All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

星羅は、悔しい気持ちと戸惑いを同時に感じていた......自分はそんなにダメな人間なのだろうか?本当に、自分が悪かったのだろうか?泣き疲れた蒼空は、目を閉じ、小さな口を開けたまま、母親のおっぱいを探していた......星羅はすかさず、息子の口におしゃぶりを突っ込んだ。お腹を空かせ、眠くてたまらない蒼空は、おしゃぶりをくわえると、勢いよく吸い始めた。星羅は目をぱちくりさせ、驚きと喜びに満ちた。やった。やっとミルクを飲んでくれた。蒼空は本当に疲れて眠かったのだろう。200ミリリットルのミルクを一気に飲み干した。げっぷをして、小さな口を何度か動かした後、満足そうに眠りについた。星羅は、張り詰めていた気持ちがようやく解けた。彼女は息子にキスをしてベッドに寝かせ、寝返りを打っても落ちないように枕を端に置くと、浴室へと向かった。温かいタオルで息子の顔や小さな手を拭き、新しいオムツに交換してあげた。蒼空はぐっすり眠っていて、ふっくらとしたピンク色の頬は、さっき泣き叫んでいたやんちゃな姿とはまるで別人のようだった。星羅は息子を見ながら、胸が締め付けられるような思いで、ピンク色の頬に何度もキスをした。キスをし終えると、息子の隣に横になり、幼い顔を眺めながら目を閉じ、深く息を吐いた。様々な感情が渦巻き、気持ちが晴れない。......1階のリビングでは、誠也と綾がソファに座り、丈が星羅の母親と電話で話している様子を見ていた。「お母さん、心配しないで。蒼空はもう寝たよ。ミルクも持たせたし、大丈夫だよ......星羅は衝動的に飲ませたわけじゃない。蒼空ももうすぐ1歳だし、今卒乳した方がいいんだ。大きくなるほど大変になるから......うん、あなたの心配は分かるけど、蒼空は私たちが思ってる以上に適応力があるから。心配しないで、2日もすれば慣れるよ......とりあえず今は星羅には電話しないであげて。今日は子供の世話で疲れてるから......」電話の向こうで、星羅の母親はため息をついた。「星羅をかばわないで。私の娘だ。彼女の性格はよく分かっている」丈は眉間を押さえた。「星羅はいい母親だよ」星羅の母親は不安そうに尋ねた。「今夜は帰るの?」「帰らない。ここには部屋はたくさんあるし、子供はもう寝たから、
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第682話

丈は声を潜め、少し真剣な口調で言った。「お母さん、もう過ぎたことだ。星羅の前でその話はしないでくれ」「私が話せるわけないでしょ?あのことを話すと、彼女は私と喧嘩するのよ!」星羅の母親は鼻をすすり、不満そうに言った。「結局、私が悪者になってしまうのね。でも、私には娘は一人しかいないのよ。彼女を陥れるわけないじゃない?あの時、星羅が集中治療室で生死をさまよっていて、私がどれほど心配だったか。星羅は綾に巻き込まれたのよ。彼女を責めているわけじゃないけど、怖いのよ。丈、あなたも知っているでしょ?綾と親しくなった人は、みんな不幸になったりするの。去年、彼女の元夫も突然の事故で亡くなったじゃないか......」「お母さん!」丈は堪忍袋の緒が切れ、彼女の言葉を遮った。「碓氷さんは今も元気に生きている。以前のことは全て誤解だ。しかし、いずれにせよ、あなたは年長者としてそんなことを言うべきじゃない。もし星羅に聞かれたら、またあなたと喧嘩することになるじゃない」星羅の母親は言葉を詰まらせた。丈がこんな風に自分と話すとは思っていなかったようだ。彼女は悔しくて、さらに言い訳をしようとしたが、丈が先に口を開いた。「お母さん、星羅と蒼空が待っている。早く休んでくれ。もうこれで切るから」そう言うと、丈は電話を切った。彼は大きくため息をつき、イライラして後頭部をかきむしった。星羅の母親は綾にずっと不信感を抱いていた。丈はもちろん、綾の前でそんなことは言えない。