All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 81 - Chapter 90

145 Chapters

第80話:奪われた象徴

──夜明け前の、まだ薄闇の残る前線野営地。 空を覆う霧は冷たく、湿った土の匂いが肌にまとわりついていた。その静寂を破ったのは、一人の伝令の叫びだった。 「神子旗、奪取されました──!」 荒く息を切らせ、天幕の幕を押し開いた伝令の声が、張り詰めていた空気を鋭く引き裂いた。 次の瞬間、空間そのものが静止したかのように、周囲の動きが凍りついた。 ──旗。 それはただの軍旗ではない。神子リリウスの紋章が刻まれた、祈りの象徴。人々が集う理由であり、傷ついた心を結ぶ光でもあった。 その神聖な布が、敵の手に落ちたと。 「……冒涜、だ……!」 低く、誰ともなく呟いた声。神官のひとりが膝から崩れ落ち、その目は茫然と虚空を見つめていた。 その声はやがて、さざ波のように天幕内を包み、祈りの場を不安と混乱の渦へと変えていった。 「神子の加護を、敵は……穢したのか……」「これは、我々への……試練なのか?」「神は、沈黙されている……?」 誰かの囁きが、周囲の神官たちの心の綻びを容赦なく押し広げる。うつむく者、震える者、肩を寄せて祈ろうとするが、指先の形すら乱れている者もいた。 「もし……象徴が汚されたのだとしたら……この祈りも、失われてしまうのでは……」「いや…&h
last updateLast Updated : 2025-07-26
Read more

第81話:アルヴァレスの王太子

──アルヴァレス王都、王宮地下の私室。 石造りの重厚な壁に囲まれたその空間には、陽の光は一切届かず、唯一、蝋燭の揺れる灯だけが影を刻んでいた。分厚い扉は固く閉ざされ、外界からの音も断たれ、まるで世界から切り離されたような静寂が支配している。 その中心に、王太子レオン・アルヴァレスは、一人座っていた。豪奢な椅子にもたれかかるでもなく、前屈みに背を丸めて机に向かっているその姿には、王族としての気品は見られなかった。 机に広げられた戦況報告書を睨みつけていたが、視線は焦点を持たず、ただ文字の海を泳いでいた。目の奥には怒りが、そしてその奥には隠しきれない“喪失感”が、じっとりと滲んでいる。 「……リリウス」 名を呼ぶその唇が、わずかに歪んだ。 そこに込められたのは、怒りだけではない。悔しさ、羨望、未練、そして……後悔にも似た感情が滲んでいた。 ──“番”であるはずの存在。──隣で、王としての道を支えるはずの存在。──“自分のもの”としてあるべきはずだった。 彼の脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。 神殿の奥、誰の目も届かぬ聖域で交わされた“番の儀”。だがそれは、真実ではなかった。 あれは演技であり、作られた神話だった。本来、レオンは偽りのアルファ──ベータであり、リリウスのようなオメガと番になることはできない。結びつける資格はなかった。 それでも、彼は儀式を強行した。真実を隠し、自分の隣に立たせるために。&nbs
last updateLast Updated : 2025-07-27
Read more

第82話:砕ける信仰と蘇る声

──それは、静かに、けれど確実に始まっていた。アルヴァレス王国各地で、煙が上がった。焼かれているのは、かつて神子リリウスが祈りを捧げた神殿跡。それは石と祈りで積み上げられた、民たちの心の拠り所だった場所。聖堂に描かれていた壁画や装飾は、兵士の刃で削られ、古の象徴たる彫像は無残に槌で砕かれた。松明が投げ込まれ、木の梁が火を噴き、濡れた石の床に煤が滲む。天に届かぬ祈りの声を、煙と炎が一つずつ消し去ってゆく。──敵軍ではなかった。それを命じていたのは、アルヴァレス王国軍自身。王都からの命令と称して、「神子の名を騙る反逆者への制裁」として、信仰の“浄化”が始まったのだ。「偽神を祀ることは、王家への叛逆である」と。「信仰の再構築のため、旧い象徴は破壊されねばならない」と。それは祈りを守ってきた者たちにとって、まさしく神への反逆に等しかった。神官たちは問答無用に引きずり出され、抵抗した者は足を折られ、叫ぶ者は口を塞がれた。祈祷書は泥に踏まれ、魔除けや護符は「偽りの加護」として人前で焼かれるよう命じられた。だが──それでも、声を上げる者がいた。「なぜ、神を……神子を穢すのですか……!」初老の神官が地面に押し倒されながら、血混じりの声を振り絞る。衛兵の剣が彼の背を押さえつける中でも、彼の目は折れていなかった。「リリウス様は……あの方は、誰よりも祈りを……人を信じて……!」その声は剣の柄で殴打され、地に沈められた。しかしその光景を目の当たりにした信徒たちの目には、逆に鮮烈な印象として焼きついた。「あの方を、神子を、なぜここまで憎むのだ……?」「本当に、神の敵は外にいるのか……?」小さなざわめきは、やがて疑念の囁きへと変わる。沈黙してきた多くの人々の胸の奥に、それまで口にできなかった問いが芽吹きはじめていた。そして──その火は、想像より遥かに早く広がった。地方の小村、ひっそりと残された礼拝所。若い神官がひとり、蝋燭を前に立ち上がる。「神子は“旗”ではありません。……“人”です。そして、神子が語った“言葉”こそが、我らの信仰を支えてきたのではありませんか?」かすれた声だったが、迷いはなかった。その場にいた村人たちは、最初こそ黙っていた。だが、次第に一人、また一人と膝をつき、胸に手を当てる。それは、誰かに教えられた祈りでは
last updateLast Updated : 2025-07-28
Read more

