつまでも過去に囚われないで」誠也は動きを止め、そして振り返った。彼は彼女の前に歩み寄り、しゃがみ込み、切れ長の目で彼女を見つめた。目尻が少し赤くなっていた。彼女は、彼が泣いたことを知っていた。「あなたは、前より感情的になったわね」彼女は優しい口調で、少し冗談めかして言った。誠也の漆黒の瞳には、青白くやつれた彼女の顔が映っていた。「綾、俺たちにはもう戻れないことは分かっている。色々なことがあったし、過去に俺がしたことが許されないことも分かっている。お前には辛い思いをたくさんさせてしまった。それでもお前は子供たちを産んでくれた。そのことだけでも、俺は一生かけても償いきれない」彼の声は低く、そして真剣だった。綾は軽く微笑んだ。「実は、子供を産んだのは、私が家族を必要としていたから。手術のリスクが高かったからであって、あなたのためだけでもないの。それに、あの時もし子供たちが居なかったら、私も頑張れなかった。誠也、私たちはどちらも幸せな家庭で育ったとは言えなかった。これを教訓にして、これからは子供たちの両親として仲良くやっていこう。一緒に子供たちを育てて、子供たちには母親と父親の愛どちらも欠かさない、幸せな子供時代を過ごさせてあげよう」誠也は彼女を見つめ、切れ長の瞳は深く、涙で潤んでいた。「ああ」綾は彼と見つめ合い、穏やかな表情で言った。「今のあなたは昔と全然違うね」「どこが違うんだ？」「人情厚くなった......」誠也は彼女を見つめた。しばらくして、彼は言った。「以前は薬を飲んでいた。あの薬のせいで感情が麻痺していたんだ。でも、もう長いこと飲んでいない」綾は頷いた。「それは良かったね」彼らはまるで旧友のように、穏やかに会話をしていた。こんな風にできるようになったのも、二人の子供たちのおかげで、彼らが癒されたからなのだ。離婚した夫婦でも、共に困難を乗り越え、支え合い、子供のために人生をやり直せることだってできるのだ。彼らはもう愛し合うことはないかもしれな

太陽が照りつける中、柔らかな風が二人の幼い顔を撫でた。綾はアプリコット色のワンピースに身を包み、帽子を被り、マスクをしていた。彼女は数歩前に出て、しゃがみ込み、両腕を広げて二人の子供たちを迎えた。それを見た輝は、優希を地面に降ろした。優希と安人は、綾に向かって走り出した。綾の隣に立っていた誠也は、二人の子供が勢いよく走ってくるのを見て、綾にぶつかるのではないかと心配した。そして、彼は綾の前に出た。優希と安人は、急に止まれないまま、そのまま誠也に抱きついた。それぞれが彼の長い脚にしがみついている。「わっ！」「うわっ！」二人は同時に顔を上げた――誠也は二人の子供を見下ろし、少し微笑んだ。「久しぶりだな、優希、安人」彼は大きな手で二人の頭を撫でた。二人は呆然としていた。数秒後、優希が最初に我に返った――「お父さん！」優希は大喜びで、ぴょんぴょん跳ねながら、両手を広げて言った。「お父さん、抱っこして！お父さん、ぎゅーっ！」誠也は娘を抱き上げ、優しく尋ねた。「お父さんのこと、恋しかったか？」「うん！」優希はとても嬉しそうに、父親の頬にキスをした。誠也は娘にキスされて甘くとろけそうな感覚になった。彼は安人の頭をもう一度撫でて、「安人はお父さんのこと、恋しくなかったのか？」と聞いた。安人は瞬きをしながら、まださっきの姿勢のままだった。彼にとっての衝撃は、優希よりもずっと大きかった。彼は、まるで星になってしまった父親が、また星から地上に戻って来てくれたような感覚だったのだ。小さな頭に、大きな疑問が浮かんでいた。しゃがんでいた綾は、息子の反応をしっかりと見ていた。母親である彼女は、すぐに状況を理解した。息子を抱きしめ、彼の柔らかい頬を撫でながら、耳元で優しく囁いた。「あなたのお父さんは星になんてなってないよ。ずっと元気だったの。そして、ちゃんと仕事を終わらせられたから、これからは毎年冬に、安人と一緒に雪だるまを作ってあげられるからね」それを聞いた安人は、誠也の方を向いた。娘を抱いたまま、誠也はしゃがみ込み、息子に優しく言った。「安人、君もお父さんに抱っこしてほしいか？」安人は唇を震わせ、ずっと抑えていた感情が爆発した。「お父さん！」彼は誠也に抱きつき、顔を誠