しかし、彼が言わなくても、綾は彼の表情から読み取ることができた。だが、彼女は何も聞こうとしなかった。星羅が記憶を取り戻した今、彼女と縁を切れるわけがないことは分かっていた。そして、現状を見る限り、丈と星羅の間の問題は、その多くが星羅の母親が原因のようだ。4年前のあの事件は、星羅の母親に大きなトラウマを与え、今では以前よりも星羅への支配欲が強くなっている。彼女は愛という名目で星羅の人生を支配し、星羅はまた、強要されると反発してしまう性格だから、トラブルが絶えないのだ。丈は星羅と彼女の母親の板挟みになり、本当に困っていた。綾はこれ以上、丈に精神的な負担をかけたくないと思った。そこで、彼女は何も気づいていないふりをして、こう言った。「佐藤先生、星羅は今夜、私と写真の
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第683話

それを聞いて、丈は固まった。「佐藤先生、あなたと星羅は夫婦であり、これからの人生を共に歩むパートナなのです。だからあなた達二人は対等な関係であるべきですし、どんな時でも、まずは彼女の気持ちを思いやり、尊重してあげるべきです。愛という名目に相手をコントロールするのは本物の愛情ではありません。それは束縛であり、いわば感情の押し付けです。星羅のお母さんにはあまり強く言えませんが、あなたさえも星羅の味方になってあげられないのなら、彼女は家庭で息苦しさしか感じられないでしょう」丈は言われた意味を理解した。彼もまた、星羅の母親が星羅に対して過干渉気味であることを知っていた。「彼女の母親を説得してみます」丈は綾を見て真剣な表情で言った。「ありがとうございます。今夜は私が取り乱しました。彼女がこのところ海外に行きたがるので、私と蒼空のことを大切に思っていないのではないかと思っていました......」「夫婦にとって最も大切なのはコミュニケーションですね」綾は丈に言った。「星羅は冷たい人ではありません。きちんと話せば理解してくれるはずです」丈は頷き、星羅を探しに二階へ上がった。リビングは静まり返った。誠也は綾を見た。綾は視線を感じて落ち着かず、顔を向けると彼の目と合った。「何か言いたげね?」誠也は喉仏を上下させ、「今、お前が丈に言った言葉を聞いて、俺たちがこんなことになったのは、もしかしたらコミュニケーション不足もあったのかもしれないと思ったんだ」と言った。綾は少し驚き、そして頷いた。「それも確かに原因の一つね」「じゃあ......」誠也は綾を見つめた。「もし最初から全てを打ち明けていたら、それでも俺と離婚しようとしたのか?」綾は彼を見て、ふっと唇を曲げて笑った。「分からない」誠也は眉をひそめた。「9年間の結婚生活は長かった。長すぎて、今ではまるで長い無声映画を見ているようね」綾は彼の目を見つめ、青白い唇を少しだけ上げた。「今さら仮定の話をしてもしようがないでしょ」彼女は立ち上がり、視線をそらし、風のようになびく声で静かに言った。「私はもう吹っ切ったの。あなたも早く断ち切れることを願っている」......二階の寝室。丈は静かにドアを開けた。部屋には小さなナイトランプがついていた。大きなベッドの上
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第684話

「ありがとうございます」そう言うと、丈は綾の後ろについて行き、浴室の鍵をもらってから、二階へ上がった。誠也は鼻を触りながら、「なるほど、そういうやり方もあるのか」と呟いた。綾は彼を一瞥した。誠也も彼女を見た。二人の視線が交差し、空気が一瞬静まり返った。数秒後、綾は先に視線を外し、くるりと背を向けて外に出て行った。誠也は彼女の細い背中を見つめ、静かにため息をついた。......裏庭は相変わらず賑やかだった。大輝と桃子、それに奈々が子供たちと遊んでいた。優希と安人、双子の兄妹は見ているだけで心が和むほど可愛らしく、賢かった。