第83話:前線の誓い

──風は冷たく、地は濡れていた。灰色の空が、いつ降り出してもおかしくない雲を孕み、戦場に影を落としている。その最前線の陣地に、カイル・ヴァルドは立っていた。鎧の隙間から覗く肌には、既にいくつもの古傷と新しい泥がこびりついている。剣を引き抜き、返り血を払いながら、視線だけは常に先を見ていた。背後には、兵たちが控えている。戦の気配は途切れない。斥候からの報せでは、アルヴァレス軍の動きはますます苛烈を極めているという。それでも、ヴァルド軍は崩れていなかった。理由は、一つだった。「……リリウス様のために」誰かが、呟いた。セラフィア教の信徒がここにも居た。刃を磨く兵士の声。矢を束ねる弓兵の声。休息中の若き従兵の、小さな祈りのような声。その名は、ただの神子の名ではなかった。それは“信じる理由”であり、“立ち続ける意味”だった。「リリウス様って、昔、王都にいた神子なんだろ?」「王太子の番だったんじゃなかったか?」「いや、違うって。あの人、ずっと……国のために祈ってたって、聞いた」様々な噂が、兵の間を行き交う。“神子”という存在への信仰だけではなく、“彼という人間”がもたらした言葉や行動が、じわじわと兵たちの心を溶かしていた。ヴァルド軍の兵士たちは、何も知らずに従っているわけではない。彼らは見ている。戦地に立つ神子の姿を。傷ついた兵士の傍らで、手を取り、話を聞き、祈る者の姿を。その信仰は、誰かに強いられたものではなかった。「なあ、カイル将軍は、なんでここまで……戦えるんだ?」そう問われたとき、カイルは黙って空を見上げた。雲の切れ間から、わずかに光が射している。「……命令のみで動いてると思ってるのか?」誰にでもなく、静かに言う。「俺がここに立っている理由──“あいつ”を信じてるからだ」兵たちが息を飲む。カイルの声はいつも通り平坦だった。だがその内側にある強さと確かさが、兵たちの胸を揺らした。「ヴァルドに忠誠を誓った将としてここにいる。だが……今回はそれだけじゃない。神にすがって戦ってるわけでもない」カイルは、腰の剣を鞘に収める。その動作すらも、戦場で鍛えられた無駄のないものだった。「……けど、リリウスは違う。あいつは、目の前にいる誰かのために祈ってる。敵味方関係なく、傷ついたやつのそばに立って、ただ、“
last updateLast Updated : 2025-07-29
Read more