一時間後、手術室のランプが消えた。ドアが開いた。誠也が真っ先に駆け寄り、「綾の容態はどうなんだ？」と叫んだ。星羅はしゃがみ込んだまま、足がしびれて立ち上がれなかった......「とりあえず峠は越えた」丈はマスクを外し、しゃがみ込んでいる星羅に手を差し伸べた。泣き腫らした彼女の目を見て、ため息をついた。「入院が必要だ」星羅は丈の手を握りしめ、「治るんでしょ？丈、あなたはこの分野の専門家だよね。きっと治せるのよね？」と尋ねた。「全力を尽くす」丈は星羅が聞きたい答えを分かっていた。しかし、医師として、彼は真実を話さなければならなかった。星羅と丈は長年連れ添った夫婦だ。丈の言葉の真意を理解しないはずがないのだ。全力を尽くす、とは言ったが、治せる確証はないのだ。星羅は再び涙を流し、「綾ったら、どうしていつもこんなに不運なの......」と呟いた。「星羅、辛いのは分かるけど、もう泣いちゃダメだ。目がすごく腫れてる。それに、こんなに感情的になって、またホルモンバランスが崩れたら、お母さんにあれこれ言われるぞ......」「綾がこんな状態なのに、そんなこと言ってる場合！」星羅は怒って彼を叩いた。「丈、あなたには少しの共感する心がないの？綾は今命の危機にさらされているのよ！」丈は星羅を慰めようとしたのだが、彼女の地雷を踏んでしまった。「星羅、悪かった。辛いのは分かっている。でも、もう起きてしまったことだ。泣いても仕方ない。今は綾さんに合う骨髄を探すのが先決だ」それを聞いて、星羅は泣き止んだ。「綾は珍しい血液型なの......」星羅はさらに絶望した。「普通の人の骨髄でも適合するのを見つけるのは難しいのに、ましてや珍しい血液型なんて......」丈の表情は真剣だった。「珍しい血液型は適合率が低いのは確かだが、国際的にも適合例がある。それも数年前のことだ。今は世界中で情報バンクが同期しているから、希望はあるはずだ」星羅は唇を噛み締め、すすり泣きながら言った。「そうだわ、入江さん......入江さんも白血病だった。彼女は飛び込み自殺までしたのに奇跡的に助かった。もしかしたら綾も......きっと大丈夫よ」「ああ、だから落ち着いてくれ。今すぐ情報バンクで確認する。それに碓氷さんにも人脈がある。みんなで力を合わせれば、きっと

綾は食欲がなく、首を横に振った。誠也は、彼女の青白くやつれた頬を見て胸が痛んだ。しかし、病気で食欲がないことも分かっていたので、無理強いすることはできなかった。付き添いは誠也が一手に引き受けたから、看護師は点滴をつなぎ足すと、いくつか注意事項を伝えて出て行った。病室は静かだった。誠也はベッドの脇に座り、静かに綾を見つめていた。綾は、そんな風にじっと見つめられると、どうしても落ち着かなかった。気まずい空気が流れた。綾は咳払いをして尋ねた。「私どれくらい寝てたの？」誠也はベッドの脇に座り、優しい眼差しで彼女を見つめながら言った。「一日寝てたよ」彼女はさらに尋ねた。「子供たちは大丈夫だった？」「ああ、二人ともいい子にしてたよ。ビデオ通話もしたんだ。お前が仕事で数日帰れないことを話したら、ちゃんとご飯を食べるようにって、俺が念を押しといたよ」綾の心は温かくなった。