特に優希は、可愛い声でペラペラとおしゃべりするのが上手で、周りの大人たちをすっかりメロメロにさせてた。奈々と桃子はスマホを取り出し、優希と安人の写真を撮るのに夢中だった。あらゆる角度から、しゃがんで、寝転んで、縦に、横に、360度余すことなく撮影した。若美は大きなお腹を抱えて動きづらかったため、座ったまま子供たちと遊ぶことしかできないので、写真は後ほど奈々と桃子からもらうことにした。大輝は普段子供に興味がない方だったが、綾の子供となると話は別だった。しかも、双子は本当に可愛らしい顔をしていたので、彼も思わずスマホを取り出して何枚か写真を撮った。大輝はスマホをポケットにしまい、立ち上がっると、暗闇の向こうからちょうど綾と誠也が出てくるのを見かけた。彼は二人に近づき、「さっきの子は大丈夫でしたか?」と尋ねた。「彼の母親が寝かしつけましたので、もう大丈夫です」綾は穏やかな声で言った。「石川社長、今日はおもてなしできなくて申し訳ありません」「またそんな改まったこと言わないでください」大輝は笑った。「この庭、素晴ですね。緑豊かで、ゆったりと食事をするのには最適です」大輝は誠也を一瞥してから、再び綾の方を見て言った。「二宮社長、今度またこんな集まりをする時は、ぜひ私にも声をかけてください!」友人同士の社交辞令に、綾は水を差すような真似はしなかった。彼女は唇の端を上げて微笑み、「ええ、また集まりがあれば、必ず石川社長にもお知らせします」と答えた。......12時近くになり、食事会は終わった。綾は大輝を玄関まで見送った。大輝は少しお酒を飲んでいたため、秘書が車で迎え
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第685話

綾は、自分が病気であることを大輝に隠そうとはしなかった。彼は重要なパートナーだから、今後のプロジェクト担当者の変更をスムーズに行うためにも、病状を隠さなかったのだ。今のところ、輝星エンターテイメントが適切な経営者を見つけられていない以外に、他の会社はすべて安定した経営者がいるので、綾はそれほど心配していなかった。桃子は確かに優秀だが、まだ独り立ちできるほどではない。不在の間、圭が陰で支えてくれたおかげで、輝星エンターテイメントは安定している。しかし、圭には会社経営の意思がないため、綾は大輝に白羽の矢を立てた。大輝は映画投資において独特の鋭い感覚を持っている。もし彼を説得して輝星エンターテイメントに出資させ、経営を任せられれば、未来は安泰だ。綾は大輝を高く評価していた。しかし、それは恋愛感情とは違う。それに、今の綾の状態では、恋愛をする余裕などない。「石川社長、今日はもう帰って休んでください」綾は優しい声で、彼を遠回しに断った。夜の帳が下りる中、ベージュのショールを羽織った綾は、穏やかな表情をしていた。風が吹き抜ける。二人は黙って見つめ合った。大輝は唇を上げて笑った。「また振られましたね」綾は冷静に言った。「これが最後になるかもしれません。石川社長、きっとあなたに合う人がいますよ」大輝は彼女を見つめた。彼女は重い病気を患っている。余命幾ばくもない。なのに、彼女は落ち着き払っている。街灯の光が彼女の顔に影を落とす。相変わらず美しい。しかし、病魔に蝕まれ、以前よりずっと痩せてしまい、顔も片手で覆えるほど帆と回り小さくなっていた。それを見て、大輝は胸が痛んだ。笑顔を消した彼は、手を伸ばして彼女の顔に触れようとした。しかし、彼女が一歩後ずさりするのを見て、手を止めた。大輝は指を握りしめ、ゆっくりと下ろした。綾は変わらず丁寧な口調で言った。「石川社長、気をつけて帰ってください。おやすみなさい」大輝は諦めたように手を振り、車に乗り込んだ。黒い車が夜の闇に消えていた。綾は視線を戻し、家の中へと入った。......午前0時、梨野川の別荘は静まり返っていた。裏庭では、家事代行が片付けをするかすかな音が聞こえる。綾は玄関からゆっくりと家の中へと進んで行った。この家の草木