第84話:再会、そして執着

──王都、南門近くの城壁下。霧雨のような細かな砂塵が舞う中、重たい足音が石畳を打つ。リリウスの前に立ち塞がるのは、王都を守る最後の門──そしてその中央に、かつての番・王太子レオン・アルヴァレスの姿があった。剣も鎧も纏わず、ただ漆黒の軍衣に身を包んだその姿は、どこか異様に静かで、そして不気味だった。「ようやく来たか。──俺の“番”」冷たい声。その言葉に、リリウスの足が止まる。「……違う」しばしの沈黙の後、リリウスが静かに言った。「僕は……あなたの“もの”なんかじゃない」声は震えていない。けれど、レオンの瞳が微かに揺れた。「何を言っている。番の儀式は、あの日確かに交わされた。神に誓っただろう」「……あれは偽りだった。あなたが“そうした”んだ。僕には、拒む力も、逃げる自由もなかった」リリウスの声は静かだった。けれど、その言葉は確かに、過去に縋る王太子の胸を貫いた。「じゃあなんだ。お前はあの儀式を“なかったこと”にする気か?」レオンの目が血走る。口調が荒くなり、雨粒が頬を伝っても、それに気づかぬまま言葉を続けた。「俺は……あの時からずっと、お前を“俺のもの”として扱ってきた。何をしても、どこへ行っても、それが変わると思ってるのか!」「だから、違うって言ってる」リリウスはまっすぐにレオンを見た。「あなたは、僕を“もの”のように扱った。番でも、家族でもない。ただの所有物として、利用して、飽きて、雪原に捨てた」淡々としたその口調に、レオンの呼吸が乱れる。「僕はね、アルヴァレスに来たとき……ずっと考えてたよ」ふと、リリウスが目を伏せる。そのまなざしの奥には、過去の自分が確かにいた。「“番”って言われたからには、きっと一生一緒にいるんだって……そう思った。だから、あなたを愛そうとした。わからなくても、好きになれるように努力した」言葉のひとつひとつが、痛みと共に落ちていく。「でも……どれだけ近づこうとしても、あなたは僕を見ていなかった。ただ従うことだけを求めて……僕の祈りも、感情も、名前すら、ただの“役割”に押し込めてた」その言葉が、レオンの胸を苛むように響く。「あなたは、“番”じゃない。ずっと対等じゃなかった。最初から“上から繋いでいた鎖”で、僕をつなごうとしていた」リリウスの表情が、ほんのわずかだけ、哀しげに揺れる。
last updateLast Updated : 2025-07-30
Read more

第85話:瓦解の音

──王都南門、その場に残された兵たちは、誰も口を開けなかった。雨はすでに止んでいたが、空気は冷たく重たいまま。リリウスが去ったあとにも、その言葉の余韻が、石畳に染みついたように残っていた。「……あれ、本当なのか……?」誰かが低く呟いた。「番の儀式は、偽物だったって……」「けど、じゃあ……なんでずっと神子として隣にいたんだよ。王太子と……ずっと番だって……」「偽物って……リリウス様が、騙したのか? それとも……」ざわ……と、小さな混乱が兵士たちの間に広がる。否定ではない。盲信でもない。ただ、情報が足りない。「……わかんねぇよ。じゃあ、騙してたのはどっちなんだ……?」剣を握る手が、ふと緩んだ。今までは“アルヴァレス王家”に忠義を尽くしていた者たちの中に、わずかな“裂け目”が生まれた。それは怒りや裏切りではない。ただ、確かだったはずの“前提”が、一つ揺らいだだけ。それだけで、人はこんなにも静かに、動けなくなる。「……俺たち、何のために戦ってるんだろうな」誰かの独り言のような声に、誰も応えなかった。武器の手入れをする手が止まる。巡回する者の足音が鈍る。何気ない命令に、従うまでの時間が一瞬だけ遅れる。それらは些細な変化だったが、確かに“崩壊の兆し”だった。そして、火種はすぐに見つかった。王都内で、リリウスの庇護を試みた兵士が、密告によって拘束された。広場の真ん中、群衆の前で殴られ、罪状を読み上げられた。「王命に背き、反逆者に肩入れした咎により、この者を……」読み上げる声は冷たかったが、聞く側の胸には、別の熱が芽生えていた。(……なにが咎だ。祈っただけで、処罰かよ)静かに目を伏せる者。そっと、ポケットに隠し持った祈りの布を握る者。その手のひらの温もりは、言葉より雄弁だった。※その日の午後、リリウスは再び捕らえられていた。「命令だ。お前を“再教育”する。陛下が直々にお望みだ」その言葉に、そばにいたヴァルド軍の斥候がすぐに動こうとした。「待て、それは正気の沙汰じゃ──!」「リリウス様を行かせては──!」叫びかけた者たちの声を、リリウスは手で制した。その顔には、怯えも怒りもなかった。「……いい。僕は応じるよ」静かに、そう言った声は、ひどく落ち着いていて──それゆえに、周囲を黙らせた。「僕は、逃げるために
last updateLast Updated : 2025-07-31
Read more