二人の子供は、いつも天使のように優しく、健気だった。綾は周囲を見回し、この病室が他の病室とはかなり違うことに気づいた。「ここはどの病院？」「佐藤グループ病院だ。丈が手配してくれたんだ。今のお前の体調だと静かな環境が必要だから、設備も医療も個室対応になっている。安心して治療に専念してくれ」綾は頷いた。二人は見つめ合い、しばらくの間、言葉がなかった。今は和解し、これから平和に過ごし、一緒に子供を育てていくことを約束したとはいえ、元夫である誠也がここまでしてくれる必要はないと、綾は思っていた。「ずっとここにいたの？」誠也は頷いた。「お前がまだ具合が悪いから、心配で」「ここに医者も看護師もいるんだから、ずっと付き添ってなくても大丈夫よ」綾は彼を見つめ、穏やかな声で言った。「追い出そうとしてるわけじゃないの。ただ、負担をかけて申し訳ないと思っているの。あなたにもやらなきゃいけないことがあるんでしょ......」「俺のことはもう知っているだろう？任務は完了し、今は自由の身だ」誠也は真剣な口調で、彼女が信じないことを恐れているかのように、少し焦った様子で言った。「綾、心配するな。もう誰も、お前や子供たちに危害を加えることはないから」綾は少し驚いた。「そういう意味じゃないの」「じゃあ、俺がここにいることが迷惑なのか？」綾は彼を見つめ

そこは親友としても、星羅は理解できなかった。「綾、もし円満離婚したうえ、二人ともすぐに新しいパートナーができていたとしたら、もう絶対によりを戻す可能性はないと思うけど......あなたは今、男に興味なくて、お金を稼ぎたいんだよね。で、碓氷さんは明らかに愛に目覚めて、あなたを守るという立ち位置についている。見る限り、復縁を迫るようなことはしないし、ただ子供たちの父親として、陰ながらあなたを守りたいんという一心でいる。だが、その守りたい気持ちのな中に少しも愛情が含まれていないというのはありえない話だと思うよ！愛がある限り、期待もある。そして、そんな彼に守ってもらってる以上、1年、2年、あるいは5年間あなたはずっと断り続けられるかもしれない。でも、もし彼が諦めなかったら、あなたはいつまで断り続けられる？今はまだいいけど、10年後、どうなってる？老いて病気に苦しむ時は誰もが側に温かい人にいてもらいたいものだし......そうなったら、まだ彼を断り切れる？」綾は窓の外に視線を向けた。青空が広がり、いい天気だった。彼女は首を横に振り、静かに言った。「老後なんて、まだまだ先の話よ」今年を生き延びられるかもわからないのに、そんな遠い未来のことなんて、考えられない。星羅は、彼女の不安を察した。綾の病気はあまりにも突然で、深刻だった。だから星羅は、綾にはもっとわがままに、自由に生きてほしいと願っていた。そう思って彼女は、こう続けた。「綾、碓氷さんがそばにいてくれるなら、いてもらえばいい。彼の考えなんて、気にしなくていい。あなたは今きちんと看病をしてもうのが一番大事なのよ。それに、もし最終的にあなたが復縁したいと思うなら、私は応援するし、今はとりあえず色々考えすぎないで。すべては体が良くなってから、考えればいい！その時にどうしても一緒に居たくなかったらまた彼をふればいいわけだから」綾はそれを聞いて信じられない思いだった。星羅を見ながら言った。「私がたった2ヶ月ちょっと海外に行ってただけなのに......あなたはどうしてそんなに悟れるようになったの？」「だって......」星羅はため息をつき、ベッドにうつ伏せになりながら、しょんぼりと言った。「私も最近は、自分の人生についていろいろ考えないとって思って、色んな本を読んでるのよね」