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第686話

二人の子供は誠也に連れられてお風呂に入り、今はもう寝ているだろう。綾は子供たちの邪魔をせず、そのまま寝室に戻った。......輝は0時半に帰宅した。帰る時、唇は切れ、頬には平手打ちの跡が残っていたようだった。誠也はその時ちょうど子供たちを寝かしつけた後で、階下に降りて綾のために薬を用意してあげてた。そして用意した薬を持って台所から出てきたところで、輝と鉢合わせた。輝の顔を見て、誠也は軽く眉を上げた。男同士、時としてアイコンタクト一つで全てを分かり合えるのだ。明らかに、輝と音々には何かあったのだろう。もしかしたら、誠也の目に浮かぶ面白がっている様子が分かりやすすぎたのかもしれない。輝は顔を赤くして怒鳴った。「何見てんだよ!女に絡まれてるのを見たことないのか!」そう言うと、背後から足音が聞こえた。音々がやってきた。輝と比べると、音々は口紅が落ちていた以外は特に変わった様子はなかった。「岡崎さん、私の評判を下げないで、こっちから言い寄ったみたいな言い方しないでください!」「中島!」輝は怒鳴った。「出まかせを言うな!」「やったことを認められないのですか?」音々は腕組みをし、すらりとした長身を玄関の靴箱にもたれさせた。「まあ、あなたがファーストキスだったから、今回は私が悪かったってことにしてあげますね」そう言われると、輝は何も言えなかった。誠也は小声で二人に注意した。「夜も遅いんだ、イチャイチャするなら静かにやってもらえないか」輝は絶句した。音々は口笛を吹き、輝の傍を通り過ぎ、2階のゲストルームへと向かった。綾は音々のためにゲストルームを用意していたのだ。誠也はそれ以上何も言わず、薬を持って2階に上がろうとした時、輝に呼び止められた。誠也は足を止め、輝の方を向いた。「何か用か?」輝は少し気まずそうに言った。「あのさ、中島は......今までにたくさんの男と付き合ったことがあるのか?」誠也は少し間を置いてから言った。「すまないが、もし知りたいなら、自分で聞いてくれ。音々はサッパリした性格だから、やったことは隠さないだろう」「んなもん聞きたくもない!」輝は鼻で笑った。「今のは聞かなかったことにしてくれ」誠也は強がる輝を見ていた。しかし、何も言わなかった。恋愛のことは
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第687話

寝室のドアをノックする音がした。綾は風呂から上がり、白い綿のパジャマを着ていた。長袖に長ズボンだったが、痩せ細った体型は隠しきれない。彼女はドアを開けた。誠也は少し眉をひそめた。「こんな夜更けに、髪を洗ったのか?」「今晩、バーベキューをしたので、髪に匂いが染みついちゃって」「今は風邪を引くといけないから」誠也は真剣な顔つきで言った。「俺が髪を乾かしてやろう」綾は一瞬たじろいだが、すぐに断った。「そんなの自分でできるわよ」「まずは薬を飲みな」誠也は薬を差し出した。「安心しろ。乾かしたらすぐに出ていくから」綾は唇を噛み、一瞬ためらったが、彼の言う通りにした。......ドレッサーの前に、綾は腰かけた。誠也は手に持っていた漢方薬を彼女に渡した。綾はそれとぬるま湯を受け取り、ちょうどいい温度だったので、彼女は一気に飲み込んだ。とても苦いが、彼女はそれに慣れてしまっていたようだ。そう思っていると、ミルクキャンディーが彼女の目の前に差し出された。そして背後から、優しい男の声が聞こえた。「優希のストックだ」綾はまつげを震わせ、それを受け取った。そっと掌の中に握りしめた。誠也はドライヤーの温風をつけた。彼の片腕はまだ包帯が巻かれていた。医師によると、3本の切り傷は深く、軽い炎症を起こしているため、おそらく傷跡が残るだろう、とのことだった。しかし、誠也は気にしなかった。唯一の救いは左腕の怪我だったので、綾の世話をするのにそれほど支障がないことだった。寝室には、ドライヤーの音だけが響いていた。綾の髪はつやつやとして、腰まであった。