第86話:砦の夜、炎の中で

──空を焦がすのは、太陽ではなく、炎だった。前線の砦。ヴァルド軍が守り抜いてきたこの拠点が、崩れかけていた。砲弾が壁を穿ち、土砂が崩れ、空に赤い煙が渦巻く。カイル・ヴァルドは、血と煤に塗れたその戦場の中央に立っていた。「右、崩れかけてる! 回せ!」「砲弾はもう持たん、矢で時間を稼げ!」怒号と悲鳴、鉄のきしむ音が飛び交う中、カイルの指揮だけが、まるで鋼のように揺るがなかった。だが──状況は最悪だった。「……正面、突破されるのも時間の問題か」呟く声に、隣の副官が息を呑む。「カイル将軍、ここは撤退を……!」「退く場所があればな」振り返らず、そう返した声は乾いていた。この砦が落ちれば、王都へ繋がる街道は丸裸になる。戦況は、すでに後がない段階にあることを、彼は最初から理解していた。そのときだった。──遠く、城壁の向こうから、重たい地鳴りが響いた。何かが来る。敵か。援軍か。砦の者たち全員が、息を止めた。次の瞬間、狼煙の向こうに、旗が翻った。見慣れない、けれど見覚えのある印。それは、リリウスの“祈りの布”──そして、その下にいたのは、武器を手にした旧市民と、散発的に蜂起していた各地のレジスタンスだった。「……あれは……!」副官の声が裏返る。だがカイルは、目を細めてから、わずかに口角を上げた。「間に合ったか」火花のように駆け上がる民兵たち。瓦礫を越え、傷ついた兵士を担ぎ上げ、火中に飛び込む彼らの瞳は、ただの市民ではなかった。──「誰かを信じて立つ者」の目だった。※その日、砦は──持ちこたえた。夜。崩れかけた壁の上で、カイルは風に吹かれながらひとり立っていた。手には包帯が巻かれ、鎧の隙間には血が滲んでいる。そこに、ゆっくりと近づく足音があった。「……間に合ってよかった」その声に、カイルは振り返る。──そこにいたのは、リリウスだった。傷だらけの身体で、まだ左肩には包帯が巻かれ、血が滲んでいる。それでもその目はまっすぐで、静かに、そして確かに立っていた。しばしの沈黙。カイルは息を吐いて、ぽつりと呟く。「生きてたか」「ええ。死にかけたけど、まだ歩けます」「……俺のほうが先に倒れるかと思った」そんな冗談めいたやり取りのあと、二人はしばらく、燃え残った砦の空を眺めていた。風が吹く。火の粉の残
last updateLast Updated : 2025-08-01
Read more

第87話:名を呼ぶ声

──王都西区、焼け残った石壁のそば。半壊した家々の間に、誰かが作った簡素な焚き火台があった。火の周りには、くたびれた毛布にくるまった子どもたちと、薪をくべる老女がひとり。その明かりだけが、夜の街に残された温もりだった。「……それでね、その神子さまは、王宮から逃げたんだよ。命からがら、窓を割って」老女の語り口は静かで、どこか物語を読むようだった。けれど、その言葉を聞く者たちは誰も瞬きすら忘れていた。「傷だらけだった。けれど、逃げなかった。祈りの布を握って、誰かのために立ち上がったんだってさ」少年が小さく口を開く。「ほんとに……神子さまだったの?」「神の声なんか聞こえないって、ご本人が言ってたってさ。ただの人間なんだって。……でもね、“それでも信じてくれた”って」火がはぜる。「そばにいた者は、みんな“救われた気がした”って言ってた。だからさ──きっと、神じゃないほうがよかったのかもしれないね」その言葉に、子どもたちがそっと息を吸い、布を握る。「名前、なんて言ったっけ……」「リリウス、だよ。リリウス・クラウディア。セラフィアの神子」その名は、まるで祈りのように焚き火の輪を回った。「……俺、祈りの布もらった。広場で泣いてたとき、何も言わずに、笑ってくれてさ」「私も。ほんとに短い時間だったけど、あったかい手だった。覚えてる」語るでもなく、ただ言葉が零れていく。──そして、その焚き火の輪の外。それを聞いていたのは、子どもたちだけではなかった。通りを掃除していた女兵士が足を止め、市場の荷運び人が、腕を組んで耳を澄ます。その中に、ひときわ目立たぬフードを深く被った婦人の姿があった。――リーネ・ヴァルド。ヴァルド家の“目”として情報を操る、カイルの母である。彼女は、石畳の陰に腰を下ろしたまま、その会話を黙って聞いていた。(……リリウス。あなたは、ここでも名を残してる)その思考の隅で、ふと別の名が上がる。「……そういえば、砦で踏みとどまった将軍がいたって噂、聞いた?」「うん。ヴァルドの将軍だって」「“神子様を信じたから”戦ったって」「民を、兵を、諦めなかったんだって」「砦が落ちる寸前、誰より先に立ってたって」「神子様だけじゃなくて、その将軍も……」その言葉に、リーネのまなざしが揺れる。民の口から自然と語られる、
last updateLast Updated : 2025-08-02
Read more