しかし最近、病気のせいで、抜け毛がひどくなっていた。髪が乾くと、床にはたくさんの抜け毛が落ちていた。誠也は黙ってしゃがみ込み、その抜け毛を掌に拾い集め、握りしめた。彼は目を伏せ、喉仏を動かし、痛ましい表情が浮かんでいた。綾は鏡越しに、彼の行動を見ていた。しかし、彼女は何も言わなかった。彼女は立ち上がり、「ありがとう」と言って、洗面所に行った。誠也は洗面所から聞こえてくる水の音を聞きながら、ドライヤーを引出しに戻し、寝室を出て行った。寝室のドアが閉まり、彼はドアにもたれかかり、うつむいて掌の中の黒い髪を見つめていた。この抜け毛は、綾の体
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第688話

綾が引退を表明すると、会社の幹部たちは皆、衝撃を受け、そして惜しむ声が上がった。しかし、綾の今の状態を見れば、誰の目にも明らかだった。彼女は体調を崩しているのだ。外出前に、青白い顔色を隠すために念入りに化粧をしていたものの、見るからに痩せ細った姿は、周囲の人々を心配させた。ほんの数ヶ月で、綾はまるで燃え尽きてしまったかのようだった。......会議の後、綾はオフィスに戻った。大輝も彼女の後に続いた。綾はオフィス内を一巡りした後、デスクの前に立ち、机の上の名札を手に取った。「このオフィスは、このままにしておきますね」大輝は綾の手から名札を受け取り、元の位置に戻した。綾は彼を見上げた。二人は見つめ合った。大輝は微笑んだ。「休暇に行っていると思っておきますよ。二宮さん、あなたが戻ってくるのを、ここで待っています」綾はその言葉に微笑んで、「ええ」と答えた。それは善意の言葉だった。水を差すわけにはいかない。......オフィスから出てくると、健太の服を着た男が、黙って綾の後をつけた。綾が先頭を歩き、男は彼女についていった。桃子が追いかけてきて、「二宮社長」と声をかけた。綾は足を止めた。エレベーターの扉が開くと、桃子は走ってきて綾を抱きしめた。「二宮社長、私たちみんな、あなたが戻ってくるのを待っています」綾は少し驚いた後、桃子の肩を軽く叩いた。「私がいない間は、石川社長の下でしっかり下積みしてね。あと1、2年経験を積んだら、適切な機会に副社長に昇進させるようにって彼にはもう話しておいたから」桃子は涙を拭った。「副社長になんてなりません。ここであなたが戻ってくるのを待ってます。私はあなたの下で働きたいんです!あなたみたいな上司が好きなんです!」綾は桃子の手を握り、その言葉に少し笑えてきた。桃子は声にならないほど泣いた。......会社を出ると、彼女は誠也が運転する車に乗り込んだ。後部座席に座り、綾は弱々しくシートに体を預けていた。誠也はバックミラー越しに彼女を見て、「具合が悪いのか?」と尋ねた。綾は首を横に振り、窓の外の景色を見ながら、小さな声で言った。「誠也、この街をゆっくり見て回るの、久しぶりな気がするの。車で一周してくれる?」誠也はハンドルを握る手に力を込
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第689話

誠也は綾の隣に座ると、水筒の蓋を開けて彼女に差し出した。綾は水筒を受け取り、水を飲んだ。すると呼吸が少し楽になった。彼女は水筒を誠也に返した。誠也はそれを受け取り、蓋を閉めた。「誠也、前に梨野川に遺灰を撒くって言ってたの、覚えてる?」誠也は一瞬、動きを止めた。そして、ハッとして彼女の方を向いた。「梨野川は美しい場所だけど、私はここで眠りたくないの」綾は彼に微笑みかけた。「もし私がこの病気を乗り越えられなかったら、子供たちが健康ですくすく育つのを見守ってられるところでお墓を探して欲しいの」「綾」誠也は彼女を見つめ、喉仏を上下させ、緊張した声で言った。「そんなこと、言うな......」「人間はいつか死ぬもの。もちろん最後まで生きようと頑張る。