第88話:人間として立つ

──黎明は、まだ訪れていなかった。 けれど、王都の西の空に立つ砦から見える風景は、確かに“夜明け”を予感させていた。炎の煙ではなく、焚き火の灯り。怒号ではなく、歌うような号令。絶望ではなく、決意。 その静かな緊張の中で、リリウスは、前線の丘に立っていた。かつて“神子”として祈りの言葉を捧げた場所ではない。ただの人間として、仲間たちと同じ土を踏みしめる場所に。 その背には、ヴァルド軍の騎士たち。その肩には、クラウディア出身の旧兵士たち。そしてその足元には、鍬を剣に持ち替えた市井の民兵たちがいた。 誰もが、静かにその背を見つめていた。それは、王や神に向けるような畏怖ではない。自分と同じ痛みを知る者を、信じる眼差しだった。 「……緊張なさっていますか?」 静かにそう声をかけてきたのは、セロだった。以前と変わらぬ軽装姿だが、その目は戦場に生きる者の鋭さをたたえていた。背筋を伸ばし、肩にわずかに力が入っている。 「ええ。緊張してます。神子のくせに、ですね」 リリウスが笑うと、セロはわずかに目を伏せた。だが、その口元はかすかに笑んでいた。 「……殿下は、神子です。けれど僕が信じたのは、“リリウス・クラウディア”という方です。あの牢で、自分を諦めなかった目をしていた殿下を、僕は……信じた」 リリウスの目が揺れる。過去の痛みと、そこに差し伸べられた手が蘇る。けれど、すぐにそっと口元を引き結ん
last updateLast Updated : 2025-08-03
Read more

第89話:王都、陥落

──王都の天蓋に、今はもう、鐘の音すら響かない。かつて整っていた中庭も、砕けた回廊も、静けさに沈んでいた。剣戟も、叫びも止んだ。あとは──玉座の間に立ち込める沈黙だけが残っている。その中央。崩れた玉座に、レオン・アルヴァレスは座り込んでいた。血に濡れた裾。砕けた王冠。それでもなお背筋を伸ばすのは、誇りか、恐怖か、あるいは──悔しさか。扉が開く。そこに現れたのは、ヴァルド連邦軍総帥・カイル・ヴァルド。その隣に立つのは、神子の名を背負い、けれど今は“導き手”として歩む者。──リリウス・クラウディア。「……寄り添ってご登場か」玉座に寄りかかるようにして、レオンが笑う。その声には、皮肉も怒りも、もはや力もない。ただ、積み上げてきた嘘と敗北の上に立つ者の乾いた音がした。リリウスは、ゆっくりと前に出る。けれどその瞬間、レオンの目がぎらりと光を宿す。「俺の“番”だったくせに!!」──その叫びが、玉座の間に響いた。「お前は……クラウディアの王子として、俺に差し出された。“儀式”の番として、俺の傍にいた。──お前は“俺のもの”だったはずだ!!」リリウスは、ゆっくりと目を伏せる。「ええ。最初は、そうでした。僕は、本気であなたを“番”だと思おうとした。祈って、寄り添って、生涯を共にするつもりで、あなたを見ていた」「……じゃあ、なんで……っ」レオンの声が低く震える。リリウスはゆっくりと息を吐き出す。その目に、怨みも怒りもなかった。「あなたが、僕を捨てた……いえ,もっと前。僕の発情期を『穢らわしい』と吐き捨てたとき……僕の中で、すでに“番”は終わっていた」レオンの顔色が変わる。「違う……っ、違う……! あれは──」カイルがレオンの元へと一歩踏み出す。「お前、アルファじゃないな?」カイルの声は冷たかった。だがそれ以上に、静かだった。「……お前に、何がわかる」レオンの声は掠れていた。「お前は、“本物”だから。アルファとして生まれ、王家に名を連ね……全てを与えられた者に、俺の……この痛みが、わかるものか……!」レオンの声は嗄れていた。怒りとも、哀願ともつかない、濁った叫び。「“偽物”として即位した痛みのことか?」静かに、カイルが一歩、踏み出した。その声には怒りも嘲りもない。ただ、事実を指すような冷たさだけがあった
last updateLast Updated : 2025-08-04
Read more
PREV
1
...
7891011
...
15
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status