でも、もし私がいなくなったら、子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだから、少しでも償ってあげたいの。物質的なものはあなたが十分に与えてくれているから心配ない。でも、一緒に過ごす時間だけは......」綾は言葉を止め、深く息を吸い込んで、さらに小さな声で続けた。「あっという間だったね。もう二人はもうすぐ5歳になるね」綾は指で遠くを指した。「あの年、私はあそこに立って、ある女性が2、3歳くらいの子供と遊んでのを見て、心が動かされたの。そしてその日、私はやっと子供たちを産む決心をした」誠也は彼女をじっと見つめていた。綾は彼の方を向き、優しい口調で言った。「誠也、私は本当に子供たちの成長を見守ってあげたい。結婚して家庭を持つ姿も見たいし、子や孫に囲まれた老後も過ごしたい。でも、もう無理かもしれない。だけど、あなたがまだいる。それだけでも、子供たちはいつも帰る場所があるから本当によかったと思うよ」誠也の目尻が赤くなった。「綾、もうやめてくれ......」綾は顔をそむけ、梨野川を見つめ、風に消え入るような小さな声で言った。「誠也、あなたには長生きして、私の代わりに子供たちの人生を見守って欲しいの」誠也は、目尻を赤くし、声を詰まらせた。「綾、そんなこともう言うな。お前はきっと長生きする......」綾は目を伏せ、かすかに微笑んだ。「人生は長いんだから、あなたには子供たちのために一生結婚しないでとは言わない。あなたは今まで孤独に生きてきた。これから、もし好きな人ができたり
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第690話

綾は、あの日病院に搬送されてから、病状が再び悪化したと診断された。一週間におよぶ救命治療と措置を経て、綾はかろうじて死の淵から生還した。しかし、綾の病状は尋常なものではなく、誰の予想もはるかに超えていた。それまで、漢方とガンの専門医たちの間で意見の相違が生じていた。丈が呼んだ腫瘍専門医たちは、化学療法を提案した。しかし、仁をはじめとする他の漢方医たちは、化学療法に反対だった。両者の意見は食い違い、議論は平行線をたどった。最終的に、綾自身が決断を下した。彼女は化学療法を拒否し、保存的治療を続けることを選んだ。患者の選択である以上、専門医たちはそれに従うしかなかった。綾は再びあの特別入院病棟に入院した。仁は相変わらず毎日綾に鍼治療を施した。特別入院病棟には医師たちが出入りする姿がよく見えた。処方箋の調整も、途切れることなく行われた。2週間が経ち、綾の病状は一時的に抑えられたが、彼女は日に日に痩せ細っていった。毎日うどんを少し食べるだけで、他のものはほとんど食べられず、無理に食べてもすぐに吐いてしまうのだった。そうやって苦しむ綾の体は、ますます弱っていった。最終的には、栄養剤の点滴に頼るしかなかった。病魔と闘う日々は、時間の流れが早く感じられた。あっという間に一ヶ月が過ぎ、北城は冬を迎えた。二ヶ月足らずで、綾は数キロも痩せてしまい、もとから白かった肌は、さらに透き通るようになり、細い血管がはっきりと見えるほどだった。この時期、二人の子供たちは毎週綾に会いに来ていた。子供たちが来る前には、いつも綾は厚着をして、やつれた顔を隠すために化粧をしていた。子供たちは純粋で、疑問はあっても、大人があえて隠しているので、母親が病気であることは知っていても、それが深刻な病気だとは知らなかった。優希はいつも、母親はいつ家に帰れるのかと尋ねた。娘のその言葉を聞くたびに、綾は言葉に詰まった。誠也は娘を抱きかかえ、他のことで娘の気を紛らわせた。何度か繰り返した後、優希は何かに気づいたのか、もう尋ねなくなった。安人は優希より大人びていて、もしかしたら父親が重病だった経験からか、母親が重病であることを早くから知っていたようだった。彼はとても聞き分けがよく、母親に付き添うときはいつも、薬
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